イースター島は文字通り「絶海の孤島」である。チリの首都サンティアゴから3700㎞、最も近い有人島の英領ポトケアン島でも2千㎞離れている。そんな島に何故行くかと言えば、「モアイ」に会うためだが、日本からの通常ルートは米国を経由し、チリのサンテイアゴから国内線で海を渡ることになる。最短でも片道27時間の長旅は、考えただけでも気が滅入る。

今回決行したのにはワケがある。昨年秋に予定したベネズエラのギアナ高地トレッキングが政情不安で中止になり、代替プランを探していたら、タヒチ島からチャーター便でイースター島に飛ぶツアーが目に入った。フライトは11時間+5時間で、これなら何とかガマンできそうだ。1週間のツアーとしては高料金だが、ギアナ高地(2週間)で覚悟していた金額の範囲内で、写真の先生が口癖のように言う「行ける時に行かないと…」にも背中を押され、出かける決心をした。

「イースター島」は通称で、本名は「イスラ・デ・パスクア」(スペイン語で「復活祭の島」)。1722年にヨーロッパ人として最初に渡来したオランダ人提督ロッフェフェーンが、偶々その日がキリスト教の復活祭(イースター)だったので、そう名付けた。現地語では「ラバ・ヌイ」(大きな島)だが、面積は瀬戸内海の小豆島ほどで、「大きな島」とは言いかねる。ポリネシア人が住み着いた時代は4世紀説、8世紀説等あり、最近の研究では1400年頃とも言われるが、19世紀に先住民がほぼ全滅して文字や伝承が断絶したため、島の歴史は考古学的研究に拠るしかなく、定説はまだない。

先住民全滅の経緯は、小生が2004~06年に滞在したバヌアツ国の事情と同じで、19世紀にヨーロッパ人による「奴隷狩り」(Black-birding)で拉致され、ペルーやタヒチに連れ出された島民の殆どが帰島できず、僅かに生還した人たちが持ち帰った疫病(天然痘、結核など)が島に残っていた人たちに感染し、1万人いた人口が1872年には111人まで減ったという(バヌアツでは1百万人が4万人に)。現在の住民6千人は、チリからの白人移住者が多いように見うけられる。

イースター島は1888年にチリ領になって現在に至るが、ひょっとしたら日本領になっていたかもしれない。1937年にチリ政府が軍艦建造の費用を捻出するため、日本政府に島の売却をもちかけた外交記録が残っている(NHK NEWS WEB 2019/2/10)。日本は漁業基地として有用性アリと乗り気だったが、チリ政府が米国、英国にも声をかけたことを知り、様子見している内に話が流れたらしい。歴史に「もし」は無いというが、もし買っていたとしても、第二次大戦末期の1945年4月にチリが日本に宣戦布告したので、たぶんチリに返還させられていただろう。


地図:Wikipediaより  黒の立像マークはモアイ像が立っている場所を示す。

第1日目(1月13日) 成田 → タヒチ → イースター島

成田を13:55発、東へ飛ぶとすぐ夜になる。タヒチ・ヌイ航空が新調したばかりのB787-8は快適で、赤ワインの助けもあって11時間のフライトを眠り通した。タヒチに定刻05:40着(日本との時差=+5時間マイナス1日)。08:00発のイースター島行きは日本のツアー会社が共同チャーターした便で、5時間のフライトでイースター島に18:15着(タヒチとの時差=+5時間、日本時間では翌14日の08:15)。米国経由の通常ルートで行けば、まだマイアミ辺りでモタモタしていた筈で、タヒチ経由便のメリットは大きい。

ちなみに、チャーター機もタヒチ・ヌイ航空のB787-8。我々が帰るまで丸2日、滑走路の脇に駐機していた。 同航空の所有機は3機のB787-8だけらしいが、運用の隙間を上手く使った臨時便だったのだろう。更にちなみに、イースター島の滑走路は、米国NASAのスペースシャトルの緊急着陸用に3300mで整備されたので、大型機の離着陸も問題なし。

イースター島の入国審査・検疫は厳しく、食物の無断持込みは犯罪扱いになる由。出口で荷物のX線検査があるので油断できない。おやつの飴玉も「食品あり」にチェックを入れたが、咎められることなく無事通過できた。

イースター島空港にアプローチ。
空港ターミナルは平屋で、機窓から見えない。
タヒチ・ヌイ航空のB-787。2日間駐機して帰りの便になった。
右が到着ゲート。
奇妙な石像がお出迎え。
ターミナルを出たところにも奇妙な石像。

ポリネシアン・ディナー・ショー

空港からハンガロア中心部のロッジまで1Kmもない。飛行機が滅多に飛ばないので、騒音問題は無視できるのだろう。ロッジに荷物を置いてディナーショー会場へ。日付はまだ1月13日、14時間の時差と日付変更線がもたらした長い1日が、やっと夜になる。

デイナーの客も顔の半分に泥絵の具でペイントされる。
石焼きの囲炉裏を囲んでセレモニー。
バナナの葉に包まれた石焼き料理。
劇場に移動、リーダーのほら貝に続いてポリネシアショーがスタート。
あやとり芸もある。
男女入り乱れて激しいダンスが1時間半続く。

第2日目(1月14日) ハンガロア 朝の散歩 

前日は11時間+5時間のフライトを殆ど寝て過ごしたが、ロッジでも夜12時から朝5時までほぼ眠り通した。こんなに眠れたのは初体験だが、これも齢のせいだろうか… ガイドブックを見ると、ロッジ近くの海岸にモアイ像が立っているらしい。治安は問題なさそうなので、カメラを下げて朝の散歩に出る。

タイムゾーン(時間帯)西端に位置するイースター島の夜明けは遅く、7時過ぎでも薄暗い。大きな犬が何匹もウロウロし、近寄って匂いをかがれるが、不審者扱いナシ。15分歩くと墓地の先にモアイが見えた。タハイ儀式村と呼ばれる地域で、5体並ぶモアイは初期のモアイと推定されている。100m離れて立つ高さ6mのモアイはアフ・コテリクと呼ばれ、目玉が残っているモアイはこの1体だけという。初めて会ったモアイをカメラに収め、朝の散歩の収穫に大満足。

海岸通りの単身モアイは宣伝用の模造品と思ったが、ホンモノだったかもしれない。
小鳥のさえずりに上を見ると、すぐ近くにいた。
墓地の脇を更に北へ進む。
タハイ儀式村の海岸のモアイ群。空に上弦の月も。
5体のモアイ像はアフ・バイウリと呼ばれる。
アフ・コテリクは、島で唯一目玉が残っているモアイ。

イースター島の最高点 マウンガ・テレヴァカ(507m)登頂 

我々のツアーは海外トレッキング会社の企画で、参加した10名(女性6名+男性4名)は何れも中高年のベテラントレッカーばかり。モアイ観光の島イースターでも、2日間の短い旅程に「山歩き」が組まれている。ツアー最初のアクティビティは、島の最高点マウンガ・テレヴァカ(標高507m)の登頂。9時にロッジ出発、車で15分の南東麓ヴァイテア(標高140m)から、盾状火山(アスピーテ)のゆるやかな斜面を登り始める。

原始のイースター島は海岸から最高部まで豊かな亜熱帯性の雨林が覆っていたらしい。ポリネシア人が住み着いて人口が増えると、食料確保で雨林が畑になり、18世紀以降ヨーロッパ人が入植、残っていた雨林を一挙に放牧場に変えた。植生も成長の早いユーカリが持ち込まれ、島は原始の姿を全く失った。人家の周辺のユーカリを除けば、島全体が「ハゲ山」と言っても過言でない。南緯27度のイースター島の1月は真夏で、太陽が頭上から照りつける。なだらかとは言え真夏のハゲ山登りはシンドイが、絶えず吹き付ける海風に救われる。

9:30 歩き始めはユーカリの林の中。
10:00 林を抜け、展望が開ける。周囲は放牧場。
10:15 海が見えた。
10:45 眠くなるような、なだらかな登りが続く。
10:55 ハンガロアの町が見えた。
11:05 最高部が見えた。
11:15 最高点に到着。360度の総会な眺めが広がる。
東側の眺め。
貸馬で登ってくる観光客。
放牧場には仔馬も。
強風にねじ曲げられた木。
12:00 麓の人家が見えた。右に下ると終点のアフ・アキビ遺跡。

アフ・アキビ

テレヴァカの山頂から西側のルートを下った終点にアフ・アキビ遺跡がある。部族の守り神とされるモアイは集落に向いて海を背に立っているが、アフ・アキビの7体のモアイは海に向いているように見える。そのことから、最初にこの島に到達した王と息子たちが、自分達がやって来た「失われた大陸」の方を向いて立っている、と伝えられてきた。だが最近の調査では1400年以降の比較的新しいモアイで、海岸とモアイの間に集落があったことも分かり、他のモアイと同様、集落の方を向く守り神だったようだ。

そもそもモアイとは何か。ポリネシア文化は酋長を中心とする部族社会で、偉大な祖先は崇拝の対象であり、神格化された王や勇者の霊を祀って守り神とする風習がある(日本の神道も似ている)。イースター島では、加工しやすい凝灰岩から巨大な石像を彫り出す文化が10世紀頃に生まれた。台座の下に砕かれて埋葬された遺体が確認され、勇者が死去すると鳥葬の風習で遺体を砕いて処理し、その間に巨大な石像を制作させ、集落に搬入して立てた「勇者の墳墓」がモアイと解釈されている。

その後、有力者が分家して部族に分裂し、島の各地に拡がって夫々の集落に祭壇(アフ)を設けモアイを立てた。モアイの建立は17世紀まで続いたが、18世紀になると島の人口が急増し、深刻な食糧不足から部族間の武力闘争が生じた。その際、霊力が宿るとされるモアイの目を破壊するため、敵方のモアイを倒して目玉を粉砕する「モアイ戦争」になり、その結果、全てのモアイが倒されて目を失ったと考えられてきた。しかし、その時代の遺骨に武闘の跡がなく、武器らしい武器も発見されていない。モアイは今も謎だらけなのだ。

何れにせよ、1840年頃には島内の全てのモアイが倒れていたことが確認されている。その総数は約900体。内40体が近年になって調査隊と村人によって再建立されたが、残りの860体は今も起き上がっていない。

海に向って立つ7体のアフ・アキビ。背丈は4.5m、表情が似ていることから、同時代に立てられたと推定。

モアイ周囲の約20mに立入禁止の石が並べてある。

ひとクセもふたクセもありそうな顔つきのモアイが並ぶ。。

オロンゴ モアイ時代を継ぐ鳥人儀礼の現場

ハンガロアの町から滑走路を挟んで反対側にラノ・カウ火山の半島が突き出ている。有力者とその係累が世を治めたモアイの時代を「平安時代」に例えれば、モアイ戦争後の武人割拠の時代は「鎌倉時代」に例えられるかもしれない。その武人の統領を選んだ現場が半島の聖地オロンゴ。武人の覇権争いと聞けば血生臭い戦場を想定するが、オロンゴの場合は平和的で、ちょっと愉快でもある。

絶海の孤島に暮らす島民にとって、自由に海を渡る鳥は神のような存在で、神の化身として鳥頭人身の「鳥人」タンガタ・マヌが創造され、人間が「鳥人」になるための儀礼が生まれた。それがオロンゴでの武人の統領選びのプロセスに発展した、というのが小生の解釈である。

毎年9月(春)になると、渡り鳥のセグロアジサシが産卵のために、オロンゴの沖合い400mのモトウ・ヌイ島に飛来する。この時期になると、各部族の首長と部族で選抜された屈強な若者がオロンゴに集結し、泊まり込みの訓練を始める。アジサシ飛来の時期が近づくと、司祭の号令で若者が一斉に落差250mの断崖を駆け下り、海に飛び込んでモトウ・ヌイ島を目指す。激しい潮流に流されて命を落とす若者も多かったという。上陸した若者は飢えと渇きに耐えてアジサシの産卵を待つ。卵を得た若者は海を泳ぎ帰って断崖をよじ登り、最初に「鳥の叫び」で勝利を宣言した若者の出身部族の首長が、その年の「鳥人」として武人の統領の座に就く。再びムリな例えで言えば、トライアスロンの優勝者のスポンサーが大統領に就任、とでも言えようか。何れにせよ、平和で愉快なルールではないか(以上、小生の解釈だが)。

ラノ・カウ火山のカルデラ。湿地で貴重な薬用植物が採れる。
オロンゴから滑走路、ハンガロアの町、テレヴァカ山を望む。
鳥人のレリーフが刻まれた岩。
オロンゴの崖上に築かれた鳥人レースの訓練所。
沖の島がモトウ・ヌイ。

ハンガロアの町

イースター島の人口は約6千人で、その9割がハンガロアに集中している。世界的に有名な観光地だが、島へのアクセスはサンティアゴから日1便のフライトだけ。島に滞在する観光客はせいぜい2~3百人だろう。島内に2階建て以上の建物がないのは、モアイより高い建築物を禁じているからというが、大規模ホテルやショッピングモールを建てることもない。ひと口で言えば「辺鄙なイナカ町」だが、そんな「世界的観光地」があっても良いではないか。

市役所前の広場に2つの胸像。右のヨーロッパ人は表示が読めない。
左の胸像は先住民の酋長と思われ、その表情はモアイに似ている。
教会。
我々のロッジ。玄関口はワイルドだが、客室はしっかりしている。
夕食後、再びタハイ儀式村のモアイを訪れる。草原に2百人ほどの観光客が集まり、夕日とモアイを楽しんだ。

第3日目(1月15日) アク・アカハンガ → モアイ・ロード

アク・アカハンガはモアイ観光のコース上にあるが、12体のモアイは倒れたままで、台座の修復もされていない。つまり300年前の状態のまま保存された現場である。モアイは夫々異なった時代に造られたもので、新しいものほど大きく、最大のモアイは長さ12m、90トンを越えるという。モアイ像の近くに集落跡もあり、歴史的・学術的に価値の高いスポットだろうが、一般の観光客には「ネコに小判」かもしれない。

モアイの制作場だったラノ・ララクまで、モアイの運搬路とされるルートを2Kmほど歩く。途中に倒れたモアイがいくつも転がっているのは、モアイ戦争で襲撃されて放棄されたものだろうか。重量が数十トンもある巨大な石像をどうやって運んだのか、未だ定説はない。丸太のコロを並べて引っ張ったという説が有力だが、垂直に立てたモアイの腰に四方からロープを架け、左右に傾けて底辺を交互に前進させ、エッチラオッチラ歩かせたという説もあり、学者が実験に成功している。更には南米からインカを呼んで魔法を使って運ばせたという説まであって、真相は分からない。

アク・アカハンガの倒れたモアイ。台座もそのまま保存されている。

前方の丘が、モアイ制作現場だったラノ・ララクの岩山(先を行くのは現地ガイド)。

完成したモアイがこの道で搬出されたと想定されている。路傍に倒れたモアイがいくつも横たわる。

ラノ・ララクまでもう少し。

モアイの制作現場 ラノ・ララク

ラノ・ララクは凝灰岩が隆起した岩山で、イースター島のモアイは全てここで制作されたらしい。出荷待ちだったモアイ(今は下半身が埋まった状態)は最終期の作品群で、洗練されたデザインと表現技術に感嘆する。作りかけのモアイからは制作のプロセスが読み取れる。先ず斜面の岩面でデザインを決めて外形を切り出し、像の前面を彫り、裏面に支柱を残して周辺を切り出し、斜面の下に穴を掘って支柱を切断すると、石像は斜面を滑り落ちて穴の中に直立する。その状態で裏面を彫って像が完成する。イースター島に鉄器は無かったが、凝灰岩は水をかけると柔らかくなり、黒曜石や玄武岩の石斧で削り出したらしい。ラノ・ララクに多数の職人が常駐し、数名で数ヵ月がかりで1体を完成させたと推定される。

凝灰岩の岩山からモアイが切り出された。斜面の石柱は完成したモアイの下半身が埋まった状態。
シャープなイケメン、ユーモラスな芸人風、現代彫刻で通用するような作品もある。。
未完成のモアイ。数体のモアイが上下左右に複雑に重なった状態から切り出されたらしい。
有名なハンサム・モアイだが、名前を忘れた。
唯一の「正座するモアイ」。愛嬌たっぷりで、先祖崇拝と違う目的で制作されたのだろう。

アフ トンガリキ

ラノ・ララクから東へ1Km、半島の付け根の海岸に最大のモアイ遺跡アフ・トンガリキがある。長さ100mの台座に15体のモアイが立ち並ぶ景観は、圧巻と言うしかない。

この遺跡は日本と縁がある。1960年のチリ津波で海岸の遺跡は壊滅的な被害を受けた。1988年に日本のテレビのクイズ番組がこの状況をとり上げたところ、番組を見たクレーン業者が一念発起、自費で機材と人員を持ち込み、1995年に15体のモアイ再建を果たした。バブルの余勢もあっただろうが、自慢して良い話ではないか(企業ホームページに控えめな記事を見つけた)。また、15体を見下ろす丘に立つ1体は、1982年に大阪のエクスポランドで開催された「イースター島巨石像展」に出張し、帰島して「モアイ・ハポネス」(Japan)の愛称を得た。地球の最果てで「日本渡航経験者」に会えるのは嬉しいではないか。

ラノ・ララクから望遠で撮ったトンガリキのモアイは絶景。
トンガリキからラノ・ララクの岩山を振り返る。
モアイ・ハポネスと15体のモアイ群。
100mの台座に立つ15体のモアイに圧倒される。
どのモアイからも「人柄」がにじみ出ていて、いつまでも対話していたくなる。
いつまでもこの場に居たい気分だが、帰る時間になった。

アナ・ケナ・ビーチ

火山性の岩礁に囲まれたイースター島には天然の砂浜がない。北部のアナ・ケナ・ビーチの砂はヤシの木と共にタヒチから運び込まれたもので、人工の砂浜が貴重な海水浴場になっている。ビーチの近くに個性的なモアイが立っている。アフ・ナウナウと呼ばれる7体のモアイは、4体が頭上に赤いプカオを載せている(帽子のようだが髪飾りとされる)。頭を失ったモアイもあるが、全体に保存状態が良く、背に彫られた入れ墨の模様も残っている。単体で立つモアイはアフ・アトウレ・フキで、1956年にノルウェーの探検家ヘイエンダールと村人によって、島で最初に再建された。ずんぐりした容姿は初期のモアイの特徴で、平に削られた頭上にはプカオが載っていた筈だ。

2日間のイースター島観光はアナ・ケナ・ビーチが終点。ランチボックスで腹ごしらえをして空港に向かう。短い滞在だったが、出合ったモアイを数えてみると、再建された40体のモアイのほぼ全部を見た勘定になる。

島で唯一の海水浴場はタヒチの砂で作られた人工ビーチ。
アフ・ナウナウの7体のモアイ。2体は頭を失っているが、保存状態は良好。
背中の模様もはっきり残っている。
単体で立つアフ・アトウレ・フキ。
ツアー4日目 タヒチに続く