前回の旅写真その7「米国ダコタ」で「米国全50州踏破」のことを書いた。最後まで残ったのが東端のニューハンプシャー州とメイン州だったが、1994年9月に訪れて50州踏破を達成した。旅のレポートは「米国50州雑記帳 メイン・ニューハンプシャー篇」を御覧いただきたい。
この2州は英国からの入植者が最初に定住したニューイングランド地方だが、寒冷な気候とやせた土地が人間の活動に適さず、その後の米国の繁栄から取り残された感がある。ホテルのメイドやレストランの皿洗いは一般に非白人の職場だが、この旅では白人しか見なかった。労働力を集める経済活動が乏しく、過疎という点ではダコタといい勝負かもしれない。
先の大統領選挙(2024/11)でメイン州の開票結果の発表が遅かったのは、他の州では当選確実が出た段階でその州の選挙人の総取りが確定するが、メイン州では州全体と各選挙区の各候補の得票を選挙人4名に割り振るため、開票が完全に終わるまで結果を出せないからだ(結果はハリス氏が3名、トランプ氏が1名を獲得)。米国では何ごとも州法が優先し、税制や就学制度まで州によって異なる。国政選挙も州独自のルールで行われるのだ。
それはともかく、今回の選挙で「もしトラ」が「またトラ」になった。米国民の政治に対する不信・不満がそこまで高かったのだと改めて思う。現状に不満を持つ選挙民が「強いリーダー」を求め、扇動的・排他的なメッセージを放つリーダーが選ばれ、妄想・虚言で国民を熱狂させたあげく、世界を戦争に巻き込んだことがあった。それから80年が過ぎ、民主主義のリーダーと自他共に認めていた超大国が混迷に陥り、国民が「強いリーダー」を選び、そのリーダーが「親衛隊」で政権を固めているのを見ると、どうしてもヒトラーと重なってしまう。唯我独尊の自信家がとりかえしのつかない過ちを犯すことを怖れるが、米国では州の独立性がリーダーの暴走にブレーキをかけてくれるかもしれない(連邦離脱をちらつかせて牽制した事例あり)。
金曜の夕方に勤務地のダラスを出て深夜にボストン着。レンタカーを借りてニューハンプシャー州ポーツマスの郊外に泊り、翌早朝に市内に入った。英国にも「ハンプシャー地方」があり「ポーツマス」という港町がある。もちろん元祖は英国で、新大陸に渡った人たちが入植地に出身地の地名を付けた(同じ例があちこちにある)。英国のポーツマスは英海軍の軍港でノルマンデイ作戦の出撃基地になったが、米国のポーツマスにも海軍基地と造艦工廠がある。
ポーツマスはニューハンプシャー州だが、海軍工廠があるのはメイン州。地図を見ていただくと分かるが、ニューハンプシャー州が唇を細くつぼめた先がポーツマス(Portsmouth=港の口)で、上唇がメイン州、下唇がマサチュセッツ州になる。
ポーツマス市街に入る道路で昇開可動橋の橋桁が上がって通せんぼされ、おかげで車を降りて町の風景を撮ることが出来た。町の入口に「ポーツマスにようこそ、1623年開村」の看板がある。1620年にメイフラワー号で最初の清教徒が渡来して間もない頃に作った町であることが誇りなのだろう。
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前号(ダコタ篇)に登場したセオドア・ルーズベルト大統領の仲介で1905年に行われた日露戦争講和会議の会場に、ポーツマス海軍工廠の講堂が選ばれた。その経緯を吉村昭が「ポーツマスの旗」(1979年刊)に詳細に描いているが、取材でポーツマスを訪れた時の印象を「市街は現在も1905年の日露交渉の時代そのままの雰囲気」と書いている。その25年後に小生が見たポーツマスも、路上の自動車は多少新しくなったが、その他は吉村が見た風景のままだったに違いない。
ポーツマスには「都市景観維持条例」があるようで、建物の建て替えや派手な看板が抑制され、時代最先端のパソコンショップもこんな店構えだった。
米海軍工廠が日露講和交渉の会場になったのは、日本とロシアの代表団が船で来るのに都合が良く(当時は飛行機が無かった)、米国の中枢部から遠くも近くもなく、厳重な警備が可能な点でも、よく考えられた設定と言える。会場になった建物を見るべく工廠のゲートまで行ってみたが、原子力潜水艦の設計・作図場になっている由で、外国人旅行者がふらっと訪れて入場できる筈もなく、対岸から遠く眺めて歴史の現場を見た気分に浸った。
小村寿太郎以下の代表団が宿泊したホテルが残っていないか、ポーツマスの観光パンフレットに手がかりを探したが何もなかった。ポーツマスを離れる時、道路脇に朽ちかけた立派な建物があったので、車を止めて写真に撮っておいた。翌年日本の新聞にこの建物の写真が出てビックリした。この建物がまさに小村一行が宿泊したホテルで、廃業して荒廃していたものを大手ホテルチェーンが買い取り、リゾートとして再生するという記事だった。(今回Wikipediaで検索すると、立派に蘇って営業しているようだ。サイトでは小村代表団にも触れている。)
ポーツマス湾のメイン州側に砦の史跡がある。砦と言うからには「仮想敵」があった筈だ。最初は17世紀末にポーツマスに造船所を作ったペパーレルが設けた防柵だったが、18世紀になってフランス軍の襲来に備えて要塞化さた。その頃にメイン州とニューハンプシャー州の間で税制を巡って軋轢が生じ、隣州との武力衝突に備える目的もあったらしい。1775年に始まった独立戦争の敵は英国だったが、国内の英国忠誠派の蜂起を抑える役目も担った。1861年からの南北戦争では、南軍の海からの襲撃に備えて大規模な強化が施された。第一次大戦と第二次大戦では航空と船舶の監視所になり、それ以降は史跡になって公開されている。かくの如く、砦の役目は外敵に対する備えと共に、国内の反政府勢力を威圧する役目もある。そもそも「国防」とはそういうものだということを、国民は承知しておかねばならない。
メイン州東端に行く途中の「国立公園」に立ち寄った。Acadiaはフランス系が入植した地域で、カナダ東部も「Acadian」と呼ばれていたのを思い出した。ついでに言えば、米国南部のルイジアナ州とアラバマ州もフランス系で、名物の「ケイジャン」料理は「Acadian」が訛ったものらしい。それはともかく、アケィディア国立公園は水路が複雑に入り組んだ湿地帯で、特に絶景があるわけではない。茫漠たる風景の中でのんびりキャンプを楽しむために、年間4百万人が訪れるというが、小生は端っこをちょっと見ただけで先を急いだ。
メインに来たからには米国東端まで行かねばならない。東端の町ル―ベック(Lubec)は19世紀に木造船の造船所が数軒あったというが、小生が訪れた1994年は人口1千の集落で、マクドナルドの店さえなく、町外れの民家の脇に「アメリカの起点へようこそ」の看板が立っているだけだった。
道路の先にカナダ領の島に通じる橋があり、たもとの番小屋でおじさんにパスポートを出すと出国スタンプを押してくれた。100m先のカナダ側の立派な事務所でスタンプを押してもらい、Uターンして米国側の番小屋でパスポートを出すと、さっきのおじさんがどこかに電話をかけ、小屋を出て車のトランクとボンネットを開けさせ、車の床下まで覗き込んだ。「さっきここを通って、カナダ側でUターンしたのを見ていただろう」と文句を言うと「奇妙な行動をする輩を調べるのがオレの仕事」と言いながらスタンプを押してくれ、拍子抜けの米国最東端訪問にちょっと味が付いた。
旅先でたくさん写真を撮ると、中にはどこで撮ったか思い出せない写真がある。デジタル写真は撮った日時のデータが場所を特定する手がかりになるが(昨今はGPSのデータも入れられるが)、スライドフィルムは1コマづつ切り離してフレームに入れるので、うっかりごちゃまぜにすると、いつどこで撮ったか分からなくなる。
この灯台はポーツマス港外で撮ったと思い込み、ツアーレポートに誤った記事を書いた。今回念のためGoogleの画像マッチングアプリで調べると、メイン州の地理上の東端、つまり米国最東端のWest Quaddy Headの灯台と分かり、あわてて記事を訂正した。
バンゴ―(Bangor)はメイン州で3番目に大きな都市だが、人口は3万にすぎない。メインストリートの風景は、ビル屋上の衛星通信アンテナに気付かなければ、20世紀初頭の写真と言われても「そうか」と思ってしまいそうだ。
日本の県庁所在地はその県の中核都市で、商工業が盛んで人口も多いが、米国の州都は必ずしもその州の中核都市ではない。例えば、ニューヨーク州の州都はニューヨーク市ではなくオルバニー、テキサス州はオースティン、カリフォルニア州はサクラメント等々で、中核都市=州都はむしろ珍しい。ニューハンプシャーの州都コンコード(Concord)も人口4万の小都市で、州議事堂近くの広場も「繁華街」とは言い難い。米国では「政治と商売はカンケイない」(させない)のが基本的なスタンスだったが、昨今はカネがモノをいうようになり、それが民主主義を捻じ曲げる最大の要因になっていると思う。