前号でラテンアメリカ諸国の混乱について書いたが、チリは例外と思っていた。根拠は単純で、アルゼンチンの記事に書いたことだが、パタゴニア・ツアーでアルゼンチン航空のブエノスアイレス行き荷物がマイアミで積み残され、ベテラン添乗員がチリ航空のサンチャゴ経由でアンデス山中の地方空港に届けるように手配し、時間通りに着いたこと。添乗員が「南米の人達は当てにできないが、チリ人だけは、やると言ったら必ずやってくれるから」と言ったのが、今も強く記憶に残っていたからだ。そんな些事で国を評価してはいけないが、「偏見」は個人の些細な体験から生まれやすい。

チリは南米諸国の中で一人当たりGDPが最も高く($25,400)、2010年のOECD加盟で先進国に仲間入りして「南米の優等生」と言われてきた。政治情勢も、1990年の民政移管後は民主的な政権交代を重ね、2006年には初の女性大統領(ミシェル・バチェレ)も誕生した。公権力の透明性(腐敗・汚職の程度)でも世界の23位に位置し(フランスと同位、ちなみに日本は18位)、しっかりした法治国家と認識されている。こうして見ると、小生の直観的評価もあながち的外れではなかったようだ。

そのチリの首都サンティアゴで突如激しいデモが起き、2019年11月に開催予定だったAPEC(アジア太平洋経済協力首脳会議)と、12月のCOP25(国連気候変動枠組み条約締約国会議)のホスト国を返上するという異例の事態になった。発端は10月18日に政府が発表したサンティアゴの地下鉄料金の値上げで(800ペソ→830ペソ、約109円→113円)、これに反対する学生が無賃乗車デモを強行したことに始まり、あっという間に暴力的なデモが全土に広がった。10月25日にはサンティアゴ中心部が約120万人のデモ隊で埋め尽くされたという。

1990年以前のチリは、他のラテンアメリカ諸国と同様、流血の抗争と超大国の謀略が渦巻く修羅場だった。1970年の大統領選挙で、世界初の民主的選挙による社会主義政権を樹立したアジェンデは、鉱山や外国企業の国有化や農地解放等の改革を進めたが、南米にキューバに次ぐ共産主義国家が出来ることを恐れた米国は、CIAを使って右派勢力にストやデモを起こさせ、混乱に乗じてピノチェト将軍がクーデターを起こし(1973年9月11日)、アジェンデ政権を押し潰した。ピノチェト軍事独裁政権の左派弾圧は熾烈を極めたという。

15年続いたピノチェト政権は人権侵害で国際的な批判を浴び、1988年の信任選挙に敗れた。1989年12月の総選挙で文民政権が回復して中道のキリスト教民主党が政権に就き、1994年の選挙で中道左派が勝利して15年間にわたって政権を担当した。2009年に右派連合のビニェラが僅差で政権を獲得したが、2013年に左派連合が奪還、更に2018年にビニェラが政権に返り咲いて現在に至る。第二次ビニェラ政権が右傾化と民意無視を強めたことへの反発から、前述の学生デモを契機に一気に動乱状態が生じた。政府が非常事態宣言・夜間外出禁止令を発して軍隊を出動させたことが、市民にピノチェト時代の記憶をよみがえらせ、デモを狂暴化させていると言われる。

平穏な大都市で突如デモが起きて暴動に発展する現象は、香港でも起きた。状況を詳しく知るわけではないが、共通しているのは、政府の圧迫が臨界点を超えると、学生(若者)の反権力闘争に火が点き、一般市民の応援で一気に拡がること。チリも香港も政府が「前言撤回」して沈静化を図ったが、政府への不信は収まらない。口先だけで「真摯に受け止め」もせず「責任を感じて」もいないことに、若者と市民は本気でハラを立てているのだろう。

暴力的なデモを擁護するつもりはないが、市民社会と民主主義が異論によって磨かれてきたことを思えば、ムチャクチャな権力に異をとなえるのは市民の「権利」で、権力の横暴を容認し続けた末に国が破綻した例はいくらでもあり、その意味では、時として市民の「義務」にもなる。政権が長期にわたると、異論を排除し、横暴になり、腐敗することは、歴史の法則と言えるかもしれない。独裁政権はもちろん、一党支配体制もそのリスクを免れない。香港の今回の選挙結果に中国政府はどう動くのだろうか。

つい最近、南米ボリビアでも暴動が起きたという。先住民族出身のモラレス大統領が善政を敷いていると聞いていたが、ルール逸脱の4期目を強行して反発をかっているらしい。他人ごとではない。どこかの国でも、密かに4選を狙っているという長期政権にも、このところ異論排除・迷走・虚言が目立つ。こんな状況が長引けば、ゲーム以外に興味ナシの若者やボーっと生きてる大人たちが、ある日突然臨界点に達しないとも限らない。



最初に、以下の記事は2007年3月掲載の「サンチャゴ(チリ)」の増補版(やきなおし)であることをお断りしておく。
サンティアゴを訪れたのは25年前で、1994年12月の南極半島クルーズの集合・解散場所がサンティアゴだった。往路はツアー出発前日にサンティアゴに入り、翌朝チャーター便で乗船地のフォークランド島に飛んだので、サンティアゴ滞在は半日足らず。復路はウスアイアに上陸してサンティアゴに戻り、空港でツアーは解散。我々はサンティアゴに留まって市内と周辺を観光した。10日間の南極ボケでサンティアゴ観光は上の空、写真を見てもどこで何を撮ったか思い出せない。そんなわけで、四半世紀後のサンティアゴ・レポートは甚だ心もとない。

1994年12月20日昼に指定されたホテルにチェックイン。市内観光用に小型バスを出してくれたが、ガイドなしで、観光スポットでバスを降り、勝手に見物して指定時間にバスに戻る。街では英語が通じないのに往生した。旧市街のカフェで「Coffee」(米国流発音のつもり)を頼んだがどうしても通じず、押し問答の末「分かった分かった」と持ってきたのがコーラだった。米国から見ると南米は米国の庭先のように思ってしまうが、今もヨーロッパの延長なのだ。

我々が訪れる21年前、サンティアゴは内戦状態だった。大統領府前の広場に面した我々のホテルの壁面には、機関銃弾の跡が生々しく残っていた。明治以来、日本人にはヨーロッパに対するコンプレックスがあり、今もその文明に対して無条件な憧れを抱くことがある。我々は「文明=平和」と思いがちだが、彼等の歴史は常に血のニオイがつきまとっている。彼等は「文明=力ずくの闘争」と思っているフシがある。何千キロの海を越え、原住民を征服して自分たちの国を作ったエネルギー源は、そんなところにあったかもしれない。ヨーロッパ本土では第二次大戦の反省がそれなりに効いているにしても、南米に渡った子孫たちの血は今も騒いでいるように見える。

南極ツアーの集合場所は宮殿広場前の由緒あるホテルだった。
ホテルの前。
広場の向かい側はモネダ宮殿。18世紀末に造幣局として建てられ、1846年以降大統領府として使われている。1973年のピノチェトのクーデターでアジェンデ大統領が最後の砦として闘い、最後は自害したというが、殺害説もある。
旧市街のアルマス広場。16世紀に建てられた大聖堂をはじめ、19世紀の郵便局など、歴史的な建物にはヨーロッパのニオイがする。
アート街。
街には現代的な彫刻も。
市北東部のサン・クリストバルの丘。
山頂に高さ14mのマリア像が立つ。
市街地を展望。この日はスモッグが少なかった。
南極ツアー出発前に、早朝のモネダ宮殿(大統領府)を撮る。


1995年1月1日、南極クルーズを終えてサンティアゴ空港でツアー解散。我々は正月休みを目一杯使ってサンティアゴを観光するべく、事前に会社のチリ事務所の同僚を煩わせ、ホテルの予約とガイド・車の手配をお願いしてあった(駐在員仲間の若干の公私混同は、この際黙認していただく)。翌朝、チリ人の運転手と若い日本人女性が、日本製小型車で迎えに来てくれた。女性はJICAの青年海外協力隊員と名乗った。我々の私的観光で仕事をサボらせたかと心配したが、現地の日系社会の支援がミッションで、ガイド役は日系旅行会社支援業務の一環という。税金の個人還元のようで後ろめたい気分はあったが、現地企業の売上に多少貢献、ということで納得する。

サンテイアゴは標高520mの盆地で、周囲を山に囲まれた地形は信州松本に似ている。盆地のサイズも東西約20Km・南北約40Kmで、松本・安曇平とほぼ同じ広さだが、サンティアゴの首都圏人口は700万を超える(松本・安曇平の総人口は50万程度の筈)。過密人口と盆地地形がもたらす大気汚染はかなり深刻で、空気はスモッグで黄色く霞んでいる。アンデスの造山運動で地震もしばしば起きる。1985年の地震で中心部の建造物が破壊され、国会議事堂は120㎞離れたバルパライソに移転したが、大統領府はサンティアゴに留まり、首都の地位を保っている。

市街は到着時にザッと見たので、アンデスの山を見たいと所望した。ヘンな日本人観光客は初めてだったようで、ガイドと運転手が暫く相談していたが、短時間で往復できる山岳展望ポイントは思い当たらないという。とにかく山が見えるところまで行き、その後は郊外の民芸品村とワイナリーを見学することにした。南米流の長いランチ時間をはさむと、その程度の観光で1日が埋まってしまう。

アンデスが見えるところまで行ってもらった。
郊外を流れる河川はどれも急流の泥川。
民芸品村には真夏のクリスマスツリーが残っていた。

日本にも輸出されている有名ブランドのワイナリーを見学。サンティアゴの気象条件や土壌がワイン造りに適しているとされ、チリワインの人気が上昇していた時期だった。

翌日はダラスに帰るフライトの時間まで、自力で市内観光をすることにした。当時のサンティアゴは治安の問題がないと言われていたので、地図を見ながら市街をぶらぶら歩き、地下鉄にも乗ってみた。平穏な市民の暮らしが見え、文化の香りもする好ましい都市のように思われた。そんなサンティアゴが半世紀前の荒々しい時代に戻ることがないように、政府と国民がお互いに冷静に戻って、平和な国造りを進めることを願う。

小高い丘から撮ったもの。建物は博物館ではないかと思う。
博物館や美術館が結構充実している。
どこで撮ったか思い出せない。
小売店の店先を覗く。個人の小商店がそれなりに頑張っているのが好ましい。
地下鉄の入口。
地下鉄は清潔で好感が持てた。