夏山シーズンの出鼻をくじくように、北海道トムラウシの登山ツァーで中高年の大量遭難が起きた(2009年7月、8名死亡)。我々の百名山行を気遣って下さった方もおられ恐縮しているが、お陰様で8月24日に100座目の奥穂高岳を登頂し、無事に百名山完登を果たした。ご声援に心から感謝申し上げます。今年の登山の様子は来月号でレポートしたい。

トムラウシ遭難事故で思ったことがある。登山は険阻な山道を歩く危険な遊びゆえ、事故はつきものと思った方がよい。要は、避けられる事故を起こさないことである。(遭難者の8割が中高年と報道されるが、山で行き交う登山者の8割が中高年だから計算は合う。若い人の事故には、高尾山でハイヒールの足を挫いた娘さんも含まれるのだろう。) 今回のトムラウシ遭難は雪崩や滑落の結果ではない。夏山の登山道で、メンバーの半分が行き倒れたのだ。荒天が原因と聞くが、登山で天候急変は「想定内」の筈。これは偶発的な「事故」ではなく、何者かの重大過失によって引き起こされた「事件」と言うべきだろう。

彼等のツァーの行程を知り、小生にはムリだと思った。北海道の屋根、大雪山の最深部の稜線44kmを避難小屋に2泊して踏破するプランである。1日8~10時間の行動は頑張れるとしても、問題は避難小屋2泊だ。避難小屋は文字通りの緊急避難用施設で、物置小屋のようなものと思えば良い。登山者は寝袋と3日分の食糧を担いで歩く。冷雨に濡れても火の気はなく、食糧もレトルト飯がせいぜい。屈強な山男ならばともかく、代謝能力の落ちたアラコキの身では、疲労に加え睡眠不足とカロリー不足で体力消耗は限界に達し、登山ツアーが彼岸行きになっても不思議はない。

ガイドの判断を云々する以前に、このツァーを企画し、中高年を集客して催行した会社に、責任の大半があるように思う。「大半」と書いたのは、客の責任もゼロではないという意味だ。ツァーに乗れば旅の手配の手間は省けるが、登山に必要な体力や装備が軽減されるわけではない。自分の力で歩き通せるコースかどうか、厳しく判断してから参加するのが客の責任である。 中高年百名山組の中には、自力ではムリだがツアーなら大丈夫、と思う人がいる。権威らしきものに無防備に身を委ねる日本人の性癖が、こんなところにも表れるのだろうか。ツァー会社の中には、こうした客層をビジネスチャンスと捉え、権威らしき体裁を整えて無造作に催行するところがあるようだ。(我々が百名山でお世話になったツアー会社は信頼がおけると思ったが。) 重大事故は、悪条件と悪運が重ならなければ滅多に起きないが、基本を怠るといつか必ず起きる。これは長年の会社員生活で学んだ知恵である。 


美ヶ原  標高: 2034m    登頂: 1953年5月

展望の優れた山は、逆に遠くの場所から見える山でもある。無線中継所にはもってこいで、美ヶ原山頂の王ヶ頭には昔から無線塔が林立していた。小生が小学6年生の時に美ヶ原に登った目的は無線局見学で、それが契機でラジオ少年になった(無線技師になる夢は果たせなかったが)。同時にこれが小生の百名山登山の第1号でもあった(深田久弥の「日本百名山」が出版されたのは、この11年後の1964年だが)。

百名山には、山頂近くまで車やケーブルで行ける山がある。美ヶ原は、山頂にあるホテルの送迎バスを降りて裏庭に回ると、そこが山頂だ。真冬でも雪上車の送迎があり、楽チン百名山のトップの座は間違いない(一般駐車場からは少し登るが)。下の冬景色の写真は1998年1月に写真クラブの撮影会で撮った。(2020年夏の美ヶ原散歩レポートもご覧ください。)

厳冬の美ヶ原山頂から浅間山
北アルプス(南岳~槍ヶ岳の稜線と常念岳)と霧氷
木曽御嶽
乗鞍岳
信越国境の山々
松本平と北アルプス南部の峰々
八ヶ岳と富士山
北アルプス北部の峰々
王が頭の無線塔群
山頂に立つ石仏
午後の強風に地吹雪が舞う


霧ヶ峰  標高: 1925m  登頂: 1959年5月

駐車場から山頂まで歩いて30分。歩かずにリフトでも行ける。「登山」の気分は出ないが、深田は「歌でもうたいながら気ままに歩く。気持ちのいい場所があれば寝ころんで雲を眺め」と書いている。厳しい山だけが山ではない。楽しい山、遊べる山も加えたところに「深田百名山」の懐の深さがある。

初めて霧ヶ峰を訪れたのは高校3年の春で、受験勉強の息抜きに級友と歩いた時の記憶は深田が書いたとおりだった。最近再訪したところ、無粋な砂利道の柵に「私有地につき立入禁止」の表示があり、「寝ころんで雲を眺める」ことはかなわなかった。(右は七島八島から車山を遠望。)



蓼科山  標高: 2530m  登頂: 2000年5月4日

尖がった峰々が背比べをする八ヶ岳の北端に、ひょっこりと蓼科山の坊主頭がある。「諏訪富士」の別名もあるが、端正というより愛嬌を感じさせる。大河原峠から登れば1時間少々で頂上に達するが、我々は「女神茶屋」の地名に惹かれ、南麓から登った。観光ついでにスニーカーで登る若者もいたが、大岩ゴロゴロの急斜面はなめてかかると危ない。山頂近くに針葉樹の世代交代が帯状に現れる「縞枯れ」が見られる。山頂の溶岩堆積も意外な光景で、地理的にも興味を惹くものが多い 

冬の蓼科山 蓼科山山頂から北八ヶ岳


八ヶ岳(赤岳)  標高: 2899m  登頂: 2008年10月2日

八ヶ岳は富士山よりも巨大な火山だったが、大爆発で山頂部が吹き飛び現在の形になった。爆裂口を登る登山道は急な鉄ハシゴの連続で、一区切り毎に視界は広がるが、薄い空気に呼吸が乱れる。入門コースと書くガイドブックもあるが、3千m級の山は甘くはない。

八ヶ岳が我々の百名山の最終段階まで残ったのは、若い頃に登山に不熱心だった証拠だ。八ヶ岳には個性的な山小屋がたくさんあり、縦走が楽しいという。片付け仕事の百名山を終えたら、そんな味わいのある山旅をしてみたい。

地蔵の頭から赤岳山頂
阿弥陀岳の先に御嶽
赤岳山頂から富士山
下山して中腹から横岳と大同心の眺め
行者小屋から赤岳
晩秋


富士山  標高: 3776m 登頂: 1996年8月11日

昔から「一度も登らぬバカ、二度登るバカ」と言う。日本一のお山に一度は登るべきだが、一度でもうたくさん、という意味だろう。山頂まで最短の富士宮口でも、登るべき標高差は1400m。火山灰の急斜面に加え酸素は平地の7割弱で、登山道の脇にはマグロがゴロゴロ転がっている。動けなくなった登山者には、なぜか若者が多い。彼等の体力・根性云々よりも、若者ゆえにペース配分を怠った結果だろう。 我々は須走口から登った。登山者が比較的少なくマイペースの登山が出来る(8合目で河口湖口の雑踏と合流するが)。夕方の登山で影富士が見えるのはこの登山口だけで、帰りに砂走りを一気に駆け下るのも楽しい。(富士山には都合7回登った。富士山特集ページ参照。) 

須走口六合目で影富士に出会う
七合目の小屋から左前方に東京の夜景
九合目でご来光
吉田口山頂の久須志神社前
最高点の剣ヶ峰にあった気象レーダーのドームがはその後撤去された
日本の最高点


金峰山  標高: 2599m  登頂: 2001年9月1日

甲州の金峰と聞くと、つい武田の埋蔵金を考えてしまうが、「金峰」は修験道の山の通称。今は大弛峠(2360m)まで車が入り、平坦な登山道を2時間ほど歩くと、シンボルの五丈岩のある山頂に着く。アルプス並みの標高を持つ立派な山容の筈で、甲府盆地を通過する度に探すのだが、この山の辺りにはいつも霞がかかっていて、いまだに同定できないでいる。 

山頂武の五丈岩 五丈岩


瑞牆山  標高: 2230m 登頂: 2001年11月24日

「みずがきやま」と読む。深田は、この山名の詮索に紙面の半分を費やしている。結論はないのだが、こんな詮索も山の楽しみ方の一つと教えてくれる。山頂部に花崗岩の岩塔がかたち良く並び、山腹の松の緑と溶けあった絵のような姿も典雅な名前に負けない。

金峰山から瑞牆山を望む
瑞牆山頂から八ヶ岳
南アルプスを遠く望む
富士山の姿が良い
金峰山の五丈岩が目立つ
山を下り林道から瑞牆山を振り返る


大菩薩嶺  標高: 2057m 登頂: 1997年5月

中里介山の「大菩薩峠」の舞台だが、この小説は読んだことがない。大正2年から昭和16年まで新聞に連載された超長編小説で、未完のまま終わったと聞く。介山に大河小説を書き続けさせたエネルギー源が、大菩薩嶺から眺める富士の姿にあったことは間違いなさそうだ。 

 

 

 



甲武信岳  標高: 2475m  登頂: 1999年10月16日  登山ツアー参加

甲州、武州、信州の三州に跨るので、その頭文字をとって甲武信と名付けられたという。分かりやすい命名だが、理におちて味わいに欠ける気がしないこともない。登った時は気づかなかったが、深田の百名山を読み直して、この山の頂には祠も三角点もないことを知った。百名山にしては異例である。 

佐久側の登山口から登ると信濃川の水源地の標識
山頂からの眺め
山頂から富士山
甲武信小屋
小屋近くに荒川水源地の標識
甲州側へ下山開始、木賊山から甲武信岳を振り返る


雲取山  標高:2017m  登頂: 1999年10月2日  登山ツアー参加

東京都にも2千mを超える山がある。「雲取」という名前もなかなか魅力的だ。相棒に引きずられ、ツァー登山に初めて参加したのがこの山だった。30年前の山小屋泊のおぞましい記憶から、この歳になってあの再体験は御免蒙りたいと思ったが、雲取山荘はその日が改築営業再開の初日で、木の香漂う部屋、真新しい羽根フトンと、皇太子の登山を機に新設されたというバイオトイレが、古い山小屋の固定概念を覆してくれた。

新装開店早々の雲取小屋 雲取山から富士山

両神山  標高:1723m  登頂: 2003年11月22日

車で飯能から秩父に抜ける峠にさしかかると、峰々の先に神々しい山が肩から上を顕していた。それがこれから登る両神山とは知らず、写真を撮りそこねた。最短登山道の白井差口が地主と国土省のトラブルで閉鎖され、昔の参詣道だった日向大谷からの登山が通常のルートに戻った。登山道で誰にも会わず、奥武蔵の晩秋をじっくりと味わった。 

秩父蓑山から両神山を望む
進行登山の名残り
秋の山道を行く
登山道脇の石碑
両神御嵩神社
山頂からの眺め


丹沢山(蛭ヶ岳)  標高:1673m  登頂: 1967年5月

本格的な山登りをする人達は、トレーニングで丹沢に通うと聞く。非本格派の小生は若い頃に一度登ったきりで懲りてしまった。小田急の最終電車を大秦野で降り、大倉の通称「バカ尾根」を徹夜で登った。

最初のピークの塔ノ岳まで標高差が1200mあり、塔ノ岳から丹沢山、蛭ヶ岳とピークをたどって道志のバス停までの全行程は、延々22kmに及ぶ。フラフラになって草の急斜面を滑落して崖の縁で危うく止まり、新婚2カ月の妻をヒヤリとさせたことも思い出した。


筑波山  標高876m  登頂: 1997年1月

拙宅裏の利根川の堤防から筑波山が良く見える。1千mに届かないこの山を、百名山に加えた深田を冷笑する人もいるが、関東平野にすっくと立つ姿はなかなか立派である。地図を比べれば分かるが、北アルプスの涸沢(2300m)から奥穂高岳山頂(3190m)までと、筑波山の麓(60m)から山頂(876m)までの標高差はあまり違わない。 筑波山には男体山と女体山の二つのピークがある。女体山(876m)の方が男体山(871m)よりも高くて堂々としているのは、日光の男体山・女体山の関係と同じだ。日本古来の男女感を表しているのだろうか。

筑波山は千葉県北部の拙宅から1時間で行け、山行の足慣らしにしばしば登らせてもらっている。標高が低いわりには登りごたえのある山で、西面の薬王院のルートは標高差が827mある。山のプロがトレーニングに使う非公開のルートもあると聞く。

筑波神社のガマ油売りは「芸」として披露されているらしい
メインルート御幸ヶ原コースの登山口
木の根が張り巡らされた登山道はけっこう登り甲斐がある
稜線の御幸ヶ原までケーブルカーでも登られる
女体山頂から東側の眺め
女体山頂から南側の眺め


天城山(万三郎岳)  標高:1406m  登頂: 1999年5月22日

川端康成の小説よりも、石川さゆりの歌の方が先に頭に浮かぶ。「天城山」という単独峰はなく、伊豆半島中部を東西に横切る天城山脈の最高峰、万三郎岳が、百名山の目的地である。

伊東からバスに乗り、終点のゴルフ場からなだらかな稜線を歩く。富士山と伊豆大島の眺めが売り物だが、春霞で何も見えなかった。万三郎から更に縦走を続け、天城峠に着く頃には日が暮れていた。ちょうど来たバスに飛び乗り、温泉につかることもなく新幹線で帰宅した。