レレパ島で見たこと (エファテ 北西部)

レレパ島は、ハヴァナ湾の入り口に位置している。ハヴァナ湾がアメリカ艦隊の主たる投錨地だったので、島民は艦船の出入りの様子を良く見ることが出来た。

以下は、当時レレパ島に住み、現在はエファテ西側のマウガリリウに住んでいる人たちの回顧談を、1993年12月27日に収録したものである。ムルムル4世酋長が適宜通訳を務めてくれた。オネスア高校で著者と同僚の教師だったフィオナ・マランゴが録音を手伝い、アグネス・タソンがビシュラマ語から英語への翻訳をチェックしてくれた。


ムルムル酋長の話: シーゴーという男が政府に雇われ、戦争のことを村から村へ知らせる仕事をしていた。彼はメレからデヴィルズ岬へ行く途中に農場を持っていて、今も息子のジオフリーがその土地の権利を持っている。シーゴーは、イフィラ、エラコール、メレ、パンゴの酋長たちに会って、ビラで飛行場の整地をする人夫を出すように頼んだ。メレのウガンガ・チトンガ酋長が、レレパの人にも頼んだらどうかと言ったので、レレパにも船を出して募集をかけた。

この準備作業は、アメリカ軍が来る前に終わっていた。アメリカ軍が来てから、メレの酋長は考えを変えた。ハヴァナ湾に来たアメリカ軍があまりに多かったので、レレパの島民はレレパに戻し、ハヴァナ湾での設営を手伝わせることにしたのだ。レレパの男たちの代わりにタンナ島に船を出し、そこで1千人を集めてエファテの仕事を続けさせた。他の島でも人を集めた。


他の出席者も夫々の記憶を詳しく語った。最初は元酋長のナタマタウェア氏で、1914年生まれの彼は、アメリカ人が来た時には28歳だった筈だ。

ナタマタウェア酋長の話: 第二次大戦では、兵士全員がこの辺りの海岸に上陸した。彼等はあちこちに機関銃を据えた。我々は驚いて、なぜ来たのかと尋ねたら、戦争が始まって、日本人が来たら戦うのだと言っていた。

女たちは怖がって、エファテからレレパ島に食料や水を運んで籠もった。男たちは畑に出て軍艦が来るのを見ていた。エファテ島には大量のアメリカ人が上陸した。兵隊たちが英語を話しているのでびっくりした。(これを思い出して笑った。)

アメリカ軍は若い兵士を出して、我々の山刀や斧を使って丘の木を切り倒し、そこに機関銃を据える場所を作った。湾を見下ろす丘の上にも作った。兵士はその場所にネットをかけ、林に見せかけるカモフラージュを施した。夜になってから駆逐艦が来て、ハヴァナ湾は軍艦で一杯になった。それから彼等は村に来て、ビラで飛行場を作る仕事をしてくれと言った。船が来て男たちが集められた。ウグナでも同じように集められた。

夜陰に乗じて襲来する飛行機を探すため、大きな燈火を使った訓練があちこちで行われた。だが、日本の飛行機は来なかった。アメリカ軍の水陸両用トラックにもびっくりした。

カルサウ・ナパルの話: アメリカ軍が来たとき、私は19歳で、村の学校に通っていた。たくさんの兵士がビラに行った。海兵隊も来た。駆逐艦が2隻と機雷敷設艦も来た。機雷はハヴァナ湾の両側に敷設された。

艦船は機雷が敷設されていないレオサの狭い水道を通って湾に入った。それからアメリカ軍はビラで飛行場を作り始めた。我々は2週間働いて、1日だけ北エファテに帰った。船を出して我々をハヴァナ湾に帰してくれたのだ。タンナ島から1000名の男たちが来て仕事をした。モソ、シヴィリ、ウグナ、パウナギス、エマオの者たちも一緒だった。

我々は兵器を移動したり兵営の掃除をしたりして軍を助け、1日15バツーの賃金をもらった(15米セント相当)。当時は物価が安く、キャラコは1ヤードで3ペンスから6ペンスだった。我々には十分な金額だった。金額はどうでもよかった。我々は戦争に参加していたのだから。アメリカ軍は1942年に来て、終戦で撤収するときも我々は手伝った。

戦争が始まってバヌアツへの物資輸送が途絶え、石鹸、ガソリン、砂糖、タバコやトマトなどが非常に欠乏した。アメリカ人が来て良かった事は、彼等が山ほどの物資を持ち込み、衣類や食料、タバコなど、タダでもらえたことだった。

戦争中、欲しいものは何でも手に入った。食料や毛布ももらえた。島を一周する道路が出来たのも良かった。それまでは、米が必要な時は町まで歩いて買いに行き、担いで帰って来なければならなかったからだ。

ソロモン諸島で負傷した兵士がエファテに送還され、サモア・ポイントの病院で治療を受けた。兵士の中には苦痛で泣き叫ぶ者もいて、とても気の毒だった。

アメリカ兵がスネイク・ヒルを運転して暴走し、頭に大怪我をして病院に担ぎ込まれ、何針も縫ったことがあった。スネイク・ヒルはその名の通りに蛇のように曲がりくねった道路で、現在はクレムヒルの横のトマト畑になっている場所だ。アメリカ人がいた頃、よく大雨が降った。道路は出来たばかりのガタガタ道で、ところどころにトラックがいて、他の車を引っ張り上げていた。

ジョンソン・カルマヌアの話(小酋長で、当時まだ18歳くらいだった): シーゴー氏が、戦争が始まったと伝えに来た。日本とアメリカが戦う大きな戦争だと言った。兵舎を建てる場所を空けなければならないので、レオサの村人は引っ越してくれ、それから、男たちは全員が飛行場の作業に出て、飛行機が来る為の準備をしてくれ、と言った。約1千名が作業にあたった。山刀を持っている者も、持っていない者もいた。シャベルを持っている者もいた。ヤシの木やその他の木を切り倒した。

我々はステファン・リーマンという人の家に泊まった。鍋の代わりに44ガロンのドラム缶を使った。たくさんの人たちを食わせなければならなかったからだ。1本のドラム缶で25kgの米を炊いた。缶詰の肉は一缶で4~5人分あった。食事が悪くて病気になり、働けなくなった者がたくさんいて、「これは豚のエサだ」と言っていた。

アメリカの陸軍と海軍がエファテ北部に来て、我々はアメリカ軍のために働くことにした。 海軍が我々をハヴァナ湾に連れて行き、アメリカ軍の兵舎を作る準備をした。ニュージーランド人の中にはマラリアを罹患した者がいた。オーストラリア人も罹った。我々は衣料品などの軍用品をもらった。

ツングルマヌ夫人の話: 私が戦争が起きたと聞いたのはまだ幼い頃だった。たくさんの軍艦が列になってハヴァナ湾に入って来るのを見た憶えがある。大きな船がたくさんだったので、ちょっと恐ろしくなった。女や娘たちは兵隊を怖がり、洗濯や水をくんだり食品を採ったりするのにエファテ島に渡れなくなった。渡れるのは年長の男の人が一緒に行ってくれる時だけだった。どこかに兵士の姿が見えると、いちもくさんに走ってカヌーに飛び乗って島に戻った。

男たちがエファテで軍の仕事をすることになったと聞いて、とても怖いと思ったのを記憶している。昼間に犬が吠えると、そこら辺に兵隊がいるということなので、入り口に鍵をかけ、子供たちは静かにしているように言われたものだ。

良かったことは、女たちが兵士の洗濯をすると、お金がもらえたことだ。兵士のポケットに硬貨が入っていて、それを返しに行くと、兵士はそれをくれたものだ。

湾の中にたくさんの軍艦がいる時には、湾の外のハット島とレレパ島の間に護衛艦が1隻配置されることになっていた。夜間には一切の燈火が禁止され、、たき火やタバコの火もダメだった。だから主婦たちは夕食の支度を日暮れ前に済ませようとした。

巡視艇が昼夜を分かたずに見張っていた。乗組員の一部は夜に任務に就き、昼間に寝ていた。潜水艦の湾内への侵入を防ぐため、レレパとモソの間、レレパとエファテの間に防潜網が張られた。防潜網はアメリカの潜水艦が出入りする時は外された。艦船にはコロラド、ワシントン、アラバマなどという名前のものがあった。

ナヴィチ夫人の話: 私はまだ小さな女の子だったが、敵が来て戦いが始まったら、村に居てはいけない、森に逃げ隠れろ、と言われた。子供たちが隠れられるように、洞窟の中の岩や石が片付けられた。何度か敵が来そうだと言われ、母親が子供たちを連れて森に逃げたことがある。男たちは逃げなくてもよかった。


アメリカの黒人と白人

村人たちは白人の兵士とはうまくやれたが、黒人兵とはそうはゆかなかった。彼等は黒人であり、我々の女も黒人だったからだ。黒人兵は常に女を求めていたので、厄介者だと思われていた。

アメリカ人の女は来ていなかった。戦争に来たのは男だけだった。アメリカ人も女が好きなのだ。黒人兵は北エファテのペレ、エムアの女の何人かを得たが、レレパの女はいなかった。女の一人は黒人兵を相手に男の子を産み、もう一人は女の子を産んだ。モソでは強姦事件があった。子供たちが手をつけられたことはなかった。男たちはアメリカ人から物をもらえるのはハッピーだったが、女と一緒の時に兵士と出くわすのは嬉しくなかった。兵士に女をよこせと言われ、断ると銃をつきつけられることもあった。「女を連れて来ないと撃つぞ」と言われたこともしばしばあった。

ある時、兵士に追いかけられた女がマンゴーの木にしがみつき、助けを求めたことがある。男たちが助けに行くと、しがみついた腕にひどい擦過傷を負っていた。

アメリカ人の英語を聞きとれる男がいて、彼等が女のことを話しているのを聞くと、村の女たちに畑仕事でエファテに渡らないように警告した。

ある時、レレパの老人がアイ・クリークからエファテに渡ろうとしていた。彼はアメリカ人が話す英語を聞き取れなかった。アメリカ人に女を世話しろと言われ、わかったと答えたが、彼はその意味を理解していなかった。彼は鶏を一羽くれと言われたと思い込み、鶏を捕りに島に戻ったのだ。(ここで爆笑)

兵士にクリスチャンがいて、一緒に礼拝をした。兵士が教会に来る時は、長老たちは英語が少しわかる者を選んで礼拝を行わせた。


アメリカ人が遺したもの

記憶に残る好ましい出来事は、レレパ島で最初の長老派の教会が、アメリカ軍が提供した資材で建てられたことだった。その教会はずいぶん長いこと使われ、改築もされたが、1992年のハリケーン・プレマで倒壊してしまった。アメリカ軍はマットレス、食料、靴、銃、鉄材、トラックやコカコーラなど、様々なものを提供してくれたので、彼等が撤退するのは残念だった。

小さな船や艀が湾内に沈められた。弾薬はハット島に埋められたが、その場所が分かっていたので、後に掘り返された。爆薬を回収して、それで魚を獲ったのだ。調理用の機器やコップ、フォーク、スプーン、テイーポット、ナイフ、斧、バール、ツルハシ、シャベルなども拾われ、今も使われている。ドラム缶は水タンクとして使われたし、拾った鉄板の下で暮らしている者もいる。拾ったガラス瓶を路傍で観光客に売る者もいて、それは現在も行われている。

誰でもこの戦争でアメリカ人が捨てていったもので家を建てることが出来た。水タンク用の44ガロンのドラム缶はいくらでもあった。銃をもらった者もいたが、今は使えなくなっている。

滑走路や港湾、橋梁をどこに作るか、入念な調査が行われた。バウワーフィールド空港は現在も使われている。ウレイの中学校やその他の建物は、アメリカ人が残したコンクリートでテニスコートの上に建てられたもので、水泳用のプールは今も使われている。

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参考資料

拡大地図

レレパ島とロイマタ伝説の記事

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

訳者注)
レレパ島は水が乏しく、島民は対岸のエファテ島に渡って水を汲み、農耕を行う。


 

 

 

レレパ島とモソ島の間の狭い水路

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レレパ島から見たハット島

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦時のコーラ瓶を売る路傍の土産物店