このところ政治家のお粗末な言動がニュースを賑わしている。お定まりの「政治とカネ」のみならず、「不適切な関係」やら、「ハボ‥何だっけ」「奴隷の血をひく」等々、落語の八五郎もビックリの無知暴言まで飛び出すに至っては、全く開いた口がふさがらない。政治家の質は選挙民(国民)の質に正比例すると言われるが、この国の劣化がそこまで進んでいるかと思うと、背筋が冷えて来る。
米国の歴代大統領も全てが高潔無比だったわけではない。ダコタ篇で大統領ランキングに触れたが、どの調査でも常に最下位の大統領がいる。第29代のハーデイング(在任1921~1923)である。名演説家として知られ、第一次大戦の終結をリードし、戦後の海軍軍縮を進め、初の児童福祉プログラムに署名し、失業率を半減させる等々、国のリーダーとしてそれなりの業績を残した大統領だが、それでも「史上最低」の不名誉な烙印を押されるのは何故か?
議院内閣制の日本や英国と異なり、米国では大統領のスタッフ(Secretary)が各行政府の長(閣僚)の任に就く。(ちなみに日本の総理大臣にあたる「国務長官」の英文職名は 「Secretary of State」)。大統領はスタッフ選びにあたって「気の合った有識者」に加えて、大統領選に協力してくれた地方政治家や実業家を登用するので、いわゆる「オトモダチ内閣」になるのは避けられない。オトモダチが能力・倫理共に秀抜なプロフェッショナルばかりであれば良いが、職権濫用で私腹を肥やす輩がいると政権全体から腐臭が湧く。ハーデイングが地元オハイオ州から登用したオトモダチは思う存分汚職に励み、ハーデイングはそれを放置し続けた大統領として、後世まで「最悪大統領」の汚名を背負い続けている。(ハーデイング自身が汚職に手を染めたという記録は見当たらない)。閣僚の汚職が最大の汚点となると、某国の歴代総理の多くが「最低ランク」に列することになる。
下から2番目の大統領は第14代のピアース(在任1853-1857)。彼は北部(ニューハンプシャー)出身でありながら奴隷制を巡る法律論争で南部側の肩を持って混乱を招き、結果的に南北戦争に火を点けた人物のレッテルを貼られた。ピアースの後を継いだ第15代(1857-1861)のブキャナンも南北戦争を回避できなかった責任を負わされ、下から3番目にランクされている。この2人に言わせれば、偶々その時代に大統領の職にあったのが不運で、自分の失政のせいではないと言いたいだろうが、リーダーたる者は結果責任で評価されるのが世の常で、大統領もその例外ではありえない。
政治手腕を高く評価されながら下位にランクされた大統領もいる。下から7番目の第37代ニクソン(在任1969-1974)で、ゴチゴチの反共主義者と見られながら、ベトナム完全撤兵を敢行し、フルシチョフとの対話と中国との外交関係樹立で東西冷戦を雪解けに導いた業績では、高位ランクに列せられてもおかしくないが、ウォーターゲート事件への関与で歴代大統領で唯一の任期中辞任に追い込まれ、没後に国葬の栄誉もNGにされた。この事件は首都のウォーターゲートビルの民主党本部に仕掛けられた盗聴マイクがニクソン再選委員会の仕業と分かり、大統領自身が捜査妨害や事件もみ消しに積極的に関わったと認定されたもので、ニクソンのテレビ映りの悪い陰険な風貌も不利に働いたとも言われる。
ついでに「不適切な関係」に言及するならば、この表現(relationship that was not appropriate) で自らの不始末を国民に謝罪した大統領がいる。第42代のクリントン(1993-2001)で、ホワイトハウス執務室でスタッフ実習生のモニカ・ルウィンスキーとイチャついた一部始終が表沙汰になり、「品格」を問われて下院の弾劾裁判にかけられた。議会の調査と証言記録は微に入り細を穿って赤裸々に報道され、議会証言の厳しさと「報道の自由」の遠慮の無さに驚いた記憶がある。下院で訴追されたが上院では有罪評決に必要な2/3に達せず、クリントンは辛うじて罷免を免れたが、「大統領の下半身は問わない」という米国社会の不文律はこの時に終わった。
「男の甲斐性」に相当する英語表現を思い当たらないが、「大統領程のオトコに多少のオンナ出入りは当然」が米国でも社会通念だったようで、マスコミも「大統領のシモネタ」に触れないのが流儀とされてきた。例えばケネデイの艶福ぶりはマリリン・モンローとの1件を含めて衆知の事実だったらしいが、表立って咎められたことはなかった。クリントンにもその種のウワサが絶えなかったが、ルインスキーの1件で刺されたのは、さすがの大統領も世間の目の変化を甘くみたのだろうか(いわゆる「セクハラ」がうるさく言われるようになったのはこの頃)。それにしても、露見した仕儀は「ガキの火遊び」も同然で「男の甲斐性」は感じられず、彼が辞任せずに任期を全うできたのは、ヒラリー夫人の寛大な赦しが世論を鎮めたおかげと言われる。赤恥をかいた上に妻に一生アタマが上がらなくなった点では、某国の「イクメン」代議士も大統領と肩を並べたか? 何れにせよ、男の身勝手が笑って済まされる時代は終わったと思った方が良い
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(この項 2016年2月記)
メイン州はアメリカの北東のはずれにある。私の50州踏破では最後の訪問先になった。94年9月初め、ボストンから500kmのカナダ国境まで車を駆けた。往路はリアス式の入り組んだ海岸線をたどり、復路は内陸の湖沼群や草原が点在する原生林の中を走ったが、印象を一言でいえば、「メイン州全体が自然公園」である。アメリカは広大といっても、利用可能な平地は牧場や農場として殆ど利用しつくされていると言ってよいが、メイン州には、まだ人の手が入っていない平坦地がふんだんに残っている。樺太に相当する高緯度で寒冷地であるために、栽培できる農作物が馬鈴薯などに限られ、開墾しても採算が合わないので放置されてきたのだろうが、せめて羊でも飼ってはどうだろうか、という気がしないでもない。
アメリカ東端のリュ-ベックは小さな漁村だった。村はずれの海岸に、郵便局と税関が同居する小さな建物があり、脇に「アメリカはここから始まる」と書いた小さな看板が立っていた。そこから長さ2百メートル程の粗末な鉄橋を渡るとカナダ領の島である。しばらく見ていたが、国境を渡る車は全くない。懐かしいカナダ国旗の写真を撮ろうと思って橋を渡ると、カナダ側の小屋からお姉さんが出てきて止められた。すぐUターンするから、と許してもらって戻ると、今度はアメリカ側の小屋で初老のおじさんにつかまった。三分前にここを渡って…と説明したが、何をして来たのか、と小うるさい質間が始まり、車のトランクを開けさせられた。ヒマ潰しの相手をさせられたのだろう。カナダ側から缶詰め工場の小型トラックが渡ってきたので釈放された。村を一巡してみたが、前述の看板と粗末な民宿風のモーテル2軒以外には、最果ての観光地らしい景観は何もない。
ルベックから少し北に走ると、「Calais」という町がある。フランス読みの「カレー」で、18世紀早々にフランス人が入植して出来た町らしい。町を流れる川もフランス名である。カレーにもカナダ側と結ぶ橋があり、こちらは車の行き来が頻繁にある。町の商店には「カナダドル使えます」という看板も立っている。対岸のニューブルンズウィック州には、カナダ駐在員時代にしばしば通った。英国系とフランス系の混在した地域で、見るべき産業もない後進地域と言われ、どんよりとよどんだ閉鎖的な雰囲気があった。対岸のアメリカ側も寒村にすぎないが、何故か開放的で明るい感じがするのは私の先入観かもしれない。
メインを訪れるにあたって仕入れた予備知識の中に、白人比率が98.6%で、アメリカで一番高い、という統計があった。アメリカではどこに行っても黒人、メキシコ系やアジア系を見ないことはない。だが、メイン滞在の2日間に会った非自人は、若干のアジア人旅行者以外では、内陸部の小さな集落で見た黒人の若者二人だけ、というのも奇妙な感じがした。ホテルのメイドと皿洗いは、非白人に最初に浸食される職種だが、メインでは今も白人がやっているのである。黒人、メキシコ人、アジア人のいずれの供給源からも地理的に最も遠い、という点もあろうが、1年の内8ヶ月は冬、という厳しい気候が有色人種を寄せ付けないのであろう。私が訪問した9月初旬には、気の早い木々が枝先に秋の装いをつけ始めていた。中旬にはアメリカ一番と言われる華やかな紅葉がメインのなだらかな丘陵を彩ることだろう。
(この項 1994年9月記)
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私は暗記物が苦手で、学生時代に歴史の勉強を敬遠したのを今頃になって後悔している。恥ずかしい話だが、先年吉村昭の「ポーツマスの旗」を読むまで、ポーツマスが日露戦争の講和交渉の舞台だったことも知らなかった。この小説を読んでポーツマスがどんなところか興味が湧き、94年9月にようやく訪れることが出来た。
講和交渉が行われた建物は、現在は海軍の原子力潜水艦の設計場になっている由で、吉村氏は外務大臣を通じて立入り許可を得たということだから、ぶらり旅での見学は最初からあきらめた。日本側の一行が泊まったホテル名を電話帳で探したが載っておらず、地図で見当を付けて行ってみたがそれらしい建物はなかった。取り壊されてしまったのだろう。モテルに置いてあった観光パンフレット類からも日露交渉の痕跡にふれたものは何も見当たらなかった。(後日談:ホテルは市内にあるものと思い込んでいたが、郊外で偶然通りかかって写真に撮った木造建造物の廃墟がそのホテルだったことが分かった。今回(2016年2月)ネットで調べたら、マリオットが買収、リゾートホテルとして復活させたらしい。)
ポーツマスは Port Mouth、つまり湾口に作られた軍港の町である。メイフラワー号上陸から程ない時期に清教徒が作った歴史のある町で、吉村氏の表現を借りれば「市街は現在も1905年の日露交渉の時代そのままの雰囲気」が残っている。ボストンから車で1時間という地の利もあり、9月初めでも観光客の姿が目立っていた。イギリスから小舟で漂着した清教徒が、野苺が海上を流れているのを見つけ、そこを上陸地点に決めたという伝説のある海岸に、入植当時の建物を20戸ほど移設して展示している一画があり、「苺洲」(Strawberry Bank) と名付けて観光の目玉になっている。一番古い建物は17世紀末に作られた丸太組みの家屋だが、小さいながらもがっちりした二階建ての3LDKで、イギリスの生活様式をアメリカに移植しようとした入植者の意志が感じられる。
「苺洲」の対岸が前述の海軍工廠がある島で、いかついクレーンやドック等の造艦施設がびっしりと立ち並んでいる。講和交渉の会場に使われた三階建の建物の外観だけでも見ようと基地のゲートまで行ってみたが、銃を持った兵隊が立哨していて入れそうもない。日露交渉当時も多分こんな具合で、警備上の都合には申し分なかったのだろう。日本側代表の小村外相一行は、ニューヨークから米政府さしまわしの軍艦で海上からポーツマスに入ったというが、当時のアメリカが日本に好意的だったという点については、少々ひねって考えてみたくなる。
アメリカは20世紀初頭にヨーロッパを凌ぐ工業国に急成長し、スペイン戦争にも勝って自信をつけ、一躍国際舞台に踊り出た。得意満面といった感じもあっただろう。当時のルーズベルト大統領には「flamboyant」という形容詞がついているが、「華麗な」というよりも「目立ちたがり屋」のニュアンスの方が強かったかもしれない。戦争当事者の一方の帝政ロシアは、世智にたけているが足腰が立たなくなった因業爺、といった存在で、他方の日本も、これも雑な比噛を使えば、田舎からポッと出の、前後の見境いもなく喧嘩ばかりしたがるチンピラみたいなものだったようだ。両者とも西欧の大人の論理が通用しない困り者で、英仏はアジアに利権を持つ立場もあり、仲裁の手が出せない戦争だったと言えるだろう。そんな中で新興勢力のアメリカが、英仏にも日本にも恩を売る形で仲裁に立ち、大いに男をあげた、というかたちだったのだろう。(T ルーズベルトは日露講和仲介でノーベル平和賞を受賞)
アメリカは日露戦争では仲裁役に徹して成功したが、その後は紛争に介入して自分自身が当事者になってしまうバターンが続いている。損な役回りであることを自覚し始めたようだが、アメリカに代わって力ずくで他国の紛争をやめさせられる国が見つからないことも現実である。ロシアと日本とは、日露戦争から今日に至るまで、西欧の論理と尺度では計れぬ、わけの分からない存在であり続けてきたようだ。日本に国際社会への積極的な貢献を求める声が高まっているが、日本が、他国に対して威厳をもってものを言えるような大人になっているかどうかは、少々疑間のあるところである。 (この項 1994年9月記)
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