何かのきっかけでひょいと昔の歌を思い出し、頭の中でレコードが回り続けることがある(意識的にコントロールできるので「幻聴」ではない)。最近回っていたのが「船頭さん」。「村の渡しの船頭さんは、今年六十のお爺さん、年は取ってもお舟を漕ぐときは、元気一杯櫓がしなる…」の、あれだ。
昨今は検索すれば何でもスグ分かる。この歌は小生が生まれた1941年の7月に発表された童謡で、武内俊子作詞・川村光陽作曲(このペアは「村の鍛冶屋」の作者でもある)。1941年に60歳だった船頭のお爺さんは、1881年(明治14年)生まれの計算になる。その頃生まれた男性の平均余命は42才だったらしい。そんな時代に60才で現役の船頭でガンバっていたお爺さんは、童謡に歌われるほどスゴい存在だったのだ(今の平均余命81歳+18歳=99歳!)。今の60才は孫に「ジィジ」と呼ばれても、本人は自分が「お爺さん」とは思っていないし、「おトシなのにガンバってますね」と褒めてもらえることもない。
村人のために頑張った船頭さんと、山歩きの道楽老人を並列しては申しわけないが、小生が山歩きを始めたのは60才近くになってからで、68才で日本百名山を登り終え、76才(2018年)でヒマラヤの一般トレッキングで行ける最高地点とされるカラパタール(5605m)にたどりついた。非アスリートを自認する小生としては、「自分を褒め」たい気分だが、1年前の「2018年山歩きレポート」で述懐したように、登り坂ですぐ息が切れたり、緩い下り坂で他愛なく転倒してスリ傷を作ったりして、体力劣化を自覚させられた。それをふまえて、自分の「山歩き力」の目安を、1日の累計標高差(登り+下り)≦1千m、行動時間≦5時間、と置いた。
2019年の山歩きではこの目安が常に念頭にあった。多少オーバーしたケースもあったが、事故もケガもなく無事に1年を終えた。だが、「山歩き力」は思っていた以上に低下したような気がする。これまで高所には強いつもりだったが、喜寿を境に、標高2300mで必ず軽い高度障害の症状が出るようになったのだ。ダメを押すように、年末に届いた人間ドックのデータに「肺機能低下」と記されていた。診断は「経過観察」だが、普段トレーニングしない「非アスリート」生活を続ければ、「寝たきり」が他人ごとでなくなる。加齢は死ぬまで止まらないが、加速を抑える努力はしないといけない。
話を「村の船頭さん」に戻す。実はこの童謡は「戦時歌謡」で、2番の歌詞は「雨の降る日も岸から岸へ、ぬれて舟漕ぐお爺さん、今日も渡しでお馬が通る、あれは戦地へ行くお馬」だった。「1941年7月は”戦前”じゃないの?」と言われるかもしれないが、日本は日米開戦(1941/12/8)の4年前から中国大陸で「宣戦布告なき戦争」の泥沼にはまっていた。その局面打開でヤケクソに太平洋戦争を始めたと言えないこともない。そんな中で作られた「村の船頭さん」は、「村の農耕馬が軍馬になって中国大陸の戦地へ行くのだよ」(だから)「君たちも強い兵隊さんになって、お国のために戦うのだよ」と児童に諭す戦意高揚歌だったのだ。(2番は戦後になって「けさもかわいい子馬を二匹、向こう牧場へ乗せてった」と書き換えられた。)
戦争の足音が聞こえるような気がする。老人のそら耳ではない。人類絶滅までの残り時間を示す「終末時計」が「残り2分」まで進んだのだ。この時計は、米国の原爆開発(マンハッタン計画)に関わった科学者たちが、慙愧の念を込めて1945年に始めたもので、今も「原子力科学者会報」(Bulletin of the Atomic Scientists)」で毎年発表している。「残り2分」は1953年に米・ソが水爆実験に成功して以来の最悪値で、おひざ元の大統領が核軍縮を離脱した上、気候変動への取り組みを茶化す姿勢も反映しているという。2020年は大統領選挙の年。あの人が票固めでまた何を言い出すか分かったものでないが、その度に終末時計が進みそうだ。そんな時代に、米国にも危機感を強めている良心的な科学者が少なくないことは心強く、「アメリカ・ファースト」に熱狂する選挙民の目を覚まさせてもらいたい。
新春恒例の高尾山初詣に行きそびれ、結局1月はどこにも行かずじまい。前年の冬は2度もスキーに遠征したが、喜寿を境に「年寄りは冬ごもり」の心境になったのかもしれない。それでも、2月下旬のベトナム・ファンシーパン登山に向けて、多少の予行演習はしておかねばならない。そんな時は筑波山! 登山口の駐車場に梅園の案内看板が出ていたのを思い出し、梅林にも足を伸ばすことにした。
筑波山は百名山の中で最も低いが、決してイージーではない。駐車場(260m)から女体山頂(877m)の累計標高差は1200m余で、小生設定の「目安」を超える。ケーブルカー(平均斜度約20度)に沿って登る御幸ヶ原コースはかなりの急勾配で、ペースを乱すと途中で息が切れ、後半に苦しい思いをする。山頂から白雲橋コースを下ると、冬場は急な岩場が凍り付いている。行動時間は目安の5時間に何とか収まるが、「さすが百名山」なのだ。
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ベトナムの最高峰ファンシーパンが「目安」の範囲内と判断してツアーに参加した。チャムトン峠の登山口(1995m)から標高差805mを登って第2キャンプ(2800m)で泊まり、翌日は山頂まで643m登って、ロープウェイで一気に麓まで下る。山頂の標高は富士山の8合目で、荷物はポーター任せ。「楽勝!」と思ってもムリもない。
第1キャンプでランチを済ませ、尾根道の急登が始まる標高2300m辺りで息が切れた。休憩しても呼吸の乱れが回復せず、次の休憩までもたずにヘタリ込む。やっとの思いで宿泊地の第2キャンプにたどりついたが、荷物を整理する気力もない。夕食の声がかかったが食欲ナシ。それでもと思ってスープを口にしたところで、猛烈な下痢に襲われた。脳に送る酸素を確保するため、生命維持装置が機能して消化器官の血行を止めたのだ。
高度障害(高山病)はその時の体調次第で、ベテランでも2000mで発症することがあるという。自分も標高2500mで食欲不振を経験したことはあったが、急下痢とずっしり重い疲労感は初めての体験で、「2300mトラウマ」になって脳裏に刻まれることになる。(ツアー詳細レポートは4月掲載の「ベトナム-1」をご覧ください。)
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異常気象に桜が戸惑うのか、開花予想が難しくなっているという。ソメイヨシノは人工的なクローン植物なのでシンクロで開花するが、自然の桜は各々の樹が自分の判断で行動するらしい。小生は地域NPOで庭木の剪定作業を担当しているが、植物が持っている予知能力、判断力、行動力には本当に感心する。地球温暖化との取り組みを嘲笑するような知性・予知力を欠く政治リーダーは、ぜひ植物から学んでもらいたいものだ。
軽い山歩きと桜見物を兼ねて、秩父長瀞の蓑山(観光用別名は「美ノ山」)に出かけた。地図ではそれほど遠くないが、鉄道を何度も乗り換えるので時間が結構かかる。それはそれで、小鉄チャンには楽しい旅なのだ。
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熊野古道の町石道(ちょういしみち)+高野山の桜+宿坊体験、というマルチ目的の旅に出かけた。ついでに京都の伏見稲荷参詣と大正建築の由緒ある温泉旅館泊のおまけも付いた。詳しくは6月掲載のレポートをご覧ください。
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久しぶりに森林公園を訪れた。正式名称は「国営武蔵丘陵森林公園」。1974年に明治百年を記念して開園した全国初の国営公園で、東京ドーム65個分という広大な敷地に、自然林と人工施設がバランスよく配置されている。なだらかな丘陵地帯なので、山歩きのトレーニングにはならないが、近場で季節の花を楽しみ自然に浸ることが出来る貴重な国有財産(国民の資産)なのだ。財政赤字の穴埋めで、勝手にIR業者に売り飛ばしたりしないでネ。
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米国在住の長女が出張で帰省した機会に、1泊2日で尾瀬に出かけた。燧ケ岳に再登したのはつい先年と思っていたが、8年前の2011年7月だった。齢をとると月日の流れが加速する。今回は少し楽な至仏山に登ろうと思ったが、植生保護のため雪が溶けきる6月末まで登山道閉鎖と知った。自然保護優先にモンクはない。
早朝に家を出て関越道から戸倉の駐車場へ。シャトルバスに乗り換え、鳩待峠から尾瀬ヶ原に下る。水芭蕉が終わってニッコウキスゲが咲く前の花の端境期で、登山者の数はそれ程多くない。山の鼻で昼食、木道をゆっくり歩いて風景を楽しみながら宿舎の東電小屋へ。数年前に改装されて立派な浴室もある。宿泊者は20人程で外国人はいなかった。
2日目は竜宮十字路から長沢新道を登り、冨士見峠からアヤメ平へ。花はほとんど残っていなかったが、横田代の西端でやっと水芭蕉の群落に出会い、昼に鳩待峠に戻る。今回の旅は殆どが水平歩きで、登りは尾瀬ヶ原(1400m)からアヤメ平の中原山(1968m)だけ。累積標高差、行動時間共に「目安」の範囲内で、こういう「山歩き」はまだ続けられそうだ。
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北海道の山歩きにはカネと体力が要る。カネの方はLCC(格安航空)のおかげで随分ラクになったが、体力は落ちる一方で、アプローチが長く山小屋の少ない北海道の山歩きは、喜寿トレッカーにはなかなか厳しい。今回は1週間でアポイ岳、雌阿寒岳、赤岳、黒岳を巡る旅程を立てたが、我ながら絶妙の企画だったと思う。アポイは残念ながら雨天で断念したが、黒岳から北海岳まで足を伸ばして穴埋めをした。詳細は8月掲載の「北海道センチメンタル山歩き」で。
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北海道の山歩きでちょっと自信を回復、調子に乗って北穂高岳に出かけた。標高日本第9位で厳しい岩壁でも知られるが、涸沢(標高2300m)から山頂の標高差は800mで、山頂直下の小屋に泊まれば「目安」に収まる(天候崩れの心配で山頂に泊らず、涸沢から日帰りになったが)。
結論を言えば、衰えを確認することになった。登り後半の急坂で息が上がったのはともかく、山頂で食欲を失い、涸沢に下っても食欲は戻らなかった。つまり標高2300mで高度障害を発症したのだ。前年にヒマラヤで5600mを経験した者にとってこの落差は大きく、「2300mトラウマ」がこびりつくことになる。詳細は9月掲載「北穂高岳 喜寿登山」で。
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本当に2300mが限界なのか、確認しておきたい。それには、もう1度2300mに登ってみるしかない。拙宅から最も近い2300m超の山は日光の男体山(2484m)だが、中禅寺湖畔の登山口から山頂まで標高差1200m。途中に小屋がないので、日帰りで累計標高差2400mを踏破することになる。2000年10月に登った時はキツかった。今はもうムリ。
男体山の先の奥白根山はアルプス級の高山だが、標高2000mに架かるゴンドラを使えば、累積標高差は1千m少々で日帰りが可能。奥白根には百名山踏破を思い立って間もない1997年5月に登ったことがある。当時はゴンドラの夏季運転がなく、菅沼の登山口(1730m)から登り、余裕があったので、下りは大きく回り道をして五色沼から金精峠を経由した。丸1日の行程になってハラが減った記憶があるが、まだ50代で元気一杯だった。
ゴンドラの客で山頂を目指す人は殆どおらず、静かな秋の山をゆっくり登る。奥白根の山裾は富士山と同じ成層火山でなだらかだが、2300mから上は安山岩の溶岩ドームで、急に傾斜がキツくなる。先行していたシニアのグループに道を譲られた時に、ちょっと急いだのがいけなかった。ペースが乱れて息が切れ、一旦そうなると休んでも回復しない。やっとたどりついた山頂で、コンビニ弁当を半分残した。2300mが鬼門であることは間違いなさそうだ。
ちなみに、標高2300mの気圧(=酸素濃度)は平地の76%。酸素が薄くなると、自律神経が敏感に反応して血中酸素を上げるが、平地で76%に下がったままになると、医者に「ご親族を…」と言われる。つまり、身体能力が低下すると酸素欠乏に陥りやすく、「ご臨終」に近い状態で山に登れば「死にそう」になるのは、当然と言えば当然である。
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写真展の打上げ会が盛り上り、急に撮影会をすることになった。軽井沢の貸別荘を拠点にしたが、紅葉情報があてにならず、撮影場所を決められない。異常気象に樹木が混乱して、春の開花時期が狂ったのと同様、秋の紅葉もメチャメチャになっているのだろう。四季のハッキリした国は世界でも稀で、日本民族は四季を感じ四季と共に暮らしてきたが、これからどうなるのだろうか。
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2019年は富士山を一度も見ていなかった。見ないまま年を越すのは何となくマズイ気分になり、以前から気になっていた雁ヶ腹摺山に出掛けた。「雁が腹をこするように越えて行く山」で、山梨にはこの山の他に「牛奥ノ雁ヶ腹摺山」と「笹子雁ヶ腹摺山」がある。何れも富士の秀景で知られているが、中でもこの腹摺山は富嶽十二景のトップに選ばれ、旧500円札の裏面になった。
大月インターから北へ30分の「大峠」(おおとおげ)に車を置き、約1時間の登り(標高差300m)で雁ヶ腹摺山の山頂に着く。山頂は雑木林の中だが、富士が見える南面だけ広く開かれ、500円札の景色を今も見ることが出来る。山頂の説明パネルに、写真家の名取久作氏が1942年(昭和17年)11月3日朝7時15分に撮影したと記されている。
雁ヶ腹摺山から見る富士は稜線が左右対称にスッキリと伸び、まさに「絵に描いたような」見事な姿だが、裾野は森林が剝ぎ取られて茶色の原野がむき出しの「北富士演習場」である。広さは4,597ヘクタールで東京ドーム(4.7ha)の980個分。隣接する東富士演習場(8,809ha)を合わせると東京ドーム2,852個分になり、山手線内側の面積の約2倍に相当する。戦前から帝国陸軍の演習場だったが、敗戦で米軍が接収。その後返還されたが、今も一部が米軍海兵隊の営舎地区として占用され、残りの部分も陸上自衛隊・米軍海兵隊の共用演習場になっている(防衛省ホームページ共同使用施設のリスト)。首都圏に近い富士の裾野で日・米軍の実戦部隊が実弾訓練をしていることは、あまり知られていないのではないか。
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