日本人は英語を何年勉強しても満足に使えないと言われる。小生が英語圏で働いた経験でも、自分を含めて「その通り」と言うしかない。欧米のフツウの人が数ヵ国語を不自由なく操り、外国人力士がしっかりした日本語でニュアンスのある受け答えをするのを見ると、日本人のDNAに「英語ダメ」と書き込まれているのではないか、と思いたくなる。

トロントの事務所でアシスタントをしてくれた日系三世のMさんは、トロント大学で言語学を専攻した才媛で、仕事の合間に研究について教えてくれた。今も記憶に残っていることが二つある。ひとつは、英語と他の主な言語(50数ヶ国語)の語彙、文法、発音などを比較し、英語との距離を指数化する研究で、日本語はヘブライ語(ユダヤ語)と共に英語から最も距離が遠い(類似点が殆ど無い)というデータが出たという。英語はヨーロッパのあちこちで使われていた古言語の「ごった煮」で、ヨーロッパ言語と共通点が多いのは当然だが、中国語も、語彙は別として、文法と発音は英語と似ている。昨今の日本語には外来語が氾濫しているが、それを除けば英語との共通点を挙げることは難しく、日本人の「英語ダメ」の言いわけに使えそうだ。(ユダヤ人(ヘブライ語)が「英語ダメ」という話は聞かないが。)

もう一つは、児童の複数言語の同時学習に関する研究で、英仏二重公用語のカナダでは、小学生から英語と仏語を並列で学習するが、これが児童にとってプラスかマイナスかという、カナダの「国の在り方」にかかわる深刻なテーマである。結論は、英仏両語の同時学習は児童にとって負担にならず、むしろ言語能力の強化に資するというもの。小生の2人の子供もカナダの小学校で英仏両語をゼロから始めたが、本人には英仏語の区別も付かぬまま、不思議にごちゃ混ぜにもならず、吸取り紙のように体に浸み込むのを見て、この結論が正しいと納得させられた。

この研究によれば、幼少期の言語習得では、それが何語であれ「その言語論理的思考と発表の能力を身に付けること」が重要で、且つ、幼児期にはアタマの中に複数の言語を処理する回路がムリなく作られるので、その能力が養われれば、大人になってからも外国語をどんどん吸収できるという。つまり英語は英語で、仏語は仏語で学習することが大前提で、トロントの小学校の仏語の授業でも英語を使わなかった。一方、我々の時代の英語の授業は日本語で行われ、英文を和文に正確に逐語訳する為の英単語と文法の習得が中心だった。これでは「漢文」の授業と同じで、教養の足しにはなっても、実用言語にならないのは当然と言えそうだ。

この論を深読みすれば、幼少期の国語(日本語)教育で「論理的思考と発表能力」が身に付かないと、成長後の英語習得が難しいことになる。自分の幼少期を思い起こすに、国語の時間はもっぱら「漢字の書き取り」で、高学年の国語授業でも、「論理的思考と発表の訓練」という意識は薄かった。日本人の「英語ダメ」には、幼少期の国語(日本語)教育で「論理的思考と発表の能力」が十分に身に付かなかったことも、加担しているかもしれない。

この論を更に敷衍すると、「自己主張の鋭さ」で人を測る欧米と、「空気を読んで流れに従う」ことをヨシとする日本の精神風土の違いにも繋がりそうだ。膠着語(語尾にペタペタ付け足して文章を作る)の日本語では、その場の空気で自説を逆転させる芸当もできるが(…、というご意見もあると承知していますが、この際…)、英語でそんな芸をやろうとすれば支離滅裂になり、たび重なれば「アタマが混乱した人」の烙印を押されてしまう。小生の現地体験では、日本人の間では「英語ペラペラ」と一目置かれても、現地人に敬遠される人がいた一方で、片言の英語でも絶大の信用を得て尊重された人も少なくない。現地で仕事をする上で、「ペラペラ」よりも、伝えるべき中味がシッカリしていることの方がよほど大切なことは、言うまでもない。

日本でも小学校から英語が必修になり、しかも英語で授業をすることになって、教師が困惑しているという。「英語ダメ」の先生から英語を習った児童がどうなるか、トロント大学言語学部の研究テーマにならないことを祈りたい。

ここまで日本の英語教育について否定的なことばかり書いてきたが、むろん例外はある。我々の時代でも、公立校の枠の中でも、英語を生きた言語として教えようと努力を払った先生はいた。小生はラッキーにも中学と高校で例外的な英語教師と出逢い、英語を使う仕事に就いて半生を面白く過ごした。恩師にはこの場を借りて感謝と敬意を表したい。


トロント ケロとマイコ

私がトロントに赴任したのは79年4月である。それまで何度も出張していたので、私には異文化ショックはないが、家族にとって初めての外国生活は不安が一杯で、よほど残留しようと思ったらしい。一番の不安は、ABCも教えてない小学3年生の娘と1年生になったばかりの息子が、うまくカナダの学校に順応できるかだった。外国生活を経験した先輩や同僚は「子供は全く心配ない」と断言するが、自分の子供のこととなれば、やはり心配なものである。赴任早々に住居を郊外の中流タウンハウスに決め、近所の小学校に相談に行くと、「そういうお子さんは沢山いるから、心配しないで連れて来なさい」と励まされた。6月下旬に夏休みに入ると私設のデイキャンプが始まる。スポーツやゲームを通して英語を身に付けるのに絶好と聞き、料金は高かったが予約しておいた。

5月下旬の木曜日、家内と子供二人が到着した。住民登録も入学申請も不要だが、予防接種の証明だけは必要というので、翌日に医者で注射を受けさせた。月曜の朝、学校に連れて行くと、事務室のおばさんは子供の名前と緊急連絡先を聞いただけで、親はもう帰れという。先生に会って挨拶したいと頼むと、教室の入りロまで連れて行ってくれた。先生は「心配しないで」と私達を追い返したが、置き去りにされた子供の半べその顔は今も思い出す。だが家内によれば、子供達は生き生きとして帰ってきたらしい。タ食を食べながら話を聞くと、娘には「ケロ」、息子には「マイコ」という子が当番に指名され、手取り足取りで面倒を見てくれるという。これが「キャロル」と「マイケル」とわかったのは、少し後のことである。

学校では1日に1~2時間、英語のわからない子供だけを集めてESL(English as Second Language)と呼ばれる特別講習を受けさせるが、あとの時間はカナダ人の子供と一緒の授業である。授業参観で見たところでは、1クラス18人が5人ぐらいのグループに分かれて、夫々別のことをやっている。私の子供は一人だけで何か課題を与えられ、時々先生や当番の子供がのぞきこんでいる。日本の教室のように、生徒全員が先生の方を向いて一斉に同じことをやるスタイルとはだいぶ様子が違う。宿題が結構多く、これは親の夜なべ仕事になった。私が書いたものを子供が写して持って行くが、「だいぶ英語がうまくなりましたね」と先生の講評がついて戻ってくると、「そうかなあ」と親が苦笑することになる。

5週間後に夏休みになったが、その頃には授業で何をやっているのか、およその見当がつき始めたらしい。学校やデイキャンプの連絡事項は先生がメモにして持たせてくれるが、子供が「こんなことらしい」と報告した内容と違わないことにも驚異を感じた。

娘は6ヶ月目に英語で会話が出来るようになった。息子は恥ずかしがり屋もあって、教室でダンマリを押し通して先生を心配させていたが、8ヶ月目に動物園に遠足に行った時、「英語がほとばしリ出ました!」と先生が本当に嬉しそうに電話をかけてきてくれた。それ以降、話し言葉についての心配はなくなったが、「哺乳類について述べよ」とか、「オンタリオ州政府について論ぜよ」などという、小学生には少々荷の重い課題には、私の図書館通いと夜なべの英作文が必要だった。父兄を呼んで専門の話をさせる授業もあって、医者がホルマリン漬けの心臓を持ち込んだりするらしいが、私がやったスライド付きの「日本概論」は好評で、よその小学校まで噂が飛んで、3度もお座敷がかかった。
(この項 1994/9月記)

子供たちが通った郊外の公立小学校。校舎に窓がないのは寒さ対策だろうか。
特別授業で日本を学習。駐在員の奥さんがボランテイアで指導、日本語劇の主役はカナダ人の子供に譲った。
特別授業の最後に校長先生が講評。
夏休み中の日帰りサマーキャンプ。世話係は高校生のアルバイト。
夏休みに近所の乗馬教室に通う。


トロント

「トロント」の語源は先住民ヒュ―ロン族の言葉で「人が集まる場所」を意味し、先住民の交易の場として有史以前から賑わっていた。その頃の「トロント」は現在の市街より北のヒューロニア(ヒューロン湖の南東岸)で、ヨーロッパ人の定住もその辺りから始まったという。現在のオンタリオ湖北岸のトロント市街は、19世紀後半になって鉄道の中継地として発展した。当時の発展を支えたのはアイルランドの飢饉を逃れて移民した人たちで、20世紀になるとイタリア人、ギリシャ人、ポーランド人、ユダヤ人などの移民が加わり、20世紀後半にはアジア系の移民も大量に受け入れた。前号でカナダを「人種のサラダボウル」と書いたら、その表現は初耳とのコメントをいただいた。小生が79年にトロントに赴任する際の予備学習で知った記憶があるが、比喩表現としては「人種のモザイク」の方がポピュラーかもしれない。何れにせよ、トロントはそのショーウィンドウのような国際都市である。

オンタリオ湖のトロント島から市街を遠望。554mのCNタワーは当時世界一のテレビ塔だった。
南西のフェアグラウンドから市街を遠望。
CNタワー展望台から中心部を見下ろす。高層ビルは全て銀行の本店。
中心部にもまだ空き地があった。
湖岸のマンション。下にトロント島へのフェリー船着き場がある。
英仏戦争で1813年に戦闘があったヨーク砦。英軍側が敗れて占領された歴史が残る。
トロントの四季

温帯(今や亜熱帯?)に住む我々の感覚では、トロントは1年の半分が冬。3月末に長い冬が終ると、4、5月に春が急ぎ足で通り過ぎ、6、7月には蒸し暑い日もあるが、8月半ばを過ぎると肌寒くなり、9月初旬はもう秋の盛りで、紅葉があっという間に落ちて木々が裸になると、いつ初雪が降ってもおかしくない。せわしない四季のうつろいだが、どの季節もトロントの暮しを美しく彩ってくれたことを懐かしく思い出す。

一番美しいのは紅葉の季節。高層アパートも紅葉に融け込む。
市内の公園で。
トロントアイランドの秋。
坂道にも秋。
カエデはカナダの国樹。
11月初めに早めのクリスマスパレード。
公園に初雪。
自宅前の積雪。こんなに積もることは滅多にない。
凍結したオンタリオ湖の船着き場。
春はメープルシロップと共にやって来る。市内の公園で昔ながらの製法を教えてくれる。

トロントの中流市民には、市街から1時間ほど北のヒューロニアに別荘を持っている人が多い。前述のように、この辺りはトロント(人が集まる場所)として有史以前から人が住み着き、ヨーロッパ人が最初に定住したのもこの地域だった。気候が良く食糧も豊かで、住みやすかったに違いない。

短期滞在の駐在員は別荘とは無縁。週末の土曜日は子供の日本人学校の送迎と食糧品の買い出しで忙しく、夏の日曜日に日帰りで気晴らしに出かけるのがせいぜいだが、夏の間だけ史跡で当時の生活を再現して体験させる施設があり、歴史の勉強にもなった。

ヒューロニアの白人居留地を再現。先住民の襲撃に備えて築かれた砦。
トロント版「明治村」。初期定住者の暮しを再現する施設が夏の間だけ開かれる。

木造船を造るために木材を蒸気でで蒸す。

米英戦争に備えた大砲も残っている。
火縄銃のデモンストレーション。

8月下旬にフェアグラウンド(お祭り広場)で「収穫祭」が開催される。農産物品評会をはじめ様々な行事が行われ、臨時の遊園地も出来て家族連れで賑い、最終日に航空ショーと花火大会でお祭りを閉じる。小生は「ミリタリー・オタク」ではないが、乗り物好きの一環で飛行機に興味があり、航空ショーが楽しみだった。軍用機の展示飛行にはカナダ空軍機の他に英軍機や米軍機も飛来し、オンタリオ湖上空で迫力満点の演技を見せてくれた。

ブルーインパルスのカナダ版。高等練習機7機で演技する。
ブードゥー戦闘機(F-101)
アブロ・バルカン爆撃機
ニムロッド哨戒機。コメット旅客機の転用。
米空軍のSR-71 偵察機も友情参加。

飛行機を出したからには、鉄道も出さないわけにゆかない。小生が駐在した頃は、カナダ国鉄(CN)と民営のカナデイアン・パシフィック(CP)の2社が大陸横断路線を持ち、両社の通信部門は小生の客先でもあった。旅客列車には公私を含めて3度しか乗る機会がなく、未練がましくネットで調べたら、今も列車3本を乗り継いで大西洋岸から太平洋岸まで大陸横断ができるらしい。乗り継ぎを含めると8日以上かかるので、時間とオカネは他で使うことになりそうだが。

初雪が降ったトロント駅を大陸横断列車が出発する。
トロント近郊の町を結ぶ近距離列車。2階建て客車をジーゼル機関車が引く。
秋の観光列車に大型SLの出番。
内陸運河のリフト式閘門。小型船を入れたプールが上下して高度差を克服する。

ナイアガラフォールズ

トロントの駐在員仲間に「滝見百回」というジンクスがあった。ナイアガラ瀑布に100回行かないと駐在の年季が明けないよ、という意味である。駐在員の仕事には本社の親身の支援が欠かせない。それには人的な繋がりが不可欠で、遠路出張して来た同僚に若干の観光サービスを供するのも仕事の内で、時には本社スジ関係者のアテンドを頼まれることもある。 トロントからナイアガラ瀑布まで車で1時間少々で、仕事を終えてから滝見に出かけても、トロントに戻って遅い夕食ができる。小生は「百回」の半分以下で離任したが、ナイアガラには四季折々の表情があり、何度訪れても飽きることがなかった。

右は Google から拝借した瀑布周辺の航空写真。エリー湖からオンタリオ湖に流れるナイアガラ川の中央に米・加の国境があり、両岸と滝周辺に両国の市街地が迫っている。ナイアガラ川には上流の4大湖に注いだ水が全部集まり、大瀑布を落ちる水量は年間平均で毎分11万トン、雪解け時は20万トン以上と言われ、「霧の乙女号」の乗って滝壺に近づくと、水の大迫力に圧倒される。

水量の10%は右のアメリカ滝(巾260m、落差57m)に、90%が左のカナダ滝(巾670m、落差53m)に落ちる。滝の眺めはカナダ側からの方が断然迫力があり、観光施設もカナダ側に多い。米国からの観光客はレンポー橋を渡って無審査でカナダ側に入れるが、パスポートを持たない日本人観光客が米国側に戻れなくなり、大騒ぎになったこともあった。

大瀑布を落ちた厖大な水は、画面の上に向かってものすごい勢いで流れ、滝から3㎞下流の狭い谷 (Gorge) を走る奔流が白く写っている。流れはその先の大渦巻き (Whirlpool) で90度右折してオンタリオ湖に注ぐ。

レインボー橋横の展望タワーから馬蹄形のカナダ滝を見下ろす。
カナダ滝の落ち口。6月頃が最も水量が多い。
「霧の乙女」号で滝壺の近くまで遡行。ずぶ濡れになる。
展望タワーからアメリカ滝。
ゴート島からアメリカ滝を見る。
アメリカ滝の下からカナダ滝を見上げる。

ナイアガラが一番美しいのは真冬。この辺りはカナダで最も南に位置するが、それでも冬は‐20℃まで下がり、大瀑布が氷結する。観光客は少なく、名物の遊覧船「霧の乙女号」はもちろん、土産物屋も冬季休業で、夏の喧騒がウソのよう。しかし厳寒の中で車を降りての観光は15分が限度。滝の落ち口横の遊歩道は水しぶきが凍って盛り上がり、夏は胸の高さの防護柵が冬は膝の位置になる。うっかり足を滑らせると滝壺にまっさかさま。

カナダ滝横から下流を望む。
カナダ滝に架かる淡い虹。
カナダ滝の落ち口。秋から冬は水量が少ない。
滝のしぶきで遊歩道が凍りつき、路面がかさ上げ。うっかり滑ると滝壺に落ちそう。
カナダ滝の上流。
凍りついたアメリカ滝。

東海岸と大陸内陸の穀倉地帯や工業地帯を結ぶ物資輸送には、セントローレンス川と五大湖の水路が用いられ、数万トンクラスの大型貨物船が航行する。急流や瀑布の箇所は運河が掘られ、閘門式の水門で高度差を克服する。エリー湖とオンタリオ湖の間は、ナイアガラ瀑布をバイパスするウェランド運河に8か所の閘門が設けられている。ここを通過する船舶は閘門の長さと巾に制約されるので、特殊仕様の Laker と呼ばれる。

エリー湖からの貨物船がロックの上段に入ってきた。
上段から水を抜く。
水位が下がり始める。
水位が下段と同じまで下がるとロックを開く。
ロックを出てオンタリオ湖へ。
運河を跨ぐ高速道路。


マニトバ 私のプロジェクト

マニトバ州での最大の仕事は、州立電力会社(マニトバハイドロ)のマイクロ波通信回線の建設だった。ハドソン湾の水力発電所からアメリカ国境まで、延長1800kmの超高圧直流送電施設を制御するデジタル通信網で、非常に高い信頼性を要求された。システム設計にも苦労があったが、道路もない沼地や、真冬には零下60度になる極寒地での2年余りの建設工事も容易でなかった。とは言え、私は75年にプロジェクトの火付け役をやっただけで、受注から施工の時期はカナダ担当から外れていたので、脇で苦労話を聞くだけだった。通信回線は私がカナダに赴任する前に完成して完璧に稼働していたので、私の仕事は残っておらず、少なからず物足りない思いがあった。

人口2千5百万のカナダは通信機市場もそれほど大きくないが、強力な国策メーカーがいるので、彼等が手を出さない隙間商売しかチャンスはまわってこない。デジタルマイクロは、世界中で当社の独壇場だったから受注できたが、光通信のように現地メーカーも手がけているものは、苦労しても報われないのである。だが、マニトバ電力で不完全燃焼だった為か、マニトバ州立電話会社の初めての光通信システムの入札には、自分でも不思議なくらい熱が入った。駐在員一名だけの事務所では主契約者になれないので、カナダの電線会社をメインに立て、国策メーカーに真っ向から立ち向かったのである。性能や価格は当方が優位だったが、国策会社の横綱相撲で、土俵際まで追い詰めても押し戻されてしまう。やはりダメかと諦めかけたが、電線会社が地元のマニトバで光ケープルを製造する約束を出して再入札に持ち込んだ。こうなれば互角の勝負で、81年春に落札することが出来た。

私が「T名人」と呼ぶ技術者がいた。検査の現場で鍛え上げ、どんなトラブルでも「黙って座ればピタリと直す」。長身ハンサムで、ややガラッパチな口調もあり、いなせな棟梁の風格がある。私は以前から名人を知っていたので、彼がマニトバに来てくれると聞いて、千人の味方を得たように安心することが出来た。いくら入念に設計された装置でも、現場に持ってくると思いもよらぬトラブルを起こすものである。光通信システムがまだ開発期だったこともあり、マニトバでも難渋したが、名人の獅子奮迅の活躍で、納期どおり開通にこぎつけた。

電話会社の保守マンの訓練で、講師として本社から別の技術者が来たが、もうひとつピンとこなかったようで、客先から私にヤンワリと苦情が来た。幸い名人が現場に残っていたので、彼に実地教育を頼むことにした。彼の英語は、公平に言えば「通じないことはない」レベルで、客からカネを取って聞かせるには不安があったが、彼の「カァム ヒィヤー!」の大音声の集合命令で始まった現場実習に、客先は大満足だった。言いたいことをハッキリ迫力を持ってしゃべれば、ブロークン英語でも意志は絶対に通ずる、と自信をもって言えるようになったことも含め、名人には今も感謝している。(この項1994年9月記)