米国大統領選挙から1カ月近く経つが、選挙が終わったのか終わっていないのか判然としない。小生の事前予想では、米国民の多くが現大統領にあいそをつかした筈で、対立候補は魅力・迫力共に不足だが、60%以上得票して楽勝と思っていた。だが開票結果は 51%:47%の辛勝で、あいそをつかした有権者は小生が予想したほど多くなかったらしい。
現職大統領は、選挙がインチキで自分が敗ける筈がないと言い張り、手段を弄して選挙結果の確定を妨害し続けている。どう見ても、人の上に立つ人が持つべき品格・常識を欠き、時に狂気さえ感じるが、そんな人物の再選を望む有権者が半数近くいる国を「先進的な民主主義の法治国家」と見てよいのか、「老練な政治家」と言われる新大統領が「壊れてしまった米国」を修復できるのか、他国のことながら心配になる。
民主主義の国では「エリート」(知識人)も「大衆」(フツーの人)も同じ一票を持ち、数の上で「大衆」が多数を占め、政治家は「大衆」を捉えなければ選挙に勝てない。一時代前まで大衆の多くは現場労働者で、その多くが労働組合に組織され、組合が大衆の投票に指針を与えていた(組合に批判はあったが、民主主義システムのバランス役は務めていた)。経済の高度化で現場労働者が減り、組合が弱体化し、経営者と為政者は「組合ツブシ」に全力をあげた(日本の国鉄・郵政「民営化」の本旨はこれだったのだろう)。その結果システムのバランスが傾き、「大衆」は指針を失って漂流している(現大統領が票田とする旧工業地帯(ラストベルト)は、かつて民主党の地盤だった)。
政治家は大衆の票を捉えるために様々な手を使う。「革新系」は「理」で「知」に訴える民主主義の原則にこだわるリーダーが多いが、「保守系」はもっぱら「情」に訴え、「地縁」や「恩義」で有権者を取り込み、宗教も有力なツールになる。消費者の購買意欲をそそる「マーケテイング」(宣伝)の手法も用いられるようになった。「心に響くキャッチフレーズ」や「目を惹く映像イメージ」で「買う気」を起こさせるのだ。媒体がテレビからネットになり、論理ヌキの直感「つぶやき」(ツィート)が大衆の手元に直接届く(SNSが広告媒体と気付かぬユーザーが多い)。その名代の使い手が現大統領で、中味がウソッパチだろうが罵詈雑言だろうが、「悪キャラ」丸出しで7千万人から「ウケ」を取った。
民主主義はそもそも「理」と「知」で成り立つ西欧型市民社会のシステムで、そこに「情」が強く働くとシステムが歪む。日本の政治は「情」が充満しているのでジメジメとうさん臭い。「理」と「知」の西欧でも昨今は極右集団が「情」を煽り、米国では大統領選挙が「ヘイト合戦」の場と化した。90年前、曲がりなりにも民主主義国家だったドイツと日本は為政者が「理」を隠して「情」を煽り、「神がかりの国」になった末に第二次大戦で敗れた。21世紀の米国にも「情」の兆候が現れた。米国が狂気に走れば、第三次大戦=核戦争=人類滅亡の悪魔のシナリオが現実になるだろう。
政治に「理」と「知」を保たせるのに、権力を監視・告発するジャーナリズムの役割が重い。「むのたけじ」をご存じの読者が多いと思うが、戦中朝日新聞の記者だった「むの」は、大新聞が国民を誤った方向に引っ張った責任をとって終戦直後に退社し、秋田の田舎町で地方紙「たいまつ」を主宰した。「たいまつ」が何かの賞をもらった折に、保守系の町会議員がむのを招いて祝宴を設けた。むのは「たいまつ」で保守町政を批判し続けていたので、「不倶戴天の敵の自分を、なぜ祝ってくれるのか」と尋ねると、「君は大嫌いだが、君の批判にはなるほどと思うことが多い。だから俺たちは大きな間違いをしないでいられる。君は天敵だが恩人でもある」と言われたと書いている(著書を処分、引用文は記憶に拠る)。秋田の町会議員は、民主主義をちゃんと理解して町政に活かしていたらしい。国会議員も大臣も大統領も、ぜひ秋田の町会議員のツメのアカを煎じて飲んでもらいたい。
1986年4月に7年間のカナダ・米国駐在を終えて帰国し、90年4月に2度目の米国駐在に出るまでの4年間は東京本社勤務だったが、米国相手の仕事に変わりなく出張ばかりしていた。米国の日本タタキは続いていたが、米国の製造業が再生しない以上、日本企業が米国内の工場で製造して売る分にはモンクの付けようがなく、米国企業が日本から半製品を輸入してカタチばかりの付加価値を付け、米国製として売ることも容認するしかない。日本はますます勢いづき、GDPが世界第2位になり、”Japan As Number One” なる著書がベストセラーになった。円高は輸出には不利だが、対米投資では有利に働く。日本の不動産会社がマンハッタンの超高層ビルを買いまくり、名門ゴルフコースの所有者がいつの間にか日本企業になっていた。後にこの時代は「バブル」と呼ばれることになる。
製造業でも、日本が「お手本」と仰いだ米国メーカーが、日本企業に「身売り」する事態が起きていた。当社は自社の米国工場で現地生産を拡大する一方、一部の製品は米国の有力企業と提携し、半製品を先方の工場で完成させ、米国製品として売ってもらおうと目論んだ。当方が製品紹介のつもりで訪問すると、先方は「工場を買いに来た」と勝手に先読みして準備していたことが、小生が扱っただけで3件あった。どれも社名を言えば「泣く子も黙る」歴史ある大企業だが、工場を見せてもらうと「お手本」どころかオンボロで(”rusted")、設備も旧態依然、現場に全く活気がなかった。
あきれ果てたことがある。組立ラインの終端で製品を化粧箱に入れ、出荷用の段ボールに詰めていた。検査工程がないので訊ねると、「お客さんがやってくれる」と答えが返ってきた。「正しい部品を間違いなく組み立てれば設計どおり動く筈で、検査は不要。初期不良があれば客が返品してくるので、新品交換で対応している。」「どうだ、名案だろう!」と言わんばかりの説明に唖然とした。オモチャの話ではない。1台10万円の無線通信機で、電波法に準拠して厳重な測定が必須な商品なのだ。まさかと思うだろうが本当の話で、この工場には「モノ作り」の資格ナシと言うしかない。この会社は別の工場で「ジェットエンジン」を作っていた。まさか「検査ナシ」ではないだろうが…
後日談がある。「検査不要」を自慢げに説明してくれた30代後半の幹部は、数年後に巨大企業の次期会長(CEO)の最有力候補と経済誌に載っていた(結局会長にはなれなかったが)。1960年代に「世界のお手本」だった米国の製造業が20年でここまで劣化したのには、明解な理由がある。製造業は投資から回収まで時間がかかり、開発と技術ノウハウの蓄積にムダが避けられない。投資効率しかアタマにない「新自由主義時代の経営者」は、「モノ作り」が本質的に持つ「非効率」を容認できず、辣腕をふるえば「検査不要」が正義になる。日本でも有名メーカーが検査データを捏造し、欠陥を承知で納品する事件が明るみに出た。米国由来のパンデミックに日本も感染しているに違いない。
この頃の出張は短期ばかりだったが、日程に週末を挟む時は前号に書いた ペンタックスME をバッグに入れた。出張先はサンフランシスコ南の「ベイエリア」が多く、休日は太平洋岸のハイウェイ1号線を走ったり、日帰りでヨセミテまで足を伸ばしたりした(小生はゴルフをたしなまない)。レンタカーの私用は依然禁止だったが、ムリなルールは黙殺するしかなく、私用ガソリンは自費、事故を起さぬ慎重運転を私設ルールにした(本件時効扱い)。
太平洋に沿って走るハイウェイ1号線は絶景の連続。岬の先端で車を停めて写真を撮りながら走る。 |
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日本企業が買ったペブルビーチのゴルフコース。 ちょっと覗かせてもらっただけ。 |
ロスまでの中間点の町、サンルイス・オビスポに新聞王ハースト家の豪邸がある。 |
現場の実務が好きな小生、本社勤務には不向きと自覚していたので、2度目の米国駐在を命じられて正直ホッとした。今回は諸般の事情で単身赴任になった。ニューヨーク勤務(以下NY)と言ってもマンハッタンの摩天楼ではなく、ロングアイランド中部の田舎町メルビルに事業所があった。
1970年に初めてNYに出張した頃は、マンハッタンど真ん中の PanAm ビル(現 MetLife ビル)40階が事務所で、窓から見える摩天楼に「NYに来た!」と感慨が湧いた。ビルの地階がグランドセントラル駅で、構内のオイスターバーで、注文の都度目の前で作ってくれるシチューの味が忘れられない。真夜中に数ブロック離れた安ホテルに歩いて帰ったが、治安に不安を覚えたことはなかった。
その頃のマンハッタン事務所は数名の駐在員と出張者で業務をこなし、現地人職員は秘書と雑役だけだったが、事業が軌道に乗るにつれて営業マンや補助スタッフが増えて手狭になり、倉庫と保守作業用に借りた郊外の事業所に現地法人の本社機能も移転した。その後も何度か移転を繰り返し、小生が赴任する数年前にメルビルで1棟借りて、本社といくつかの事業部、倉庫、作業場を収容していた。
往時のPanAmビルとグランドセントラル駅 (ネットから借用) |
NY州の南部。ロングアイランド中央の赤マークがメルビル。 |
マンハッタンから1時間のメルビルは東京都心から八王子の距離感で、田園風景があり、周辺にグラマンなどの軍需産業やハイテク企業が点在するのも八王子と似ている。そんな企業の多くがテキサス、中南部のサンベルト、西海岸のベイエリアに本拠を移し、この地域に残った人材を吸収する役目を、多少なりとも当社が担っていた。
小生の初仕事が、そんな人たちの「リストラ」だったのは遺憾だが、続けられない事業は収束するしかない。その部門を「現地解散」するのが米国の流儀で(従業員の転配は「差別」訴訟のリスクを生む)、我々も「郷に入れば郷に従う」ことにした。本格的な「リストラ」(事業整理)など初体験で、離職させる従業員の処遇だけでなく、保守サービス体制や資産整理など次々と厳しい決断を迫られたが、スジの通ったストーリーを示せば現地スタッフの実務処理は手慣れたもので、大きなトラブルもなく3ヵ月で解散した。(米国の雇用形態では、正社員も「その組織の、その職務」を遂行する人として雇うので、その職務が消滅すれば、適正な手当を支給して解雇するのが原則)。
一段落したらダラスに移転する予定だったので、近くの借間に仮住まいし、夜の外食は酒量が増えるので自炊を課した。以前の長期出張で開発した「手抜き料理」は簡単で栄養バランスも良く、包丁を持てばイヤなこともアタマから消える。スポーツ嫌いの小生だが、健康維持に朝のジョギングも課した。家の前が広大なジャガイモ畑で、朝からトラクターが唸りを上げていた。週末は気晴らしにドライブに出かけたが、この季節のロングアイランドには撮るものがない。
家の前のジャガイモ畑はニューヨークとは思えない景色。 | ワンルーム借間のキッチンユニット。 |
ロングアイランドのビーチ。泳ぐ人はまだいない。 | ロングアイランド東端岬の灯台。 |
NYとテキサスの関係は東京と大阪に似たところがある。巨人・阪神戦が因縁の戦いになるように、テキサスはNYに意地を張り、シロと言えばクロ、クロと言えばアカと言い返すが、敵意があるわけではない。テキサスは独立国だった時代があり、今も合衆国を離脱して独立する権利を留保している。テキサス人は自立の気概が強く、一方的に指図されるのがイヤなのだ。一言言って気が済めば気持ちよく協力することは、バージニア駐在時代にテキサス支店とつきあって分かっていた。小生はNYから乗り込んで来たボスの立場だったが、「テキサスに亡命した」の自己紹介がウケて、その日から「テキサス人」扱いになった。小生のオフィスに大きな窓があり、厚い合わせガラスの右上に直径1cm程のくぼみとヒビ割れがあった。「小口径の弾痕ですね。部下のクビを切る時は気を付けて」と冗談交じりに言われ、「ダラスに来たのだ」と実感した。(ちなみに、銃はホームセンターで買え、射撃練習場も多いが、銃撃事件は滅多に起きない。)
「ダラス・カウボーイズ」というアメリカンフットボールの強豪チームはあるが、ダラスに本物のカウボーイはいない。ダラスは綿の取引所に始まった商業都市で、20世紀になると油田探査の人工地震データを解析する技術センターになり、コンピューターの初期の時代からデータ処理ビジネスで栄えた。ダラスは西海岸のベイエリアに先駆けて発展したハイテク地域で、データ処理技術者のプールが形成され、その人材を狙う企業が集まった。当社も電子交換機のソフト開発拠点をDFW空港近くのアービング設けていた。
それとは別に、小生関連の部門はダラス市北隣のリチャードソンにあった。この場所に事業所を設けたのにはワケがある。大規模なマイクロ波通信システムを据付工事込みで受注し、必要な人材を緊急に集めるため、マイクロ波通信では業界トップの会社のすぐ近くに建設事業所を開いたのだ。コアになる親分を引き抜けば子分もワンセットで転職し、翌日からプロの仕事が始まる。プロジェクト終了後もリチャードソンを事業拠点として継続した。近くにカナダ系大手通信機器メーカーの拠点があり、破竹の勢いで事業を拡大中だったが、当方が募集広告するとその会社から応募者が来る。事情を聞くと「私のいる事業部が近々解散するので就職先を探している。会社の新設事業部も募集中だが、自分は日本の会社を経験してみたい」と言う。
リチャードソンの事業所が手狭になり、92年に車で20分のアービング事業所に移転したが、通勤時間が増えるのを嫌ってかなりの数の従業員が辞めた。辞められては困る有用な人材もいたが、そんな人はいつか必ず引き抜かれる。引き留めずに「もっと優れた人」を雇うのが米国流マネジメントと心得るしかない。
ダラスには「観光名所」が一つしかない。オズワルドがケネデイ大統領(JFK)を銃撃したとされる「教科書ビル」6階を博物館に改装し、事件に関連した資料を展示している。順を追って読んでゆくと、オズワルドは国家権力機関に嵌められた犠牲者という定説に行きつく。当時のウオ―レン調査委員会報告書で非公開とされた部分は、2017年に公開されることになっていたが、トランプ大統領が土壇場になって延期の決断を下した。彼がビビったくらいだから、よほどマズいことが書いてあるに違いない。(50州雑記帳 テキサス篇もお読みください)
ダラス市の中心部。 | ダウンタウンのコンサートホール。 |
新市街のすぐ近くの旧市街。 | 旧市街外れの「教科書ビル」。6階右端の窓らJFKを銃撃したとされるが、JFKの頭部を貫通した銃弾の軌跡とは明らかに矛盾しているらしい。 |
1992年に父が他界し、死に目に会えず通夜の席に滑り込んだことは父の履歴の記事で白状した。葬儀の翌々日、長野市の霊園に早々と納骨し、喪が明けぬ内に家族で銀座へ食事に出かけたのは「親不孝の総仕上げ」と言われても仕方ないが、93才の大往生にホッとした気分と、介護と葬儀の手配をしてくれた家族をねぎらう気分もあった。
食事中に「老後は何か趣味を持たないと」と言われ、「じゃあ写真でもやるか」となり、そうなると「即断即決」のクセが出る。食事の帰りに銀座の中古カメラ屋に寄り、「マジメに撮りたくなった」と言うと、「Nikon F3」 と35~70mmズームレンズを出してくれた。持っていた現金で何とか足りたので、その場で買って翌日ダラスに戻った。
Nikon F3 は1980年に発売されたプロ用35mmカメラで、今も名機と語り継がれ、中古が結構な値段で流通している。「プロ用カメラ」にはいくつか定義がある。第1が「酷使に耐える頑丈なカメラ」で、多少ぶつけても壊れず狂わず、ガンガン撮ってもシャッターやフィルム巻上げのメカがヘタらない。第2は「システム完備」で、各種交換レンズだけでなく、顕微鏡撮影や医療用など、あらゆる撮影現場で必要とされる周辺機材をフルに揃えねばならず、メーカーが「プロ用カメラ」を世に出すにはそれなりの覚悟が要る。
「プロ用」の値段は上級シロウト用の倍以上だが、機能は殆ど同じで、ハッキリ言ってシロウトには「宝の持ち腐れ」。「オレのはスゴイ」と自己満足にムダガネを使うマニアもいるが、小生は「身の程」のカメラで十分。 F3 だけ例外だが、中古は新品のシロウト用の値段だった。後で分かったが 、入手した F3は初期のモデルで、シャッターの遮光幕が走りきらない障害が時々起きたのは、前の所有者が使いつぶしたせいだろう。製造から25年以上経った2007年に「大古」で処分したが、4年使った一眼デジより高価で引き取ってくれた。
銀座で購入したのは F3 のボディ(本体)と35~70mmズームレンズだけだったので、望遠レンズが欲しくなった。ダラスのカメラ屋を覗くと、新品で手頃な値段の70~300mm望遠ズームがあった。聞いたことのないメーカーの「互換レンズ」(Nikon のカメラで使えるように設計)で、カメラに付けてファインダーを覗くとシッカリ見えたが、安いレンズには安い理由があると後に知ることになる(このことは本稿の末尾で書く)。
F3 入手を機に「老後の趣味は写真」の意識が生れ、「面白い写真を上手く撮ろう」という気分が湧いた。「老後」はまだピンと来なかったが、ダラスの任を終えれば定年(55歳)は目前で、その先どうするか考える段階に至ったことも自覚させられた。
事業所を空港近くのアービングに移転。 | 新居はニュータウンのアパート(3階建て)。 |
ダラスの航空ショーにB29爆撃機が飛来。 | 複葉機のアクロバット飛行。 |
B52重爆撃機も見学可能。 | 海兵隊機がアクロバット飛行。 |
テキサス南部の田舎道。 | ホワイトサンズ(ニューメキシコ州側) |
海外勤務者には特別休暇の恩典があった。本来は日本に帰って健康診断と親孝行が目的だが、アフリカや中近東の駐在員はヨーロッパで過ごしてもOKになり、93年から米国駐在員も国外での休暇旅行が許可された。それならと、介護から開放された連れ合いを呼んでスイスに行くことにした。若い頃から海外を遊び歩いていたように誤解されるが、実はこれが初めての「海外観光旅行」だった(カナダと米国は「国内」扱い)。
グリンデルワルトとツェルマットを巡る一般的な観光コースだったが、「山歩き」を思い立ち、現地の山道具屋で軽登山靴とトレッキングマップを買った。鉄道、バス、ケーブル、リフト乗り放題のスイス・パスを買ったので、好きな時に好きな場所に何度でも行けた。鉄道は1等を奮発したが、2等との差額はたいしたことがなかったと記憶する。
写真を少し経験すると、初心者の風景写真を「絵葉書」とバカにする人がいる。「人気スポットで撮った月並みな写真」の意味だが、画家や書家が名人の作品を稽古台にするように、写真も「絵葉書」は構図の手本になる。スイスには「絵葉書」のような景色があちこちにあるが、シロウトが土産屋で売っている絵葉書のように上手く撮れないのは当然で、絵葉書は「カネになる写真」を撮るプロの作品なのだ。(スイス旅行 レポート-1、 レポート-2)
ルツエルンのカペル橋は割れ荒れが訪れた直後に火災で消失した。 | グリンデルワルトからクライネシャイデックに向かう登山電車。 |
フィルストからトレッキング開始。アイガー北壁が見える。 | お花畑の向こうにアイガー北壁とユングフラウ。 |
ツェルマットからゴルナーグラートに登る登山電車 | 逆さマッターホルン |
ごきげんな午後のマッタ―ホルン | クライネマッターホルン展望台からブライトホルン |
米国50州(+ワシントンDC)の大半は仕事や休暇で訪れていたが、92年秋の時点で未訪問が9州あった。ここまで来たからには全50州を踏破しようと思い立ち、連休を使って片付けることにした。ダラスからの飛行機はマイレージが捨てるほど貯まっていたので、旅費はレンタカーと宿代だけで済む。1966年12月の初出張でカリフォルニア州を訪れてから28年後の94年9月にメイン州を訪れ、全50州踏破を終えた。米人の知人にも全50州を踏破した人はおらず、自慢話のネタになった。旅の記録は50州踏破をご覧いただきたい(下の各写真をクリックすると関連記事にリンク)。
1998年の友山クラブ写真展に93年のダコタの旅で撮った写真を出展した。98年は現役中で新作を撮り歩く余裕がなく、苦し紛れに旧作を提出したが、川口先生が「面白い」と選考を通してくれた。撮影場所はサウスダコタに隣接するワイオミングの「デヴィルス・タワー」で、マグマが地中で固まった柱状節理が浸食で露出した岩塔は、スピルバーグの「未知との遭遇」の舞台になった。
「怪峯出現」は少し離れた場所から前述の「手頃な値段の望遠ズーム」で撮った。全紙サイズ(56×46㎝)に大きく伸ばした作品は、全体に薄い霞がかかったようでスッキリしない。それが「安いレンズ」が起した「色収差」と知ったのは、後に技術的なことを少し勉強してからだった。「色収差」は光の波長(色)によって異なる焦点距離のズレをレンズが修正しきれずに起きる現象で、「安いレンズ」ほど顕著に現れる。ニコン純正のズームレンズ(35~70㎜)で撮った「岩峯クライマー」の透明感と比べると、違いがハッキリ分かる。
フィルムで撮った写真の出来具合は、光を集めて像を結ぶ「レンズ」の性能と、レンズが集めた光の量を化学反応で色の濃淡に変換する「フィルム」の特性で決まる(この作品では Fujichrome-100 ) 。カメラ本体(Nikon F3)はレンズとフィルムを収容する「暗箱」で、写真の出来ばえには直接影響しない。「高いレンズ」の価値を納得したのは、友山クラブで先輩方の作品をつらつら比較するようになってからだが、それでも小生は「本当に高いレンズ」は買わない。面白い写真がそれなりに撮れれば満足で、有名写真コンテストで優勝を狙う気などさらさらなく、「見る人が見ても分からない」ような違いには興味がない。
「異峯デヴィルスタワー」から「怪峯出現」 Nikon F3、Promaster80-300mm Fujichrome-100 |
画面中央左を拡大すると岩登りをする人たちが写っている。 |
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「岩峯クライマー」Nikon F3 35ー70㎜ズーム、Fujichrome-100 |