アラスカは米本土とつながっていない飛び地で、一番近いシアトルからでもジェット機で3時間かかる。1867年まで帝制ロシアの領土だったが、クリミア戦争の戦費に窮して米国に720万ドルで売り飛ばした。アザラシの毛皮以外に何の産物もない極北の荒野を買いとった当時の国務長官スワードは、「ロシアから巨大な冷蔵庫を買った男」と揶揄されたが、直後に金鉱が見みつかってゴールドラッシュが起こり、更に20世紀後半になって、不毛の凍土と思われていたノーススロープで大規模な油田が発見された。現在のアラスカ州民の一人あたりGDPは63,424ドル(2010年)で全米第1位。GDPの主要部分を石油産出とその輸送が占め、加えて油田地帯の大半を将来の原油枯渇に備えて開発を凍結していると聞けば、150年前のスワードの買い物は「冷蔵庫」どころか、「オカネが湧き出る貯金箱」だったことになる。

北極海で汲み上げた原油は、南部の不凍港バルディズまで総延長1,300kmのパイプラインで圧送する。建設コストは当初10億ドルと見積もられたが、環境保護の声の高まりに押されて様々な対策を講じた結果、1977年の開通時には80億ドルに達していた。「環境保護」は今でこそ最大の関心事だが、当時の日本は経済成長・効率一本やりで、建設=環境破壊という発想に欠けていた。そんな目から見ると、投資効率(カネ儲け)最優先の筈の米国で、人が住んでいない不毛のツンドラ凍土の保全と野生動物の移動路確保の為にパイプを宙吊り構造で敷設するなど、オカネを生まない設備に莫大な労力とコストを費やしていることに、不可解の念を抱いた記憶がある。

カネをかけて技術の粋を集めても事故は起きる。最大の事故はパイプライン本体の故障ではないが、1989年3月に積出港のバルディズで起きた巨大タンカー(エクソン・バルデイズ号)の座礁による原油流失で、2100kmの海岸線が汚染され、無数の野生動物の命を奪い漁業に壊滅的な打撃を残した。エクソンは原油除去作業に20億ドル、損害賠償に10億ドルを費やしたという。座礁は操船ミスによるもので、事件時に泥酔状態だったと噂された船長の責任が問われたが、理由は何であれ、起きた事故はとりかえしがつかない。大規模な原油流出は2010年にメキシコ湾で繰り返されたが、これも技術の粋を尽くした深海掘削装置の「想定外の故障」が原因と言われる。人間が作ったものは「複雑なほど危ない」という教訓は、日本人も福島原発事故で身に沁みた筈だが、わずか3年で「喉元すぎて」しまったようだ。人間の生物としての危機察知能力と学習能力は、オカネの匂いで著しく鈍るものらしい。 (この項 2015年1月記)



無縁仏になったかもしれない話

飛行機の性能が良くなって太平洋を無着陸で飛べるようになったのは73年頃で、それまでは給油のためにハワイかアラスカに着陸した。途中寄港は長い空旅の気分転換や免税の買い物ばかりでなく、離着陸時の空中観光も結構楽しみだった。69年の2度目の米国出張でサンフランシスコからの帰国便がアンカレジで給油したが、低空でゆっくりと空港にアプローチする時に見えたフィヨルドや氷河にすっかり魅了されてしまった。それ以来、アラスカに立ち寄る機会を狙ったのだが、空港から外に出たのは3度しかない。

1977年夏(だったと思うが)、海外旅行の最盛期にノースウエスト航空が長期ストで運休し、太平洋線が非常に混雑した時期がある。私は3ヶ月の長期出張が一段落して帰国しようとしたが、ひと月先まで満杯で予約がどうしてもとれない。いろいろと手を尽くして、英国航空のロンドン発アンカレジ経由東京行きのファーストクラスに一席だけ空席があることがわかり、アンカレジで搭乗するチケットを発券してもらった。会社がファーストクラス料金を承認するかどうか疑問だったが、帰る手段が見つかれば帰心矢のごとしで、ダメなら差額は自己負担でも、という気になっていた。

国内便で早朝にロスを発って8時にアンカレジ到着。英国航空は午後2時発である。空港でレンタカーして、片道2時間で行けるところまで行ってみることにした。地図を見るとポーテッジ氷河がある。片道約100kmで、往復すると出発時間ギリギリになりそうだったが、ここだ、と決めて走り出した。市街地を抜けるとすぐに入江に沿った原野だ。干潟に烏が無数に集まって餌をあさっている。奥深い入江が行きづまって、目の前に山が迫ってきたところに小さな駐車場があり、そこから山道を少し歩くと、突然目の前に小さな湖があらわれた。近くに大きな氷塊が三つ浮いている。藍で薄く染めたような不思議な蒼い氷だ。対岸の二つの正三角形の岩山の間からせり出している氷河も蒼い。鉛色の曇り空が不気味な色を湖に落し、静まりかえった空気の中にじっと立っていると、異次元の空間に迷い込んだような妙な感覚になってくる。ふと時計を見ると、秒針の進み方が異常に早い。

急いで空港に帰って英国航空のカウンターに行くと、お前の席にはロンドンから東京行きの客が乗っているという。冗談じゃない、一等客をアラスカで放り出してどうする気だ、熊にでも食われろというのか、と思いつく限りの雑言を並べて毒づいたがラチがあかない。マネジャーを出せ、とわめくと、裏の事務所に連れ込まれた。もう出発まで30分しかない。髭の男が小声でモソモソと電話していたが、こちらを向いて、お前は秘密を守れるか、と聞く。ますます不可解である。JALのロンドン発の一等が一席空いているが、JALはアンカレジで客扱いできない規則である。ヤミだから乗客名麓にも乗せないが、それで良いなら話をつける、という。そんなわけでJALのファーストクラスで帰国したが、万一墜落事故があったら、私の骨は身許不祥の密航者扱いになっていた筈である。 (この項、1994年9月記) 

1970年前後のアラスカ
このエンジンはDC-8-55 の筈。
これはB747? 初期のジャンボも途中給油を要した。

不思議な景色。雪解けの頃か?
欧州線のB707が離陸に向かう。73年頃のアンカレジ空港?
71年2月。パンナムのB707がフェアバンクスで給油。
パンナムB707。エンジン不調で酷寒の中で点検、3時間遅れた記憶がある。

1977年  ポーテジ氷河
空港からターナイン入江に沿って1号線を南下する。
アラスカらしい風景の中を走る。
入江のどん詰まりにポーテージ氷河公園の看板。
駐車場に車を置いて少し歩くとポーテージ湖と氷河が現れる。
タンカーが座礁したバルディズは氷河のすぐ裏側にある。


1995年2月 米国最北端バロー岬 酷寒の旅

上の記事を書いて5ヶ月後の1995年2月、米国最北端のバロー岬を訪れた。前年末に南極圏(南緯66度33分)を越えたので、この際北極圏も越えておきたい、どうせ行くなら最もアラスカらしい厳寒期に、という個人的な動機だったが、好奇心旺盛な同僚と、毎度奇妙な旅の手配をしてくれる旅行会社オーナーも加わって、酔狂旅は3人連れになった。

バローに行く交通手段は一つしかない。石油関係者と住民の生活物資を運ぶ貨客混載の定期航空便である。どちらも年間を通して必要なので、真冬でも毎日2便飛ぶ。1995年当時、フェアバンクスを早朝に発った飛行機は、先ず原油基地のあるプルドーベイの「Dead Horse空港」(すごい空港名だが)に向かった。2月の北極圏は暗闇の季節が終わったばかりで、日が出るのは朝10時頃。ジェット機は月光に照らし出されたユーコン川とブルックス山脈の上空を飛ぶ。まだ写真を本格的にやる前だったが、35mmカメラにスライド用ポジフィルムを入れてあった。低感度で写るかどうか分からなかったが、窓枠にカメラを押し付けて固定し、長時間露光で撮たら何とか写っていた。

フェアバンクスを離陸、2月の朝7時はまだ暗い。
凍てついたユーコン川の上空を飛ぶ。
ブルックス山脈を越える。
アラスカパイプライン。ジグザクに敷設して温度変化による伸縮を吸収する仕掛け。
デッド・ホース空港にアプローチ。

Dead Horseで貨物の積み降ろしをしてバローに向かう。ようやく明るくなったが、窓の外は白一色で、陸・海・空の境界もさだかでない。40分の飛行でバロー着。国内線でも税関審査並みの荷物検査があり、「酒類を持っていないか?」 と聞かれる。「No」と答えると、「お前の荷物から酒が出てきたら、罰金2, 000ドルだぞ」と念を押された。米国には宗教的な理由で酒類販売が制限されている地域があるが(テキサス州ダラス市など)、バローが禁酒なのは、先住民のエスキモーが酒に溺れるのを防ぐため。穀物や果物が育たない北極圏ではアルコール醸造は不可能で、彼等の伝統文化の中に「酒」はなかった。「文明」の一部で持ち込まれた「強い酒」に先住民が身を持ち崩した先例は多々あり、私権制限もやむなしと思うが、禁酒が守られた例は稀有。バローでも、夜中に酔っぱらいのわめき声を何度も聞いた。

修理工場兼業のレンタカー屋で四駆トラックを借りる時、「プラグがない場所でエンジンを切ったら死ぬよ」と注意された。「プラグ」は駐車場に備え付けられた電源コンセントで、駐車時にエンジンを保温する装置のケーブルを繋いでおかないと、オイルが凍ってエンジンが起動しない。-40度の無人の荒野でエンジンが止まったら凍死は免れない(小生はカナダ駐在員時代にその習慣は身についていた)。酷寒地に不慣れな旅行者はアブナイが、借りた四駆トラックはドアがキチンと閉まらないようなポンコツで、生命の危険が常に念頭から消えず、ウッカリミスの予防にはなった。

デッド・ホース空港ターミナルの外。
デッド・ホースからバローへ。やっと朝日が昇った。
貨客混載の機体では人間は後部ドアから搭乗する。
バロー空港にアプロ-チ。
アラスカ航空のターミナル。
レンタカーは四駆のポンコツトラック。

バロー岬 (Point Barrow)

先ずは空港から米国最北端のバロー岬(北緯71度23分)に向かう。夏の写真を見ると細い砂州の先端で、北側の北極海、南側のラグーンに挟まれているが、冬季は一面の氷原で、海岸線がどこにあるのかも分からない。20分ほど走ると雪原に「シロクマに注意、ここから先立ち入り禁止」の看板がポツンと立っている。「バロー岬」の表示は見当たらないが、行き止まりのここが岬の最先端=最北端の筈。

「白熊に注意」の看板しかないが、ここが多分バロー岬だろう。
絶対トラックのエンジンを止めないように注意された。
低い位置の太陽で、カメラマンが「あしながおじさん」に。
北極点までここから2000kmある。
ロシアを睨むレーダー。
バローの市街。
アラスカ横断の犬ぞりレースの訓練だろうか。けっこう高速で、あれよあれよという間に見えなくなった。
流氷の間から噴き上げた海水が奇妙な氷塔を形成する。

バロー市内

バローは人口4千人足らずで「市」とも言えないが、さすがに米国だけあって、極北の孤立集落でもインフラが完備し、暖房完備の文化的生活が可能。人口の6割は先住民エスキモー(差別用語ではない)だが、彼等もイグルー住まいの狩猟生活をやめて給与生活者になり、フツウの中流住宅で暮らしている。食品や雑貨は毎日2便の貨客混載ジェット機で運ばれ、品揃えは本土の田舎のスーパー並みだが、値段が2~3割高いのは仕方がない。

冬のバロー観光は本当に何もない。外気温-40度では気軽な街歩きもならず、昼間の時間をつぶすのに苦労する。夜は夜で緯度が高すぎてオーロラは出ないし、アルコール禁止では食事に出かけるのも億劫になる。我々が調べた限りでは、開いているレストランはホテル隣のメキシコ料理店(!)と韓国人経営の日本料理店(?)だけ。旅の収穫は「真冬に北の果てまで行った」という自己満足だけだが、それでヨシとするのが酔狂旅のルールである。

あてにしていた観光案内所は冬季閉鎖中、無理もない…
日差しがあっても気温はマイナス40度(FもCもマイナス40度で同じになる)。
ガソリンスタンドは営業中。
鯨油タンクと思われる。
当時の唯一のホテル。
ロビーでしろくまが迎える。
北極にメキシコ料理はアメリカン・ジョークのよう。
韓国人経営の日本レストランもある。
スーパーマーケットには空輸された南国の食材も並ぶ。
午後3時には日が沈む。凍結した水蒸気で虹が立つ。
夕暮れのメインストリート。
このバスは春までエンジンがかからない。


チェーナ温泉  オーロラと露天風呂

バローからの帰途チェーナ温泉に寄った。フェアバンクスから雪の夜道を1時間走り、宿に着いて食堂に行ったら、客の殆どが日本人。自分のことをタナに上げて、酔狂な日本人が多いなあ、とあきれた。

欧米の温泉は「温泉プール」で温泉情緒など期待できない。アラスカの露天風呂は格別で、室内プールからマイナス40度の屋外に出て、凍った通路を裸足で小走りして、直径3mの木製タブに飛び込む。髪は湯気でたちまち白髪になってバリバリに凍り、眉毛も老人の如し。顔は寒く感じないが、肩が出ないようにじっと浸かっているしかなく、湯から出るのに思い切りが要る。

チェーナのある北緯65度はオーロラが最も現れやすいと言われる。我々が滞在した夜も夜半になってカーテン状の淡いオーロラが現れた。それなりの覚悟はしていたが、持てる限りの防寒対策をしても屋外作業は20分が限度で、カメラの電池もその位しかもたない。部屋に戻って体を暖まって出直すが、カメラは結露するので室内に持ち込めず、寒い廊下で電池交換する。あまりの寒さに安モノ三脚のプラスチック部品がポロリと割れ落ちた。

チェーナ温泉は道路のどん詰まり。
昼間の駐車場。電熱でエンジンを温めておくプラグがある。
チェーナ温泉のコテージ。
もの好きついでに北極圏でクロカンスキー。
露天風呂。
オーロラが出た。