不明にして「パンデミック」(世界的流行病)なる用語を知らなかった。20世紀に起きたパンデミックに1918年~1920年に大流行した「スペインかぜ」がある。当時の世界人口の1/4に相当する5億人が感染、1700万~1億人が死亡したとされる。死亡者数の推定に巾があるのは、第一次大戦中で各国が実情を秘匿し、且つ死因特定の統計が無かったためだろうが、最小値を採っても大変な死者数である。日本でも当時の人口5千万の内2300万人が感染、39万人が死亡したとされる。皇族の竹田宮、東京駅を設計した建築家辰野金吾、作家島村抱月などもスペインかぜで亡くなった。

「スペインかぜ」と呼ばれるが、スペインが発生地だったわけではない。大戦の当事国(独、英、仏、米国など)が情報管制を敷く中で、中立国だったスペインの情報だけが流布し、国王アルフォンソの罹患もあって、スペインの被害が著しいという印象から「スペインかぜ」と呼ばれ、そのあだ名が今日まで残ったらしい。実はスペインかぜの発生地は米国で、カナダ雁から豚に伝染したウィルスが変異して人に感染し、第1次大戦でヨーロッパ戦線に派兵された米軍兵士が、世界的流行の元だったとされる。スペインはとんだ「ぬれぎぬ」をきせられたものだ。

そのスペインが疫病大流行の犯人だったケースがある。コロンブスの「新大陸発見」に続いてスペインから多くの冒険的開拓者が中南米に渡り、先住民を「征服」して植民地化した。中米のアステカや南米のインカを滅ぼしたものは、銃器よりも入植者が持ち込んだ病原菌で(天然痘、麻疹、腸チフスなど)、これらの疫病に免疫を持たない先住民が感染し、インカは人口の95%を失ったとされる。真偽を疑いたくなる死亡率だが、19世紀になって南太平洋の諸島でも同様の事態が発生した。バヌアツでは100万人を超えていた人口が4万に激減、イースター島でもほぼ全滅したことからも、信じるに足るデータだろう。

歴史上最大のパンデミックは14世紀の「ペスト」大流行とされる。当時の世界人口4億5千万の内1億人が死亡、特にヨーロッパでは域内人口の60%が失われた。当時のヨーロッパは世界で最も都市化が進んだ地域で、人口密度が高く、且つ都市環境が不衛生で医療も乏しかった時代ゆえ、感染力の強い疫病が暴走した事態は想像できるが、21世紀になっても、先進国の欧米で新型コロナが猛威をふるっているのは、いかなる事情に拠るのだろうか。

14世紀と違うのは人の往来の速さと激しさで、疫病もあっという間に世界中に拡がってしまう。新型コロナが欧米の複数の都市で同時多発的に発生したのは、それらの都市と中国の武漢との間で人の往来、つまり経済活動があったことを示している。感染が急激に広がったのは三密の「濃厚接触」があったからで、欧米では「あいさつ」に握手・ハグ・キスの風習がある一方、手洗い・うがい・マスクの習慣はなく、マジメな教会通いや、親密な近所づきあいも一因かもしれない。更に深刻な状況として、欧米先進国でも、都市スラムの劣悪な生活環境は14世紀当時とあまり違わず、流入し続ける難民がそれに拍車をかけている状況も同じと言えるだろう。

それにつけても、パニックに陥った社会で起きやすいマイノリティ(弱者)への反感や差別が気になる。スペインでは14世紀のペスト大流行時にユダヤ人が罪を着せられて反ユダヤ主義が燃え上がり、セビリアのユダヤ人街で起きた放火・略奪・虐殺が全土に広がった。日本でも関東大震災時に、デマを発端に市民が朝鮮半島出身者約6百人を殺害した事例がある(もっと多かったとの説もある)。今回の新コロナ騒ぎでも、ヘイト団体やヘイト本屋がチャンス到来とばかり張り切っているらしいが、憎しみは自分の心を狭くするだけで、何の救いも得られない。社会的鬱屈の発散だとすれば、虐めの対象にしている人たちは、本来同志とするべき人達ではないか。



赤三角: 2007年の旅で訪れた都市

セビリア (セビーリア、セビージャ)

セビリアはロッシーニの「セビリアの理髪師」をはじめ、モーツアルトの「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」、ビゼーの「カルメン」、ベートーヴェンの「フィデリオ」など有名オペラの舞台になった。大作曲家たちが活躍した当時のセビリアは世界の中心で、華やかで憧れの的だったのだろう。

セビリアは地図では内陸都市に見えるが海抜は7m、大型船がグアダルキビル川を遡行して直接アクセスできる海洋都市なのだ。8世紀に始まるイスラムの時代から交易で栄え、13世紀のキリスト教復権(レコンキスタ)でカスティーリャ王国の中心都市になり、15世紀の王国統合で成立したスペイン王国の事実上の首都として、新大陸との交易(先住民にとっては収奪と殺戮)の拠点になって、世界中の金銀財宝がセビリアに流れ込んだ。1992年にコロンブスの「新大陸発見」500年を記念して開催されたセビリア万博が「ドロボウ市」と陰口をたたかれたのも、やむをえないところがある。

マドリードからセビリアに新幹線で到着。
歌劇カルメンの舞台になったタバコ工場。現在は大学の事務棟。
1992年万博の中央会場となったスペイン広場。
タイル絵の展示場。グラナダ落城(レコンキスタ)を描いたもの。
ドン・キホーテの一幕。
コロンブスが連れ帰った新大陸先住民を披露。
大聖堂は1402年に着工、16世紀に完成。規模はバチカン本山に次ぐ。
門前の風見(ヒラルダ)は鐘楼の上に据えられたものと同じ。
中から見ても壮大な建築物。
金ピカの内陣。
コロンブスの棺。当時の4人の王に担がれている。
ヒラルダの塔はモスクのミナレットをカトリックの鐘楼に改造。地上70m展望台に歩いて登る。
展望台からセビリア市街の眺め。
昼食のレストラン近くの円形のしゃれた建物。
市街を走るトラム。
アルカサル(宮城)は14世紀にカステイーリャ王国のペドロ1世の命により、イスラム時代の宮殿跡地に建設された。

スペイン各地からイスラム教徒の職人を集め、グラナダのアルハンブラに似た宮殿を作り上げた。

ペドロ1世はキリスト教徒でありながらイスラムの衣装をまとい、アラビア語を使ったと言われる。

キリスト教徒が異教徒に寛容だったのはレコンキスタの初期だけで、ペスト流行の前後からイスラム、ユダヤ教徒への弾圧を強めた。



カルモナ

セビリア郊外(と言っても東へ40Km)のカルモナのパラドールに連泊。パラドールは観光政策と地域振興の一環として推進されたプランで、古城などの歴史的建造物をホテルに改装し、半官半民で運営する仕組みである。料金はやや高めと言われるが、都市のホテルに比べればリーズナブルと思う(都市部ではパラドールは認可されない)。我々が宿泊したカルモナのパラドールは、14世紀のムーア(イスラム)様式のアルカサル(宮城)をベースにした施設で、当時の城壁に囲まれているが、ホテルの建物は中世を模して新築したものだろう。

ちなみにこのアルカサルには、1582年に九州のキリシタン大名がローマ派遣した天正遣欧少年使節団や、1613年に伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節の支倉常長の一行が滞在した記録がある。500年前に彼等が見たであろうカルモナの城下町が、ほぼそのままの雰囲気で残っているのも興味深い。

カルモナのアルカサル城門。
パラドールの広い中庭はイスラムの伝統。
パラドールの回廊。
ロビー。部屋の写真はないがモダンな客室だったと記憶する。
断崖に面したパラドールから平野の眺め。
夕暮れのカルモナ市街は中世の雰囲気を強く残している。
パラドール周辺に市民の暮らしがある。
断崖の上に築かれたアルカサル。


ミハス

地中海に面したスペイン最南部は、英国などからの避寒客をあて込んだリゾート開発が盛んで、ゴルフ場付きの別荘やマンションの建設ラッシュが進んでいた。コスタ・デル・ソル(太陽の海岸)の中心がミハスで、白い漆喰壁で太陽熱を反射する工夫が地域の伝統となり、「白い村」としてスペイン有数の観光地になった。

ミハスは「白い家がいっぱい」以外に解説を要しない。

EU加盟でヨーロッパ全域から観光客が訪れるようになり、ミハス周辺にゴルフ場やヨットハーバーなどの建設投資が活発だった。

ロンダ

内陸のロンダは新石器時代から人が定住し、古代ギリシャ人もこの地に定住して「ロンダ」という地名を付けた。ローマ帝国、西ゴート王国の時代を経て、713年にイスラム支配下に入って都市として発展。レコンキスタで1485年にキリスト教圏に戻り、その長い歴史が圧縮されたかたちで残っている。我々は時間の制約から1785年に建てられたスペイン最古の闘牛場と同時代の石造りの橋を見ただけで、見落としたものが多かったかもしれない。

スペイン最古の闘牛場。
ケープを考案して近代闘牛のスタイルを作ったフランシスコ・ロメロ。それ以前は乗馬した闘士が牛と闘ったらしい。
闘牛場のバックヤード。
18世紀に建造されたヌエボ(新)橋(高さ98m)。新旧街を結ぶ。
下のビエホ橋は1000年前のイスラム時代のもの。
ヌエボ橋からの眺め。
ローマ時代の遺跡も見える。
新市街。

コルドバ

コルドバは756年に成立した後ウマイヤ朝の首都で、10世紀に当時世界最大の人口100万を擁した。13世紀にカステイーリャ王国のフェルナンド3世が奪還してレコンキスタを達成、イスラムの都を急いでキリスト教風に改造した。その結果、敵対関係にあったイスラムとキリスト教が奇妙に混在する姿を今に残している。

ローマ時代の橋。2000年後もビクともしない。

旧市街西門のアルモドバル城門。

城門前に立つローマ時代の賢人セネカ像。コルドバに生まれた。
マイモーン像。12世紀に活躍したユダヤ教徒の賢人はヒューマニズムの先駆者とされる。
ユーモラスな雨水の吐出し口
2万5千人収容の巨大モスクを改装したメスキータ(大聖堂)。
金張りのイスラム風の柱が無数に並ぶ。
最奥に設けたキリスト教の祭壇。
贅を尽くした装飾。
パイプオルガンまで金ピカ。
ランチのレストランで結婚式に出会った。
グラナダに移動の途中、中世の名残りを残す丘上都市を見た。