米国は「人種のるつぼ」(Melting pot)と形容されるが、カナダは「人種のサラダボウル」と呼ばれる。どちらもヨーロッパ大陸からの移民が作った人工的な多民族国家だが、米国は多民族を「るつぼ」の中で融合して「アメリカ人」という合金で国を作ろうとしているのに対して、カナダは様々な民族的背景を持った「レタス」や「トマト」をミキサーで「青汁」にせず、「レタスはレタス、トマトはトマト」のままカナダという器に盛る道を選んだことを表している。
「るつぼ」の米国でも出自(ethnicity、××系)の意識は消し難いが、それを「表立って語らない」のが米国社会のルール(人種差別的行為は犯罪)。一方「サラダボウル」のカナダでは、「英系、仏系、中国系」などの民族的背景を表面に出すことを躊躇わず、出身国毎に集まった居住区で機会ある毎に祖国伝統のお祭りをやる。サッカー国際試合のTV中継があれば、国別応援合戦が市中を揺るがせ、勝った町内は本国同様の大騒ぎになる。小生の勘ぐりだが、オリンピックでカナダ選手を応援するのは英国系だけで、その他の人たちは父祖の国の選手を応援するのではないだろうか。
とかく国家というものは国民に「統一的アイデンテティ」を植え付けたがるもので、「好きにしなさい」と言わんばかりの態度には理由がある筈。これも小生の勘ぐりだが、カナダは「仏系の反乱」を抑止する為には何でもやるところがあり、これもその一環かもしれない。仏系の人口は23%で英系の28%とさほど違わないが、歴史をひも解くと、18世紀に英国がカナダを形成した際に仏系の地域を併合し、仏系の言語と信仰の自由を制限した経緯があり、その「わだかまり」が今日まで尾を引くかたちで、事ある毎にケベック独立運動がアタマを持ち上げる。ヘタに扱えば命とりになるので、連邦政府はあの手この手で牽制することになる。「サラダボウル主義」は、英系の仏系に対する「不戦の誓い」のポーズではないか、というのが小生の勘ぐりである。
ことほど左様に、どの国の為政者にとっても、国内外の「民族問題」は最も神経をすり減らす面倒な政治課題で、強圧的に出れば軋轢が増して内乱や国際紛争のタネになる。歴史オンチの小生だが、20世紀後半以降の現代史で、強圧策が成功した例を寡聞にして知らない。内乱や国際紛争がどれほど国力を消耗させるかを思い知らされた現代では、可能な限り波風を立てずにうまくやり過ごすのが、優れた政治家の知恵であり手腕というものだろう。大半の日本人(政治家も含めて)にとって民族問題は他人事だが、この感度の鈍さが、この国が国際社会で賢く立ち回る上で災いするような気がしてならない。(この項 2014年2月記)
一つの国の中で言語や文化が異なる少数民族が独立運動を起こすことは稀でないが、カナダも建国から今日に到るまでケベックの独立運動に悩まされ続けている。連邦政府はカナダ総人口の20%にすぎないフランス系に非常に気を使い、首都を両圏の境のオタワに置いたり、英仏両語を平等な公用語として二千人におよぶ翻訳官をかかえて公文書の英仏併記を頑なに守ったり、ケベックヘの交付金の割増ししたりして、必死にケベックの独立を牽制しているのだが、それでもケベックの駄々は続いている。私が駐在していた79年頃は「ケべック独立党」が州政府の政権を握り、独立の如何を州民投票にかける構えを見せていた。連邦政府のトルドー首相はフランス系だが、ケべックに抑えがきかないことを非難されて一時失脚した。
ケベック州政府が州内での英語使用を非合法としたため、それまで英仏両表示だった道路標識も仏語一色に塗り替えられた。街の看板から英語が消え、ホットドッグも仏語で「熱い犬」というわけのわからない名前に変わった。州政府の文書は仏語のみで、入札も契約も仏語以外は無効になったので、それまで何とか英語で切り抜けてきた日系企業は、事実上商売ができない状況になった。81年に私の本社がタイトルスポンサーだったテニスの国際トーナメント「デビスカップ」がモントリオールで開かれたが、これが大騒ぎだった。大会タイトルの ”Davis cup by 社名" の by は間違いなく英語で、この表示の付いたポスターやTシャツの配布が禁止になり、大急ぎで仏語表示のものを作り直した。大会運営も仏語限定だから、米国から来た審判員も判定や注意を全てフランス語でやらされ、スポンサーの開会式の挨拶も例外たりえず、本社から来た幹部に仏語のものを読んでもらった。
ここまで徹底的に締め付けられると、日系だけでなく、ケベックに本拠をおくカナダ企業の活動にも支障が出てくるが、あからさまにケベック脱出をやれば、爆弾やテロの標的にされてしまう。モントリオールに本社がある電話会社やメーカーがどうするのか興味深く見ていたが、どの企業も実に巧妙にジワジワとケベック脱出をやってのけた。はじめはトロントに新しい事業部を作ったりトロント本拠の会社を買収併合したりしていたが、いつの間にか社長以下全幹部がトロントに常駐し、モントリオール本社はモヌケのカラになっていたのである。
当然ながらケべック経済は低迷して独立党は政権を失い、「ホットドッグ」の看板も復活したが、最近(1994年)また独立党が政権を取ったということである。仏系があの程度のことで歴史的怨念を捨てると思うな、ということだろう。
フランス人は本当は英語を知っていても意地で使わないというが、ケベック東部のモンジョリという小さな町の電話会社に売り込みに行った時、ここでは十人中九人までが本当に英語を解さないということを身をもって知った。10人程の技術者達に製品の説明をしたのだが、一人の技術者が私の下手な英語の説明をいちいち仏語に通訳したのである。この人も英語があまり得意でなかったせいか、私の売り込み努力は水泡に帰したが、この経験を通して、外国人が英語が通じるモントリオールを見たくらいでは、何故ケベック人が独立を熱望するのか理解できないだろう、ということだけは痛感させられた。 (この項 1994年9月記)
小生は旅の習性として「行ける限り突端へ」「可能な限り高い所へ」行くことにしている。ネットの無い時代は、よほどの名所でない限り、行ってみるまでどんな場所か分からないが、「オー!」と声が出るような絶景でなくても、行けるところまで行ったという自己満足が、旅の記憶の底に残る。
前号のプリンスエドワードアイランドの旅の帰途にケベック東部を通過した時も、ケベック東端のガスペ岬まで長い寄り道をした。地図をよく見ると手前の岬にも名所マーク「∴」が付いている。ここにも寄り道をしてみると、ペルセ海岸の絶景があった。
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セントローレンス湾の最奥にケベック州の州都 Quebec City がある。あれほど仏語にこだわるケベック人が、州都の地名に英語の「City」を容認しているのは、ちょっと不思議な気がする。
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「サラダボウル」のカナダでは、ユダヤ系も公然とユダヤ系を名乗りコミュニテイを作る。彼等には個人商店主や小ビジネスのオーナーが多いが、小生の重要顧客だったモントリオールのポケベル会社のオーナーもユダヤ系だった。小生は人種偏見がないつもりだが、ユダヤ系は商売上手で油断ならないと聞かされた先入観で、前任者から引き継いだ当初は少々身構えていた。しかし取引をしてみるとフェアで理の通るビジネス相手と分かり、1年も経たない内に家族ぐるみで付き合いをするようになった。
人間の能力には様々な側面があって一面的な尺度で測るのは危険だが、学校の成績という尺度ではこのオーナーは相当優秀だったらしい。本人は通信関係の技術畑で活躍したかったのだが、どこも採用するところがなく、やむなく苦労して自分の会社を立ち上げたという。本人によれば、英系や仏系の大組織がユダヤ系を幹部候補として雇用することはありえず、ユダヤ系が社会的に成功するには、腕利きの医者か弁護士になるか、自分でビジネスを立ち上げるしかない。小汚い商売でがめつく貯め込むユダヤ系がいないわけではないが、自分は世の中の役に立ちたいという事を身上としているので、こうして小さな通信会社を採算ギリギリでやっているのだという。
繰り返してそういう話を聞かされ、ユダヤ系が背負わされて来た理不尽な被差別への同情もあってか、この客には多少のムリも聞かねばならないという気分になった。小生がカナダを離れてからも取り引きは暫く続いたが、彼が会社を売ってリタイアした際にちょっとしたイザコザがあり、以来音信が途絶えてしまった。今思うに、彼の身の上話には緻密な計算があったような気がしないでもない。(この項2014年2月記)
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カナダの首都オタワは、「対抗勢力の境界線の河畔に設けられた人工都市」という点で、米国の首都ワシントンDC(WDC)と似ている。WDCは1790年の首都設置法で、北部(メリーランド)と南部(バージニア)の境界のポトマック河畔に一辺10マイルの正方形の土地を確保し、ここに首都が建設された。オタワは、1858年にビクトリア女王の裁断で、英系と仏系の境界であるオタワ河畔の人口2万の小都市を首都の地と定めた。(日本も明治政府が大井川の河畔に新首都を作っていたら、違った歴史が生まれていたかもしれない。)
米国の首都WDCは特別区で北部にも南部にも属さないが、オタワは英系のオンタリオ州側にある。英系は首都の土地選びで仏系にそれなりの気配りを見せたものの、議事堂の建築デザインや議場の設計はロンドンの英国国会議事堂のコピー。議事堂前で行われる観光用の衛兵交代や騎馬警官の服装も全て英国式で、オタワにフランスの臭いは全くない(パリに行ったこともない小生が言うのは僭越だが)。そもそもカナダの元首は今も英国女王で、政治システムも英国のコピーと言って良い。仏系がカリカリするのも無理はないが、これらについて英系は譲る気配を見せない。何を譲ってどこを守るのか、政治的駆け引きのバランス感覚は政治オンチの理解の及ぶところではない。 (この項2014年2月記)
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