カムチャツカは「ロシアの辺境」だ。首都モスクワから直線距離で6200km、時差が9時間ある。州都ペトロパブロフスク・カムチャツキー(以下カムチャツキーと略す)に通じる道路も鉄道も無く、人と物の輸送は空路か開運に拠るしかない。

陸の孤島カムチャツキーは幸い天然の良港で、18世紀に毛皮の交易地として拓かれた。19世紀にロシア帝国が軍事拠点を設け、ソ連邦成立後も太平洋艦隊の軍港として重視され、東西冷戦時代は原子力潜水艦の基地になり、外国人の立入りが禁止された。

カムチャツキーは日本から近い(1600km)。江戸時代に漁民が漂着して住みついた記録があり、江戸後期の1812年に豪商高田屋嘉兵衛がカムチャツキーに抑留され、その後ロシア皇帝謁見に至った経緯を、司馬遼太郎が「菜の花の沖」に描いている。日露戦争に勝って北洋漁業の権益を得た日本が漁業基地を構えた時期があり、その痕跡を食品会社の社名(日魯漁業⇒ニチロ)に留めている。 更に言えば、1945年8月18日に北方四島に侵攻したソ連軍は、カムチャツキーから発進したらしい。

軍事都市として30万余の人口を擁したカムチャツキーは冷戦終結で任を終え(原潜基地は維持されているらしい)、人口が半減して地方経済が危機に陥った。その立て直しを担ったのが「国際観光業」で、最初のターゲットは直前まで不倶戴天の敵だった米国で、「アラスカ観光のついでにカムチャツカも!」と呼び込んだ。米国の次に日本が狙われ、山歩き系ツアー会社を代理店にして募集が始まり、山岳写真の川口邦雄先生がリーダーを務めた2003年夏のツアーに我々も参加した。2003年は小生の会社員生活最終年で、これが最後の夏休み旅行になった。写真をデジタル一眼レフ(Nikoh D100)で撮った最初の旅でもある。(旅のレポートは「カムチャツカ篇」で御覧ください。)


「富士山行きの京王バス」?

…を撮ってもシャレにならないが、撮影場所がカムチャツキー空港、遠景の山はコリャークスカヤ火山(3456m)なので、自画自賛させていただく。

新潟空港から1時間のウラジオストックで乗り換え、3時間半でカムチャツキー空港に到着。Tu154M型機を降りると(右)見たことがあるバスが待っていた。正面の方向幕は「新宿駅西口」(写真を撮りそこねた)、車内の機器(料金箱、降車ブザーなど)やステッカー類も全て京王バスのままで、時空間跳躍の奇妙な感覚に陥った。ちなみにバスの乗車時間はターミナルビルまでの1分少々。


「カムチャツキーで焼売の配達?」

カムチャツキーに焼売屋の現地法人があるわけではない。空港の京王バスと同様、日本の中古車セリ市から直送された車が前オーナーの衣装のまま走っているのだ。安全基準など関係なく、右ハンドルだろうが何だろうが、とにかく走ればOKで、発展途上国でよく見る風景だが、敢えて偏見を述べれば、「カムチャツキーは発展途上国」ということになる。


「カムチャツキーのコンビニ」

旅先で地ビールを飲みたい。ビールを自販機で買えるのは日本だけで(だと思う)、「呑んべえ大国」のロシアでも酒類は特定の店で対面でしか買えない。空港からホテルに向かうバスで「ビールを買いたい」と言うと、道路脇のコンビニに立ち寄ってくれた。店頭の品揃えは豊かとは言えないが、食品や日用雑貨などひと通り並んでいた。アルコール分8度のビールを半ダース買い(冷えていなかった)、レジのおねえさんとレトロな計算機を撮らせてもらった。


「空手道場」

「ジュードー」「カラテ」は海外で人気のスポーツで、南太平洋の小国バヌアツにもクラブがあったので(バヌアツの高校生)、ロシアの青少年が稽古に励む姿に驚くまでもないが、特にロシアの若者にしっかり身に付けて欲しいのは、加納治五郎が掲げた武道の精神「精力善用・自他共栄」だ。柔道8段の大統領が武道の精神を外れ、国際柔道連盟の名誉会長職を停止されことも、肝に銘じて欲しい。


「孤高のレーニン」

1989年11月にベルリンの壁が崩壊した際、群衆がレーニンの銅像を引き倒す映像が記憶に残っている。レーニンがロシア帝国を倒した革命の英雄だったとしても、ソ連邦に取り込まれた周辺の民族にとっては「圧政の象徴」でしかなく、ソ連崩壊後の周辺国で約3千体のレーニン像が撤去されたという。

ロシア国内のレーニン像がその後どうなったか知らぬが、2003年当時は「地の果て」カムチャツキーの中央広場に寂しげに立っていた。「ロシア中興の祖」の像などと交代しなければ良いのだが…


「観光会社社長と日本語ガイドさん」

話を「観光」に戻す。海外ツアーで空港に着くと現地ガイドが出迎えてくれる。カムチャツキー空港でツアー団体名を書いた紙を掲げて待っていたのは、女優さん? モデルさん? と聞きたくなるような長身・金髪の若い女性で、淀みのない日本語で歓迎のあいさつをした(後述のアパチャ登頂にもつきあってくれた)。本人から聞いたところでは、モスクワの日本語学校で学んだが日本に行ったことはないという。日本では頭脳明晰・容姿端麗の女性を選んでスチュアデス(今はCAと呼ぶそうだが)にした時代があったが、ロシアでは「観光ガイド」もその種の職業だったのかもしれない。

山岳キャンプ場を仕切る社長に下手な英語で話しかけたら、ネイティブ級の英語が返ってきた。経歴を聞きそこねたが、ロシアにも良識派の国際ビジネスパーソンが少なくない筈だ。


「軍用トラックで原野をヤブ漕ぎ」

カムチャツキーは軍事都市だけに、市周辺の道路は厚く舗装されて重戦車も走れそうだが、「観光バス」はそんな道路を唐突に外れて踏み跡のない原野に突っ込む。6輪駆動の軍用トラックの荷台に木造の客室(約20席)を載せた車両で、屋根の高さに届く藪や灌木をものともせず、エンジンを噴かして「ヤブ漕ぎ」で強引に突き進む。客室は前後上下左右に揺れまくり、乗客は転げ落ちないように座席にしがみついているしかない。

緯度の高いカムチャツカでは平地に高山植物が咲き乱れているが、おかまいなく巨大なタイヤで踏みつける。「自然保護」などどこ吹く風の仕儀だが、自然の回復力が強いので、放っておけば元に戻るという。「観光道路」を建設して人工物が生態系に永続的な影響を与えるより、「ヤブ漕ぎ方式」の方が自然保護になるという論法が、カムチャツカでは通用するらしい。(「ヤナギランとスワンチャイ山」は写真展出展作品)


「ヘリでしか行けないナリチェボ原野」

火山半島カムチャツカの原野には地熱が高い場所があり、温泉が湧いて特異な植生が育つ。カムチャツキーの北東50kmのナリチェボ原野もその一つだが、ヤブ漕ぎトラックで行くには遠すぎる。そんな場所にヘリで気軽に行けるのもカムチャツカの魅力だ。旧ソ連は「ヘリ大国」と言われ、軍用もさることながら、シベリア開拓に大型ヘリを大量に投入したが、ソ連崩壊で余剰になったヘリが観光用にあふれ出て、安いチャーター料で飛んでくれるらしい。


「ナリチェボ噴泉」

ヘリの着陸場所のすぐ近くに熱泉が湧き出ていた。泉温はほゞ沸騰温度の96℃で、高温で活動する微生物が噴泉をカラフルに彩っている(米国イエローストーンの噴泉と同じ)。


「カムチャツカ式露天風呂」  

露天風呂が好きなのは日本人だけではない。小生が経験したニュージーランドアイスランドの露天風呂は共に「万人風呂」のスケールで、世界的な観光スポットになっている。

ナリチェボの露天風呂は、噴泉の熱湯が原野を流れていい湯加減で窪地にたまったもので、サイズは「50人風呂」。深さは寝ころばないと肩が出てしまうほどしかなく、底は小石混じりの泥がヌルヌルして、日本人の感覚では「イイ湯だな!」と言いかねるが、新造の更衣室とデッキ(右)はなかなか立派だった。


「アパチャ・ベースキャンプ」

「アパチャ火山登頂」がツアーの目玉だったが、誰でも気楽に登れるわけではない。標高2741mの山は高度障害が出る怖れがあり、更にベースキャンプから標高差1900mを日帰りで往復する登山は、標準タイム(40代男性の登山経験者)で10時間を要する。途中に避難小屋も無く、日本百名山の登山でこれほどキツイ行程は思い当たらない。

ツアー客は登山の可否にかかわらず、全員「ヤブ漕ぎバス」で1時間揺られ、標高800mのキャンプで2泊する。旅程ではテント泊になっていたが、プレハブ小屋に2段ベッドの宿舎が3棟出来ていた。キャンプからアパチャ火山の眺めはなかなかのもので、「ボクの山写真百選-7」の第69番を御覧いただきたい。


「アパチャ火山に笠雲」

朝5時前にキャンプを出発、標高2000mの6合目に着いたのは予定より2時間遅れの11時過ぎだった。アパチャの山頂に笠雲がかかっていた。笠雲は荒天のシグナルで、雲の中は強い風雨が吹き荒れている筈。登頂せずに引き返すのが安全登山のルールで、6合目でも既に右のように荒れ模様だったが、引率者の現地山岳ガイドは「大丈夫」と言う。

山頂を目指したのは小生の他に2名の客と山岳ガイド、女性通訳、添乗員の6名で、残りは6合目で引き返した。その後の経緯は「カムチャツカ」篇に記しが、結論を言えば、我々も9合目(笠雲の中)で撤退し、アパチャ登頂は成らなかった


「ビストラヤ川 夕景」  

旅の最終日にビストラヤ川をラフト(ゴムボート)で下った。手つかずの大自然の中でマスやヤマメを釣り、真新しい熊の足跡と出会ったりもした(右)。終着点の河原でバーベキューを楽しみながら釣り人を撮った。光の具合がイマイチだが、心に残る1枚になった。

この旅の他にも「秘境の旅」をいくつか体験したが、奥深い大自然に身をおくという点で、カムチャツカは別格だったような気がする。このところカムチャツカ・ツアーの募集が途絶えているのは、対ロシア制裁の影響だろう。我々の旅の世話をしてくれたのは純朴でマジメな人たちばかりで、不愉快な経験はなかった。ロシアがそんな人たちの国であることを切に願う。