このところ米国大統領について書いている。民主・共和両党の候補者選びについてはミネソタ篇でふれたが、やはり当初の予想と異る展開になっているようだ。民主党は本命のヒラリー・クリントン元国務長官の優勢は変わらないが、泡沫候補とされていた「社会主義者」サンダース氏の思わぬ善戦に、クリントン陣営も「左派票」に目配りせざるをえなくなったと言われる。一方の共和党も異端候補のトランプ旋風が止まず、このままゴールに飛び込む気配が強くなった。共和党主流は今になって慌てふためき、党の危機とばかりトランプつぶしに大わらわらしい。

日本の選挙では政党本部が選んだ候補者が打って出るのが普通だが、米国では誰でも党員登録すれば党を名乗って出馬でき、掲げる主張・政策も党本部の制約を受けない。極端に言えば、共和党候補が民主党に近い政策を掲げても党本部は止められない。選挙後も議員は個々の法案採決で党議に縛られず、法案毎に自分の判断で賛否を投じるので、議員がどの法案に賛成し反対したかの「通知表」が公表される。日本の議員は党中央の決定と異る賛否を投じれば袋だたきに遭うので「アタマカズ」になるしかないが、米国の政治家の方が自分の政治信条に責任を持って活動していると言えそうだ。

それはさておき、今回の予備選で米国社会の底流が透けて見えたように思う。サンダース候補は最高齢(74歳)にもかかわらず、若者層の圧倒的な支持を獲得している。若者には一般に反権力指向があるが、サンダース応援団の若者にはかつてのヒッピーの虚無感・厭世感はなく、「カネと権力で歪んだアメリカを変えなければ」という若者らしい正義感と理知的で切実な思いが感じられる。日本でも先般の安保法制で同種の若者の活動が浮上し、この国の将来にちょっと光明を見た思いがしたが、若者同志が互いに手を携えて日米世直しのパワーを発揮してほしい。

トランプ氏は「危険人物」扱いされているが、大衆の圧倒的支持を獲得しているのにはそれだけの理由がある筈。評論家風に言えば、活力の衰えた社会を覆う閉塞感に行き場のない庶民の欲求不満が、トランプ氏という希代のタレント候補にはけ口を見出したのだろう。同じような状況で選挙で選ばれたヒットラーのその後を思い起こせば「これはヤバイぞ」と思うのは当然だが、トランプ氏は「選挙に勝つためのパフォーマンス」を演じているのであって、仮に大統領になったら全く別の「現実派の顔」を見せるかもしれない(と思いたい)。小生の米国経験で言えば、その時々にベストの判断を下してそれを説得力ある言葉で表現できる人が「有能な人」(タレント)で、「武士に二言なし」で自縛するような人物は「頑迷で愚かな敗北主義者」としか見られない。ビジネスマンも政治家も「変わり身の早さ」が「有能」の証とされるからだ。その点、極右でゴチゴチに固まったクルーズ候補よりトランプ氏の方がまだマシ、という考え方もある。

小生の記憶にあるトランプ氏は、よく利用したイースタンシャトル(ワシントン~ニューヨーク~ボストン間の格安便)を買収してトランプシャトルのオーナーになった人物だが、91年~94年に所有するビジネスの殆どが破産し、さすがのトランプ氏も運が尽きたと言われた。その後90年代後半の好況で息を吹き返したが、2007年のリーマンショックで再び破産、再復活して現在に至る。度重なる破局から不死鳥の如く再生した経歴を自ら誇っているが、地上げとカジノ業で世を渡ってきた人物だけに「闇の帝王」の先入観が先に立つ。叩けばホコリが出ないとも限らず、トランプ氏が躓くとすれば、有毒(犯罪的)なホコリが露見した時かもしれない。

何れにせよ、誰が大統領に選ばれたとしても、米国の「内向き」が加速することは避けられないだろう。そうなれば周辺国の「アメリカべったり」は「ごりやく」を失うことになる。この国の政権があれほど苦労して無理押ししたTPPや日米安保法制、沖縄新基地はどうなるのだろう? 長年身についた一本足打法では国際試合でファールと三振ばかりしそうだが、少なくとも米国の「外向き」(海外派兵)の後始末だけは承りたくないものだ。 (この項 2016年3月記)




マサチュセッツ  電話とテレビのない休暇    (訪問した時:1985年8月)

ボストンの南から大西洋に伸びるケープコッド半島の付け根に、「マーサの葡萄畑」(Martha’s Vinyard)という典雅な名前の島がある。最近(1994年当時)クリントン大統領夫妻が別荘を買ったことで話題になったが、昔からニューイングランドの富豪達の別荘地だったようだ。今は短期の避暑客相手の観光施設が増え、夏の軽井沢のような賑わいを呈している。私達一家も1985年の夏にこの島で休暇を過ごした。観光地を走りまくる日本人型休暇を卒業して、一箇所でボンヤリと過ごす欧米型休暇を気取ったつもりだったが、それでも4泊が限界で、あとの3日はボストンとニューヨークを走り回った。この島のロマンチックな名前にも惹かれたが、「電話とテレビがないホテル」にも興味があった。

フェリーで島に渡り、松林の中を15分走ると島の反対側に出てしまう。こちら側の大西洋に面した海辺がリゾートで、ヨットハーバーのまわりに木造のホテル、レストランや土産物屋が集まっている。我々のホテルは日本の古い湯治場を彷佛させる古色蒼然とした建物で、せまい木の階段はギシギシと鳴って、うっかりすると踏み外しそうになるほど暗い。3階の部屋の窓から土産物屋の屋根越しにヨットハーバーが見え、初心者のウインドサーファーがよたよた漂っていた。テレビがないのには、到着早々子供達からモンクが出た。大人も軽い小説本でも持ってくればよかったのだが、気張って普段読まない格調高い本ばかり持ってきていた。こうなると、できるだけゆっくり食事をして、帰リ道に土産物屋をひやかし、風呂に入って早く寝てしまうより仕方がない。風呂場は木の床にホーロー引きの浴槽を置いた昔風のもので、シャワーがないのにも閉口した。

翌日は薄日がさしたので、海岸で一日過ごすことにした。車に食料を積み込んで5分も走ると砂浜に出る。長さ約500メートルのビーチにl00人程がまばらに見えるだけで、寂しいばかリだ。緯度が北海道と同じで、8月の太陽は弱々しい。裸でいるには少々我慢が必要で、微風が吹けば烏肌がたつ。白人は寒さに強いといわれるが、こういう北辺の海水浴場でも、フロリダの海岸にいると同じようにのびのびと日光浴と海水浴をくりかえし、取り止めない会話を楽しんでいる。彼等に負けないように、意地でも一日中何もせずにグデグデしようと決心して来たのだが、3時間もたつと退屈でしようがなくなる。次の日は小雨模様を幸い、海岸グデグデをやめて島めぐりをすることにしたが、ゆっくり走っても2時間足らずで一周してしまい、時間潰しにならない。結局あちこち土産物屋をのぞいたりして、何とか一日をやり過ごした。

4日目は天気が回復したので、再度砂浜グデグデに挑戦することにした。砂に埋まってみたりゴムボートで漕ぎ出してみたり、とにかく3時まで頑張ってホテルに戻ると、部屋のドアに伝言が貼ってある。会社から緊急の電話だ。部屋に電話がないので、公衆電話を探して事務所にかけると、取引先の社長に大至急電話せよという。たまたま大きな商談が進行中で、休暇中に進展はないだろうとたかをくくっていたのだが、今日中に契約条件の最終のつめをしたいという。何しろこちらは濡れた海水パンツにTシャッー枚、電話ボックスに立ったままで大型商談をまとめるには体勢が整わない。あちこち連絡を取って先方の社長と最終の電話を終えた頃は、辺りに夕闇がせまっていた。どっと疲労感に襲われたが、海岸にじっと寝転んで遅々として進まぬ時計の針にイライラするよりは、疲れが少なかったような気がしたものである。 (この項 1994年9月記)

ヴィンヤードヘブンのフェリーターミナル。
ホテルの窓からエドガータウン。
サウスビーチの海水浴場。
南の海岸に点在する湖沼。
島の西南端。


ボストンには米国の歴史がギュッと詰まっている。1620年に英国から清教徒(ピルグリム・ファーザース)を乗せたメイフラワー号はボストンの南50㎞の入り江に碇をおろし、出港地のプリマスの名をとった北米最初の植民地を作った。10年後の1630年に現在のボストンに入植したのは同じ清教徒でも異なる宗派のグループで、有力者の出身地(英国リンカンシャー州ボストン)の地名をとったと言われる。

初代総督のウィンスロップは、ボストンは神との特別な契約を結んでいると説き、清教徒ならではの職業観と倫理観で秩序あるコミュニテイ作りに努めた。その甲斐あってボストンは目覚ましい発展を遂げるが、同時に本国から「カネのなる木」として重税を課せられる。旧大英帝国の植民地経営の「えげつなさ」にはあきれるが、ボストンでは市民が反骨精神を発揮し、虐殺事件、茶会事件を契機に独立戦争へと突入する。

独立を勝ち取ったボストンは国際貿易港として発展を続け、初期の入植者の子孫はアメリカ社会のエリート(WASP)とみなされるようになる。19世紀になるとボストン商人は投資先を製造業に転じ、ボストンは当時の米国で最大の製造業の拠点となり、ハーバートやMIT(マサチュセッツ工科大)等の名門校に俊才が集まった。小生がボストンに出入りしたのはそれから150年後の1975年以降で、その頃は電子産業の中心は西海岸に移っていたが、ボストンと周辺には名だたる電子メーカーや起業したばかりの元気なIT企業が割拠していた。そんな工場やオフィスを訪れてみると、外観は100年前のまま、内部も古色蒼然としていて、日本なら倒産寸前と思ってしまいそうだが、働く人たちのレベルの高さと熱いモチベーションに圧倒された記憶がある。都心の高層ビルにピカピカオフィスを作らないと優秀な人材が集まらないのは、アジア(日本を含む)独特の文化かもしれない。  (この項 2016年3月記)

都心部のボストン・コモンズの広場。放牧や軍の訓練に使われた場所らしい。
ウォーターフロントに近い古いビル街。
都心部のお味のあるアパート街。
店の看板にも味がある。文盲が多かった時代の名残りだろう。
ボストンコモンズの一角にある古い墓地。独立革命時の著名人が眠っている。
18世紀末建造の戦艦コンスティチューション号は今も現役で整備。
プリマスにある清教徒の上陸地点を示す石はもちろん観光用のインチキ品。
清教徒が渡海したメイフラワー号のレプリカ。実ルートを実証航海したもの。
メイフラワー号の船室。航海の不安が思われる。


バーモント   人民急行とメープルシロッブ

アメリカのサービス業の価格競争には想像を絶するものがある。一品毎の原価と損益計算に慣れたメーカー社員にはなかなか理解できないのだが、彼らの概念を一言でいえば「金繰りがプラスならOK」で、会社も「商品」だから「大きくして高く売ればよい」という考え方らしい。エアラインの競争のことは他でも書いたが、私の知る限り一番過激だったのはピープル・エクスプレスである。「人民急行」を名乗ったように、料金はアメリカで一番安い交通手段の長距離バス以下だった。例えば、バファロー~ニューヨークの距離は東京~大阪に相当するが、この往復運賃が28ドルだったと記憶する。旅行代理店を一切介さず、着払い電話で問い合わせて空席があると整理番号をくれる。空港の窓口で番号を言うと番号札をくれ、それを持って飛行機に乗ると、離陸後に乗務員が機内で料金を集金する。コーヒー、ピーナッツも有料で夫々25セントだった。一時は盛況を極めてジャンボ機を何機も仕入れてヨーロッパ便まで出したが、そのうちにコンチネンタル航空に身売りしてしまった。

ここに「人民急行」が出てきたのは、83年2月に私達一家がこの便でバーモントにスキーに行ったからである。金曜日の夕方にワシントンDCを発ち、ニューワークで乗リ換えてバーリントンに到着。だいぶくたびれた737型機だったが、飛行機は古い方が落ちないらしい。乗客の大半はラフな格好の若者やおばさん達で田舎のバスの雰囲気だが、背広にアタッシェケースのビジネスマンも結構乗っていた。乗務員は学生アルバイト風の若い連中ばかりで、座席は少々窮屈だが値段が値段だし、1時間のフライトだから我慢できる。荷物もちゃんと着いた。バーリントン空港でレンタカーを借り、途中で夕食にハンバーガーを噛って、シュガーブッシュスキー場に着いたのは午前1時すぎだった。

シュガーブッシュの地名は、バーモント名産のメイプルシロップを産する「砂糖楓」にちなんだものだろう。2月はまだ木々が落葉したままで、どれが砂糖楓か見当がつかない。メイプルシロップの採取はカナダのトロントで見たことがある。4月下旬、雪がとけて風に春の匂いがするようになると、木々は申し合わせたように一斉に芽吹き始める。砂糖楓の木は、芽吹きの養分を含んだ樹液を枝先に向けて強い力で押し上げる。人間が幹に細い穴をあけ、この樹液を横取りするのである。パイプを差し込むと、ほんのり甘い樹液がサラサラと流れ出てくる。これをビニール管で集め、大きな鍋で煮詰めてシロップにするのである。大鍋には灰や枯葉や虫の死骸も浮いているが、それも風味の一部だ。林の中で大鍋の焚き火を囲み、番人の老人がふるまってくれる杉の葉を煎じたお茶や、木の実のシロップ漬けを試しながら、長く厳しい冬を送ったのも忘れがたい思い出である。バーモントでも、あとふた月もすればそんな光景が見られる筈だ。

スキー場は、標高1千mの頂上から東面の林の中に幾条もスロープが作られている。頂上では切れるような寒風が吹き抜けているが、斜面を少し降りれば春の陽が暖かく感じられ、麓に滑リ降りると汗ばむほどだ。南側のスロープではもう土が顔を出していた。頂上から西を望むと、深い盆地の向こう側にオリンピックが行われたニューヨーク州のレイクプラシッドの山塊が見え、その先に更に幾重も連山が霞んでいる。尾根をたどって北に行けばカナダのケベック州である。東側は日本の東北地方の山々のような穏やかなニューハンプシャーの連山で、秋には美しい紅葉が見られるというが、残念ながらそのシーズンに訪れる機会がないままである。 (この項 1994年9月記)


ピープルエクスプレスのB737

砂糖楓の樹液を採る(カナダ)

樹液を煮詰めてシロップに(カナダ)