大震災から2年余が過ぎたが、小生には「後ろめたさ」が幾重も残ったままである。その第一は大震災を体験しなかったこと。3.11は北インドのダージリンで知った。ホテルにチェックインしてテレビを点けると、漁船が市街地に突進する映像が映った。映画のシーンかと思ったが、そのチャンネルはBBCニュースで、日本で発生した巨大地震と「tsunami」の速報だった。幸いケイタイが通じて家族の無事を確認できた。ツアー会社も参加者の留守宅と連絡をとって全員が旅行続行可能と確認し、予定通りシッキムとブータンを観光して3月22日に帰国した。
成田から帰宅途中にブルーシートで屋根を覆った家屋を見たが、拙宅は小規模な液状化で玄関に段差が生じた程度で、室内も家具や戸棚の固定を心掛けていたので被害は軽微だった。近所の人の話では震度5強の恐怖は相当なもので、日本に居なくてラッキーだったねと言われたが、津波に襲われた人たちの恐怖を思うと、震度5強の揺れさえ経験しなかったことが後ろめたく思われた。
「後ろめたさ」の第二はボランテイア活動に参加しなかったこと。旅から帰った頃は既に多くのボランテイアが被災地で活動していた。自分も行動せねばと心は動いたのだが、腰痛持ちのアラコキではチカラ仕事の役に立たず、かと言って行政の手伝いが出来るだけの経験も知恵もない。平素は腰が軽い方だが、やれない理由ばかり先に立つのは被災の激しさを知って腰が引けた証拠で、これも後ろめたさに輪をかける。
そうしている内に2年が過ぎた。早くも震災体験の「風化」が進んでいるというが、何も体験しなかった小生としては、せめて自分の目で現地を見て未曾有の災害を記憶に刻んでおきたい。「野次馬・物見遊山」の旅になるのも後ろめたいが、海外暮らしの娘の一時帰国に合わせて南三陸の被災地に出かけた。
志津川湾は典型的なリアス式の地形で、太平洋に向かって大きく開いた口が津波を呼び込み、湾奥に位置する南三陸町の市街地で1206名が命を失った。そんな激甚災害の地を観光気分で訪れるのは心が痛むが、この町に温泉と魚料理が評判のホテルがあると知って予約を入れた。料金は年金生活者の旅の基準を少々超えるが、今となっては被災地にささやかなオカネを落とすくらいしか出来ることがない。
行ってみるとそのホテルは(失礼ながら)バブル遺跡と言いたくなるような巨大施設で(244室)、更に驚くことに平日なのに広い駐車場が半ば埋まっていた。首都圏ナンバーも多く、小生と同じことを考えた人が少なからず居ることに安堵を覚える。 ホテルに地震と津波の痕跡は全く見えないが、仲居さんの話では2階まで完全に破壊された由。上階の客室が使えたので避難所や支援者の宿舎になり、やっと修復工事を終えて観光ホテルらしさが戻ったところという。ホテルのオーナーは中央の巨大資本ではなく地元の魚問屋さん。ガンバリに頭が下がる。 |
波消しブロックの先に巨大ホテル |
ガイド役の男性の場合はハッピーエンドだったが、職に殉じた人も多かった。防災庁舎の2階から防災無線で避難を呼びかけ続け、自分は逃げる間もなく津波に呑まれた若い女性職員もその一人。屋上に避難した同僚20数名も命を落とした。被災した建物は解体されて瓦礫もすっかり片付けられたが、防災庁舎は今も鉄骨むき出しの姿で立っている。大津波の被害を象徴する庁舎を保存するか取り壊すかで町民の意見が分かれているが、被災者には撤去を望む人が多いという。その気持ちは尊重しなければならないが、せめて子供の代まででも残して被災体験を忘れない勇気を望むのは、第三者の勝手だろうか。
三陸を縦貫する鉄道はどれも壊滅的な被害を受けた。一部再開通した区間はあるが、南三陸町を通るJR気仙沼線は築堤や鉄橋を流された箇所が多く、復旧の目途が立っていない。2012年12月からBRT(Bus Rapid Transit バス高速輸送システム)による「暫定運行」が始まったが、それが「鉄道廃線」の政治的表現であることは暗黙の了解らしい。
「鉄道」はヒト・モノの大量輸送手段だが、最近まで「文明」の象徴でもあった。鉄道が来ない地方は文明から取り残された地域で、地元政治家が「文明」の誘致に奔走した。せっかく来た鉄道が廃線になりそうだと「文明からの遺棄」を恐れて強い抵抗を生む。文明の発展で鉄道が「文明の象徴」の位置を失ったのは歴史の皮肉で、今や鉄道がメリットを発揮できるのは大都市圏のヒトの大量輸送に限られる。地方鉄道の生きる道は「文化遺産」になるしかないが、それにも市場原理が働く。気仙沼線の現状を見れば「小鉄チャン」のひいき目でも再建はムリと思わざるをえない。
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小高い場所にある公共の広場(校庭、運動場、公園)は全て仮設住宅で埋め尽くされている。この目で見るまでその実態を知らなかった。「仮設」とは言え、これを「住宅」と呼んで良いのだろうか…
気仙沼は日本有数の遠洋漁業の基地で、岸壁に大規模な水産加工場がびっしりと立ち並んでいる。遠目には操業中のように見えるが、近付いてみると建物の下部は無残に破壊され、無防備に開いたままのガランドウの空間に人影はない。
魚市場もまだ休業らしいが、フェリーターミナルに隣接する海産物店の2階のレストランが開いていたので昼食を済ませる。気仙沼では「国道脇の大型漁船」を見ないわけにはゆかないが、場所はカーナビでは分からない。名所の案内を乞うようで気が引けたが、レジのおねえさんに尋ねたら気軽に教えてくれた。
国道脇に擱座した第十八共徳丸 |
基部に設けられた祭壇 |
観光気分の被災地巡りを続ける。陸前高田で「奇跡の一本松」も見ておきたい。何もかも失って茫然自失の人たちが、津波に耐えて健気に立っていた一本の松を見た時の感動と救いは、小生でも想像するに難くない。その木を復興のシンボルとして保存しようという運動にも共感を覚えていた。
気仙沼から国道45号線を北上して広田湾に下るカーブを曲がると、津波で一掃された荒涼たる景観の中に一本松の姿がある。国道脇の空き地(商業施設の駐車場だった?)に車を置き、被災時の状態で放置された下水処理場の脇を歩いて一本松を目指すが、かなり手前から土木工事で立入禁止になっていて近づけない。気仙川河口の護岸壁に回って遠く眺めるしかないが、幹の部分を囲む巨大な足場にも興を削がれ、「奇跡の一本松」の保存に少々天邪鬼な気分が湧いた。
一本松は残念ながら枯死が確認され、切り倒して保存処理が施された。幹は分断して中をくり抜きカーボンファイバーの心棒を通す。樹皮を一旦剥がして樹脂加工して貼り付け直し、樹冠の枝葉はプラスチックのレプリカ(模造品)に置き換える。これらを組み立ててコンクリートの土台に据え終わり、本年3月11日の被災2周年式典で「生前の姿」で披露される筈だったが、レプリカ部分の「枝ぶりが少し違う」とクレームがつき、その再工事でしばらく足場を外せないという。顰蹙を承知で感想を述べれば、モスクワのレーニン廟や北京の毛沢東廟の遺体保存展示を連想した。「奇跡の一本松」は枯死した時点で葬ってやった方が幸せだったかもしれない。
一本松の東側で大規模な土木工事が始まっている。高さ12.8m、延長2Kmの土盛りをして防潮堤を築き、その上に高田松原を再現させるという。230億円の公共工事は失われた市街地を再興する第一歩として正当化されたのだろう。旧市街を走ると道路の両側は「サラ地」状態だが、カーナビには銀行、医院、ガソリンスタンド、郵便局、そば屋、クリーニング店、コンビニなど、津波以前の街並みが空しく映る。1日も早く街の賑わいを取り戻そうという政治課題は分からぬでもないが、こんな時でないと出来ない都市計画があっても良いのではないかとも思う。
国道脇から「奇跡の一本松」を望む 松の右下はユースホステル、右端は防潮水門。
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旅の最後に女川を訪ねた。女川は東日本大震災で最も死亡率(死者・行方不明者数÷避難者数)が高く、震災時にこの地区にいた人の55.9%が命を落としたという。被災地は背後に小高い山を背負う地形で、どの地点からでも10分以内に津波の届かぬ高い場所に逃げられた筈。にもかかわらず多くの犠牲者が出たのは、被災者の証言によれば、「女川に津波は来ない」、「仮に来てもここまでは…」という思い込みで逃げ遅れた為だったと言う。
被災地の南東4kmに東北電力女川原発がある。福島第一との比較で「安全優良児」のように言われたが、女川原発の海抜は15mで福島第一と大差ない。そもそも原発の危険の根源は立地場所の「津波」や「活断層」ではなく、原発そのものが「核分裂の連鎖反応」(臨界)という「自然界には存在しない現象」に依存していることにある。要するに原爆をジワジワ燃やす仕掛だが、何らかの「想定外」で暴走したら手がつけられない。核廃棄物も「自然界には存在しない物質」で、その処理方法は未知数。使用済燃料はおろか「汚染水」でさえ持て余しているのが実情なのだ。大津波で人間は「自然の脅威」に対して全く無力と改めて思い知らされたが、原発が拠って立つ「超自然」は自然の脅威よりも数段タチが悪いと思い知るべきで、津波や活断層の「安全対策」に問題をスリ替えてはならない。
女川湾(丘上の女川町地域医療センターの駐車場から)。横倒しのビルが転がったまま。