以下は2023年12月に「2023年山歩きレポート+シアトルの旅」に掲載した記事の一部で、シアトルの旅を別掲載した。
12023年9月、4年ぶりの海外旅行で娘夫婦が住むシアトルに出かけた。米国旅行は2007年10月以来15年ぶり、ツアーでなく個人旅行も15年ぶりで、ネットでフライトを予約する時に苗字と名前を入れ違えるポカミスを犯し、チェックイン時にひと悶着した。現地では娘夫婦におんぶにだっこの世話になり、英語要らずの旅をさせてもらったが、それにしても英語が出てこないのに愕然とした。元々上手くはなかったが、30年にわたって米国・カナダの商売に身を置き12年余の駐在経験もあり、時に「日本人にしては…」とお世辞を言われたりもしたのだが、錆びついてモゴモゴになっていた。
モゴモゴは英語だけではなかった。最安チケットを買ったバツで8時間身動きがならず、股関節が固まって歩くと痛みが走り、物につかまってモゴモゴ歩く仕儀となった。
股関節モゴモゴで楽しみにしていた山歩きがままならぬ状態だったが、シアトルのシンボル、レーニア山には是非行きたかった。
レーニアはシアトルの南東にそびえる成層火山で、現地の日系人は麓のタコマ市の名を借りて「タコマ富士」と呼ぶ(右の写真でご納得いただけるだろう)。標高が富士山より600m高く緯度も高いので、中腹から上は氷河に覆われてシロウトが登れる山ではない。中腹の展望台まで自動車道路(無料)が通じ、トレッキングのルートも充実している。前週の降雪でクローズしていたが週末のみオープンの情報があり、とにかく行ってみることにした。
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2日間の静養で股関節の具合が多少安定し、モゴモゴながらも軽い山歩きが出来そうになったので、娘夫婦が慎重なプランを立ててくれた。1日目はシアトルから北上し、カナダ国境に近いノースカスケードのベイカー山(標高3288m)の展望台を目指すことにした。ベイカー山も富士山型の秀麗な火山で、紅葉最盛期との組み合わせに期待したのだが、「晴れ、所により時々雨」の天気予報のとおりで、駐車場から上は濃い霧と雨だった。1時間ほど歩き、この坂を登りきれば景色が見える筈というところまで行ったが、股関節にモゴモゴが現われ、せっかく登っても景色が見えないことを理由に撤退させてもらった。
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夕食のメキシコ料理の後に飲んだテキーラが効いたのか、ぐっすり眠って股関節の痛みが消えていた。4時間くらいは歩けそうなので、カラマツの紅葉が美しいと言われるブルーレイクを訪れることにした。
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2日目の夜に泊まった田舎町のブルースター(Brewster)で昔の記憶が蘇った。1970年に工場勤務から海外事業部門に転属し、最初の仕事が衛星通信用の地上局機器の国際入札の手伝いだった。当時は静止衛星による国際通信が本格化した時期で、米国のワシントンDCに本拠を置く国際衛星通信会社の地上局が米国に3カ所あり、その一つがブルースターだった。それがどこなのか地図を調べることもなく半世紀が過ぎ、今回地名を見て「ひょっとして」と思いあたり、町の名所案内を調べると今も地上局があった。近くに行ってみると、当時のものと思われる直径30mの巨大なパラボラアンテナが立っていたが、半世紀前に落札して納入した局内用の装置はとうの昔にお役御免になった筈だ。
ブルースターはリンゴの里でもある。日本のリンゴ園では3mほどのリンゴの木から厳しく選果し、1個ン百円の芸術品のようなリンゴを収穫するが、米国のリンゴ園では人の背丈ほどのリンゴの木(と言えない程小さい)に鈴なりに実を付けさせ、機械で幹を揺さぶって実を落とさせて、1箱ン百円で売る。米国の Apple を美味いと思ったことはなく、そもそも日本のリンゴとは別の物と思った方がよい。
ブルースターから南下すると見渡す限りの平原に低い丘が波打ち、大きな岩の段差や深く削られて出来た湖があちこちにある。この辺りは氷河期の末期に巨大な氷河ダムの決壊で出来た特殊な地形と考えられている。ダムのサイズは日本の本州ほどもあり、決壊で生じた水の壁は高さ200mに及んだというから、米国は何事も有史以前からスケールがデカかったのだ。
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平原を南下し、オレゴンとの州境に近いヤキマで1泊、夕食は米国に行ったら絶対に食おうと決めていた特大ステーキを楽しんだ。
朝起きるとこれまで水蒸気を含んでいた空気がカラッと乾いていた。この日はヤキマ周辺を見学してシアトルに帰る予定だったが、レーニア山がオープンしていることを確認し、3つある展望台で最も標高の高い(1952m)サンライズに行くことにした。
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シアトルはアラスカ・ゴールドラッシュの中継地として発展し、第二次大戦時に航空機メーカーのボーイングが全米から高度な人材を引き寄せ、その人材を基にマイクロソフトが発展し、Starbacks が特異な文化を作り、今やGoogleが飛ぶ鳥を落とす拠点になっている。我々の時代はサンフランシスコの南のベイエリアがハイテクの中心として発展したが、今やシアトルがお株を奪った感がある。
海と山に囲まれたシアトルは土地が限られ不動産価格が暴騰しているが、IT企業は給料を惜しみなく払っているらしい。娘夫婦などIT業界外の住民にとって物価の高いシアトルは暮らしやすい町ではないが、カネが回われば能力の高い若い人材が集まって活気が生まれる。その多くが中国系の「出稼ぎIT技術者」で、技術の流出は避けられないが、IT技術は作ったとたんに陳腐化するから気にすることもない。世界中から若く優れた人材をカネでかき集め、消費者からカネを吸い上げてボロ儲けする仕掛け作りに狂奔しているのが、米国の最先端の実態なのだ。
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旅の最終日、シアトルからフェリーで対岸のベインブリッジ島に渡った。林の中に閑静な住宅が点在する別天地で、シアトル市民が息抜きに訪れる広大な自然公園もある。この島に第二次大戦中に起きた日系人強制収容の記録を展示するメモリアルがある(Bainbridge Island Japanese American Exclusion Memorial 日系米国人排斥記念館 英文パンフレット)。
1942年3月30日、この島で開墾にあたっていた日系人276名が米陸軍によって強制的に収容・連行され、アイダホの収容所に送られた。彼等が乗船させられた波止場周辺がメモリアルに指定され、276名に合わせて長さ276フィートの展示パネルにそのいきさつが記されている。屋内展示の施設は管理事務所を兼ねた小さな小屋だが、本格的な記念館の建設募金が進められ、近々着工の予定という。
日系人の大半が米国籍を保有していたが、日米開戦で敵国人と見做され、西海岸の日系人は日本軍の上陸作戦を支援する怖れありとして強制移住させられた。戦後38年を経た1983年、米国政府はこれを不当な差別だったと認め、日系人の基本的人権と自由を奪ったことについて時の大統領ロナルド・レーガンが正式に謝罪した。この記念館のメインテーマは「二度とないように」(Let It Not Happen Again) で、このメッセージに民主主義のリーダーとしての米国の理性と決意が感じられる。米国がこれからも理性を曇らせないで欲しいと願うのだが、雲行きがあやしくなってきたようにも感じられるこの頃である。
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