これまでの日本の山歩きは自分の車で出かることが多かった。運動神経の鈍い小生にしては車の運転は大丈夫で、事故らしい事故を起こしたことがなく、長時間の運転も苦にならない。車で山に行く難点は出発した駐車場に戻らねばならないことで、縦走して「向こう側に下りる」と面倒なことになるが、それでも車の利便性が優先する。

とは言え小生も男性の平均年齢(81.4歳)に至り、同年輩に運転免許を返納した人が多くなった。株の売買は「まだはもう」が極意というが(小生は株をやらないが)、車の運転も、まだいけると思った時はもうダメな時で、何事も手仕舞い時が肝心なのだ。

鉄道での移動は嫌いではない。むしろ「小鉄ちゃん」を自認する鉄道ファンだが、新幹線と通勤電車は便利なだけで旅の情緒がなく「鉄道」にカウントしない。ちょっとローカルな鉄道が好みで、そんな鉄道で行ける近場の山を探した。

小生が住む千葉県には「山」がない。県内の最高峰は房総半島の先端に近い「愛宕山」(標高408m)だが、この標高では地理学上「丘陵」に分類されるのだ。しかも山頂に航空自衛隊のレーダー基地があり、事前に許可を得なければ立入れない。標高300m級の「丘陵」はいくつかあるが、どこも公共交通機関の便が悪く、車で行くしかなさそうだ。

標高300mにも届かないが、行きたくなる「山」が見つかった。「大福山」(292m)で、名前も面白いが、小湊鐡道の上総大久保駅から稜線と渓谷を歩いて養老渓谷駅に出るルートも面白そうだ。紅葉名所の養老渓谷に近いので錦秋の風景も期待できる。そんなわけで11月末の日曜日に「小鉄ちゃん山歩き」に出かけた。

小湊鐡道はJR内房線の五井から房総半島を南下し、内陸の下総中野までの全長39.1Kmの私鉄で、「小湊」を名乗るのは、創業時(1917年、大6)の事業目的が日蓮上人ゆかりの「誕生寺」の参詣客輸送で、門前町の「安房小湊」までの路線を申請したからだが、1928年(昭3)に下総中野まで開通したものの、そこから先の山岳地帯(?)の地形が厳しく、着工できないまま1936年(昭11)に建設免許が失効した経緯がある。今も社名に「小湊」を冠し「鐡道」の旧字体にこだわり続けるのは、当時の無念の名残りだろうか。

開通当時の小湊鐡道は米国と英国から輸入した蒸気機関車が主役で、当時の蒸機3両が五井機関区に静態保存されている。今も全線非電化で、輸送は気動車が担っている。非電化の地方鉄道は旧国鉄のお下がり気動車が多いが、小湊鐡道は1961年~1977年に自社用に新造したキハ200型気動車が現在も現役で稼働している。手入れもしっかりやってきたようで車齢より若く見えるが、勤続60年ともなれば足腰の衰えは如何ともしがたく、JR只見線を走っていたキハ40型の導入が始まっている。

ちなみにキハは「気動車の普通車」を表わす。気動車はエンジンを搭載して自走する客車を云う。「キ=気」は気動車の元祖が客車に小型蒸気機関を積んで自走する「蒸動車」だったことに由来する。1910年頃にガソリンエンジンで動くガソリンカーが出現し、ディーゼルエンジンの小型軽量化が進んだ1930年頃からディーゼルカーに代わった。戦時中は石油燃料の確保が困難になり、天然ガスや木炭ガスで代用したが、馬力が足りず運転手が苦労したらしい。「ハ」はイロハのハで「三等車」を意味したが、旧国鉄が露骨な等級付けを1969年(昭44)に廃止し、ロの二等車が「グリーン車」に、ハの三等車は「普通車」になった。イの一等車は消滅したが、近年になって新幹線の一部に「グランクラス」が登場した(イの表記は無い)。

エンジンで走る「気動車」と架線や第三軌条から集電して走る「電車」は別物で、時刻表でも列車番号にD(Diesel=気動車)とM(Motor=電車)を付けてキチンと区別しているが、気動車も電車もごっちゃに「デンシャ」と呼ぶ安易な風潮がある。中には機関車が引く客車まで「デンシャが来ました!」とレポートするプロのアナウンサーもいて、日本語の破壊を嘆きたくなる。これではネコもウサギも金魚もペットは全て「イヌ」と呼ぶようなもので、日本語の破壊というより、論理的思考の放棄とさえ思えてしまう。

閑話休題。小湊鐡道のキハ200は各車両の両端に運転室があるので1両で運用できる。通常は1両か2両連結で走るようだが(ホームの長さが2両分しかない駅が多い)、晩秋の週末は養老渓谷の紅葉見物客で1年で最も混雑する時期で、五井発8時52分の下り列車は3両編成だった。我々は45分前からホームで並んでいたので座れたが、発車時には往年の新宿駅の朝ラッシュを思い出させる超満員になった。大都会はすぐ次の電車が来るが、小湊鐡道の次の発車は2時間半後の11時20分で、ムリに乗るしかない。

五井を出てしばらく田園地帯を走り、やがて山間部に入る。たいした勾配ではないが、180馬力のエンジン1基のキハ200は、定員2倍の荷重に精一杯の唸りをあげる。小湊鐡道はIC乗車券(SUICA)の設備がなく、しかも大半の駅が無人で、車掌が満員の乗客をかき分けて切符を売り、駅が近くなると運転台に行ってドアを操作し、降りた客の切符を回収し、ドアを閉め、ホームの安全を確認して発車の合図を出す。効率一辺倒で無機質の都会の鉄道に慣れた我々には、人が動かしていることを実感するローカル鉄道がいとおしく感じられる。

五井駅に隣接する五井機関区。キハ200気動車に交って新来のキハ40と保線車両もいる
8:52発の上総中野行き列車が3両編成で入線
天井の扇風機が懐かしい。ダクトは後付けした空調用
10:05 上総大久保に到着。満員の車内からホームに押し出された人達
上総大久保は無人駅、駅前に立派なトイレがある
10:08 発車。3両目はホームを外れている

上総大久保駅に7分遅れで到着。山間の無人駅で、後部の1両はホームから外れている。殆どの客は隣の養老渓谷駅が目的地で、この駅で降りたのは30名ほど。列車を見送り、ガイドブックの地図を頼りに歩き始める。

上総大久保駅から大福山までの5Kmはゆるやかなアップダウンの林道歩きで、車には滅多に出会わないが、所々で見事に紅葉したモミジが迎えてくれる。大福山手前の展望タワーからの房総の眺望が素晴らしいというが、老朽化で閉鎖されていた。大福山の山頂は樹林に囲まれているが、西側の木がまばらな所からスカイツリーと都心の高層ビル群が見えた。

列車を見送り、踏切を渡って右の坂を登る
踏切から見た上総大久保駅
駅前の小学校跡。白鳥集落は小生のご先祖と関係あるのかな・・・
集落を抜けて林道大久保線(房総ふれあいの道)を南へ。緩やかなアップダウンの林道を紅葉が彩る
林道の随所に見事な紅葉
12:10 2時間歩いて大福山頂の白鳥神社に到着
白鳥神社は集落の氏神様
神社脇の小祠
神社裏のの巨木に「大福山頂」の標識
神社から東京方面の展望。中央にスカイツリー

神社からやや急な尾根道を下って梅ヶ瀬渓谷へ。渓流を何度も渡渉して里に出る遊歩道は、夏はさぞ気持ちが良いだろう。舗装道路の手前に切り立った浸食崖があり、複雑な地層と紅葉の対比が面白い。地磁気の逆転が確認されて「チバニアン」の呼称が国際的に公認された地層はすぐ近くにある。

梅ヶ瀬渓谷に下る。房総で紅葉が最もきれいな場所と言われる
梅ヶ瀬の渓流歩き
縞模様が明確な地層は77万年前の御嶽山噴火の降灰が堆積したものという。
地磁気の逆転現象が確認されチバニアンと命名された地層はこの近く
14:00 ここから先は養老渓谷駅まで舗装の一般道路を歩く
舗装道路の周辺にも見事な紅葉
14:30 養老渓谷駅に到着。下り列車が発車するところ
15:00 五井行きの上り列車が到着。帰りも満員だった

上総大久保駅を出発して4時間、午後2時半に養老渓谷駅に到着。当初の予定では、紅葉名所の養老渓谷の核心部まで足を伸ばして、17時45分発の列車で帰るつもりだったが、13Kmの里山歩きで足腰の回りに重い鉛を感じ、これ以上歩くのがイヤになっていた。ちょうど1本前の15時00分発の五井行きが来るところで、それを好都合に「小鉄ちゃん山歩き」を早めに切り上げることにした。遺憾ながら寄る年には勝てず、現役60年でガンバリ続ける老キハ200に改めて敬意を表した次第。


小鉄ちゃんのクラシック鉄道写真集

いつ頃からか知らぬが、鉄道を趣味とする人を「鉄ちゃん」と呼ぶようになった。鉄ちゃんは「車両鉄」(型式や性能に詳しい)「撮り鉄」「乗り鉄」「時刻表鉄」などに分類され「吞み鉄」も追加されたが、要するに鉄道がらみの「どうでもイイこと」を知っていたり、こだわった行動をする人を指すようだ。日本の鉄ちゃん人口は約1千万人といわれ、その9割が男性というから、男性は8人に1人が鉄ちゃんの計算になり、それだけいれば鉄ちゃんは「ヘンな人」ではない。

「ちょっとだけ鉄ちゃん」の小生は「小鉄ちゃん」を自称する。小生の小鉄ちゃんは、小4時に親が国鉄職員の同級生に誘われ、飯山駅の機関区(動力車の基地)に潜入したことに始まる。C12 型蒸機とラッセル車の運転台に座って機関士の気分になり、石炭投入の練習場で機関助士の真似をして遊んだが、潜入がバレて同級生が親にひどく叱られたと後で聞いた。それを機に鉄道に興味が湧き、機関車や客車の車両型式や特徴を憶えるようになり、その習性は50歳近くまで続いた。旧国鉄の蒸機、電機、客車、電車、気動車は、現物か写真を見れば型式名を言い当てられたが、1987年(昭62)の国鉄民営化以降、車種が増え型式名のつけかたも不統一になり、加えて本人の集中力と記憶力が衰えて唯一の特技を放棄、今は小鉄ちゃんの気分だけ維持している。

小6時にカメラを買ってもらったことは「ボクの写真事始め」の冒頭に書いた。そのカメラで最初に撮ったのが右の松本駅構内の写真で、何も考えずに撮ったので鉄道写真の態をなしていないが、左の煙を上げている蒸機は面構えと煙突の前の温水器でD51型の標準型と断定でき、右の客車は切妻屋根の特徴からオハ61型と想像がつく。当時の松本駅にいた機関車はD51、D50、9600で、客車もオハ60、オハ61、オハ35に限られていたと思う。西端のホームに大糸線と松本電鉄の電車もいた筈だが、全く記憶がないのは電車に興味が及ばなかったのだろう。

ちなみにオハの「オ」は「型」の略で重量35トン前後の3等客車を云う。ナハは「みの重さの三等車」、スロは「こし重い二等車」、マイテは「ったく重い一等展望車」の略。これを昭和3年にマジメに決めたのだから、当時の日本にはまだユーモアを許す余裕があったのだろう。

大人になるまで鉄道を撮った写真はこの1枚だけだったと思う。成人後も鉄道写真を撮る目的で旅に出たことはなく「撮り鉄」の仲間に入れてもらえないが、行く先々で出会った車両の写真があるので、その中からクラシックな機関車をご紹介しよう(記事の順番は撮影時の順)。鉄道写真としては未熟なものばかりだが、撮った時の気分は今も思い出すことができる。


ロスアンゼルス中央駅  1969年4月撮影   参考:ボクのカメラ遍歴-2 アメリカ50州・南カリフォルニア

1969年に2度目の米国出張でロスアンゼルスに2ヵ月半滞在、週末の気晴らしに宿舎から歩いて行ける中央駅に時々足を運んだ。外国の鉄道駅には改札がなく、切符なしでホームに入れるのが嬉しい。大都市ロスの中央駅と言っても、列車の発着は1日に数本だった。この日は米国の鉄道を象徴するクラシックなディーゼル機関車(ゼネラルモーターズ製 F7型、1500馬力×2、1949~1953に約4千台製造)と出会い、興奮を覚えた記憶がある。

米国の長距離鉄道は今もほぼ全て非電化で、強力なデイーゼル機関車が重連で長編成の旅客列車や貨物列車を引く。大型ディーゼルエンジンで発電してモーターを回す「電気式ディーゼル機関車」が主流で、運転手が一人で重連の機関車を一括制御しやすいことや、低速で強力なトルク(回転力)を生じる直流モーターの特性が、重い列車を停止状態から引き出すのに有利とされた。(日本ではレールへの荷重を減らすために軽量化を優先し、液体変速機で駆動する方式が主流だったが、近年は重電機器の軽量化が進んで電気式が増えたようだ。)


ロスアンゼルス トラベルタウン鉄道公園 1969年5月撮影

1969年のロス出張中、ハリウッドに近いバーバンクのトラベルタウン鉄道公園も訪れた。静態展示の蒸気機関車や客車に自由に入って機器に触れたりできた。荒れてしまった車両もあったが、写真の機関車は塗装を塗り替えたばかりで、足回りがシェイ型ギアードロコ(後述)なので、森林鉄道で使われていたものだろう。この施設は今も健在で、財団がガンバって資金を集め入場無料を維持しているようだ。


カナダ オンタリオ州 マスコカ カナダ国鉄 6060型蒸機 1979年10月撮影  参考:カナダ-3

1979年春にカナダのトロントに家族帯同で赴任した。半年経って生活が落ち着き子供たちも学校に慣れた頃、秘書が蒸気機関車が引く臨時列車で紅葉を見に行くツアーがあると教えてくれた。雑談で小生の鉄道趣味を知って気を利かせてくれたのだろう(何事にも気が届く優秀な日系三世だった)。

列車はトロント中央駅を出発し、2時間北上して湖水地帯のグレーブンハーストで折り返したと記憶する。途中の広場で停車し、希望する客を降ろして一旦バック、煙を高く噴き上げて走行する姿を見せるサービスもあった(写真は広場で停車中)。

機関車はカナダ国鉄(CN)が1944年に新造した6060型。重油焚きで2D2(動輪4軸)、自重107トン、暗緑色の塗装を施した大型蒸機で、北米で新造された蒸機はたぶんこの車体が最後だろう(日本では1948年に製造されたE10型5両が最後)。6060はツアー翌年の1980年に火を落とし、現在はカナディアンロッキーのジャスパーで静態展示されているようだ。(右はトロント駅で発車前に撮影)


ウェストバージニア州 キャス観光鉄道  1983年7月撮影   参考:ボクのカメラ遍歴-2

82年秋にトロントから米国バージニアに転勤になり、子供たちも国境を越えて学期中途の転校になったが、幸いすぐ順応してくれた。カナダ・米国の中流家庭は、夏休みに子供をサマーキャンプ(10日~2週間)で過ごさせる習慣がある。かなりの出費だが、子供には田舎で集団生活して「得意技を身につける」得がたい体験で、親は家計をやりくって送り出す。

83年夏、小5の息子をウェストバージニアのキャンプに送り届けた帰り道、観光鉄道の看板を見つけた。見つけたからには車を停めて写真を撮り、列車運行の時間が合えば乗車する。この鉄道はアパラチア山中から木材を運び出す現役の森林鉄道で、本業の傍ら線路の一部で観光列車を運行していた(現在も運行)。

一般の蒸気機関車は、車体前方の巨大なシリンダーとピストンで生じる往復動を連結棒で動輪のピンに伝え、動輪が回転運動に変えて進む(左図)。動輪はある程度の径が必要で、複数の大きな動輪を井桁の台車に固定するので、急カーブが苦手になり、森林鉄道でトロッコを引くような用途には向かない。これを解決したのが「歯車式蒸気機関車」(Geared Locomotive、右図)で、車体側面の複数の垂直ピストンでクランクを回し、そのパワーを回転棒と歯車を介して動輪に伝える。日本では使用例が少ないが、植民地時代の台湾の亜里山森林鉄道で導入され、戦後になって観光登山鉄道として人気を呼んだ。その後デイーゼル化されたが、蒸機の動態復活を進めているとも聞く。


ペンシルバニア州 イースト・ブロード・トップ鉄道 1983年10月撮影  参考:北米50州 ペンシルバニア

当家の「小鉄ちゃん」は小生だけだが、戸籍筆頭者の権力で家族を巻き込んだ。首都ワシントン郊外の拙宅から2時間で蒸気機関車の観光列車に乗れると知り、晩秋の日曜日に家族で出かけた。ペンシルバニアは日本で言えば奈良のような歴史地域で、独立時の首都フィラデルフィアや南北戦争の古戦場ゲティスバーグもあるが、製鉄や重機械の重工業地帯でもあった。内陸に重工業が発展したのは資源がそこにあるからで、鉄鉱石も石炭も地元で採掘して鉄道で近くの工場に運んだ。

重工業が衰退すれば鉄道もお役御免で廃線になる。そんな中で観光鉄道として命脈を保ったのが East Broad Top 鉄道 だった。この鉄度は今も存続し、写真の15号機(1915年製)も動態を維持しているようだ。ちなみにこの機関車の車輪配置は1D1(4軸の動輪の前後に従輪が各1軸)で、この形式が国際的に「ミカド型」と呼ばれているのは、日本が1897年に米国メーカーに発注した9700型蒸機の車軸配列が1D1だったことに由来する。太平洋戦争中は「ルーズベルト型」と言い換えたというが、敵性語排斥は大日本帝国だけではなかったようだ(戦後はミカド型に戻っている)。


カリフォルニア州 ロアリング・キャンプ・ナローゲージ鉄道 1988年  参考:米国50州 ベイエリア

1986年に米国駐在を終えて帰国したが、1990年に再度赴任するまでの4年間も頻繁に米国に出張した。トンボ帰りが多かったが、たまに週末を跨ぐことがあり、そんな時はゴルフ忌避の小生は鉄道に足が向いた。

サンノゼ(サンフランシスコ湾の南端)から30分ほど南下すると、森林のテーマパーク Roaring Camp に動態保存の森林鉄道がある。軌間762mmのトロッコ軌道で、シェイ型ギア―ドロコと小型デイーゼル機関車が交代で観光列車を引く1周1時間のツアーがある。客は子供より大人の方が多く、子供のようにはしゃいで乗るのを見ると小鉄ちゃんに仲間意識が湧く。


コロラド州 デンバー フォーニ―交通博物館  1992年4月  参考:米国50州・コロラド篇

米国には「交通博物館」(鉄道、航空機、自動車)が多いような気がする。人口が日本の3.5倍、土地は49倍あるのだから、交通博物館が日本の数倍あっても不思議はないが、とにかく行く先々で偶然に見つけることが多かった。どの展示場も広大なのは土地がタダ同然だからだろう。地元の人たちが財団を作って寄付を集め、ボランテイアが維持運営にあたるのは、日本の「お祭り」に似ているような気がする。

デンバーの交通博物館はロッキーのスキー場からの帰り道で見つけた。飛行機の出発時間まで余裕が無く急いで見学したが、Big Boy のニックネームの巨大な蒸機(1924年製、総重量300トン超)に圧倒された。

Big Boy に比べると小型だが、外形と軸配置(1C)が北海道開拓用に1880年に米国から輸入した「義経号」にそっくりで、たぶん同型式だろう。


ジョージア州 ストーン マウンテン鉄道  1993年9月  参考:米国50州 ジョージア

この蒸機にも偶然に出会った。米国50州踏破の旅行でアトランタからケンタッキーとサウスカロライナを回った帰り道、飛行機の出発までの時間つぶしに立ち寄ったアトランタ郊外の観光名所ストーンマウンテンに保存鉄道が走っていた。ストーンマウンテンは名のとおり巨大な一枚岩の山で、岩壁の南軍のリー将軍と司令官のレリーフは世界最大と言われる。作者のガストン・ボーグラムは南ダコタラッシュモアの4大統領胸像の制作者でもある。

2B(動輪が2軸)の珍しい軸配置を持つ蒸機は1923年製で、銘板の「TEXAS」が示すようにテキサス南部サンアントニオの鉄道で使われていたもの。


サウスダコタ州 ブラックヒルズ セントラルl鉄道  撮影:1993年10月  参考:米国50州 ダコタ

Black Hills Central Railroad も米国50州踏破の旅で訪れたダコタで偶然見つけた保存鉄道だが、マニア向けガイドブック「Steam Passenger Service Directory」の1983年版に載っていない。米国最辺境のダコタは麦畑の他に何もないが、唯一の観光地ラッシュモアの四大統領胸像を訪れる観光客が年間2百万人を超える。その「おこぼれ」を狙って1983年以降に開設されたのだろう。

時間の制約で観光列車に乗れなかったが写真は撮れた。ボイラーの上に水タンクを載せた「鞍水槽型」(Saddle tank engine)は日本では見ないタイプだ。


アルゼンチン ウスアイア 南フェゴ鉄道 2007年2月撮影  参考:パタゴニア-3

南米最南端の鉄道が「世界の最果て鉄道」(El Tren del Fin del Mundo)を自称するのは「むべなるかな」。ウスアイアは日本からはもちろんヨーロッパからも北米からも「地の果て」だが、わざわざ地の果てまで乗りに行くマニアもいるらしい。(小生はわざわ乗りに行ったのではなく、パタゴニア観光ツアーの日程に入っていた)。

この鉄道は「囚人が懲役のために引いた鉄道」だった。19世紀末、アルゼンチンはこの地域の領有権を確立する目的で刑務所を建て、囚人(主として政治犯)を送り込んで鉄道を敷設させ、鉄道が出来ると囚人を森林伐採の現場に運んだ。刑務所は1947年に閉鎖されて鉄道も役目を終えたが、半世紀を経て観光資源として復活した。

おもちゃのように小さい機関車の前に連結した水ダンク車にも動輪が付いているのが珍しい。小さい車体で急カーブを走るための構造で、他にない形式ではないか。赤、青、緑など鮮やかな原色で塗装しているのも珍しい。


インド ダージリン トイトレイン 2011年3月撮影  参考:北インド・ダージリン地方

ダージリンの豆鉄道はズバリ「おもちゃ鉄道」(Toy Train)を自称する。と言ってもれっきとした公共輸送機関で、英国植民地時代にダージリンに避暑客を運び、名産品のお茶の輸送を担っていた鉄道馬車を蒸機の鉄道に転換したもの。今は短距離の観光列車がメインだが、1日1便の定期列車が麓の町とダージリンを往復している(定期便はデイーセル機関車が引く)。

馬車時代を踏襲した610mmの軌間はトロッコより狭く、その上を走る蒸機も超小型。急勾配・急カーブが連続するので、機関士、助士の他にスリップ防止の砂を撒く要員も乗務する。ボイラーの上に水槽を乗せたサドルタンク式で、燃料の石炭も運転席前の貯炭箱に積む。

この列車に乗る前日に東北大震災が発生し、ダージリンのホテルでBBCのニュースで大津波の映像を見て仰天した。幸い家族とご近所に電話連絡がとれて無事を確認、他のツアー参加者も同様だったのでツアーを続けたが、被災者に申しわけない気分が今も残る。


オーストリア シャーフベルク登山鉄道  2015年6月   参考:オーストリア-1

ザルツブルグに近いザルツ・カンマ―グーツの山中は世界有数の岩塩の産地だが、この鉄道は純粋に観光用で、1892年に建設が始まり翌年に開通したというから、よほどの突貫工事だったのだろう。ラックレール式鉄道で、標高542mのヴォルフガング駅から1783mのサーフベルク山頂駅まで延長5.85Km、最大斜度26%の急勾配を35分で登る。

蒸機のボイラーは急勾配を登る時に水平に保つように前のめりに取り付けられている。建設当時は石炭炊きで、当時の車両が1両残っているが、ツアーで使われる蒸機は原型をモデルに新造された石油炊きで、補充にディーゼル機関車も使われている(我々の列車は残念ながら往復ともディーゼル機だった)。


癒しの「模型鉄」

鉄ちゃんの分類に何故か「模型鉄」が抜けている。オモチャは対象外と言われるかもしれないが、男の子なら誰でも鉄道模型に憧れたことがある筈で、「模型鉄」も鉄ちゃんに入れるべきだろう。小生が子供の頃、鉄道模型はフツーの家庭が買えるようなものでなく、模型店のショーウィンドウで眺めただけだった。大人になって多少おカネが出来ても、狭い家に線路を引きまわすスペースなどなく、少年の夢をかなえられる人は少ない筈だ。

中には実現した人もいる。半世紀近く前に「ロッキード事件」があった。全日空の機種選定(L-1011)に関連して当時の田中角栄首相に3憶円の贈賄が疑われ、事件関係者が国会の証人喚問で「記憶にありません」を連発した。その中に某大手商社の幹部がいた。連日会社に泊まり込んで働く超モーレツ社員だったが、深夜に自宅ではないマンションで2時間ほど過ごすのを察知した特ダネ記者がいた。さてはと勘ぐって向かいのマンションに張り込み、カーテン越しに見たのは、初老の男が一人で部屋一杯にひろげた鉄道模型を無心に走らせている姿だった。

「癒し」という用語は好きではないが、極度のストレスから一時的に逃れるには癒し(気晴らし)が有効である。商社幹部は「商売上の立場」と「人としての良心」の狭間で、極度のストレスを抱えていたに違いない。特ダネ記者が想像した「酒色」も癒しになるかもしれないが、副作用と後遺症を伴うことが多い。その点模型鉄は「人畜無害」で、他人を巻き込まず、何事も忘れて無心で没入できる時間と幸福感をもたらす。おカネをかければキリがないが、「酒色」より安くあがる筈だ。

某商社幹部のストレスとは比較にならないが、小生も1990-95年の米国勤務はそれなりにキツかった。単身赴任のストレス、守備範囲膨張のストレスに加え、社交が苦手の小生にはダラス日本人会長の役目もストレスだった。何かの拍子にロッキード事件を思い出し、商社幹部にあやかって模型鉄をやることにした。テキサスサイズのアパートにマイ鉄道を展開するスペースは十分にあった。ホームセンターでベニヤ板を2枚買い、玩具店のトイザラスで子供用の鉄道模型キットと延長レールを買った。全部で100ドルほど使ったと記憶する。

ベニヤ板を2枚つないでレールを敷き、立体交差を何度も作り直し、とりあえず殺風景なマイ鉄道が開通した。駅舎、町、山、トンネルも作ってジオラマにするつもりだったが、そんな時に帰国の内々示があった。マイ鉄道は男の子のいる後輩にあげたと思うが、記憶はさだかでない。