水が高いところから低いところへ流れるように、空気も気圧が高いところから低いところに流れる。冷たい空気は暖かい空気より重いので高気圧になり、風となって低い方へ移動する。南アジアでは夏になって大陸が温められると、インド洋の湿った重い空気が大陸に移動する季節風が生じ、ヒマラヤの壁にぶつかって大量の雨をもたらす。この壮大な地球の営みをアジア・モンスーンと呼ぶ。(以上は中学の理科と地理の復習)
ネパールも5月~9月は「雨季」で登山隊は入山せず、トレッキングもオフシーズンだが、それを承知で行く酔狂なツアーに夫婦で申し込んだ。歩くコースは4年前(2012年12月)に小生のみ参加した「ゴーキョピークとレンジョ・パス20日間」と同じだが、前回はレンジョパス越え(5345m)を天候悪化で断念した。今回はそのリベンジと、2年前(2014年7月)に夫婦で登った中国四川省大姑娘山(公称5025m)の標高が実は4995mでは?の疑いが生じ、「夫婦揃って5千m」やり直しの気分もあったが、2人分の旅費は「ひと財産」を要す。残り少ない老後資金をとり崩して「スカイツリーから飛び降りた」のは、ツアーパンフの「雲の合間から白い頂が見えた時の感動云々」の殺し文句に、「それが撮れるなら」とヘボ写真屋がスケベゴコロを起こしたからかもしれない。 さて、「白い頂」は撮れたか…
7月13日朝羽田空港を出発してバンコックで一泊、翌14日朝にバンコックからカトマンズに飛ぶ。いつものように右窓側の席を確保してくれたが、乾季はカトマンズ着陸前に見えるエベレストはじめヒマラヤの峰々は雲の中で、降下して厚い雲をくぐるともう滑走路だった。カトマンズ国際空港の世評は視界不良による運行混乱だが、一応着陸誘導システムがあるので国際線の大型機は何とか飛ぶ。しかし国内線は小型機で有視界飛行だから、運行はお天気次第。
7月15日、ルクラ便の始発(06: 15)に搭乗するべく05:00にホテルを出発。お世辞にもキレイとは言えなかった国内線ターミナルは内装リフォームで少し明るくなったが、セキュリティから先の搭乗待合室は旧態依然で発着案内の表示板もない。場内アナウンスも聞きとれず、ネパール語完璧添乗員の「行きますよー!」だけが頼り。年季の入った小型バスで駐機場に向かい、搭乗予定の小型機(19人乗りツインオッター)の脇でしばらく待機させられたが、ルクラが視界不良で閉鎖が解けない由で、バスは待合室に戻る。これは毎度のことで、飛ぶまで気長に待つのがローカルルールなのだ。
待合室に屯す約200人の半分は観光フライト(空からエベレスト)の客で、8時過ぎに雲が切れたらしく専用の中型プロペラ機が離陸し始め、ルクラ便運行にも期待が湧く。09:15にコールがあり、搭乗するとすぐプロペラが回る。変わりやすい山の天気の短い晴れ間を狙った有視界飛行だから、モタモタしてはいられないのだ。ツインオッター機は客室与圧がないので、離陸時に客室乗務のお姉さんが耳栓の脱脂綿と飴玉を配るのが懐かしく、ドアのないコクピットでパイロットが忙しく機器操作するのを覗き見るのも、ローカル便の楽しみの一つ。
3時間遅れのフライトは40分でルクラ空港に無事到着。正式名はエベレスト初登頂者の名を冠した「テンジン・ヒラリー空港」で、世界で最もトリッキーな空港と言われる。標高2800mで空気が薄く浮力が出ない上に、460mの短い滑走路は滑り台のように12度傾斜し、下端に着地して坂を登って停止、離陸は坂を走り下って断崖に飛び出す(離着陸のやり直しは不可)。以前は事故が頻発して残骸が滑走路端に転がっていたが、最近は安全第一で残骸も片付けられた。その代わり運休が頻発し、この日も後続フライトは飛べなかったらしい。
ルクラに飛行場が出来る前は、エベレスト街道を行く登山者はカトマンズから1ヵ月のキャラバンを要した。今も欧州人トレッカーには、道路終点のジリからルクラまで3千mの峠を4つ越え、1週間かけて歩く人が少なくないというが、我々にはその時間も元気もない。それどころか、ルクラからシャンボチェ(3700m)までの1泊2日を省略し、この区間を一気にヘリで飛ぶのが今回の旅程である。全20日間の旅程には天候不良を見込んで計6日の予備日が組み込んであるが、幸いこの日はヘリの飛行も可能で、ルクラから10分でシャンボチェ飛行場に着いた。
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シャンボチェ飛行場は、日本人実業家で今はネパール国籍を持つ宮原 巍(たかし)氏が、40年前にエベレストビューホテルの建設と平行して作った小型機用の飛行場で、その経緯を記した氏の著書「ヒマラヤの灯」はまさに「熱血と汗の冒険物語」である。氏は80歳を超えた今もポカラに3つ目のホテル建設に奔走中で、今回の旅でお会いして衰えを知らぬ活躍ぶりに接した。滑走路はだいぶ前に固定翼機の発着が途絶えて少々荒れたが、ヘリの発着には支障ない。
シャンボチェの標高(3700m)は富士山頂(3776m)とほぼ同じで、酸素濃度は平地の62%しかない。2800mのルクラから2日かけて歩けば高度順応の助けになるが、ヘリで10分の楽チン移動のバツとして、高度障害のリスクが高くなる。先ず手始めに飛行場外れのシャンボチェの丘を越えなければならないが、高度差100mの坂がやたらキツく感じられる。丘を下ってクムジュン村で昼食になったが、食欲はゼロ。頭痛を訴える人もいた。
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日本の北アルプスの森林限界は標高2600m付近だが、低緯度のネパールでは(シャンボチェ=北緯27度70分、徳之島と同じ)4200m辺りまで樹林帯が続く。3500mのクムジュンは空気は薄いが雰囲気は日本の南アルプスの麓の村を思わせ、咲いている草花も「高原の花」である。氷河時代の生き残りの「高山植物」には、森林限界を越えて4200m以上の岩場に行かないと出会えない。
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第1日目の宿は4年前と同じキャンヅマの「アマダブラム・ロッジ」。前回と違うのは、宿の客が我々のグループだけで、ロッジの前を通るエベレスト街道も全く人通りがないこと。雨季にはロッジを閉めて里に下るオーナーが多い由で、今回のトレッキングでお世話になったロッジの大半は「頼んで開けてもらった」という。天下のエベレスト街道が雨季にこれほど閑散とは思いもよらず、そんな季節に訪れる我々の「酔狂度」は並はずれ、と改めて自覚した次第。
もう一つ決定的に違うのは「山の景色」で、前回は王者エベレストに迫る勇士ローツエ(8516m)、妖艶アマダブラム(6812m)、秀麗タムセルク(6623m)の名峰たちが青空ステージで大ミエを切り、昼前にロッジに着いてから陽が沈むまで三脚を立てっぱなしだったが、今回は最後まで白い緞帳が上がらず、写真屋は初日から開店休業。
高地行動中は禁酒でビールもダメ(アルコール摂取→脱水→高度障害)。夕食後は「高度順応には出来るだけ遅くまで起きて談笑すること」と注意されるが、酒ナシではオジサンの談笑は弾まない。早々に寝袋に潜り込んですぐ寝付いたものの、息苦さで何度も目が覚め、その都度深呼吸を繰り返す。シャンポチェから下ったキャンヅマの標高は3550mだが、それでも富士山の9合目で、睡眠中に呼吸が浅くなって、酸素不足でパクパクするのは仕方がない。
翌朝4時半に窓の結露を拭うと山がうっすら見えた。写真屋は何はともあれ撮りに出るしかない。外気温がそれ程低くないので、簡単な身支度で機材を引っ掴み飛び出す。東のローツエとタウチェ(6367m)は輪郭がはっきり見えるが、南のアマダブラムは雲にまぎれ、期待のタムセルクは上半身を露わさない。朝食に呼ばれるまで粘ったが、作品になりそうな写真は1枚もナシ。(ちなみに今回の全行程で「山らしい山」が見えたのは、この朝だけ)。
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朝8時にキャンヅマを出発、前回は次の宿泊地だったモンラ(3972m)は「お茶休憩」だけで通過し、次のポルツェタンガ(3680m、ポルツェの谷の意)まで頑張る。せっかく4千m近いモンラまで登ったのに300mも下るのはモッタイナイが、一旦高度を上げて低酸素に体を慣らし、低い場所に下って宿泊するのが高度順応に最も有効と言われる。今回はヘリ利用で不足気味の高度順応を補う旅程を組んだのだろう。
連れ合いは「高度恐怖症」で(高所恐怖症ではない)低酸素に過敏に反応する。出発の1週間前に予行演習で富士山に登ったが、7合目(3000m)で食欲を失い行動が緩慢になった。本番でも、ヘリを降りてから2日間、食事が喉を通っていない。ポルツエタンガに着いて血中酸素濃度を測ると(簡単な器具で測定できる)値は既にレッドゾーンで、この先更に高度を上げると危険な状態に陥りかねない。ちなみに、軽度の高度障害(食欲不振、頭痛、下痢、嘔吐、睡眠障害等)は「山酔い」で、うまく高度順応できれば改善するが、肺水腫や脳水腫等の「高山病」の症状が出ると生命にかかわるので、直ちに強制的に下山させられる。
ポーターが非常用酸素ボンベを担いでいると聞いたので、添乗員に相談すると、予防的に酸素を吸うと体力が回復することが多いという。酸素使用料は安くないが、行動不能・強制下山は困る。決心して頼むと「早速やりましょう」となり、横になってマスクを装着すると、血中酸素値がすぐ地上レべル(100%)まで上昇、本人は寝息を立て始めた。1時間半吸って「何となくスッキリした」と言う。マスクを外すと血中酸素がすぐレッドゾーンに戻り、効果ナシか?と疑ったが、夕食を見事に完食、その後も体調を崩さず最後まで元気に歩き通した。低酸素による内蔵機能低下が1時間半の酸素吸入でリセットされたのだろう。他の女性客も同じ体験をしたので、予防的酸素吸入の効果は確かなようだ。
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谷底のポルツェタンガから標高差約600mを登り返してラバルマへ。いよいよ標高4千mの世界に入る。前回はこの段階で「ダイヤモックス」を服用した。脳の血管を拡張して酸素欠乏の症状を緩和する薬で、朝夕半錠の服用で高山病の予防に有効とされている。今回も事前検診で高所登山専門医に処方してもらったが、薬は飲まないで済めばそれに越したことはない。小生には特に高度障害の症状がなく、連れ合いも酸素吸入で復調したので、今回は2人共「ドラッグフリー」で行くことにする。(高度障害のことばかり書くが、心配はこれに尽き、景色の話題もないのでお許しいただきたい。)
キャンヅマから先は4年前と同じルートを歩いている筈だが、こんな急坂を登ったり下ったりした記憶がない。連れ合いには「アップダウンがないのでアンナプルナ内院よりラク」と語って誘った経緯があり、「話が違うじゃないの!」と無言の抗議が背中に漂う。4年前は今より少し若くて元気だったせいもあるだろうが、乾季に青空の下を世界の名峰を眺めながらウキウキ歩くのと、「雨季」に鬱陶しい雨具を着て歩くのとでは、気分や体調に違いが出るのは止むを得ない。雨季の空模様はどうかと言うと、午前中は薄日がさすこともあるが、昼に小屋に着くと同時に本格的に降り始め、夜半に雷雨になり、夜明け前に雨があがるのが典型的パターンで、歩行中に大雨に遭わないのがせめてもの幸いと言うべきか。
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目が覚めると山が見えている。キャンヅマの朝以来使う機会のなかった交換レンズと三脚を引っ張り出し、小屋の先の丘に急ぐ。そこまで登れば世界6位のチョ・オユー(8188m)の白い峰が見える筈だが、その方角にもしっかり厚い雲がかかっている。(結局チョー・オユーとは最後まで出会えず。)こうなってはカルカでも撮るしかない。
ラバルマはヤクとゾッキョ(ヤクと牛の一代雑種)の放牧が本業で、石積みのフェンスで囲んだ「カルカ」がいくつもある。家畜は昼間は周辺の山野で草を食い、夜はカルカに帰って寝る。フェンスは家畜をユキヒョウなどの肉食獣から守るために築いたもので、朝夕に家畜を出入りさせる時は石積みの一部を崩して通路を開け、通り終わるとすぐ積み直す。一見雑然と積んだように見えるが、大小さまざまな石を絶妙な配置で積み上げる熟練の技で、一重の石壁でも簡単に崩れない。この石積みはチベット系ネパール人の伝統技術で、職人は建築や土木の現場で重用されるという。
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マッチエルモはゴーキョのルートを歩くトレッカーの殆どが泊まる要所で、シーズン中は診療所が開設される。4年前と比べると新築のロッジが何軒も増えているが、ここもトレッカーは我々以外に誰も居ないようだ。
当初の予定では、この日は次のパンガ(4480m)まで進む予定だったが、パンガに開いているロッジがなく、マッチェルモ停滞に変更。標高がそれ程違わないので高所順応に影響なく、マッチェルモの新築ロッジ連泊で休養するのも悪くない。だがジッと休養は許されず、「裏山登り」を課せられる。前回にも登って思いがけずエベレストが見えて驚いたが、雨季にその「お駄賃」は期待できない。ただひたすら高度順応が目的の尾根歩きだが、特に支障なく4800m地点まで登って順応を確認した。
実はここで「高山病」の重症患者が出た。それが何とネパール人のサーダー(シェルパ頭でツアー全般を采配)! 10代から高所で仕事をしてきたベテランで(現在56歳)、4年前のツアーでもサーダーを務め、穏やかな統率と何気ない心遣いに信頼感を持った。その彼がマッチェルモで肺水腫を発症(肺がゴボゴボいう)、下山途中に呼吸困難に陥って「行倒れ」になり、村人にクンデ(クムジュンの隣村)の病院に担ぎ込まれたのだ。「まさか彼が・・」と言うしかないが、高山病はベテラン・シロウトにも年齢にも関係なく、誰でもその時の体調次第で発症するものらしい。幸い1週間の入院で回復し、帰途のエベレストビューホテルで再合流できたが、彼より一回り以上も年長の日本老人登山隊が全員元気に歩き通したのに「プロとして恥かしい」としきりに恐縮していた。
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いよいよゴーキョに入る日。連日の雨で登山道が崩落した箇所があるが、バイパスのルートで通過できると言う。現場に着いてみると、垂直に近い崖をよじ登って幅20㎝もない岩棚をトラバース(斜行)しなければならず、高所恐怖症の足は前に進まない。崖の中程で手を貸してくれるガイドから「ヤクが通る道だからゼッタイダイジョーブ」と妙に説得力のある激励を受け、コワゴワ通過していると、その脇を60㎏超の荷物をオデコのロープ1本で担っているポーターが、狭い岩棚をヒョイヒョイ飛び渡って行く。やっぱりどの道でもプロはレベルが違う。
崩落現場を無事通過し、最後の急な石段を登り切ると平坦になり、ゴーキョ入口の第1池に到達。先行していたサブガイドが「ブルーポーピー、咲いてますよー!」と叫ぶ声が聞こえた。 続きは後編へ!
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