0 ボクの写真遍歴-6

誰と誰がどこでメシを食ったというニュースが飛び交っている。人は誰でもメシを食うし、一人で食うより仲間と食った方が楽しくメシも美味く感じられる。昔から「一つ釜のメシを食う」と言うように、他人と食事を共にすることで親しさが生まれ、度重なれば家族のような絆が出来る。祭礼、祝儀、不祝儀の折に人を集めて酒肴を供するのも、万国共通の風習だろう。これは野生動物の「群れ」でも見られ、動物本能に根ざした感覚なのかもしれない。

ビジネスの世界にも、折にふれて客を招いて酒肴を供する風習がある。俗にいう「接待」で、税制でも業務を円滑に遂行するための「必要経費」と認めている。巷の料亭、レストラン、バーなどの多くは「必要経費」の受け皿として商売が成り立っている筈だ。会社員も「接待費」を自分の裁量で使える立場になって「やっとオレもここまで来たか」と感慨が湧き、「今月は一度も家でメシを食わなかった」などと自慢する者もいる。

小生は40年会社務めをしたが、「接待」の経験はあまりない。初めの6年は工場勤務で接待とは無縁。次の8年は北米事業の支援業務で、来日した客の接待でエライサンの付け人を数回務めただけ。アジアや中近東の客にはヘビーな接待を要求する御仁が多いと聞くが、北米の客は夕食を済ませてホテルに送り届けたら完了で、美女が侍る場所にお連れしたことなどない。一人ン万円の料理を陪食したが、付け人を粗相なく務めるのに精一杯で、酒や料理の味はうわのそらだった。北米駐在時のことは後述するとして、最後の8年は国内事業の会社だったが、不特定多数の来店客相手の小売業に接待の用事はない。業界のつきあいなどで会食の機会はあったが、「ビールの注ぎ方もしらない帰国オヤジ」ぶりを発揮したことは以前の号で吐露した(北米では相手に酒を注ぐのは無礼とされる)。

北米での「接待事情」はどうかと言えば、ランチの接待はしばしばやった。会議をひと区切りしてレストランにお連れしたり、人数が多いときは気のきいた仕出し(ケイタリング)を会議室にセットすることもあった。昔はビールやワインも出したが、92年頃から昼酒はナシが常識になったと記憶する。費用は一人15ドルを超えることはなく、「会議費」で処理できる範囲である。

夜の接待は極めて例外だ。朝メシと晩メシは家で家族揃って食うもので、「家で晩メシを食わない」と家庭が壊れる。夜の接待は呼ぶ方も呼ばれる方も大迷惑なのだ。レストランで男だけで晩メシを食っているのは日本人出張者と断定してよい。記念行事等で夜のパーテイを主催したことはあったが、男女ペアで呼ぶのが原則で、そんな「社交の場」で仕事の話をするのはヤボの骨頂とされる(我々は話題に窮するが)。夕食の費用はワイン次第だが、マアマアのレストランで一人50ドルが目安で、日本の料亭の値段(ン万円)の話をしても信じてもらえない。

そのかわり、仕事の関係者を家に招いて(これも男女ペアが原則だが)手料理を供せば、領収書がなくても「必要経費」で申告すれば税金が戻る(限度額はあるが)。会社の仕事に奥さんを使うことになるが(奥さんが仕事の関係者を呼べば旦那を巻き込むが)、これが最良の接待とされ、仮に粗餐であっても、呼ばれた客は感謝感激しなければいけない。

仕事がらみで「メシを食わせる」のには、大なり小なり「下心」がある筈で、「もっと仕事をくれ」や「ミスを大目にみて」「グルになって儲けようぜ」もあるだろう。メシに招いてOKなら「脈アリ!」と喜び、「都合がつかない」と言われたらヤッパリダメかと諦める。ビジネスが人間関係で成り立つ以上、接待が婉曲な駆け引きの場に使われるのは、ある意味で自然なことかもしれない。

「役人の接待」となると話は違ってくる。昔の役人は「生殺与奪の権」を持ち、権力をカサにムリ難題をふっかけた。やられる方としては、災厄を最小限に留めるために役人を接待して賄賂を贈り、手ごころを加えてもらうしかない。民主主義の時代になり、役人は「権力」から「公僕」に立場を変えたが、依然として「生殺与奪の権」は握っている。その権利の根拠は「法令」で、役人は法令を練り上げて議会に送り、成立後はその解釈と運用の権限を持つ。その法令の影響を受ける業者が、自分に都合の良い「解釈と運用」を求めて役人にアプローチするのは、国民の権利と言える。

国民の権利であれば、役所に赴いて正々堂々と陳情し世論を動かすべきで、暗くなってから担当役人を高級料亭に呼び出し、ン万円のメシを食わせン十万円のワインを飲ませれば、「私にだけ手心を加えてください」の事情があるに決まっている。ましてや権力者の御曹司を同席させて無言の圧力をかけるなど、よほどムリな頼みごとなのだろう。公僕である役人が「特定者の利益(便宜)」をはかることがないように、役人はタダメシを食ってはダメと法律に書いてある。役人はそれをイロハのイと承知している筈だが、呼ばれて応ずるのは「脈あり!」の意志を示したいからだろう。

役人がタダメシを食ったら法を犯したことになり、動かぬ証拠をつきつけられるまでシラを切る犯罪者はタチが悪く、情状酌量もナシになる。そんな上司の下で実務を担う役人の士気が落ちるのは当然で、昨今報じられる重要法案がミスだらけという前代未聞の醜態は、現場のヤル気が失せた証拠だろう(あるいは抗議のサボタージュか?)。森友の書類改竄を強いられた無念を自死で表した仲間がいたことを、全ての役人が我がこととして重く受け止めないと、近代民主主義国家の看板が錆びて崩れ落ちる。名君でもない殿様の尻ぬぐいが仕事の悪家老ばかりでは時代劇も成り立たず、国が治まる筈がない。

米国で役人とつきあった経験が少しだけある。省庁のトップ(日本では事務次官)は大統領が指名して議会が承認するが、殆どが民間からの登用で、任が明ければ(大統領が代われば)民間の仕事に戻る。中間管理職はトップが気心の知れた元部下や知人を登用するので、これも殆どが民間人の臨時役人である。そんな民間人が役人になったとたん、「メシ」や「ギフト」に極端に敏感になるのに驚いた。ランチの間は役人だけ別行動、我々が気軽に配る社名入りボールペンでさえ固辞した。ルール抵触がバレたら犯罪者で、民間に戻っても相手にされなくなる。どこで誰が見ているか分からないので、徹底して李下で冠を正さないのだ。例外はいるかもしれないが、小生がつきあった米国の役人はそうだった。

日本の役人は超優秀で潔癖で気骨があると言われてきた。昨今は忖度しかアタマにないダメ役人が目につくのは、「オレの言うことを聞かないヤツはぶっ飛ばす」と公言する、料簡の狭い政治家が人事権を握ってきたからだろう(会社にもそんな輩がいたが、威張るだけでロクな仕事をしなかった)。昔は自民党にも懐が深くスケールが大きい政治家が少なくなかったと聞く。そんな太っ腹で先が見える政治家と有能な官僚がグルになって日本国を操縦し、敗戦国をあっという間に「ナンバーワン」と言われるまでにした(副作用はどんな場合でもある)。この国がその後「風まかせ」になって存在感を失ったのは、政治家の劣化と無関係とは思えない。政治家を選ぶのは選挙民である。目立ちたがりだけでうさんくさい政治家には、一票を投じないことにしようではないか。仮に政権交代が起きなくても、与党に緊張感が走れば、少しはマシで真摯な政治家が増え、マトモな政策論議がかみあうようになる筈だ。



1997年7月~99年6月 大阪勤務

国内の職場で2年が経ち、1997年7月から大阪勤務になった。それまで関西とは縁が薄く、高校3年の修学旅行と、会社に入ってから米国人客のアテンドでせわしない名所巡りをしただけだったので、もっけの幸いに大阪単身赴任を楽しむことにした。職場は新大阪駅から地下鉄で2駅の江坂で、駅前のワンルームを借り、朝8時10分に家を出れば8時15分出社の超職住近接だった。駅前に住むのは初体験で、終末の盛り場の騒音にはマイッタが、利便は満喫した。

と言っても本社の用事が頻繁にあり、丸2年の在任中に新横浜ー新大阪を134往復した。3日に1度は新幹線に乗った計算でほぼ新幹線通勤だったが、2時間座ってゆっくり本が読め、新横浜から自宅へ新幹線+電車3本+バスを乗継いで1時間45分ほぼ立ちっぱなしの「痛勤」より楽だった。週末は自宅に居ることが多く大阪で週末を過ごしたのは半分もなかったが、天気の良い日はカメラを肩に奈良・京都、時にもっと先の名所旧跡に足を伸ばした。関西は電車が便利で安いのも嬉しかった。

入会早々の友山クラブの月例勉強会はたまにしか出席できなかった。当時は参加者が30名以上いたので、先生の作品講評は一人3点で、それでも時間が足りず、凡作はワンコメントでサッと流された。小生の作品はサッとが多かったが、天龍寺の達磨掛軸を「面白い」と褒められた記憶がある。写真の上達には技術の向上(露出の加減、レンズの使い方など)も大事だが、もっと大事なのは、何を「面白い」と感じ、それをどう表現するか考えて撮ることが大事と知ったが、無造作に撮るクセはデジタルになって更に亢進、凡作を重ねてきた。

吉野 上千本の桜  吉野 金峯山寺の桜
吉野の桜は山桜で、開花時に葉が出る。 金峯山寺の大護摩
京都 嵐電と桜 天龍寺の庭先から達磨掛軸を覗き込む。先生が面白いとコメント。
金閣寺 長谷寺の秋

1997年8月 モンゴル・ツアー

新聞の旅行広告で「作家司馬遼太郎の旅情、大草原の国・モンゴルを往く、8日間」を見つけた。司馬の「草原の記」を読み終えたばかりで、感動の余韻が残っていた。司馬が取材で宿泊した南ゴビのゲル(ツーリストキャンプ)に泊まる旅程が気に入って、無性に行きたくなった。つれあいは前年のネパールを敬遠したが、モンゴルには行く気になり、この旅が「夫婦で辺地旅行」の第1号になった。旅のレポートは「モンゴル」のページをご覧ください。

ハプニングがあった。ツアーに「解説者」が付いた。元朝日新聞論説委員で、TV朝日のニューステーションで解説者を務めた田所武彦氏で、宇都宮大学教授の肩書もあった。人気番組出演者の大学教授は近寄り難く敬遠したい気分だったが、ウランバートルのホテルで夕食後に飲み会になり、話している内に大学の先輩と分かった。つれあいが職業を言うと「まさか?」と細い目を開かれた。近くの短大の学生と合同の合唱サークルがあり、我々はそこで知り合って結婚したのだが、田所氏がそのサークルの創始者だったのだ。言ってみれば我々の「結びの神」で、その神様とモンゴルで初対面したのだから奇遇と言うしかない。

田所先輩とはその後何度かお会いする機会があり、その折に伺ったところでは、実はモンゴルに行ったのはあの時が最初の最後で、解説者に呼ばれたのは、司馬遼太郎と対談した本(「日本人の顔」朝日文庫1984年刊)が出ていたからだろうとのこと。お会いする度にモンゴルの旅を懐かしがっておられたが、惜しくも2013年に他界された。

南ゴビの草原に着陸する国内線(旧ソ連製の双発機)。 司馬遼太郎も泊まった南ゴビのツーリストキャンプ。
遊牧民のゲルと住民の少女。太陽光パネルに存在感。 驟雨の草原をゆくラクダ。
草原を勝手に走る車が作った道。デコボコが激しい。 途中で出会った兄弟。
五つの神の山と名付けられた奇岩群。映画にも出たという。 バヤンゴビの平原。
フビライ帝の宮殿跡に作られたラマ教寺院。 元帝国唯一の遺物とされる甕の彫刻。
ウランバートルのスフバートル広場。 ウランバートルにに残るボクドハーン宮殿

1998年2月 友山クラブ写真展 「モンゴル・天と地の詩」

旅の翌年の写真展にモンゴルの作品を出した。ここでもハプニングがあった。会場当番の先輩から電話があり、小生の展示作品を買いたい方がおられるがどうするかという。小生の知り合いではないらしい。どうすれば良いか尋ねると前例がないという。見知らぬシロウトの作品をお買い上げとは奇特な方もいたものが、喜ぶべきことだろうと思った。小生は在大阪で先輩にお手間をかけるが、写真展終了後にお届けするように手配をお願いした。

値段を聞かれて窮した。シロウトは趣味におカネを使うもので、おカネをいただくと「イバラの道に足を踏み入れる」と諭されたことがあった。プロが芸でおカネを得るのは大変な修行あってのことで、シロウトが軽い料簡でおカネをいただくなどトンデモナイと承知していた。だが写真をタダで進呈すれば「返礼」の気遣いを強いかねない。若い頃アマチュア合唱団で入場券を売ったことを思い出した。会場費や伴奏者・ソリストのギャラなどの出費をチケット売上でまかない、足りない時は会員の分担金で埋めた。このメソッドを援用して、作品のプリント代と額装の実費を丸めた金額をいただくことにした(結構な金額になるが)。

それ以降も、写真展で見知らぬ方から作品を所望されたことが2度あった。近隣のコミュニテイ喫茶室の「壁ふさぎ」に飾った作品を所望されることもあり、その場合も実費をいただくことにしている。もっとも引き取っていただいた作品はごく少数で、大半は狭い家をふさぐ「粗大ゴミ」になる。


「大地の詩」 Nikon N-90 Nikon 35-80mm、Fuji Provia-100
坂を登りきると眼前に図形的な起伏の地形が現れ、馬が走り出す瞬間をあわてて撮った。
シロウトのマグレ当たりを、見知らぬ来場者がお買い上げ下さった。


「空と地の間」 NikonN-90、 Nikon 75-300mm、 Fuji Provia-100
ツーリストキャンプで食事を作る従業員家族のゲル(天幕)。望遠で撮っていると気にして出てきた。


「驟雨来る」 Nikon N-90、 Nikon 75-300m、 Fuji Provia-100
夕方になると必ずスコールが襲う。雨が雲から落ちてくることが納得できる。

モンゴルには一度行ったきりだが、写真で縁がつながった。JICAのシニアボランテイアでモンゴルに2年派遣されたSさんと知り合い、友山クラブに誘った。写真展にモンゴルの作品を出してもらったが、短期旅行者が「珍しい風物」を撮るのと違い、その土地の四季の空気を吸い水を飲んだ人の写真には、風土と生活の臭いが漂う。写真は物理的・機械的な記録手段で、誰が撮っても同じように写る筈だが、撮る人によって雰囲気が違う作品になるのは、その人の感性や個性(時に品格)がにじみ出るのだろう。考えてみれば怖いことである。


1996年12月 パソコンを買う

時間が前後するが、初めてパソコンを買ったのは96年12月だったと思う。仕事では90年のダラス勤務で初めて自分専用の端末をもらって管理データをモニターしたが、自分で文書やデータを作って発信する能力は無かった。小生は手書き文字が極めて拙く、86年頃からワープロを使うようになり、会社にも私物のワープロを持ち込んでいた。ローマ字入力は海外の業務でテレックス(テレタイプ)の送信作業を日常的にやっていたので、指10本を正しく使うブラインドタッチは身についていた。だがパソコンはそれとは違った次元の知識と技能を要する。

新横浜の会社ではパソコン1人1台がほぼ完了した段階で、全国展開した拠点や店舗にもネットワークを構築していた。小生は新横浜と大阪の両方に端末があり、どっちで作業しても同じデータになっていないと不便である。シロウトは簡単なことだと思ったが、情報システム管理者には難問だったらしい。出来ないことにパワハラまがいの苦言を呈したことを思い出した。遅まきながら撤回して陳謝します、端末をやたらいじって動かなくなり、何度もリセットの面倒をかけたことも、併せてゴメンナサイ。

それはともかく、パソコンは「読み書きそろばん」で、使えないと仕事にならない。習うより慣れるしかなく、自前のパソコンを買うことにした。当時はN社の「98」が主流だったが、Windows が急速に追い上げていた。N社員の小生は迷うことなく「98」を購入したが、その直後にN社が「98」撤収を発表した。 Windows (Microsoft)の軍門に下ったのだ。98用の周辺機器やソフトがあっという間に姿を消し、ユーザーとしては憤懣やるかたなかったが、「日本の技術が敗けた」というやるせない思いも浮かんだ。

日本の技術が敗けた例がもう一つある。「ケイタイ」である(今はスマホと呼ぶべきか)。ケイタイの元になった技術は、米国のベル研究所(ATT)が開発した自動車電話のセルラー(ハチの巣)システムで、第一世代はアナログの無線電話を高度化したようなものだった。第二世代のデジタル化システムでは日本が先行し、回線容量、通話品質、デジタル機能(i モード)、電池寿命等で世界で最も優れたシステムを構築した。だが世界を制覇したのはヨーロッパで開発されたGSMで、それがG4、G5へと発展し、日本の「内弁慶システム」は消滅した。折り畳みケイタイで一世を風靡したN社もケイタイ事業から撤退し、小生が所属したケイタイ関連の子会社(2002年に上場していたが)も2013年に他社に売却され、ここでもやるせない思いが浮かぶ。

米国の製造業は70年代に衰退したが、日本も90年代に変調をきたした。米国はGAFA(Google, Amazon, Facebook, Apple)で息を吹き返したが、日本が世界に誇る技術がゲームとアニメだと言われると、我々の世代は素直に喜ぶ気分にはなり難い。


1997-99年 日本百名山

96年に夫婦で始めた日本百名山だが、現役の身ではもっぱら週末登山で、大阪勤務の2年間に連れ合いを呼んで中国・四国の山を片づけた。99年7月に大阪勤務を終えて山行が増えたが、自分の車で行くと山頂を往復して駐車場に戻らねばならない。登山ツアーで行けば足の心配がなく、出発地と到着地が違う縦走もできる。新聞社系の旅行会社が催行する百名山ツアーがあり、手始めに雲取山と甲武信岳をツアーで登った。

自力で登るのはムリだから登山ツアーで、という人がいるが、ツアーで山登りが楽になるわけではなく、中には安全無視で集団遭難事故を起こす乱暴なツアーもある。我々がお世話になったツアー会社は料金が少し高かったが、東京からの添乗員に加えて現地でサポートスタッフが複数名付いた。安全第一で、岩稜を登る剣岳と渡渉のある幌尻岳の登山には、事前の実技訓練の受講が義務付けられていた。この登山ツアーには百名山中の21座でお世話になった。

 97年: 筑波山(茨城)、奥白根山(栃木・群馬)、大菩薩嶺(山梨)、浅間山(長野)
 98年: 大山(鳥取)、石鎚山(愛媛)、利尻山(北海道)
 99年: 天城山(静岡)、大峰山(奈良)、剣山(徳島)、赤城山(群馬)、
      高妻山(長野)、雲取山(東京)、甲武信岳(埼玉・山梨・長野)、草津白根山(群馬)

百名山には離島の山が2つある。利尻島の利尻山と屋久島の宮之浦岳で、どちらも難関で体力が要るだけでなく、旅費に金力も必須。少しでも若い内に片づけておこうと考え、98年の夏休みに北海道の利尻山と羅臼岳の遠征を企てた。利尻山は最難関の一つとされ、標高差1500mを日帰りする。標準は往復9時間だが、我々は朝5時出発、夕方4時下山で11時間かかった。山頂直下で会社の同僚夫妻とバッタリ出会った。モンゴルでは「結びの神」に邂逅したが、珍しい場所でまさかの出会いが続く。利尻島から花の礼文島に渡り、更に知床半島に足を伸ばし、これも難関の羅臼岳の登山口まで行ったが、天候悪化で登山を断念した。 (日本百名山の目次ページへ

97年5月 奥日光の奥白根山頂から尾瀬燧ケ岳(左奥) 97年5月 大菩薩嶺から富士山
97年11月2日 浅間山噴火活動のため、黒斑山で浅間山の登頂扱い 98年5月 石鎚山 せり出した山頂は高所恐怖症には難所。
98年8月 利尻山 8合目の長官山から山頂を望む。 利尻山頂の祠。残念ながら雲の中で展望ナシ。
99年10月2日 東京都最高峰、雲取山から富士山を望む。 新築された雲取山荘の最初の客だった。

1998年1月 友山クラブ 美ヶ原撮影会

1月の連休に友山クラブで美ヶ原撮影会があった。出発の朝に大雪が降り、新宿発の特急が運休と知って家を出るのをやめた。午後になって宿に連絡すると、小生以外は全員到着、これから午後の撮影に出るという。皆さん夫々高速バスや長野経由で松本まで行き、雪上車で山頂の宿に着いたらしい。新参の若造は根性ナシを恥じるしかなく、1日遅れで馳せ参じた。翌日も中央本線は不通だったので、長野経由で松本から宿の雪上車に便乗、夕飯前にたどり着いた。

先輩方の「根性」は大雪をモノともせず目的地に向かう行動力だけではない。標高2000mの美ヶ原山頂の朝夕の気温は-15℃、体感温度は-20℃以下だが、真夜中の雪原に三脚を立てて夜通し星空を撮り、日の出の2時間前から東の空を睨む人もいる。女性会員も大型カメラにレンズを詰めたザック(20Kg超)を背負い、重い三脚を抱えて雪の坂道を登る。マイッタナ、ついて行けるかな、と心配になった。

朝焼けの浅間山 王ヶ鼻から霧氷と北アルプス。霧氷はすぐ融けてしまう。
シュカブラの先に八ヶ岳と富士山。 王ヶ頭に無線塔が林立。

1998年12月 中国西安で除夜の鐘をつく

モンゴルでお世話になった旅行会社から特別企画の案内が届いた。西安の大慈恩寺で「除夜の鐘」を撞くツアーである。西安は日本が奈良・平安時代に憧れた都「長安」で、大慈恩寺は玄奘三蔵(三蔵法師)がインドから持ち帰った経典の漢訳作業をした寺であることは、歴史オンチの小生でも知っていた。仕事で中国との係わりが出来た時期で、隣国の実像を見たい気分もあった。

別ページの西安ツアーレポートを書いたのは10年前で、旅は更にその13年前である。23年前の西安は、小生が高校を出た昭和35年(1960年)頃の地方都市を思い出させた。中心部にビルが建って都市らしい賑わいが生まれたが、街を外れるとすぐ田園風景になる。住民が着ているものも質素で、当時の中国は30年遅れで日本を追いかけていると感じたが、その後中国を訪れる度に差が縮まり、2014年に成都を訪れた時は「追いつかれた」と実感した。GDPが米国を抜くのは時間の問題で(2028年と予想)、超大国の自信がそうさせるのか昨今は態度がデカい。大国が強気を起こすとロクなことはないのだが…

  
大雁塔 玄奘三蔵が持ち帰った経典を納めた。 大慈恩寺の年越し法要
新年の街に繰り出した時勢鼓笛隊 大門の前で踊る女児
兵馬俑 楊貴妃が湯あみした華清池。この種の客寄せ造物は悪趣味だが…

1999年8月 中央アジアの旅

同じ旅行会社からまた一風変わった企画が届いた。「天山山麓イシククル湖とシルクロード遺跡を巡る旅」である。シルクロードはロマンを誘うキーワードで、80年代にNHKが特集した「シルクロード」が喜多朗のデーマ音楽と共に印象に残っていた。不得意科目の歴史をパスしたので知識ゼロだったが、半年前に西安の城壁に登ってシルクロードの起点に立ったという感慨が湧いた。パンフレットを見てテンションが上がり、99年の夏休みの行き先が決まった。中央アジアのカザフスタン、キルギス、ウズベキスタンの3国を12日間で巡る一般公募のツアーだが、「日本キルギス友好協会」のイベントとして会の中心メンバーが旅の世話をしてくれ、現地で友好行事も設定されていた。

往路はソウルからアシアナ航空でカザフスタンのアルマトイに入り、帰路はウズベクスタンのタシュケントからソウルに戻った。韓国のエアラインが旧ソ連圏の中央アジアに定期便を飛ばすのにはワケがある。この地域に朝鮮系の住民が多いためで、それには日本の間接的な関与があった。第二次大戦時、旧ソ連は極東地域(沿海州)に住む朝鮮系の住民を、中央アジアやカムチャツカ半島に強制移住させた。朝鮮を植民地にしていた大日本帝国への内通を懸念したのだろう。2003年にカムチャツカを訪れた時、我々の旅の世話をした朝鮮系の若者から軽い敵意を感じたのは、そんな歴史の背景があったのかもしれない。

この地域には、終戦時にシベリアに抑留された日本人将兵の一部が送り込まれ、強制労働に就いた歴史もある。捕虜の使役は国際法違反だが、旧ソ連は第二次大戦で人口の15%(2700万人)を失い、労働力を渇望した事情があった。日本人抑留者は過酷な労働と食料欠乏で4万人以上が死亡し、アルマトイはじめ各地の日本人墓地に眠っている。意外に思うのは、辺境の地に日本人捕虜を使って立派な劇場を建てさせたことで、当時のソ連周辺国が経済的に豊かだった筈はないが、オペラやバレイを大事にするロシアの伝統がそうさせたのだろう。劇場の壁に「日本国民が建設に参加、貢献した」と記したレリーフがはめ込まれている。不法な抑留と強制労働は容認できないが、残された立派な劇場が大事に使われているのを見ると、気分がいくらか和らぐ。


カザフスタン

最初の訪問地カザフスタンのアルマトイは「リンゴの父」を意味する。我々が訪れる2年前の1997年に内陸のヌルスルタンに遷都しして首都の地位を失ったが、産業経済の中心地であり続けた。街を歩いて驚いたことがある。ソ連崩壊から8年、カザフスタンでは社会主義政権が続いていたが、米国系のファストフード(バーガー、コーラ、フライドチキン等)や衣料品店だけでなく、小生がテキサスでお世話になった地方銀行まで軒を連ねていたのだ。社会主義国の理と利の使い分けと、自由経済大国の抜け目のなさを見せつけられた。 ツアーレポートは「カザフスタン」で。

アルマトイの朝。宿のベランダから正教会の尖塔が見えた。 公設市場、乾燥果物の店先
日本人抑留者の墓地。 メデウ渓谷娯楽センターのテント劇場で

キルギス共和国

カザフスタンはソ連崩壊後も社会主義路線を続けたが、隣国のキルギスは脱ソ連の路線を選び、日本の学者を政府顧問に招いたり日本語教育を導入するなど、日本との協力関係を進めていた。前述のように我々のツアーはキルギス日本友好協会が支援し、首都ビシュケクで日本語学校の生徒との合同ハイキングと、夜に政府関係者との友好パーテイが予定されていた。ハイキングは無事に終えたが、夕方のパーテイは急遽中止になった。その当日、JICAがキルギスに派遣していた鉱山技術者(4名と記憶する)の誘拐事件が起きたのだ。現場は首都から南西300Km離れたタジキスタン国境の山岳地帯で、タリバン系のゲリラが身代金目当てに誘拐したらしい。ビシュケクは平穏だがパーテイは中止するしかない。

キルギスは紛争地域のタジキスタン、アフガニスタンと接している。紛争の発端は1979年に旧ソ連がイスラム教原理主義制圧を口実にアフガニスタンに侵攻したことで、89年にソ連軍が撤退すると、今度は米国が地域安定を口実に派兵し、泥沼の状況が今も続いている。大国の軍事介入が事態をこじらせてきたことは明らかで、ロシアと米国は海外派兵がしんどくなったらしいが、超大国に躍り出た国が余計な干渉に乗り出さないことを祈るばかりである。 ツアーレポートは「キルギス共和国」で

朝のビシュケク市街 郊外のアラ・アルチャ自然公園
日本語を学ぶ青年たちとの合同ハイキング。 キルギス人は上品な日本人に似ている。
イシククリ湖上からテルスケイ山脈。湖畔の林にリゾートがある。 湖の東端カラ・コルの東方正教会。
鷹匠 シルクロードの交差点 トクマク。

2000年2月 友山クラブ写真展 「天地悠久」

旅の翌年の写真展にキルギスの作品を出した。前述したように候補作7点を提出して川口先生が3点を選び、先生がテーマタイトルと作品タイトルを付けてくれる。タイトルは出展者が自分で付けても良いのだが、先生のセンスと文章力にかなわないので、殆どの出展者が先生にお任せで、先生もタイトル付けの作業を楽しんでおられたようだ。

優れた写真家には筆の立つ人が多く、写真集に綴られた文章は一流の小説家、随筆家をしのぐ文章力を感じる。川口先生も写真集だけでなく文章だけの本もたくさん出しておられ、詩集まである。写真を磨けば言葉も磨かれる、いうことだろうが、小生はその境地にほど遠いまま終わりそうだ。


「天山支脈テルスケイ・アラトウの朝」 Nikon N-90 Nikon 75-300mm、Fuji Velvia
イシククリ湖畔リゾートのベランダから。三蔵法師が山を越えてこの地を通ったという。


「奇景ジュデイ・オグス(七頭の牛)」 NikonN-90、 28-105mm、 Fuji Velvia
イシククリ湖東端の奇景。麓の小屋に温泉が湧く。近くに旧ソ連の宇宙飛行士訓練所があった。

「キルギスの山々を里として」 Nikon N-90、 Nikon 75-300m、 Fuji Provia-400
北部の小集落トクマクはシルクロードの交差点。玄奘三蔵もこの地を通ったとされる。


ウズベキスタン

古都のブハラとサマルカンドで「シルクロード」を存分に味わった。と言っても「絹の道」の呼び方が昔からあったわけではない。19世紀にドイツ人の地理学者リヒトホーフェンが言い出し、弟子のスウェーデン人探検家のヘディングが著書のタイトルに使って広まった。東西を結ぶ交易路を意味するおおづかみな概念的用語で、どこからどこまでの定説もなく、東端が西安ではなく奈良とする説もあるらしい。

シルクロードの詮索はともかく、我々の旅で訪れたキルギスからウズベキスタンに抜ける「天山北路」は、過酷な砂漠や標高の高い峠の通過を可能な限り避けた安全重視の交易路で、7世紀に玄奘三蔵もインドへの往路はこのルートを辿ったとされる。ルートに沿って交易都市が栄えたが、13世紀にモンゴル起源の元帝国フビライが徹底的に破壊した。現在我々が見る史跡は、16世紀にイスラム王朝のティムールが築いたものである。

煉瓦とタイルの建物も400年を経ると崩壊や褪色が進行し、あちこちの史跡で修復作業が行われていた。タイルも新たに焼いたものを使うので、400年前に建てられた当時の輝きを取り戻している。日本の社寺の修復は「古色蒼然」の現状維持が原則だが、外国では仏教寺院でも仏像でも頻繁に塗り直して「新品同様」の状態を保つ。日本でも伊勢神宮は20年に一度まっさらにするが、宗教施設は「新品」の方がパワーを感じさせるのだろう。 ツアーレポートは「ウズベクスタン」で

ブハラ、カタリダシュ・メドレセ(学院) マゴキ・アッタリ・モスク 
マーケットの茶店にたむろす男たち。 ブハラの史跡の民族舞踊。司馬遼太郎も胡人の美女に魅せられた。
サマルカンドのグリ・アミール廟。英雄テイムール一族が眠る グリ・アミール廟の内部は全面金張り。
修復を待つ遺跡群。右の青いドームは修理済み。 シャヒースインダ廟。
サマルカンドの野外市場。 派手な民族衣装にスイカが似合う。
2004年2月 友山クラブ写真展 「シルクロードの輝き」

サマルカンドの作品は旅から5年後の「忘れた頃」に出した。この時期は仕事の事情で長旅ができず「ネタ切れ」になっていた。山岳写真がメインの写真展にイスラム寺院の写真はいかがなものかと躊躇したが、川口先生が面白がって素敵なタイトルを付けてくれた。この許容度の広さが友山クラブの魅力でもあった。


「メドレセの門」 Nikon N-90 75-300mm、Fuji Provia-100
古都ブハラの巨大なカラーン・モスクの門前で撮った。


「蒼空に映える」 NikonN-90、 75-300mm、 Fuji Velvia
サマルカンドのグリ・アミール廟のドーム。修復作業を終えたばかり。

「壁の彩り」 Nikon N-90、 75-300m、 Fuji Provia-100
サマルカンドのシャーヒズィンダ廟回廊の壁面のタイルを撮った。