雨季のヒマラヤ・トレッキングの顛末を前2回の記事(2016年8月、9月)でレポートした。ネパールは20年前の1996年10月に訪れてから今回で4度目で、これまで滞在した日数を数えてみたら、2ヵ月を超えていた。仕事で駐在したカナダ・米国と、JICAシニア海外ボランテイアを2年勤めたバヌアツを除けば、他の国で過ごした日数はせいぜい数日で、ネパールがとびぬけて長いことに改めて気付いた。
と言っても、小生が「ネパール通」になったわけではない。2ヵ月の大半は、ヒマラヤの山道を苦しい息で黙々と歩いた日々で、住民のとふれあいはなく、ガイドやポーターとの会話も必要最小限だった。興味の対象はもっぱら写真のネタとしての風物で、ネパールの歴史や文化は念頭になく、後日当サイトに記事を書く段になって、ネットで得た付け焼刃の情報に、シロウト談義を混ぜ込んでお茶を濁してきた。もっと意識して旅していたら「ネパール通」になっていたかもしれないが、後悔しても始まらない。
小生がネパールを考えると、どうしてもバヌアツと比べてしまう。国の面積、人口、GDP総額では、ネパールはバヌアツの約100倍あるが、両国が似たデータも少なくない。例えば、一人当たりGDP値は共に2,500ドルで、GDPを構成する農・工・商の比率もそれほど違わず、経済の発展段階は似たようなものと言えそうだ。平均寿命、乳幼児死亡率、識字率など、福祉や教育の面でバヌアツがやや優れているのは、人口27万の小国バヌアツでは、先進国の援助が隅々まで浸透して効果が出やすい、という事情を表しているのかもしれない。
ネパールとバヌアツで最も大きく異なるのは失業率だろう。最新データではないが、バヌアツの1.7%に対し、ネパールは46%と極端な差がある。バヌアツに職場が豊富にあるわけではないが、海外出稼ぎの話は聞いたことがなかった。定職がなくても食えるので、「失業」という概念が無いのかもしれない。一方のネパールは、カトマンズ空港の入出国管理が常にネパール人の海外出稼ぎ者でごった返しているのを見ても、国内に就労の機会が乏しいことは明らかである。(統計データ:米国CIA The World Factbook)
国内に産業を興して国民の生活を豊かにするのは、政府の重要な役目だが、ネパールの政治は混迷が常態で、全く機能していないと言う。今回の滞在中(2016年7月)にも政変があり、政権が議会党からマオイスト(毛沢東派)に戻った。頻発する政権交代は党利党略でさえ無く、利権漁りで政権をたらい回ししているだけ、という人もいる。王政から共和制に移行し、かたちの上で民主的な選挙が行われても、国民が選んだ政治家をしっかり監視し、国民の為に働かせるシステムが機能していなければ、権力に就いた「選良」は必ず腐敗する。
民主主義の成熟には、国民1人ひとりが賢くなるしかない。西欧先進国には、市民が厳しい試練を通過し、文字通り血を流してシステムを築いた歴史がある。日本は明治維新と昭和の敗戦・占領の2度の外圧ショックを経て、曲りなりにも西欧的民主主義が成立したと言えるだろう。ネパールにも動乱の時代は幾度もあり、近年になってからも民主化運動で解放区が出現したり、マオイストの武装蜂起があったりしたが、国民の大多数が権利に目覚め、政治参加するような基盤は出来ていない。一方で、極端な圧政や収奪もなく、低レベルで安定しているとも言えるが、その「ぬるま湯」が、この国の進化を阻害している面も否定できない。かと言って「国民を覚醒させる試練」の勃発を願うわけには行かない。結局は、長い目で「市民意識」の醸成を待つしかないのだろうか。(西欧民主主義の行き詰まりは、この際ワキに置くとして)
20年も経つと街の様子は変わるものだが、小生のカトマンズの印象は、20年前の初訪問時と変わっていない。失礼を承知で率直に書けば、迷路のような小路が不規則につながった街に、粗雑で薄汚れた建物がゴチャゴチャと並び、あちこちゴミだらけ。住民は忙しそうに働いているが、生気はあまり感じられない。敢えて20年前と違う点を挙げれば、バイクがやたら増えてむやみに走り回っていることで、一体何の用があるのだろう?と思ってしまう。
前年の地震によるカトマンズの被害は限定的で、全壊した建物は少なかった。補修や建て替えの工事はあちこちで目にするが、文字通りの「復旧」(壊れる前の状態に戻す)で、同規模の地震が来たらまた壊れるのではないか。公共工事は海外援助を待つのみで、政府が先頭に立って再開発を進める姿勢は見られない。経済活動は「オカネの都合のつく者が勝手にやれ」が原則で、良く言えば「民間主導」だが、「無政府状態」と言う方が正確だろう。
ゴミの氾濫に関しては、カースト制度の崩壊が原因との説明を聞いたことがある。民主化以前は「清掃階級」とその生活を保障する「旦那階級」が存在したが、「清掃階級」は人権に少し目覚め、「旦那階級」は自分の利益にならないことにオカネを出さなくなった。政府(行政)はゴミ処理に取り組むカネも気もなく、その結果、カトマンズを流れる河川はゴミの山で埋め尽くされる。(下の写真参照)
今回雨季に訪れて発見したことがある。河川敷がすっかりキレイになっていたのだ。行政がガンバったわけではなく、雨季で上流のヒマラヤに降った雨が、中流のカトマンズのゴミの山を、下流へと一気に押し流した結果で、いわば巨大な天然の水洗トイレが働いたのだ。パシュパティナート(火葬場)の河原に淀んでいた骨灰や焼け残りの屍体も、流れ下って聖なるガンジス川に合流できたとすれば、それはそれで、ありがたい神仏の御ワザかもしれない。
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雨季トレッキングの予備日が3日残った。山が見えないならば里で動物を見ようと、インド国境のチトワン国立公園観光の手配をしてもらったが、ヒマラヤの大雨がこの地域で大洪水を起こし、せっかくの名案がボツになった。代案にカトマンズ近郊の古都パタンの見学を思い立ったら、ツアー仲間に賛同者があり、「フツーの観光では行かないところ」という希望も容れてもらい、パタンと周辺の町を巡る日帰りツアーが催行になった。
「最初にブンガマチに行きます」とネパール人のガイドさんが日本語で言うのを聞いて、古い町並みと暮らしを保存する「文化町」の見学と早合点した。カトマンズから南へ1時間走り(距離は近いが時間がかかる)、山間の集落に入ると「Bungamati」の標識(右)がある。ブンガマチは「文化町」のネパール訛りではなく、地名だったのだ。
ブンガマティは、ネワール族の伝統文化を色濃く残す「文化町」で、前年の地震で被害が少なかったカトマンズ盆地の中では、比較的大きな被害を受けた地域でもあり、震災のつめ跡を実見する機会にもなった。
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ブンガマティからパタンの旧市街に行く途中で、お祭りに出会った。バスの中から見ただけだが、大勢の人が集まって大賑わいだった。写真に気を取られてガイドさんの説明を聞き漏らしたが、有名なマチェンドラナート寺院の「山車祭り」かもしれない。(案内書には祭りは4月とあり、時期が違うが)
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カトマンズ盆地にはカトマンズ、パタン、バクタプルの3つの王朝が栄えた。パタンは首都カトマンズのすぐ隣りだが(南へ4㎞)、3都市の中では最も古く、西暦299年に始まったとされる。現在の旧市街に残されている王宮や寺院は、16世紀~18世のマッラ王朝の時代に建てられたもの。
20年前の最初の旅でパタンのホテルに泊まり、早朝の散歩や旧市街見学の印象が強く残っていた。もう一度行ってみたいと思ったのが今回のパタン観光の動機だが、期待がやや外れたのには理由が幾つかある。主因は小生がネパール慣れして感受性が鈍った為だろうが、パタンはカトマンズ以上に無秩序な乱開発が進み、文化遺産が醜く増殖した市街に埋もれてしまったことに加え、地震で被害を受けた史跡がブルーシートや金網で覆われ、無傷で残った文化遺産もホコリが積もっていたり、小さな破損が放置されていたりして、興が削がれたこともある。「無政府状態」が、この国最大の資産である観光資源まで損ねては、取り返しがつかないことになる。
20年前は、入場券を買えば隅々まで見学出来たが、昨今は王宮や寺院の「内陣」の部分が「ヒンズー教徒以外立入禁止」になっていることが多い。イスラム過激派対策かと思っていたが、今回のパタンの見学で「ハハン」と思い当たった。「立入禁止」になった内陣に、おおらかな性描写のレリーフがズラリと掲げられていたのを思い出したのだ。ヒンズー教徒にとって神聖な文物でも、異教徒の中には不道徳で不快と思う人がいる。この種の「文明的クレーム」は扱いが面倒で、「猥褻物公然陳列」を理由に援助を渋られても困る。「無政府状態」でも、うまい口実を考える人はいるようだ。
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王宮広場から北へ200mほど歩くと、通称「ゴールデン・テンプル」がある。三階建ての本堂は金箔で覆われ、仏像や彫刻も黄金をまとっているが、平泉金色堂のような権力的威圧でも、秀吉の茶室のような成金趣味でもなく、庶民的な宗教心が伝わってくるように感じられる。インドや中国の寺院や仏像は目にも鮮やかな極彩色で、色が褪めるとまた極彩色に復元される。黄金寺は「塗料でお化粧するかわりに、金箔を貼りました」ということかもしれない。
日本の古い時代の仏像も、造られた当初は極彩色か金箔貼りだったが、時を経て剥がれ落ちても修復せず、むき出しになった木肌が酸化して黒くなったのを「ワビ・サビ」とありがたがる。黄金寺の金箔は何度も貼り替えられてきた筈だが、「無政府状態」が続くと「ワビ・サビ」になるのか、あるいは朽ち果てるだけなのか、少々気になる。
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パタンで昼食の後、西5kmに位置するキルティプルに向かう。キルティプルは12世紀にパタンの衛星都市として建設されたが、独自の王宮や壮麗な寺院を持つ都市として発展し、一時はカトマンズやバクタプルと肩を並べる勢いを持った。しかし18世紀中頃、ネパール王国の祖となったプリトビ・ナラヤン・シャハに攻略され、陥落した歴史を持つ。
首都圏の無秩序な都市開発もキルティプルまで届いておらず、二つの丘に築かれた古都はネワールの伝統文化を穏やかに伝えている。丘の麓にトリプパン大学の中央キャンパスがある。在籍学生数15万のネパール最大の大学だが、旧市街には学生らしい若者の姿はなく、町で見るのは伝統衣装のネワール族の老人と孫たちばかり。
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見学の最後はキルティプルの「ネワール食堂」。ネワールの夫人会が町おこしで数年前に始めたという。古い建物のトンネルのような通路をくぐると、不思議な空間がポッカリと開き、オバサンたちがゴザに座り込んで、ゆったりと調理をしている。「除菌好き」の昨今の日本人は保健所に通報したくなるかもしれないが、我々が幼少の頃の日本の農家もこんな具合だったと、古い記憶がよみがえる。試飲した名物の「地ビール」(ロキシー)は酸っぱくて喉を通らず、そう伝えると「出来そこないでした」と引っ込めたが、蒸留酒のチャンはお代わりをしたくなるほど上出来だった。
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