カナダは米国と地続きで人種・文化も似ているので、米国といっしょくたにされることが多いが、当のカナダ人にとって、そのような扱いは甚だ不愉快なのだ。そもそも米国はイギリスに反逆して独立した国で、そんな米国を嫌った人たちが作った国がカナダだった。米英戦争時にカナダは独立軍を防ぐ砦をあちこちに築き、米国独立後も米国の侵略に備え続けた。今は史跡となっている砦には、砲口を南に向けた大砲がたくさん残っている。隣り合った国どうしが友好的でないことは世界の通例だが、米国とカナダの関係も、近親憎悪とまでは言わずとも、決して仲のよい兄弟ではない。

小生がカナダ(トロント)駐在員だったのは今から30余年も前のことだが、1970年代のカナダは米国の経済的侵食を極度に警戒して関税障壁や外資規制を高く設け、国営・国策企業の保護を国の産業政策の骨子としていた。そのとばっちりが日本の電子機器メーカーにも及び、駐在員の売り込み努力は殆どが空振りに終わった。(もっとも、外国製品への障壁という点では、当時の日本の方が高かったと思うが。)

その後、経済的には米国との一体化が進んだと言われるが、今もエリザベス女王を元首に戴く英連邦の一員であり、英国以上に保守性で窮屈な面もある。しかし一般市民にとって、社会保障制度の完備したこの国は米国以上に豊かで住みやすい。その分税金は高いが、子供の学校や課外活動にオカネが殆どかからないことや、雪が降りはじめると同時に湧き出すように出動する除雪部隊を見ると、税金が国民生活のために使われているという実感があった。

お気付き方もおられようが、本稿は6年前(2008年3月)にアップした記事の焼き直しだが、改版にあたって写真を追加し、20年前(1994年)に同僚に配った駐在員体験記を転載することにした(字句一部修正)。会社員の守秘義務は死ぬまで消えないが、得体の知れない「秘密保護法」が成立した日本でも、30余年前の「老人の昔話」は不問に付してもらえるだろう。写真も15年前にカビだらけのネガフィルムを粗末な機材でスキャンしたもので、未熟なデジタル処理は教則本に言う「初心者が陥りやすい誤り」の作例集だが、フィルムは廃棄済みでやり直しがきかず、お見苦しいのを承知で再利用させていただく。


ニューファウンドランド  ちょっとズレた島のおはなし

ニューファンドランド(NF)は奇妙なところだ。カナダ東北端の離島でトロントと1時間30分の時差がある。トロントの9時はNFの10時30分で、出張して30分の補整は時計合わせが面倒で頭も混乱する。NFの住民にはズーズー弁風の特有な訛りがあり、通称の「ニューフィー」には「ちょっとズレた田舎者」といったニュアンスがあるらしい。名物料理は「タラの舌」で、獲れたばかりの鱈の舌を抜き取ってフライにしたもの。カキのような味と食感があって珍味と言えば言えるが、閻魔大王の向こうを張って自慢する程のものではない。魚に関連して思い出すのは、セントジョンズ港に日本の漁船が多数たむろしていたことで、北大西洋での漁獲の荷揚げや船員交替の基地として使われているらしい。

70年代半ばに世間を騒がせた安宅産業事件の舞台になったように、NFには以前から石油産業があったが、70年代後半になって東方70海里に大規模な海底油田の存在が確認された。さっそく開発計画が始まり、海上の掘削リグとの通信をどうするか議論が起きた。カナダは世界最初に国内通信衛星を実用化した国で、北極圏の原住民(エスキモー)にも近代的な通信手段が確立していたが、官営では融通がきかず、民営で商売になると着想した人がいた。カナダでは無線通信事業の認可は地元優先の原則があり、NFでポケベルサービスをやっている会社が内々に検討を始め、私のいた会社が見通し外マイクロ通信の世界的メーカーと聞き付けて電話をかけてきた。業務用の電話やデータ通信に加えて娯楽用のテレビ中継も必要で、機器を売ってくれれば工事は自分でやるから見積りを出せ、という引き合いである。

数億円のビジネスチャンスなのでセントジョンズに出張することにした。アンテナを建てる土地も見てくれという。そうなると私一人では無理で、日本から専門の技術者を呼んだ。相手がどの程度の会社かわからなかったが、社長がその年のカナダ無線通信協会の会長を務めているというので、ひとまず信用することにした。セントジョンズ出張は2度目だったが、会社を見つけるのに一苦労した。住宅街の普通の民家を改装した事務所で、4人の社員が居間に机をならべ、社長は寝室だったと思しき小部屋に陣取っている。「あれマァ」と思ったが、これで挫折してはカナダ駐在員は勤まらない。

社長をソファの隣に座らせ、膝の上にプロポーザルを広げて会社紹介から始め、システムの説明をして見積りのページをめくった。社長の目が合計欄の桁数を追い、一瞬落語家の故圓生師匠が「ヘッ」と驚いてみせた時の表情になったが、さすがに協会長を務める人物だけあってすぐ立ち直った。工事費の概算を聞かれたので、見通し外通信のパラボラアンテナは直径10mの巨大な構築物で、風圧に耐えるしっかりした基礎工事が必要、海上の掘削リグにもそれなりの強化が要ると説明し、ドルで7桁の数字を言うと、師匠の目玉がもう一度宙をさまよった。

アンテナ建設予定地に案内を乞うたが、場所を教えるから帰りに見て行け、と放り出された。雪の坂道を登って丘の上に立つと、2月の北大西洋が鉛色にくすんで見える。粗末な機械小屋の脇の旗竿が協会長氏の無線塔だろう。自動車は雪の上り坂でもけっこう登ってしまうが、下り坂は怖い。登る時は気付かなかったがツルツルの氷面だった。ガードレールもない曲がりくねった坂道を、滑ったらいつでも転がり出られるようにドアを少し開けてソロソロと下った。

セントジョンズの湾口と市街。
港にそった市街地
港にたむろする日本のマグロ漁船。
無線通信の開祖マルコーニが通信実験を行った丘に建てられた記念館。(この場所での実験の成功については疑義が呈されているらしい。)
記念館の内部。マルコニ―が使った機器が展示されている。


ノバスコシア  雪ノ降ル街ヲ‥

ノバスコシアは、大陸の東端でロブスターがハサミを振リ上げた形の半島である。「新スコットランド」を意味する州名が示すように、岩が険しく反り上がった荒々しい海岸線に囲まれた荒野というが、私は州都のハリファックスしか訪れたことがない。ハリファックスは北大西洋の荒海から隔てられた入江に面し、カナダ沿海州(マリタイム)のビジネスの中心地である。港にはかつての海運業のなごリの上屋や事務所の古い木造建物が残っているが、その一画が改装されて観光客相手のショッピングモールになり、土産物屋、骨董品屋、しゃれたブティークやレストランなどが並んでいる。

カナダ全州で受注実績を作りたいという悲願から、客先まわりは一生懸命にやったが、客の方から呼び出されるのは冬が多かった。冬の退屈しのぎの相手をさせられていたのだろうが、呼ばれたら万難を排して出かけるのが駐在員の仕事である。ハリファックスはトロントから飛行機で2時間程だから、日帰り出張も不可能ではないが、冬季の出張は時間に余裕を見ないとあぶない。日曜日の午後の便でトロントを発ち、6時過ぎに空港についた。空港からダウンタウンまでは30km程で、北海道の阿寒国立公園を思わせる景色のよい道路だが、北緯45度の冬は4時過ぎに暗くなってしまう。

日曜日だが、前から行きたいと思っていた船着場の魚料理のレストランが開いていた。海に張り出した木造の建物で、テープルは20以上あるが客は誰もいない。ヒマそうにしていたウェイターが立ち上がって、窓際のテーブルに案内してくれた。料理の名前は忘れたが、蝦、蟹、ムール貝、白身魚などを煮込んだプイヤベースのようなものを頼んだ。白ワインの小罎をとって料理の出るのを待ちながら、窓の外の暗い海をながめていると、波が岸壁を静かに洗う音が聞こえる。

客はまだ私だけ。やがて料理が運ばれてきた。ほのかに甘い海の薫りが漂う。蝦の一片をソースに浸して口に運ぶと、薫りが急に濃厚になって口腔と鼻腔いっぱいに拡がり、噛むごとに懐かしい味が増してゆく。蟹肉は舌のうえで数条にほぐれ、蝦よりも一層優しくて爽やかだ。ムール貝は微かな鉱物質のあと味を舌の奥に残す。ワインで口をそそぎ、もう一度同じ順序で味わう。何故かいとおしくて哀しくなり、胸がいっぱいになった。フォークを置いてため息をつくとウェイターが気付いて「どうかしましたか」と聞く。「海の音を聞きながらうまいものを食べると、哀しくなってきたよ」と応えると、「海のうまいものでしょう。人間はみな海から来たのだから」と、ウェイターが詩人のようなことを言った。小雪が舞い始めていた。

翌日、昼前に仕事を終えて外に出ると吹雪になっていた。市街を外れると、前の車の赤いテールライトがやっと見えるほどの猛吹雪きで、こんなに苦労して空港に行っても飛行機は運休だろうな、と思いながら必死で運転して何とか無事に空港にたどりつき、滑走路脇のレンタカー駐車場に車を停めていると、エアカナダのDC-9が猛然と雪煙を巻き上げて着陸して来た。この程度の吹雪にめげていては、カナダ国営航空もカナダ駐在員もつとまらないということだろう。


ハリファックスの中央部にある砦跡から市街を見下ろす

港湾地区

時計塔

市内の教会

ニューブルンズウィック  親方は楓の葉

ニューブルンズウィク(NB)は人口70万の州で、漁業、林業が主産業である。経済の中心は大西洋に面したセントジョンで(NFのセントジョンズと紛らわしい)、ダウンタウンには中層オフィスビルも幾つか立っているが、貧寒とした田舎町の感じを免れない。初冬の霙まじりの日に出張して、飛行場から短いドライブで町並みが見えると、その陰欝さに気が滅入ってUターンして帰りたくなってしまうが、それでは駐在員がつとまらない。カナダの十州全部で何らかの商売を実らせたいというのが駐在員としての悲願だったので、3ヶ月に一度はNBの電話会社も訪ねることにしていた。何度か訪ねるうちに一緒に昼飯を食べてくれる技術者ができ、ぽつぽつと商売の足掛かりも見えはじめた。しかし人ロ70万人の過疎地の電話会社ゆえ、大掛かりな設備投資は数年に一度しかないし、そういうまとまったビジネスは、カナダの国策メーカーが指定席で受注することになっている。

話は飛ぶが、目抜き通りの四つ角にどんな商売があるかを観察すると、その町の特徴がつかめるように思う。例えば、ニューヨークの四つ角に靴屋があり、ダラスではガソリンスタンドがある。カナダでは殆ど例外なく銀行の支店がある。誇張に聞こえるかもしれないが、トロントやモントリオールでは、ダウンタウンの四つ角に4軒ずつ銀行がある。貧寒としたセントジョンの小さなダウンタウンでも、私が数えた限り6ヶ所の四つ角で4つの銀行が支店を構えていた。カナダの大手銀行は4行しかないから、同じ銀行が100m毎に支店を出していることになる。あれでよく銀行の商売が成り立つものだというのが、私がカナダで見た七不思議のトップだった。

話はまた飛ぶが、私はカナダの社会階層を「士商農工」の順と観察した。「士」は政府、「商」は銀行を指し、「工」は言うまでもなくメーカーである。銀行の商売が成り立っているのは、「士農工」を際限無く借金漬けにして、高い金利を巻き上げられる仕組みにあるようだ。電話会社は「士」の部類で、親方は「楓の葉」(カナダ国旗)だから、銀行はいくらでも融資する。金利が膨れ上がっても返済を先延ばしするだけだから、放漫経営に陥るのは自然の成り行きである。また「士」の社会は「イザ鎌倉」に備えて平時から陣容を整えるので、小さな電話会社でも、数年に一度の施設拡充のために、それなりのスタッフを抱えておくことになる。駐在員の仕事には、これら「旗本退屈男」のヒマ潰しのお相手も含まれるが、いい加減にあしらうと2度と声をかけてもらえないので、無駄を承知で対応するしかない。アメリカのビジネスではこの種のヒマ潰しのお相手は滅多にないが、カナダでは不可避なのだ。私は日本のビジネスに無知だが、昔はそういう側面が多分にあったと想像する。

NBの電話会社からは、3年目にようやく小さな注文をもらうことが出来た。市場開拓がミッションで損益を問われない駐在員事務所だったから、受注効率を度外視したお百度参りで私の個人的悲願を達成できたが、自分の儲けで食わねばならない現地法人だったら、商売はとうに断念していたことだろう。カナダビジネスの教訓を一言いえば、カナダでは努力の量と成果は必ずしも比例せず、為しても成らないことがあると承知しておくことではないかと思う。

世界で最も長い覆い橋(Covered bridge 全長391m)。
冬季の積雪で橋板が腐るのを防ぐため小屋状の覆いを設けたもの。
Magnetic Hill。ニュートラルにしてブレーキをはずすと車が自然に坂道を登る。目の錯覚のアトラクション。

プリンスエドワードアイランド  エビ攻めの3日間

秘書と2人だけのミニ事務所では長期休暇は取れないが、アメリカに転勤が決まった82年の夏、日本から留守番に来てもらって1週間のまとまった休暇をとった。行き先は小説「赤毛のアン」の舞台のプリンスエドワードアイランド(PEI)と決めた。トロントから往復6千kmの大ドライブで、途中ケベック東部も観光に含めることにした。本当の目的は「赤毛のアン」よりも、「ロブスターを死ぬほど食いたい」という食い意地にあった。

PEIはカナダ東端に近い小島だが、ニューブランズウィックとノヴァスコシアに抱き込まれるような形で、北大西洋の荒波から守られている。フェリーがニュープランズウィック東端の村を離れて30分ほどで、赤土というより鮮やかなピンク色のなだらかな丘と松の緑が鮮やかな対照をなす島が見え、航跡に吸い寄せられた魚を狙うカモメがうるさいほどフェリーのまわりに群れる中を、1時間半の航海でボーデンに着く。ジャガイモ畑のなだらかな起伏の中を北へ30分走り、島の反対側のキャペンデッシュという小さな集落の静かな入り江に面した古いモーテルが、我々の三日間の宿である。日が傾くと8月というのに肌寒い。

夕食は早速ロブスター。モーテルにあったチラシをたよりに行くと食堂は教会だった。集会用の机に白いビニールのカバーをかけたテーブルが20卓程並んでいる。受付で一人分12ドルを前金で払う。メニューは一種類だけで酒類は出ない。待つまでもなく、農家の主婦らしいおばさんが、手作りのパン、ゆでたトウモロコシ、コールスロー(せん切りキャベツの漬物)と、真っ赤に茄であがったばかリの、体長20センチの見事なロブスターを持って来る。胴体とヒゲだけの伊勢エビとは違い、ロブスターは、大きなハサミを振リ上げたザリガニの親分である。紙のエプロンをつけ、手をべたべたにしながら解体し、道具で殻をこわして細いフォークでほじって食べる。大きな身がポロリととれると嬉しい。溶かしパターはつけないほうがエビの味が楽しめる。細かい腹の身も丁寧にほじり出して、緑色のミソをなすり付けて食ぺるのがおいしい。細い足は名残リ惜しく歯でしごいてしゃぶり出す。最後に薄いコーヒーと一緒に手作りのアップルパイが出る。外見は素朴だが、シナモンが適度にきいてシャレた味がする。

次の日の昼食もタ食も、その翌日の昼食も夕食もロブスターを食べた。場所は学校もあったし、民家のようなところもあった。18ドルで食べ放題のホテルもあった。圧巻は、漁業協同組合の事務所が1ダース15ドルで売っていたものを、すぐそばの浜辺で小石で殻を割りながら立ち食いしたこと。レモンと醤油を持参したのは非常に正解であった。潮風にふかれて波の音をききながら、惜しげもなくエビを噛っては捨てる。こういう賛沢はもう二度とないだろう。

NBからPEIに渡るフェリー。
州都シャーロットタウンの目抜き通り。
この旅では客筋の電話会社には寄らない。
PEIの観光名所「赤毛のアンの家」。小説の原題「緑のペンキを塗った切り妻作リの小さな家に住むアンのお話」(Ann of the green gable)に合わせて作られた観光施設で、少女趣味の飾リ付けをした小部屋もある。
島全体になだらかな丘陵が続き、小さな集落が点在する農村風景。
少し大きな教会。
牧場の先に教会。
赤土の道路の向うに小さな教会。
PEIの特産物はじゃがいも。
島の北西端まで行ってみた。電波灯台があり、風力発電の楕円形の風車が珍しい。

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