「山高きが故に尊からず」と故事に言うが、山は高きにつれて神秘性を帯び尊さを増す。世界の名峰とうたわれる高山を仰げば、小生のような無信心者でも「神様がいるに違いない」と思う。高い所に行って高い山を眺めると、神様に近づいたような気分になる。そんな場所で「神様を撮りたい」という身の程知らずの想いを抱くのが、山の写真屋のサガかもしれない。
通称「エベレスト」(8848m) は英国測量官が前任者の名をヨイショして付けたもので、ネパールでは「サガルマータ」(世界の頂上)、チベットでは「チョモランマ」(大地の母神)と呼ぶ(現地名に比べて通称は品格を欠くが、便宜上拙稿でも用いる)。その世界最高峰を撮るスポットとして知られるのが「カラパタール」(5545m)と「ゴーキョピーク」(5360m)で、どちらも標高5000mを超える高峰だが、特別な装備や登攀技術なしで到達でき、小生の写真仲間にも行った人が少なくない。
とは言え、標高5000mでは酸素が平地の半分しかなく、心配のタネは「高山病」。2011年11月の梅里雪山ツアーの折に添乗員から「ウチのツアーなら登れます!」と強く誘われ、それがこの1年、呪文のように頭の中で鳴り続けた。
無責任な冒険ツアーがマスコミを賑わすが、参加する側にもツアー会社の信用度をチェックし、企画を吟味して自分の実力とスリ合わせる「自己責任」があり、納得した上で参加して遭った事故なら「運が悪かった」と諦めもつく。「ウチのツアー」は高度順応にかける日数が多く、その分費用も多少嵩むが、安心料の範囲内で、現地で自前のトレッキング会社を長年運営している実績や、社長がネパール国籍を取得して国会議員に立候補したエピソードも「買い」のポイントに加えた。
行き先をカラパタールにするかゴーキョピークにするかで迷った。カラパタールの方がエベレストに近いが、条件はやや厳しい(行動する標高が高く歩く距離も長い)。写真を撮るにはゴーキョピークの方が優れるとの説もあり、12月20日出発の「ゴーキョピーク登頂とレンジョ・パス越え20日間」に申し込んだ。年末年始の日程にオバサン客が集まらず、オジサン5名の催行ではツアー会社の採算が「?」だったかもしれないが、手ヌキが無かったことに拍手を贈りたい。
(旅程最初の成田→バンコク→カトマンズの2泊分レポートは省略、3日目のルクラ発をトレッキング「第1日目」としてレポートします。カトマンズの記事はトレッキングレポート後に掲載予定です。この機会に1996年秋の初回ネパール旅行のレポート(2008年12月掲載)の画面を改造して再掲載しました。)
いざ、エベレスト街道へ
エベレスト街道のトレッキングはルクラ飛行場から始まる(今も道路終点のジリからルクラまで1週間かけてキャラバンする旧守派がいるらしい)。エベレストに初登頂したヒラリー卿とテンジン・ノルゲイの尽力で建設されたルクラ飛行場は狭い斜面にあり、全長460mしかない滑走路はジャンプ台のように傾斜(18度)して、着陸は坂を登って止まり、離陸は坂を下って断崖に飛び出す。世界で最もトリッキーな飛行場と言われ、事故も世界一多かったが、最近は慎重運行になったようだ。
標高1400mの盆地にあるカトマンズは朝霧に覆われることが多く、標高2800mのルクラが雲中に入っても飛べず、視界が確保出来ても強風が吹けばダメ。空を睨んで条件が整えば大急ぎで客を乗せ、折り返し運行で飛べるだけ飛び、条件が悪転すれば本日終了。時刻表は全く意味を持たず、客は飛行場に詰めてじっと待つしかない。1週間待たされた話も聞くが、ムリに飛んで落ちるよりはマシなのだ。
幸い我々の便は30分の遅れで離陸し、40分間の雲上飛行で無事ルクラに着陸した。カナダ製の19人乗りツインオッタ-機にはバヌアツでも随分お世話になった。短距離離着陸性能(STOL)に優れ、質実剛健な機体は乱暴な扱いにもビクともしない。コクピットにドアが無く、全席自由の最前列に座ってパイロットの勤務状況をチェックするのも楽しい。
飛行場近くのロッジで現地スタッフと顔合わせをする。今回のトレッキングの宿泊はロッジに「素泊まり」で、食事は同行スタッフが作る。食材は勿論、鍋・釜・食器・石油コンロ・燃料・寝袋など装備一切をスタッフが担ぎ歩くので、5人の客にサーダー(シェルパ頭)、アシスタント、キッチンスタッフ、隊付ポーター、個人付ポーター(パーソナルポーター)など総勢15名のスタッフが同道する(テント泊の時代はこの数倍を要したという)。英国人が構築した「登山隊システム」の名残りで、国際賃金格差の産物でもある。
個人の登山装備(着替え類など)はダッフルバッグに入れて隊付ポーターに預け、ポーターが30~40㎏に括って担ぐ。ポーターはマイペースで別行動するので、カメラ機材など身の回り品を自分で担ぐ体力のない客は個人ポーターを雇う(今回は小生の他に山の写真屋が2人いて、夫々個人ポーターが付いた)。小生の個人ポーターのラム君は少年の面影を残す18歳のシャイな若者で、背に小生のカメラザック、胸に自分のザックを下げ、小生のすぐ後ろを影のように歩く。ラム君に預けたザックに雨具や飲料水も突っ込んで、小生は自分の体重だけ運べば良い。
9:15 出発。ルクラは登山隊やトレッキングの集結地だが、自動車はここまで上がって来れない(道路が無い)。ロッジや土産物店、登山用品を売る店がびっしり並ぶ狭い通りを、荷を背負ったポーターや馬が行き交い、そんな時代劇のような風景の中にスターバックスがあるのには笑ってしまう。ここの標高は既に富士山の7合目で、高度順応のため殊更にゆっくり歩く我々をポーターが追い抜いて行く。
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村外れのゲートをくぐり、段々畑で働く村人を見ながら土埃の立つ山道を進む。11:45、路傍のロッジの庭先を借り、カトマンズの日本食レストランの仕出し弁当で昼食。13:45、宿泊地パグデインのロッジに到着。先行したスタッフがホットジュースで迎えてくれる。クリスマスの時期で欧米人トレッカーが少なく、ロッジは我々だけの貸切り状態。割り当てられた部屋には既に荷物が搬入され、ベッドに寝袋(高所仕様のブランド品、ツアー中は小生専用)が広げてあるが、高度順応のため昼寝は禁止。3時のお茶が済む頃に谷底の集落に陽が陰り、火の入った食堂のストーブを囲んで夕食までとりとめのない時を過ごす。
パグデインに電気は一応通っているものの終日停電で、夕食は石油ランプの下。すぐ寝ると高度順応に良くないので、起きて大声で談笑するように言われるが、「トレッキング中禁酒」ではオジサンの会話は弾まない。唯一暖房のある食堂のストーブも燃料の薪が貴重で20時前に火が落ち、湯たんぽをもらって部屋に引っ込む。室温は0℃だが、モコモコの寝袋にポカポカの湯たんぽを入れると十分暖かく、すぐ眠りに落ちる。夜中に息苦しさを感じて目を覚ますが、深呼吸を続ける内に再び眠りに戻る。
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トレッキングの1日は、朝6時のノックと「オチャー」の呼び声で始まり、ドアを開けるとポットからカップに紅茶を注いでくれる。続いて「オユー」と声がかかり、洗面器に注いでくれたお湯で顔を洗う。身支度して食堂に行くと朝食が整えられている。このツアーでは毎食日本人好みの食事が供され、味もなかなかのもので、お代わりの手が伸びる。そうしている間に部屋から寝袋と荷物が搬出されて出発の準備が整う。
7:50 パクデインを出発。吊り橋を渡り、緩やかなアップダウンが続く。国立公園のチェックポストがあるジョサレのロッジで、先行したスタッフがラーメン、サンドイッチ、フレンチフライの昼食を準備して待っていた。更に進むと東にカングル(6367m)の白い峰が現れ、いよいよヒマラヤの核心部に踏み込んだと実感する。川の合流点に架かった高い吊り橋を渡ると、標高差600mの「ナムチェ坂」が始まる。坂の途中にエベレストが見える曲がり角があり、この日は運良くクッキリと山頂を望むことが出来た。息が切れないペースでゆっくりと登り、16時半にナムチェ到着。すり鉢の底に貼り付けたような集落に夜の帳が降りかけていた。
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朝食前に朝陽を撮ろうと三脚を持ち上げた時、腰にビリッと電流が走った。クセになっている腰痛が今回も起きてしまったが、不覚にもコルセットを持参し忘れた。杖にすがりつつガイド心当たりの店を聞き歩くが、医療品を置く店はない。土産屋のオバサンが「これどう?」と出してくれたスカーフを腰に強く巻くと誠に具合が良く、言い値の1200ルピー(約1200円)で購入した。
幸いこの日は高度順応日で、行動は午前中の2時間だけ。ナムチェの集落の最上部まで登ると残りはほぼ平らな行程で、タウツェ、エベレスト、ローツェ、アマダブラム、カンテガ、タムセルクを一望の大パノラマに腰の不調も忘れる。思い切りゆっくり歩き、途中で三脚を立てて時間をつぶしても、11:10には次の宿泊地のキャンズマに着いてしまった。
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エベレスト街道を離れゴーキョ街道へ、富士山頂の標高を超える
8:00 キャンズマを出発。30分ほど歩くと分岐点で、エベレスト街道は東の急坂を下り、我々は左折して北のゴーキョへと続く尾根を登り続ける。腕時計の高度計が富士山頂の標高3776mを越えた。自分の足で登った高度としては未踏の領域(車ではクンジュラブ峠(4780m)まで上ったことがあるが)。
この日も高度順応のため行動時間が短く、10:40にモン・ラ到着。ここもアマダブラム、カンテガ、タムセルクが姿良く撮れるポイントで、午後の時間を休養と撮影にゆったりと費やした。
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標高4000mの世界へ
モン・ラの「ラ」は峠を意味し、ロッジを出発すると3650mの谷底まで急な下りが続く。せっかく標高4000m手前まで登ったのにもったいないが、添乗員氏は「一旦下がって上がるのが高度順応に良いのデス」と言う。小生の息子よりずっと若い人だが、年に何度も高所トレッキングを引率するベテランで、彼の言うことには重みがある。
谷底のポルツエ・テンガのロッジを過ぎると山道は登りに転ずる(このロッジは帰途に忘れ難い場所になる)。しばらく樹林帯を登るとシャクナゲの灌木帯になり、間もなく森林限界を超え、渓流は凍りついて滝は氷瀑と化し、行き交う家畜も馬やゾッキョからヤクに変わる。標高4000mを越え、11:30にドーレのロッジに到着。裏山に登ると世界第6位の高峰チョ・オユー(8188m)のドッシリ構える姿がすぐそこにあった。
森林限界を超えるとストーブの燃料が薪から乾燥ヤクフンに変わり、見た目ではまだ生々しいブツをロッジのオカミが素手で掴んでストーブに入れる。手を洗う習慣が無いので、食事の注文があればその手で調理するのだろう。我々のキッチンスタッフは衛生研修済と聞くが、この辺りはあまり神経質に考えない方が良い。
ルクラを出発してから毎朝夕、添乗員が血中酸素濃度を測定する。標高に反比例して減る酸素を体がどれだけ採り込めているかを見る検査で、指先をクリップで挟んでレーザー光で血色を透視する簡単な器具だが、精度は高く病院でも使われている。平地での飽和値を100として、70台に下がると危険な状態と判断し、改善傾向が出なければ下山させるという。最年長の小生のデータが何故か最も良好で、今のところ高度順応は順調らしいが、急にダメになることもあるというので、標高4000m到達を機に高山病予防薬「ダイヤモックス」の服用を始める。
このツアー参加には高所医学専門医の診断書提出を要求される。受診料は安くないが、危険な行為に向かう自覚を促す効果もある。小生はOKをもらえたが、ダイヤモックス錠の服用を勧められた。脳の血管を拡げて高山病発症のリスクを下げる効果があると言うが、強い利尿作用があり、夜間は正確に2時間おきに目が覚める。寝袋からもがき出て、室外のトイレに行き、部屋に戻って寝袋に潜り込み、重いジッパーを肩まで引き上げる動作をすると、呼吸がかなり荒くなる。2時間毎にそれをやらせることが、実は高山病予防の最大の眼目なのかもしれない。
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