新コロナ特別措置の副作用で、近隣のゴミ集積所が満杯の日が続いた。突然の禁足で生じた在宅の時間を「断捨離」に用いた人が多かったらしい。拙宅も引っ越しのような騒ぎになり、「押入れ」に押し込んであった物品や書類が、数十年ぶりに日の目を見た。そんな中に、28年前に他界した父の遺品があった。当時小生はダラスに単身赴任中で、通夜の場に滑り込み、喪主の役を済ませて任地に飛び帰る親不孝を演じた。91歳で倒れるまで元気だった父の見事な断捨離のおかげで、遺品整理も手早く済んだが、僅かな書類を入れた小箱を棚の奥に押し込んだのを、すっかり忘れていた。

出てきたのは親類・ご近所・知人との交際や贈答を細々と記したノートと、警察官時代の辞令類に経歴書だった。交際ノートは、「義理」を欠かさぬように気を遣う一方で、職務に絡む「付け届け」の類を神経質なまでに退けた父の重要書類だったのだろうが、中を見ずにシュレッダーにかけた。警察の辞令と経歴を辿ると、昭和初期・戦中・戦後の警察官の実像が浮かび上がってきた。父は話し好きだったが、守秘義務を意識してか、仕事がらみの思い出話を殆どしなかったので(事件の話はゼロ)、初めて知ることばかりだった。この機会に、小生幼少時の微かな記憶と古い写真で想像を膨らませ、父の警察官人生を再生してみることにした。誤認・誤解があっても確かめようがないが。

明治33年(1900年)に信州伊那谷の農家の次男に生まれた父は、小学校高等科を出て(年齢は今の中2修了)実家の農作業の手伝いや賃仕事をしながら、農閑期に村の実業補習学校に通い、青年団にも積極的に関わったようだ。

実業補習学校修了記念(大正9年 1920)。 紋付羽織に威儀を正す。会場は村の寺だろう。 中央に神輿、村の青年団の記念写真。大正10年(1921)頃か?

26歳で一念発起して村を出た父は、長野県の巡査に採用され、55歳まで勤め上げた。その間、長野県の北端から南端まで各地を転勤し、幼少期の小生も転居・転校を重ねることになる。


昭和2年(1927年)~昭和6年(1931年)  駆け出し巡査の時代

昭和2年3月3日に巡査に採用され、巡査教習所で4ヵ月の研修を受け、7月から警察官生活がスタートした。初任給の39円を現在の購買力で換算すると(1円→1640円)約6万4千円になる。警察官は昔も今も薄給と言われるが、当時の帝大卒超エリートの初任給80円のほぼ半分で、地方の低学歴青年の初任給としては、マアマアだったのではないか。電化製品も自家用車も要らなかった時代で、現金収入が少なくても暮らせた筈だ。ちなみに、最近の警察官の初任給(高卒)は16~20万円の由。

最初の3ヵ月は長野市内の「受持」(地域担当の巡査)で現場研修し、10月に本署から北東へ6Kmの神郷村の受持に赴任。パトカーなど無い時代だから、山間部の駐在所に寝泊まりしての勤務だった筈で、時々見せた炊事の手際の良さは、この時代に培ったのかもしれない。年末には、新米巡査にも給与の0.25カ月分の「勉働賞與」(ボーナス)が出た。

資料リンクのサムネイルをクリックすると別画面に拡大します。貨幣価値の換算は消費者物価指数(CPI)による。
発令日 発令の内容 資料リンク
1927(昭2) 3月3日 巡査任官
巡査教習所普通科入所(研修期間 4か月)
採用辞令
  同年   6月30日
       7月5日
初任給 月俸39円(約64,000円)
長野署第38号受持区勤務(現場研修)
  同年  10月10日 長野署神郷村受持勤務 (現 長野市豊野の山間部)
  同年   12月25日 勉働賞與(年末賞与)10円支給 (約16,000円)
1928(昭3)12月31日 月俸改定42円(約71,400円) 定期昇給は毎年末

神郷村で14か月勤務の後、長野市内の受持に転勤、窃盗犯検挙で賞与1円50銭を支給された。金額は「たばこ銭」程度だが、それがプレッシャーになったのか、「職務上負傷」した。晩年の思い出話によれば「名誉の負傷」ではなく、原因不明の体調不良が続いて「神経衰弱で入院した」という。今風に言えば「ストレスが原因の統合失調症」だったのだろう。給与1ヵ月分の「負傷給助料」は病欠無給の救済だろうが、それとは別に治療費16円も支給されている。社会保障制度が未整備だった時代に、新米巡査の体調不良を職務上負傷扱いにしたのは、温情ある処遇と言えるだろう。

1929(昭4)  2月1日 長野署第19号受持区勤務
  同年   3月11日 窃盗犯検挙の功労に賞与1円50銭 (約2,600円)
  同年   9月13日 職務上負傷給助料給与 42円 (給与1ヵ月分)
職務上負傷療治料給与 16円 (約27,800円)

入院加療から4ヵ月後の昭和5年1月、戸隠村受持に転勤の辞令が出た。新婚早々でもあった。病気完治と判断したのか、転地療養の含みか、あるいは事情に無頓着な人事異動だったのかは不明。戸隠村は天ノ岩戸神話で知られる神社の所在地で、全国から「講」を組んだ参拝客が押し寄せる。その警備やら神社に大祭祭典の委員を頼まれるやら、「駐在さん」の任務は重かった筈だ。民間企業に例えれば、入社3年目で病み上がりの社員を、海外の一人事務所に送り出したようなものではないか。(小生が駐在員一人のトロント事務所に赴任したのは入社15年目だったが、それでも心細かった。)

案の定というか、赴任直後に再度「職務上負傷治療手当支給」の事態が起きた。仕事の回想談をしなかった父だが、戸隠の失敗談だけは、晩年の「晩酌のつまみ」で繰り返し聞かされた。着任早々に「非常招集」の訓練があった。前触れなく夜中に招集の電話が鳴ると、明け方に本署で点呼を受けなければならない。長野市と戸隠は距離12Km、標高差600mの山道で、冬は交通が途絶して「冬山登山」の様相になる。雪の夜道を転がるように駆け下り、点呼の時間には間に合ったが、その日の午後、戸隠に帰る途中の坂道で行き倒れて村人に病院に担ぎ込まれ、再度の休養を余儀なくされたという。警察官として甚だ不名誉な「山岳遭難事故」である。

その半年後に「衛生警察上功労顕著」という奇妙な名目で賞与2円が出た。復帰後に自分の経験を基に警察官の健康管理と扶助制度について提言させられたと言っていたので、その褒賞金だろうか。その提言を「社会主義的」と評した幹部がいたと忠告してくれた先輩がいたらしい。戸隠の失敗談の結論に「調子に乗って生意気を言うと出世の妨げになる」と処世訓を垂れたものだが、その後の経歴を見る限り、父が要注意人物になった形跡はない。短絡思考の幹部は少数派だったのだろう。

1930(昭5) 1月15日

戸隠村受持区勤務ヲ命ス

  同年   2月23日 職務上負傷療治料給与 23円50銭(約45,000円)
職務上負傷給助料給与 43円(1ヵ月分)
  同年    3月13日 戸隠神社式年大祭祭典協賛委員嘱託
  同年   8月28日 衛生警察上功労顕著ヲ認ム 賞与2円(約4,000円)

戸隠村の受持時代の写真と思われる
戸隠神社中社に海軍の高官夫妻が参拝? 戸隠神社奥社。学生が多いので、前列の外国人は大学のお雇い教師?

昭和7年(1932年)~昭和11年(1936年)  職務精励の時代

戸隠駐在所勤務は2年半に及んだ。赴任早々の「遭難事故」以降は順調に職務を遂行できたようで、戸隠で懇意になった村人との交際は退官後まで続き、小生も何度か訪れてお世話になった。

昭和7年8月に本署に戻って受持った「第壱号区」は長野市中心部の繁華街で、退官後の父とその地区を歩いていると、「そのスジ」らしい男たちが父に目礼するのを何度も見た。30年前の受持の時代に職務で接触した親分や若い衆が、父を憶えていたのだろう。昔の「そのスジ」は繁華街の自治警察のようなもので、悪質な客や乱暴者の排除で街の治安を確保し、同時に不良少年を預かって躾け直す役目もあったらしい。警察も彼等との「補完関係」抜きでは機能せず、「ウラ社会」との接触が不可避だったようだ。そんな経験で肝が据り、何事にも動じなくなったのかもしれない。

任官して5年が過ぎた昭和8年1月に1カ月の「後期巡査講習」を受け、記念写真に同期生20名と一緒に写っている。講習修了後に「特務ヲ命ス」の辞令があり、その1年後に受持任務を外れて本署内勤になった。何か特別なミッションを与えられたように窺えるが、この間に窃盗犯や横領・文書偽造犯検挙で賞与を受けているので、通常の職務を務めていたようだ。

1年半の内勤の後、津和村駐在に転勤し、1年10か月後に長野県最北の栄村駐在に転勤。その栄村勤務は僅か4ヵ月で本署に戻されている。せわしない転勤には何か事情があったのだろうが、「模範的巡査」で知事表彰を受けているので、任官当初の2度ダウンの不名誉を挽回して、それなりの期待をかけられていたようにも見える。

発令日 発令の内容 資料リンク
1932(昭7) 8月1日 長野市第壱号受持区勤務
1933(昭8)1月~2月 巡査錬習所後期受講 (下の写真)
  同年   4月15日 特務ヲ命ス
1934(昭9) 4月30日 内勤ヲ命ス
  同年   5月 窃盗犯検挙の功労顕著 金1円賞与
横領、文書偽造行使詐欺犯検挙の功労顕著 金1円賞与
1935(昭10) 12月3日 津和村受持区勤務(現 長野市信州新町北部)
1936(昭11) 3月31日 行状方正、勤務勉励、事務熟達ニ因テ、県知事表彰
  同年   10月10日 栄村受持区勤務 (長野県最北)
(4ヵ月勤務で長野署へ)

巡査後期講習の修了写真。前列は研修所幹部と教官、切抜の礼装者は警察部長? 雪深い栄村巡査駐在所。村の有力者との写真か?公式写真に駐在夫人が入っているのは、当時としては異例か?

昭和12年(1937)~昭和19年(1944)  「特高刑事」の時代

父が「特高」の職務を担っていたことを、これまで知らなかった。特高は「特別高等警察」の略で、明治43年(1910)の大逆事件(幸徳秋水他が天皇暗殺を企てたとされる)を機に発足し、無政府主義者、共産主義者など、天皇制と私有財産制を否定する者を取締る警察組織で、昭和になって取締りの対象を戦争に反対する者にまで拡げた。小林多喜二など多くの人を拷問にかけ、虐殺に至った例も少なくなく、戦前の「暗黒時代の象徴」とまで言われる。(ちなみに、大逆事件で爆裂弾の製造・爆破実験が行われたのは、現松本市明科とされている)。

辞令に「特高」と書かれたものは無い。「特高」だったことを知ったのは、戦後になって占領軍の命令で提出したと思われる「長野県特高警察経歴調査表」(以下「経歴調査表」)の控と、経歴書(戦後の警察機構改革の際に提出した控と推定)に「特高」の経歴が詳しく記してあったからである。「辞令」は身分を定め勤務地を命じる公式文書で、「特高」は上司(署長)が口頭で命じた「職務」だったかもしれないが、辞令にも「職務指示」の類があって一概に言えない。中央の警察組織には「特別高等警察部」等の部署があって、特高専任の人員が配置されていたが、地方の警察署では、普通の警察官が上司に命じられて特高の職務を負っていたように見える。

「経歴調査表」によれば、父の特高職務は昭和12年(1937)2月28日付の「長野警察署特高視察係」に始まり、昭和19年(1944)2月23日に伊那警察署から長野警察署に転勤するまでの7年間に及ぶ。その間の辞令で「特高」を窺わせるものに、昭和12年2月8日付の「刑事」任命と、同月28日付の「刑事特別技能手当月額2円支給」がある。「刑事」は私服で捜査にあたる警察官で、英語は Detective。「探偵」も Detective で、気付かれぬように秘かに身辺を探る職務を言う。「刑事特別技能手当」は特高職務に対する加給と思われるが、この間に賭博犯、選挙違反、強盗致傷犯検挙で賞与を得ているので、通常の警察官の職務も行っていた筈だ。

特高の職務を端的に表せば、「国体」(天皇制)にそぐわない思想を持つ者(その系統の本を読む者を含む)を探り出し、危険な行動や準備の兆候があれば検挙することで、「怪しい人物」を察知して監視することを「視察」と言い、それが現場の特高刑事の任務だった。人権と言論の自由が保障されている現代では考えられないが、つい先般の衆院本会議(2020年2月)で、安部首相は「〇〇党は公安調査庁の調査対象」と答弁した。サリンを撒いた組織の後継団体ならいざ知らず、65年前に軍事革命路線と決別し、天皇制を認め、綱領で中国の覇権主義を批判する天下の公党を、国家権力が今も「視察」していると国会の場で公言したのである。

時代錯誤をあきれてはいられない。現政権のバックボーンは、戦前の日本を「美しい国」と賛美し、憲法改定をテコにこの国を「美しい時代」に戻したい勢力であることを、忘れてはいけない。自分の父親が特高に関わっていただけに、「他人ごと」ではない。時折反政府的言を弄する当サイトも「視察」対象かもしれないが、喜寿を過ぎた隠居に怖いものナシ、これからも言いたいことは言わせていただく。(危険な行動や準備はいたしません!)

発令日 発令の内容 資料リンク
1937(昭12) 2月8日
       2月28日
刑事ヲ命ス (経歴書では特高係刑事)
刑事特別技能手当2円給与
1938(昭13)3月26日
       3月31日
飯田警察署刑事ヲ命ス (経歴書では特高係刑事)
精勤加俸月額3円給與
1940(昭15)1月18日 巡査部長を命ず(昭和14年12月昇格試験に合格)
富草警察署勤務を命ず(現 下伊那郡阿南町富草)長野県南端の村
  同年   4月29日 支那事変に於ける功により金70円を賜。(経緯不明。対中国戦争が膠着し、厭戦気分を払拭するべく、各方面に褒賞をばらまいたのではないか?)
  同年   12月6日 賭博犯65名を検挙したる功労に金4円賞与
1941(昭16)5月5日

上諏訪警察署勤務を命ず (経歴書では特高係副主任)

1942(昭17)3月5日 (昭和17年2月1日警部補試験合格)
長野県警部補給昇格月俸65円(約63,000円、戦時インフレで実質賃下げ)
  同年   同日 屋代警察署勤務を命す(経歴書では次席、司法・警務・警防主任。特高の表現はないが、経歴調査表で特高としている)
  同年 5月~7月 参議院議員選挙運動取締、村会議員選挙違反検挙に賞与
  同年 9月26日 伊那警察署勤務を命ス (経歴書では特高主任)
1943(昭18) 2月10日 戦時強盗致傷犯人検挙に金2円賞与。戦時強盗は意味不明だが、何にでも「戦時」を冠して緊迫感をあおった世相の反映か?
1944(昭19)2月23日 長野警察署勤務を命ス(経歴書では輸送・労報主任。特高を外れた。)

警察学校前で夏服正装。巡査部長昇格者? 列前の犬がご愛敬。 何の記念写真か不明、灯火管制と戦闘帽姿から昭和19年頃の長野署か。

昭和20年(1945年)~昭和21年(1946)  終戦、公職追放を免れる

経歴書では、特高の任務は終戦前年の昭和19年2月に伊那警察署から長野警察署へ転勤した時点で終わっている。特高から外れた事情は不明だが、県庁所在地のコア警察署への転勤が「左遷」とは考え難い。

長野署での職務は「輸送・労報主任」とある。「労報」=「労働対価」では意味をなさないが、大戦時は「労報」=「労務報国」=「朝鮮人労働力の徴発」を意味し、時に慰安婦駆り出しの隠語でもあったと解説する資料を見つけ、ある記憶と唐突に結びついた。それは晩年の父が酒に酔って一度だけ「朝鮮のヨイトマケだ」と調子はずれの歌を口ずさんだことで、その時は聞き流したが、今になって「労報=朝鮮人労働力」と「朝鮮のヨイトマケ」が結びつき、一つの仮説が浮かび上がった。

父が「労報主任」になった昭和19年2月は、長野市郊外の松代で大本営の地下壕工事が始まり、朝鮮半島からの徴用人夫5千人が投入された時期である。長野警察署が徴用人夫の警備に「労報主任」を任じたのではないか。「輸送」は人夫の輸送の警備かもしれない。更に戦後になって職務が「労報主任」から「公安主任」に変ったのは、松代に残留した人夫の治安と読めないこともない。見当違いの思い過ごしかもしれないが、当たっているとすれば、「特高」以上にシンドイ職務に就いていたのかもしれない。

昭和16年生まれの小生の記憶は終戦前後に始まる。長野警察署すぐ近くの質素な借家と庭先の狭い野菜畑を、古い写真を見るように思い出す。空襲のサイレンで防空壕に飛び込んだことや、艦載機が撃ち込んだ機銃弾を見せてもらったことも思い出した。終戦直前に市街外れの日本無線の社宅を借り上げて引っ越し、8月15日昼に母が玉音放送を聞きに「隣組長」の家に出かけた時の様子も覚えている。父は多忙だった筈だが、緊迫した場面は記憶になく、家の前の畑で野菜を作っていた姿しか思い出さない。若い頃に百姓だった父の畑仕事は、警察官より板についていた。

前段で引用した「長野県特高警察経歴調査表」(昭和21年4月15日付)について触れておく(コピーは掲載しない)。戦後の占領軍(GHQ)による日本民主化の一つに、旧政府に関与した関係者の「公職追放」があり、特高経験者も対象になった。追放されれば退職金は出ないが、現場の元特高警察官は自主退職扱いになったようだ。父は警部補という準幹部の立場で特高主任を務めたが、戦後の追放を免れて警察官の職を継続できたのは何故だろうか? 経歴調査表は占領軍の命令で警察官に特高の経歴を自己申告させたものと推測するが、「重大事件ノ検挙ニ従事セル経歴アレバ職責ノ概況ヲ記セ」の欄に「該当ナシ」と回答している。つまり「特高の職務を7年担当しましたが、検挙実績はゼロでした」の自己申告で「無罪放免」されたことになる。

長野県に「無政府主義者・共産主義者・戦争反対者」が居なかった筈がなく、特高刑事が「視察」をサボり通したとも考え難いが、「検挙者」を出さなかったことは事実だろう。大都会は別として、地方では「縄付き」(犯罪者)を出すことを地域の恥とした。警察も「検挙の点数稼ぎ」でネズミ捕りをやるような時代ではなかった。地域も警察も「事件」など無いに越したことはなく、「よそ者」の犯罪者を警察に突き出すことはあっても、昔からの住民の嫌疑は地域で庇い、警察も地域の自治と安寧を重んじて、事件化を極力避けたと聞く。ましてや思想犯(いわゆる「アカ」)は地域に迷惑をかけるような人たちではない。「あいつはアカだ」などと騒ぎ立てる輩がいなければ、無事平穏なのだ。

「個々の事案」を一切語らなかった父だが、テレビの「刑事ドラマ」に「警察を知らない奴のデタラメな作り話だ」と怒りを露わにしたことがある。警察の本分は「事件が起きないようにすること」で、「アブナイ人間はすぐ分かるが、時々声をかけておけば事件は起こさないものだ」とも言っていた。特高の職務でも「視察」対象者と敵対せず、今風に言えば「うまくコミュニケーションをとって」おけば、何事も起きないという目算があったのではないか。「コミュニケーション」に、若い頃の青年団の人脈も活かしていたかもしれない。


昭和22年(1947年)~昭和28年(1953年)  日本版「保安官」(自治体警察官)の時代

終戦から半年後の昭和21年4月18日(経歴調査票提出の直後)、長野県北部の飯山町(現飯山市)警察署に転勤命令が出た。公務員や銀行員の転勤は、地域の有力者との癒着を防ぐ方策として定着しているが、警察官は薄給の分だけ癒着のリスクが高く転勤の頻度も多い(と小生は思う)。それまで1~2年毎に勤務していたが、飯山での勤務が7年の長きに及んだのは、占領軍(GHQ)の警察制度改革に拠る。

戦前の警察制度は明治維新に導入された欧州流の国家警察で、内大臣の下に置かれた都道府県の警察部が各警察署を指揮監督した。GHQの改革は、国家権力の執行機関だった警察を、米国流の「住民サービス」に転換するもので、昭和22年12月施行の警察法で、人口5千人以上の自治体は原則として自前の「自治体警察」を持つことになった。西部劇に出てくる「保安官」(Sheriff)で、町民がおカネを出し合って警察官を雇うシステムである。自治体警察以外の地域は郡単位の「国家地方警察」(米国では State Police )が所管することなり、旧飯山警察署の2階建の庁舎は、1階が自治体警察の「飯山町警察署」に、2階は飯山町を除く下水内郡を所管する「国家地方警察長野県飯山地区警察署」になった。外部の人がこんがらかったのは当然だろう。

父は昭和23年2月9日に飯山警察署次席から飯山町警察署に移籍して署長に就任し、町が警察署の隣に建ててくれた署長官舎に入居した。8畳、4畳半、3畳の平屋建だったが、8畳間はしばしば町の世話役たちの懇親会場になったので、家族の生活空間は4畳半と3畳に限られ、小生は隣の警察署を遊び場にしていた。当時の写真を見ると、飯山町警察署の陣容は署長、次席、制服警官7名、刑事1名、女性職員2名、用務員1名の計13名で、年中無休24時間営業の警察としてはギリギリの陣容だろうが、田舎町に事件は滅多に起きず、小トラブルで110番する風習も無かった時代で、子供の目にはいつもヒマそうに見えた。

当時は食料配給制度が続いていたが、ヤミ流通で手に入る物資が増えていた。しかし警察官は立場上ヤミを使えない(ヤミを拒否して餓死した検察官がいた)。我家も米は配給分だけだったが、父は畑を借りてヒマさえあれば野菜作りに励み、ニワトリとヤギも飼った。プロ百姓の働きでひもじい思いはしなかったが、イモと菜っ葉を食い飽きる食生活だった。例外が1度あった。進駐軍の担当将校がジープで来町し、手土産に持参した軍用携行食(Ration)を署員で分けた。1食分の紙箱に乾パン、バター、チーズ、コンデンスミルク、コーンビーフ、パイナップル、チョコレートの缶詰やパックがビッシリ詰まっていた(70年後の今でも目に浮かぶ!)。塩気の強い乾パン以外は、どれも夢のように旨かった。当時はまだ知恵が回らなかったが、これを3食食っていた軍隊を相手に戦争をした無謀を、身をもって実感したことになる。

発令日 発令の内容 資料リンク
1946(昭21)4月18日 飯山警察署勤務ヲ命ス (昭和21年4月1日付で身分が「長野県警察官」から「地方事務官」に変わった。)
1948(昭23) 2月9日
飯山町警察署長を命ずる (自治体警察に移籍)
(辞令からカタカナが消えた)
1952(昭27) 9月30日 月俸17,800円を給する (約118,500円)
(自治体警察のオーナーは町の「公安委員会」)

飯山町警察署員一同の記念写真。 進駐軍将校が県庁幹部の案内で鴨撃ちに来町。中央の少年は筆者。

昭和25年(1950)11月、東京中野警察大学校で1カ月間の警部研修 皇居で昭和天皇の拝謁を賜った。

昭和29年(1954年)~昭和31年(1956年)  最終章

米国流警察制度の導入は様々な軋轢を生じた。経済基盤の乏しい小自治体が自前の警察を維持することは困難で、返上を申し出る自治体が続出した。また、並列組織がいがみ合うのは世の常で、自治体警察と地方警察の関係もギクシャクし、捜査で連携出来ず、人員・機材の融通も利かず、非効率が目に余った。折しも不審事件や凶悪犯罪が頻発して社会不安が高まった時期で、警察制度の再改革が緊急の課題だったが、GHQとの調整が容易に進まなかった。昭和27年4月に講和条約が発効して日本が独立を回復すると、昭和29年6月の警察法全面改訂を待たずに、自治体警察の解体が始まった。

飯山町警察署は昭和27年12月31日に廃止されて父は失職したが、翌日付で国家地方警察飯山地区警察署に警部として採用され、2日後の1月3日に松本地区警察署に配置換え(転勤)になった。父は即日赴任したが、家族は学年変わり目の3月まで署長官舎に住むことを許され、小生は飯山で小学5年を終えてから松本に転校した。

保安官が警察官に戻って転勤も再開し、1年11カ月で松本警察署次席から諏訪警察署下諏訪警部派出所長に転勤した。定年まで残り2年足らずで、下諏訪が最終勤務地になりそうだったが、退官後は長野市で暮らすつもりだったので、中学1年の中途だった小生は、父に付いて動くと中学を2度転校し、2度目は高校受験直前になる。それではかわいそうということになって、松本に小部屋を借りて母と暮らし、時々下諏訪から松本に列車通学することにした。だが派出所長の単身赴任は何かと不都合が多く、小生は片道1時間半のSL通学が結構楽しかったので、中学2年の半分以上が列車通学になった。貸間代と通学定期代の二重払いで、家計は相当逼迫した筈だ。

父は退職にあたって少々注文をつけたらしい。満56歳9月の定年退職日より半年前の3月に長野署に転勤させてもらい、小生が長野市で中学3年を始められるようにした。長野署には勤務せず依願退職し、有給休暇を消化して5月31日に退職辞令と共に、同日付で「警視昇任」の処遇を得た(たたき上げ警察官にとって「警視」の称号は高根の花だった)。世話をしてくれる人がいて、6月1日から第二の職場での勤務が始まった。小生はまだ中学3年で、本当におカネが掛かるのはそれからだったのだ。

発令日 発令の内容 資料リンク
1953(昭28) 1月1日
       1月5日
国家地方警察長野県飯山地区警察署勤務を命ずる
国家地方警察松本地区警察署に配置換する
1954(昭29)11月30日
       12月1日
長野県諏訪警察署に配置換する
下諏訪警部派出所長を命ずる
1956(昭31)3月25日 長野警察署に配置換する(実質的に退職、有給休暇に入る)
  同年   5月31日 長野県警視に昇任させる。辞職を承認する(最終辞令)

新コロナのおかげと言っては語弊があるが、この機会がなければ、亡父の生涯を知ることがないまま、小生も向こう側に渡っただろう。「 たたき上げの警察官が、努力してそれなりのポジションまで勤め上げ、安月給でよく大学まで出してくれた」と思ってはいたが、特高刑事の経歴は知らなかった。戦前・戦中に国家権力の末端を務めながらも、虎の威を借りることなく、地域の人たちの安寧第一という警察官の本分に自らを律し通したように感じられ、改めて父を見直す気分になった。そんな「検挙したがらない警察官」をそれなりに処遇し続けた長野県警察当局にも、この際敬意を表したい。

父がTVの刑事ドラマに不快感を表したことは前述したが、警察官の犯罪と高級役人の背信には、もっと本気で怒っていた。今の世まで生きていたら、血圧が上がってまた脳卒中を起こしたに違いない。