仕事上で得た「役得」など吹聴するべきでないと承知しているが、小生のささやかな自慢である「米国全50州踏破」は、役得ナシでは成立しなかった。入社以来30年を米国がらみの仕事で過ごし、若い頃に「飛び込みセールス」で米国各地をやみくもに飛び回ったこともあり、2度目の駐在半ばでそれまで訪れた州を数えたら40州あった。小生に「記録マニア」の性癖はなかったが、50歳を過ぎて米国浸りだった前半生を総括する気分もあり、全50州踏破を思い立った。

残りの10州に商用などありそうもなく、週末と休暇を使っての個人旅行になるが、航空券は出張で貯まった「マイレージ」利用で、これも「役得」のおかげ。宿、メシ、レンタカー、ガソリン代は自前だが、当時の田舎旅行は1日100ドルで足りた。

消化旅行で訪れたサウスダコタとノースダコタは、人口、GDP共に米国の最下位クラスで、ビジネスで訪れる人は滅多にいない。観光名所が無いわけではないが、出かける人はよほどの「モノズキ」で、古風に言えば「鳥も通わぬダコタ」なのだ。

旅のレポート:米国50州 ノースダコタ・サウスダコタ・ネブラスカ篇


「Mt.ラシュモア」

ラシュモア山と言われてもピンと来ないが、例の4大統領の胸像の現場だ。鳥も通わぬダコタもここだけは別格で、年間2百万人超の観光客が訪れるという。宿の予約なしで出かけたらどこも満室で、走り回ってやっと「Vacancy」のサインを見つけ、野宿せずに済んだ(念のため付言するが、まだネットで宿を探せる時代ではなかった。)

翌早朝にラシュモアを目指した。カーナビも無い時代で、地図と首っ引きで走り、カーブを曲がると唐突に正面の岩山に朝日に輝く大胸像が現れ、あわてて路肩に車を寄せて撮った。鎌倉の大仏様のように地面に鎮座していると思い込んでいたので、天空高く掲げられた巨大像にビックリした(公園内の展望台からアップで撮れば、見慣れた構図になる)。ちなみにモデルになった大統領は左からワシントン(初代)、ジェファソン(第3代)、T・ルーズベルト(第26代)、リンカーン(第16代)。


「西部劇映画で見た景色」

ダコタからちょっと西に逸れてワイオミング東端のデヴィルス・タワーを目指した。未舗装の田舎道を走っていると、西部劇の映画で見たような風景に出会った。


「悪魔の塔」 (ワイオミング)

地表近くまで湧き上がったマグマがゆっくり冷えると、地中に柱状節理の岩塔が出来る。その後の浸食で地表の土壌が流失し、岩塔が露出して「悪魔の塔」になった。

タワーをアップで撮った写真はよく見るが、どんな場所にあるのかイメージが湧かなかった。行ってみると周辺は牧草地で、干し草を刈って束ねた「Hay role」が転がっていた。小さく見えるが直径が2mほどあり、冬場の家畜の飼料として販売される(右写真)。この作品は写真展で川口先生が「怪峯出現」と命名、「アップで撮りたくなるが、風景を大きく捉えて面白くなった」と評して下さった。


「未知との遭遇」

前の写真の左奥にあるゲートから公園に入ると、「悪魔の塔」が頭上から圧倒的な迫力で迫ってくる。スピルバーグ監督が「未知との遭遇」で宇宙人がUFOに乗り込むシーンを撮ったのは、このアングルだったような気がする。(写真展出展作品)

頂上までの高さは386mで、東京タワー(333m)を超える。その垂直の岩壁を登る酔狂人が年間4千人いるという(この時は見える範囲内に6人いた)。

麓を一周するトレッキングコースもあるが、先を急ぐ旅だったので、ここで引き返した。

旅のレポート:ワイオミング


「ノースダコタの根性を見よ!」

米国の街道の州境に立つ看板には、その州のキャッチフレーズが記されていることが多い。ノースダコタの「Discover the Spirit!」には「俺たちの根性を見てくれ!」の気分がある。

「直線道路」

狭い国土に私有地が入り組んだ日本では長い直線道路ムリだが、米国西部の道路は可能な限り直線になる。この道路は時速55マイル(90km)で1時間走っても、まだ直線だった。


「セオドア・ルーズベルト国立公園」

ノースダコタの「名所」はここしかない。第26代大統領の名を冠しているのは、同大統領がこの地をこよなく愛して何度も訪れ、著書でもそれを語っているからで、飛行機もフリーウェイも無かった時代、鉄道と馬車を乗り継いでの長く厳しい旅だったに違いない。

ルーズベルト大統領と言えば、第二次大戦時のフランクリン・ルーズベルト(FDR)が思い浮かぶが、その叔父にあたるセオドア(Theodore)は、20世紀初頭に米国を世界のリーダーに押し上げた大統領として米国民に敬愛され、ラシュモアの「偉大なる大統領」の一人に選ばれた。日露戦争の和平交渉を仲介してノーベル平和賞(1906年)を得たことでも知られ、その経緯を吉村昭が「ポーツマスの旗」で見事に描いている。ちなみに、ぬいぐるみのテディ・ベアのテディはセオドアの愛称で、同大統領の熊好きが起原と言われる。


「ダコタまで、ご苦労さん」

フリーウェイを走っていると車両運搬車に出会う。その巧みな積み方を撮りたいと思っていたが、ダコタでやっとその機会を得た。人口が少ない地域なので、多種多様な車の運搬を引き受けることになる。


「バッドランズ国立公園」

サウスダコタ西南部の「Badlands国立公園」はその名もズバリで、T・ルーズベルト国立公園も顔負けの荒涼とした風景は、神様が悪意で造ったとしか思えない。

小生が訪れた時は小雨模様で、公園内の遊歩道は泥田状態でズボンが泥だらけになり、舗装された自動車道路にも泥濘が流れ込み、レンタカーも泥まみれになった。

 


「先住民 vs 騎兵隊 最後の闘い」

ダコタの南隣のネブラスカも未踏破州だったので、越境して訪問実績に加えた。州境手前の荒野に大きな看板が立っていた。日没近くで小雨も降っていたので、写真を撮っただけでその場を去ったが、後日調べると、そこは先住民のスー族(Sioux)の大酋長「Sitting Bull」が騎兵隊と戦って敗れた Wounded Knee (傷ついた膝)の古戦場で、先住民の抵抗はこれが最後だった。


「乗りそこなった保存鉄道」

ブラックヒルズ保存鉄道はこれまで他の記事に度々登場させたが(世界の駅さまざま クラシック鉄道写真集)、今回の旅写真にも未練がましく出させていただく。


「東西冷戦の最前線」

帰りの便まで時間があったので、「エルスワース空軍基地の見学をどうぞ」の看板に誘われて見学バスに乗った。東西冷戦時代の戦略爆撃機の基地で、終結後も出撃態勢を維持していたが、見学コースは驚くほどあけっぴろげで写真撮影に制約がなかった。B-1爆撃機の駐機場は、見学バスの屋根に上がる梯子を登って撮った(右端の縦縞はシャッターの動作不良で生じた)。

第二次大戦前後の軍用機が並ぶ展示場の脇に錆びたミサイルが転がっていた。大型ミサイルは大陸間弾道弾(ICBM)タイタンのエンジン部と弾頭部。手前の細身のミサイルは迎撃用のナイキ・ハーキュリーズで、このサイズでも小型戦術核兵器の搭載が可能(日本では核弾頭を搭載出来ないように改造して国産化した)。何れも1950年代の装備で、軍事機密はとうに消滅していたとしても、何ともアッケラカンの展示ではないか。

炎天下に放置されたミサイルとは対称的に、閉め切って空調された格納庫にB-29爆撃機が1機保存されていた。東京大空襲に使用した機体の由で、保護用の塗料に影響するのでフラッシュはダメと注意された。

戦中派の日本人にとってB-29の記憶は消し難いが、戦勝者側の米国人には別の思い入れがあるらしく、オハイオの航空博物館でも同様に大切に保存されていたし、ダラスのエアショーでは飛行可能な状態に整備されたB-29がデモフライトしていた。

第二次大戦末期においてB-29は傑出した性能を持つ爆撃機だったが、その30年後に開発されたB-1爆撃機はB-29に比べて重量も速度も5倍になった。兵器は膨大なカネを食いながら際限なく進化するものらしいが、抑止のための軍備拡大はギャンブル依存症と同じで、破滅への道を加速させていると分かっている筈なのだが…