年末年始に旅に出ることは滅多に無いが、2012年の暮れも押し詰まった20日から20日間、初めてのヒマラヤ・トレッキングのツアーに参加した。ヒマラヤは10月~5月が乾季で、特に11月~12月は晴天が続くことが多い。加えてクリスマスの時期は欧米からの客が少なく、宿やポーターの確保が容易という。1月に入ると厳冬期で宿が閉じてしまうので、我々はギリギリのタイミングで出かけたことになる。

目的地のゴーキョピークはエベレストの展望台として知られ、標高5360mの高所にある。昔は道路終点のジリからいくつもの峠を越えて歩いたが、標高2860mのルクラに小型機用の滑走路が出来てからは、ルクラを起点に高度順応しながら標高差2500mを登るようになった。ルートは現地住民の生活道路で、危険な箇所はなく、通過する集落で住民の素朴な暮らしにふれる楽しみもある。今回の旅写真は沿線風景で、山の写真は別記事をご覧いただきたい。

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△は宿泊箇所を示す(ルクラは往復共に休憩のみ)


「旅の起点 テンジン・ヒラリー空港」

カトマンズから小型機で40分、トレッキング起点のルクラに飛ぶ。エベレストを初登頂したヒラリー、テンジン両氏が建設を推進した飛行場で、世界で最も危険な空港と言われる。富士山7合目の高所で空気が薄く浮力が得られない上、滑走路が500mしかなく、且つ7度の傾斜があり、山側が行きどまりで着陸のやり直しができず、着陸誘導の施設もなく、有視界飛行で一発着陸の名人芸が求められるのだ。霧や強風で封鎖されやすく、気象条件の良い時にピストン輸送で客をさばく。時刻表は単なる参考で、客は空港でじっと待機するしかない(数日間飛ばないこともある)。数年に一度事故が起き、滑走路脇に残骸が転がっているのを見たことがあった。


テンジン・ヒラリー空港にアプローチ


着陸したら坂道を這い上がって減速、上部の駐機場へ


離陸は下り坂で勢いをつけて空中に飛び出す

(この2枚は別の機会に撮影)


「茶店で出発準備」

無事に着陸すると徒歩で空港近くの茶店に移動。しばし休憩する間に、ツアーリーダー(シェルパ頭)が客の荷物と隊の荷物(食料、鍋釜、食器、燃料のガスボンベなど)をポーターに割り振って出発準備を整える。ポーターは昔ながらの背負い籠に50kg近い荷物を詰め、額にロープを架けて巧みに重心をとりながらスタスタと出発する。初日の宿泊地パグデインまでの行程は3時間ほどで、我々はゆっくり出発してのんびり歩けば良い。


茶店の裏庭でポーターに荷物の割り振り。 青いバッグはツアー客の個人荷物(15kg以内)。


荷物を割り当てられたポーターが出発

ルクラにはオシャレな店もある

「いざ、エベレスト街道へ」

ロッジ(宿屋)、飲食店、みやげ物屋、登山用具店などが並ぶルクラの「繁華街」を5分ほどで抜けると、街はずれに「エベレスト街道」のゲートがあり、ネパール人女性として初めてエベレストに登頂した(1993年4月)パサン・ラーム・レハヌの胸像が見送ってくれる。背景の山は地元民が聖山とあがめるクンビラ(6371m)で、何故か雪がつかない。


「集落を通過」

街道は村人の昔からの生活道路で、家々の軒先をかすめるように歩く。集落の入り口と出口にチベット仏教の仏塔があり、マニ車を回して「オンマニペメフム」と経文をとなえて通過する。



民家の庭先を通る

宅配便が行き交う

吊り橋で家畜とすれ違う時はちょっと怖い。

小学生が制服着用で登校

「白い尖峰にヒマラヤを実感」

街道を進むにつれてヒマラヤらしい鋭い白峰が現われ、世界の屋根を歩く実感を得る。


ナムチェ坂の吊り橋は高所恐怖症には難所

ナムチェ坂の途中で見えた白峰(たぶんカンテガ)

「ナムチェ・バザール」

ルクラを出て2日目の夕方ナムチェ・バザールに着く。昔からの交易所で、ヒマラヤ登山隊の食料調達とポーター集めの拠点になった。その後のトレッキングの普及で宿泊施設が増え、登山用具の店で装備を整えることもできる。


「エベレストが見えた!」

クーンプ山群の最奥に位置するエベレストは、標高の高い前山に遮られて見える場所が限られる。ナムチェから1時間ほど歩くと展望が開け、ローツエの稜線上にエベレストのアタマが見える。更に先に進むと前山に隠れて姿を隠すので、短期の観光ツアーはここで「エベレストを見た」ことにして折り返す。


次の宿泊地キャンズマ(標高3550m)のロッジに到着

ロッジは2人用個室が標準。部屋にベッドが2台あるだけ

「富士山頂の標高を超える」

ルクラを出発して4日目に富士山の標高(3776m)を超えてモン・ラ(標高3972m)に着く。日本には富士山頂より高い場所はなく、この標高を超えると特別な感慨が湧き、「さあ、いよいよだ!」と気分が高まる。


ポーターが行く

高所に住む人たちにとってポーター(荷運び人夫)の仕事は貴重な現金収入源で、登山隊やトレッカーのグループに雇われて荷物を運搬する。客の荷物(寝袋、着替えなど)に加え、この時のツアーは「小屋メシ」ではなく「素泊まり」(同行のキッチンスタッフが宿舎の調理場を借りて調理)だったので、食材、鍋釜皿、燃料のガスボンベから水ダンクまで担ぎあげた。

客の世話をするガイドと補助スタッフは客と一緒に歩くが、ポーターは自分のペースで歩く(かなり早い)。賃金は気の毒なほど安く、寝泊まりも家畜小屋や倉庫の隅だったりする。小犯罪が気になるが、ツアーリーダー(シェルパ頭)が縁故で集めた人たちで、怠けたり盗みを働いたりする輩はいない。重い荷物を担ぐ体力のない未成年、高齢、怪我人のポーターは、客個人に付いて撮影機材や日中に使う身の回り品(雨具・防寒具・水・軽食など)を担ぐ。(利用者は別料金を払う。小生に付いたラム君は少年の年齢と風貌だった)。


額で全荷重を受ける。これでパワーが出るという

キッチンボーイが調理用具を運ぶ

「標高超4千mに暮らす」

標高4千mを超えると農産物が育たず、集落は成り立たないが、荒涼とした風景の中に人が住む気配がする場所がある(写真中央下と右)。ヤクを放牧する「カルカ」で、ドアのない小屋から子供が出てきたりする。


荒地に拓かれたカルカ

カルカの兄弟

「ゴーキョに到着!」

標高4410mのマッチェルモで高度順応で連泊、ルクラを出て10日目に目的地のゴーキョ(4790m)に到着する。エベレスト展望台のゴーキョピーク(5360m)の麓で、世界6位の雄峰チョ・オユー(8188m)がゆったりと寝そべる姿がすぐ近くに見える。ヒマラヤ縦走のトレッキングルートの交差点でもあり、大きなロッジがある(2012年当時は3軒だった)。

昼間の気温は0℃前後でそれほど寒くないが、陽が傾くと温度が急に下がり、日没時に屋外に撮影に出た時は-20℃近かった。ロッジ内の暖房は食堂兼談話室にヤクのフンが燃料のストーブが1基あるだけで、それも夕食の前後しか火が入らず、火力も弱いので、室内でも防寒の服装を着込む必要がある。寝室には火の気が一切なく、湯たんぽ代わりの水枕を寝袋に入れて寝る。


左の黒い岩山がゴーキョピーク。登山道が見える。

食堂兼談話室。暖房はヤクのフンを燃やすストーブが1基だけ

「ゴーキョピーク」

ゴーキョピークへ標高差570mを登る。普通の山登りでは1時間半の行程だが、酸素が平地の半分なので2時間半が目安になる。幸い小生は高所順応が上手くいったようで、さほど息切れもせずに登った記憶がある。ピークの最高点は岩崩れの危険があり、手前の平坦な広場を山頂とみなして祈祷旗(タルチョ)が飾られている。


標高差570mを登る

山頂のタルチョ(祈祷旗)

「ご褒美はこの眺め!」