2016年7月のヒマラヤの山旅は、雨季を承知で行ったとはいえ、山らしい山が全く見えず、いささか無念だった(旅の顛末は8月(前篇)、9月(後篇)でレポート)。それを知った南ドイツ在住の娘夫婦が、9月上旬に休暇でスイスの山歩きをするので、一緒に行かないかと誘ってくれた。高所トレッキングの疲れが残り、老後資金の激減も気になるが、「後期高齢」直前のこの身、同年配で他界した友や厄介な病気と闘う友も少なくない。行きたい所には、多少ムリをしても行くのが鉄則なのだ。
スイスの山旅には思い入れがある。1993年7月、単身赴任のダラスにつれあいを呼んでスイス旅行に出かけた。留守中に両親を看取ってもらった慰労の意味もあったが、駐在中に任国外で休暇旅行がOKになったのを機に、憧れのスイスを見たかった。駐在を除けばこれが「初めての海外旅行」で、スイスに行ってから「初めての山歩き」を思い立った(山靴を現地で購入)。もう一つ「初めて」があった。「山写真」である。中古のプロ用一眼レフ(Nikon F3)を手に入れ、ポジフィルム(スライドフィルム)を入れて撮った。つまり24年前のスイス旅行が「山歩き」と「山写真」の原点で、それが夫婦で「日本百名山」から世界の山歩きに繋がり、山写真の会に参加(1997年)の伏線にもなった。
93年のスイス山歩きは、グリンデルワルトとツェルマット周辺の「定番コース」だったが、ユングフラウやマッターホルンの絶景を楽しみ、初心者にしては上出来の写真も撮れた。デジタルでもう一度しっかり撮り直したい気もするが、別の名所を見たい衝動の方が先に立つ。
「観光名所」だらけのスイスには、「山歩き名所」も数限りなくある。限られた日数でどこに行くか迷ってしまうが、いつぞや娘に「サンモリッツ辺りに行ってみたい」と口走ったことがあり、今回のベルニナアルプス歩きでそれを実現してくれたことになる。
「ベルニナアルプス」は日本の観光業界用語で、現地では通用しない。「中央東アルプス」の「オーバーエンガディン地方」の「ベルニナ山群」が正しく、最高峰は「Piz Bernina」(4051m)。この地域で 4千mを超える峰はこの1峰だけで、マッターホルンやユングフラウのようなハデな人気スターはいないが、オフ・ブロードウェイの、知る人ぞ知るクロウト好みの小劇場を連想させる。ちなみに、ベルニナアルプスの東麓を走る「ベルニナ急行」は世界遺産登録の名物鉄道で、これに乗るためだけに訪れる観光客も少なくないという(後篇でレポートの予定)。
娘夫婦が住む南ドイツのウルムから、リヒテンシュタイン公国を経て、スイスのサンモリッツまで車で4時間は、千葉の拙宅から北アルプス麓の松本へ行くのと変わらない。更にサンモリッツから1時間でイタリア国境も、松本から岐阜県境と同じ。ヨーロッパの国境は日本の県境のようなもので、こんな狭い地域で戦争当事者になったらどんな目に遭うか、度重なる苦い歴史の記憶が強く残っていても不思議はなく、スイスとオーストリアが永世中立の道を選び、ドイツとフランスが2千年の怨念を越えて欧州統合を進めようとする理由を実感できる。
その対極にあるのが、「巨大な島国」で国土を侵略されたことのない米国かもしれない。第二次大戦に参戦して勝ち味をしめた後は、あちこちの紛争に介入してその都度苦汁を舐めた筈だが、それでも懲りた様子が見えないのは、この国が一種の「戦争オンチ」ではないかと思わせる。その巨人に惨敗して配下に入ったのが「極東の島国」だが、この国も2代前は重度の「戦争オンチ」だったと断じざるをえない。そのDNAを継ぐ者たちが耳障りな歌のボリュームを上げたのが気になる。
自分の足で歩いたルートは黄色のライン。 上のマップの赤枠内をGoogleの3Dマップで北から南の方向に見た。
諸準備に手間取り、午後2時にポントレジーナで馬車を雇って登山口のロゼグレッチャーに向かう。2頭立ての貸切り馬車に揺られての1時間は皇族になったような気分だったが、料金はビクビクした程でもなかった。ロゼグレッチャーから山道にとりかかったのは午後3時過ぎ。宿泊予定のコーズ小屋(2610m)まで地図上のコースタイムは2時間半だが、小生の脚では4時間はかかりそうで、高緯度のつるべ落としの秋の日と競走になる。
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ヨーロッパの山小屋はツール・ド・モンブランのツアーで泊まったことがあるが、個人で利用するのは初めて。日本の山小屋は殆どが個人経営だが、ヨーロッパでは地元山岳会が運営しているところが多いという。収容人数は20人~40人で日本の小屋に比べると小さく、2、3人のスタッフで切り盛りしている。1泊2食付料金は約9千円で、日本の山小屋とほゞ同額だが、どこかの山岳会に所属していれば大幅割引になる。「日本の山岳会でもOK」と言われたが、定年で百名山を始めた軟弱な老人ハイカーは「山岳会」に縁がない。
コーズ小屋は30人程のハイカーでほぼ満員。学齢前の子供連れも数組いるが、騒いだり走り回ったりしないのに感心する。日本の山小屋でもたまに子供連れに出会うことがある。山に来る子供は一般に行儀が良く迷惑をかけることがないのは、山好きの親がしっかりした子育てをしているからだろう。登山は一種のガマン比べのようなもので、ガマンが身についた親が育てる子供も、ガマンのできる子になるのかもしれない。何かとガマンの利かない親が増えている昨今、その子供たちが作る未来の社会に不安が湧く。そんな親を育てたのは我々の世代の責任ではあるが…
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フォルクラ小屋から里まで、歩いて下るかロープウェイを使うかで少々揉めた。歩いて下る方がバスの便が良いと言う娘に、小生は天気が崩れそうだからロープウェイで下ろうと主張。だがホンネは別で、前日から歩くペースが上がらないのは不調の表れで、そんな時は長い下り坂が殊更にキツイのだ。要するにサボリたかったのだが、主張を押し通し、ロープウェイとバスを2本乗り継いで宿泊地のマローヤ(Maloja) に着いた。
マローヤは古代ローマ時代からの宿場町で、旧ローマ街道の峠(2560m)を越えてイタリア側に抜けるのが当初のプランだった。それで峠に一番近い宿に泊まったのだが、その宿(Salecina)がちょっと変わっていた。チェックイン後のベッド作りに始まり、食事作り、あと片付け、掃除、シーツの洗濯等々、本来ホテル側が提供するサービスを宿泊客が分担するのである。この宿舎は様々な研修プログラム(ヨガ、登山、染色等々)の会場になるので、長期滞在の客がリーダーになって宿泊者に当番を割り振る。1泊だけの我々は自分の部屋の用事と食事のあと片付けしかできないが、客全員が自主的にテキパキと働くのは見ていて気持ちが良い。この施設は女権主義者が設立した経緯から、トイレやシャワーに男女の区別がなく、うっかりするとヌーデイストキャンプに紛れ込んだような状態になるが、それがイヤな人には回避可能なルールもある。ヨーロッパでは、多様性が具体的に尊重されているのである。
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当初プランの古代ローマ街道の峠越えはとり止めにした。雨が降ると石畳の道が滑りやすく危険という情報もあったが、小生のペースが上がらない状態に言外の配慮があったのだろう。そんなわけで、ローマ街道の代りに通称「山賊街道」の峠越えをすることになった。3時間の行程で標高差が少ないルートに内心ホッとしたが、気分が乗らなかったのはやはり体調不良のせいだったようで、「山賊峠」で下痢に襲われた。以降2日間、トイレ探しを気にしながらの旅になる。
山賊街道を歩いている間に娘のダンナがポントレジーナに駐車した車を取りに戻り、峠の下までピックアップに来てくれた。イタリアに通じる街道を西に走り、路傍の観光案内所で薦められたソーリオ(Soglio)を訪れることにした。街道を北に折れて山の中腹に上がるとソーリオの集落で、スイスの古い村の雰囲気に魅了された。村の観光案内所が紹介してくれた宿は築500年(関ケ原の頃!)の年季の入った民宿で、スイスの田舎に泊まってみたいという夢が叶えられ、女将手作りの朝食の見事さにも魅せられて連泊することになった。
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Wikipediaによればソーリオの人口は172人で、年々人口が減る過疎の村である。8割がイタリア系だがドイツ語、英語も通じる。後で調べて知ったことだが、スイスの画家セガンティーニが「天国の入口」と称えてこよやく愛し、日本の作家新田次郎も絶賛した村である。教会横の土産物屋に日本語の案内が貼ってあるので聞いてみると、毎年秋に日本人の画家グループが訪れると言う。そんなスゴイ村とは知らず、行き当たりばったりで滞在できたのは、旅運があったと思うしかない。
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山の写真屋が日の出と夕暮れにこだわるのは、太陽が低い位置にあると光が厚い大気の層を通過するので、波長の短い青い光が吸収され、残った赤い光が山肌に当たって神秘的な色彩が撮れるから。そんな光が射す数分間が撮影の勝負だが、雲が邪魔したり大気中の湿気の度合いでダメなこともあり、傑作が撮れるとは限らない。ソーリオから見えるブレガリアの山群は北に面しているので、朝夕は逆光になり、小生のウデでは傑作の撮りようがない。
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娘から「スイスは何でも高くてビックリするよ」と脅されていた。確かに「安いもの」はないが、交通費にしても宿泊代にしても食事代にしても、日本と比べてそれ程高いとは思えず、クォリティを考慮すれば、むしろリーズナブルと言って良いのではないだろうか。ソーリオの民宿はB&B(ベッド アンド ブレックファスト)で、1泊料金は2人分で約1万5千円。驚くほど高いとは言えず(オフシーズン料金だったかもしれないが)、女将手作りの「スイス朝メシ」は期待を超える内容と味に大満足。
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ソーリオの隣村は「栗の里」として知られるカスタセーナ。村役場を起点に栗の農園を巡る約4kmの観光ルートがあり、説明パネルを読みながら回ると栗農業の概要が理解できるようになっている。ドイツ語とイタリア語だけなので2重通訳が要るが、幸い当家には英語の分かるドイツ人と米国育ちの日本人がいるので好都合。栗の収穫時期にはまだ少し早かったが、和菓子やケーキ作りで栗を使うつれあいは興味津々で一周し、夕食のデザートに出た栗ケーキの出来にも甚く感銘を受けたようだ。
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