2004年10月から2年間、JICAシニア海外ボランテイアとして南太平洋のバヌアツ共和国に派遣され、2年目の休暇で隣国のニュージーランド(NZ)を訪れた。若い頃に夢見たNZ縦断の旅が40余年後に実現したことになる。一つの国を4週間連続で観光旅行する経験は、これが最初でおそらく最後だろう。物価の安くないNZでは宿泊代や食費もそれなりにかかり、ルートバーンとミルフォードのガイド付きトレッキングの費用を入れると「ひと財産」消えたが、その価値は十分あったと今も思っている。
この旅の感想として、初版(2006年4月)に書いた次の一節を再度引用させていただく。
NZは「人と自然にやさしい文明国」である。バヌアツの浮世離れした素朴さと人間と自然との共生あり方には、過度の文明化への反省を迫るものがあるが、我々はもうあの素朴さに戻れないし、彼等もそこに留まることはない。NZは高度な成熟段階にある文明国だが、小生が感じた限りでは、ギスギスした過度の競争社会になることを避け、自然破壊にもしっかりブレーキがかかっている。そういう国もあるのだということを知っただけで、21世紀の人類に希望をつなげることが出来そうな気もする(引用終り)。
観光旅行でその国の実情が見えるわけでなく、その後もNZ事情をフォローしてきたわけでもないが、NZは小生の中で相変わらず「夢の国」であり続けている。本年6月に初子を出産したアーダーン首相が8月に職務復帰し、子連れの執務を国民が温かく見守っていることや、7月7日に核兵器禁止条約に批准したことも、この国の好感度キープの要因だろう。防衛について言えば、NZ軍は文字通りの「専守防衛」で、陸軍に戦車なく、海軍は小型護衛艦2隻、空軍も輸送機と哨戒機だけで戦闘機は1機もない。GDP1.1%の軍事費は殆どが兵隊さんの給料なのだろう。NZは今も英連邦の一員で、女王陛下を元首に仰ぐ保守的な国だが、国民の自由と権利はキチンと担保されているようだ。少数政党連立で政権交代がしばしば起きるが、それが民意反映のツールとして機能し、国民の政治参加意識が高いのは北欧諸国に似ている。某国の一強忖度で国民不在のシラケきった政治状況とは大違いなのだ。
NZではGDPの6.3%が教育関連の公的支出にあてられている。日本の3.6%は世界105位で、ネパールの103位にも届かない(ちなみに米国は5%で63位、絶対額で日本の約5倍)。教育にカネをかけない国がジリ貧に陥るのは当然で、官邸にそれなりの危機感はあるらしいが、米国の武器押し売りを断って教育費にまわす気はないようだ。そんなNZの教育環境に誘われてか、クライストチャーチの盛り場に日本人留学生とおぼしき若者が群れていた。裏通りの日本食レストランでオーナーにその話をすると、「客の悪口になるが、あいつらはスネかじりの遊び人でろくに勉強もしない。日本の恥さらしだよ」と苦々しく言い捨てた。中にはマジメな苦学生もいるだろうが、傍目には落ちこぼれ学生のたまり場に見えないこともない。若いうちから他人の築いた「天国」でモラトリアムを決め込む人生に先はない。「天国」は自分で築くしかないのだから。
「トンガリロ」と聞いただけで行ってみたくなる。10年前(1996年7月)のスキー旅行で南島から北島に移動した時に、飛行機から見えたミニ富士(写真)がトンガリロのナウルホエ峰(2287m)に違いなく、これは行って見なければと思い続けていた。
南島の旅を北部のカイコウラで終えたので、北島にはフェリーで渡るのが便利だったが、南島のクライストチャーチで借りたレンタカーを返さねばならず、国内線で北島北部のオークランドに飛んだ。レンタカーを借り直して空港近くの宿に一泊し、取るものもとりあえずトンガリロを目指して走った。
南半球のNZは北の方が温暖である。4月中旬の南島はもう初冬の装いだったが、北島はまだ緑が濃く、オークランドでは長袖が暑く感じられた。南下するにつれて標高も高くなり、トンガリロ国立公園の入口で1000mを越えると冬の気候になり、荷物から上着を引っ張り出した。
トンガリロは先住民のマオリ語で「南からの風」を意味し、伝説の英雄が山頂で凍死寸前に追い込まれた時、その声が南風に乗って妹に届き、火山を噴火させた火に温まって一命をとりとめたという。活火山が連なる景勝地としてNZで最初の国立公園に指定され、スキー場もある。宿泊施設は最高峰ルアベフ(2751m)麓のファカパパ・ビレッジに集中している。4月はオフシーズンの筈だが、我々が泊まったロッジは満室だった。
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トンガリロ・クロッシングは公園北部の火山地帯を縦走するトレッキングのルート。朝6時発の登山バスに乗り、西麓のマンガテポポ登山口を出発して、延長17㎞、標高差1200mの縦走路を歩き、午後2時に北麓のケテタヒで帰りのバスに拾ってもらう。乗り遅れると面倒なことになるので、山道を平均時速2㎞で歩き通さねばならない。マイペースでのんびり歩くわけにはゆかないので、少々気が焦る。
我々以外は地元の若い人たちばかりで、ジーンズにスニーカーの軽装でグングン歩いて行く。若い女性の単身登山者も多い。我々はこの時期(2006年)日本百名山を踏破中だったが、日本の山では若者の登山者に滅多に出会わない。老人のおせっかいかもしれないが、日本の若者が自然に親しまなくなったことに危機感を覚える。
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当初の目論見ではトンガリロ最高峰のルアベフ(2751m)にも登るつもりだったが、天候がスッキリせず、ロッジに延泊を断られたこともあって、ひとまずロトルアに移動。(本音を言うと、火山のトレッキングは富士登山と同じで、それほど楽しいものではない)。温泉が売り物の人気観光地で、観光案内所で宿の紹介を頼んだがどこも満杯。困り顔をしていると非加盟の宿を数軒あたってくれ、何とか宿を確保できた。
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ロトルアからトンガリロに戻ってみたが天候が悪く断念、行く先を探していたらネピアが目に入った。アールデコ建築がまとまって残っている街とある。建築に興味があるわけではなくアールデコの知識もなかったが、面白そうなので行ってみることにした。ネピアは聞いたことのある地名で、後で調べたら、この地に進出した日本の大手製紙会社のティシュペーパーのブランド名だった。
ネピアは1931年2月3日の大地震で壊滅的な被害に遭った。地盤が4m上昇したというから、被害の大きさが想像できる。市街地の復興にあたって、当時の建築意匠の流行だったアールデコ様式で統一し、それが観光資源として今に活かされている。アールデコの時代の建築物は、NYマンハッタンのエンパイアステートビルやクライスラービルなど今も現役で、フロリダのマイアミビーチにもアールデコの一画がある。日本では頑丈な近代ビルでも50年ほどで取り壊してしまう。いろいろ事情はあるのだろうが、華麗なビルに建て直して家賃と地価をつり上げることが、この国の経済浮揚のサプリ薬に使われているような気もする。
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北島の東端に近いギズボーンはクック船長が1769年10月9日に上陸した地。湾を一望する丘に同船長の銅像が立っているが、考証したところ間違えて別の人物を銅像にしたと気付き、後日「本人」の銅像を作り直して丘の下に立てた。クックはタヒチの帰り道にここに立ち寄ったのだが、金目のものが何も見つからなかったので、上陸地を「貧乏潟」(Poverty Harbour)と名付け、腹いせに(かどうか知らぬが)先住民9名を死傷させて去ったという。冒険家によるこの種の狼藉は、隣国バヌアツにも記録が残っている。
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4月22日 オークランド → バヌアツ
4週間に及ぶNZ休暇が終わった。トンガリロの山歩きを早目に切り上げたので、最後の数日は「消化試合」になったが、北島での1週間の走行距離は1500kmにのぼった。バヌアツでは車を運転しないので、2年間の運転ブランクが少々不安だったが、NZはどこに行っても道路がよく整備され、運転マナーも譲り合いが徹底して気持ち良い。道路標識も本当に必要な情報に限られ、日本のような「世話の焼きすぎ」もなく、「運転者の自己責任だよ」と言われているのがよく分かり、こんなところにもこの国の成熟を感じる。4週間のドライブを通して、道路補修(穴ぼこ修繕)には何度も出会ったが、大規模な道路工事(新設、拡張等)は全く見なかった。この国では公共事業で景気を刺激する政策は論外なのだろう。
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