メレのダン・タナウ・ソペは、1993年3月2日、ポートビラからオネスア高校に行くタクシーの中で、次のことを語ってくれた。
私が少年だった頃に、アメリカ軍が上陸して来た日のことを覚えている。あれは日曜日で、ハイダウェイ島の別名のあるメレ島の教会にいた。やってきたのがアメリカ軍なのか日本軍なのか、私たちは知らなかった。今ゴルフ場になっている場所に上陸したのだ。
また、ある朝のこと、飛行機が何機か、曲芸飛行のように飛んできた。その内の1機のエンジンが止まって海に墜落し、パイロットは脱出した。私たちは好奇心にかられ、カヌーに乗って近づいた。高速救命ボートはまだ現場に到着していなかった。パイロットは落下傘が開かず、墜死していた。
ある晩、3人のアメリカの黒人兵がカヌーでやって来た。一人は溺れ、残りの2人が上陸した。女が欲しくて来たのだと思う。彼等は見つかってナカマルに閉じ込められたが、捜索に来た憲兵隊に営倉にぶち込まれた。溺れた兵士の遺体は翌日に発見された。
1986年頃、私がラジソン(ホテル)の前でタクシーの客待ちをしていたら、アメリカ人が来て、運転手たちに写真を見せていた。行ってみると、写真の中に私の知っている男がいたで、そのアメリカ人を連れて、その写真の男に会わせてやった。1週間、彼をあちこち案内した。
彼は飛行場の近くに墜落した飛行機のことを語った。彼はそのパイロットだったのだ。私は彼をジャングルに連れて行き、飛行機の残骸のところに案内した。彼は機体にもぐり込んで、何年も前に隠しておいた瓶を取り出した。中に入っていた手紙は、汚れて字が消えかけていた。彼が言うには、それは彼が恋人に宛てて書いたもので、後にその人と結婚したということだった。
1994年1月22日と2月19日、ジョン・マンタイ酋長は、西エファテのマンガリリウに近いレマタの自宅で、以下の話を著者に語ってくれた。アメリカ人が西エファテのアイ・クリークに来た時、1924年10月24日生まれの酋長は、18歳だった。
軍艦が続々とやって来るのを見て、ジョンは恐ろしくなった。前代未聞のものが現れたのだ。彼が見たことのある船といえば、カヌーだけだった。軍艦はハバナ湾からアイ・クリークにかけて投錨した。航空母艦も駆逐艦もあった。中には、今もバヌアツで巡視艇として使われているタカロ号のような船もあった。ジョンによれば、巡視艇は3隻あって、昼夜交代で任務についていた。潜水艦を見た村人たちは、乗員は海底で寝るのだろうかと不思議に思った。
アメリカ人は、大酋長のナタマタウェア(今の酋長の父親)に、米軍の物資の見張り要員として、若者を一人出してくれるように頼んだ。それで、ジョンがアメリカ人のところへ行くように言われた。ジョンは英語が殆どわからないと言ったが、エモリー大尉は、大丈夫だよ、しゃべれるように教えてやるから、と言った。
ジョンの父親は、ジョンをサモア岬に来たアメリカ海軍に連れて行き、彼はそこで2年間働いた。最初のうち、ジョンの仕事は、食糧の見張り番だった。ジョンには、マスケット銃1丁とライフル銃2丁が与えられた。ゴールディ憲兵隊長は、バヌアツ人が盗みに来るかもしれないから、と言った。戦争が終わってから、ジョンはもらった銃を海に捨てた。彼の父親がそうしろと言ったのだ。
ジョンは伍長に任官され、制服に2本筋の階級章が入っていた。ジョンにモーターボートが2隻与えられ、物資を船から陸へ運ぶのを手伝った。船は船首から荷物を積み下ろし出来るようになっていた。海軍の兵士たちはジョンに運転を教えた。アメリカ人が撤退する時、彼等はジョンにトラックを3台(ダンプ、1/2トン車、六輪駆動車)を与えた。ボートも1艘与えたが、それはイギリスの地域監理官のシーゴー氏に取り上げられた。ジョンの父親は、しかたないからそうしなさいと言った。
サモア岬に軍の病院があり、タマルイには捕虜収容所があった。
ジョンの記憶では、丘の上から下のマウンガリリウまで全く木が生えておらず、牛の放牧のための牧草地になっていた。軍用機が編隊で上空を飛ぶと、非常にうるさかったことも憶えている。村人は怯えて、レレパ島のロイマタの大洞窟に逃げ込もうとした。レレパ島とモソ島の間に飛行機が墜落したのを見たことがあった。その飛行機は、射撃訓練用の標的を曳航していたが、誤って撃たれてしまったのだ。墜落したパイロットは死んだ。
ビラからハヴァナやサモア岬へと通ずる道路が無かった。ジョン・マンタイは、歩いてタガベへ行き、そこの教会の脇で、エモリー大尉ともう一人の軍曹と共に、テントに泊まった。翌日、ペンキと小さな斧を持って、道路を作るための目印を付けて歩いた。磁石を持ち、寝る時にかぶる防水シートも持参し、エファテ島を8日かけて1周した。道路の最初の部分は、タガベからデヴィル岬までで、そこからツクツクへ行く部分は非常な急斜面で、トラックのエンジンを吹かし、ウィンチを使ってトラックを引っ張り上げた。車輪にチェーンを巻いたトラックもあった。坂を下るのは容易なことだった。クレム・ヒルの道路が出来たのは、ずっと後のことだ。
この旅で3人が宿泊した場所は、アイ・クリーク、エムア、パウナンギス、エパウ、バンバン、レンタバオで、そこから先はトラックでビラまで行けた。ジョンが島を一周したのはそれが最初だったが、殆どの場所は既に知っていた。村に戻ると、ジョンは酋長たちに会い、ウグナの言葉で、アメリカ人が道路を作ることの許可を求めようとした。シヴィリの人たちは非常に驚いたが、道路が出来ることを大喜びしたのをジョンは記憶している。タカラ、エブレ、エピケ、レンタバオなどの集落は、当時はまだ存在していなかった。北エファテのエブレ川は泳いで渡り、レンタバオの入江には船が無かったので、潮が引くのを待って泳いで渡った。
3人はそれぞれ、米軍の野戦用のサバイバル食糧を12缶持っていた。それにはコーヒーやビスケットも入っていた。野営する時に火を焚き、上空を飛ぶ飛行機のパイロットが煙を見て、落下傘で補給物資を投下した。この調査旅行が終わると、測量機材を持った測量隊が入り、それからブルドーザーを使って道路を建設した。
ジョンは、アメリカ人と一緒にソロモン諸島へ行こうとして、荷物をまとめたことがある。だが、彼の父親が止めた。ジョンの言によれば、あの戦争がいかに大きかったか、今になって想像することは難しい。朝から晩まで、日本軍と戦う飛行機がソロモン諸島に向けて離陸し、サモア岬に戻ってきた。アメリカ軍の飛行兵だったマーク大尉は、少年達に日本兵を見たことがあるかと聞き、これからソロモン諸島へ行って、もし日本兵を殺したら、その首を持ち帰ると言った。彼は実際に首を持ち帰ったことがあって、ジョンは非常に恐ろしがった。
なお、マーカス・トンプソン、ツクツクのウィリー・バプチステ、それにポートビラのリース・デイスコムによれば、一周道路がツクツクを通ったことはなかったと言う。だが、当初の計画ではそのようなルートになっていて、アメリカ人がツクツクを徒歩で通ったことは確かである。従って、ジョン・マンタイ酋長の話が正確であることが確認できた。
後になり、材木運搬のトラックがツクツクのルートを使った。一周道路の工事は、アメリカ人がブルドーザーやその他の機材を数か所に搬入し、それらの場所から同時に着工された。クレム・ヒルの急坂の道路は現在もそのままで、工事は坂の上から下に向けて行われた。
シヴィリ村のエルダー・アーサー・マサゴ氏は、1993年5月3日、オネスア高校の10年生に以下を話し、生徒が聞きとって記録した。エルダー・アーサー氏は1914年に生まれ、1939年に結婚し、シヴィリで暮らした。
彼の記憶によれば、イギリスの兵隊から、戦争が始まったので持ち物をまとめて森に隠れろと言われ、3か月間隠れた。森から出ると教会に行くように言われ、そこでアメリカ海軍の兵隊に名前を聞かれ、ビラに行って、アメリカ軍の新しい飛行の場建設を手伝ってくれないかと頼まれた。行くことに決めた者たちは、毛布を持って出かけた。
建設現場に行くと、数千人の兵隊がいて、たくさんの船舶や車両があるのに驚かされた。水陸両用の小型飛行機もあった。どこもここも混雑していた。1000名の男たちが飛行場で働いていて、テントで暮らしていた。大きな木々を倒すのにナイフや斧を使わず、「ファン・マエト」(ダイナマイト)を爆発させて、木を粉砕した。
ブルドーザーは1台しかなかった。村人たちが飛行場で3カ月働いた頃、もっと大きな機材を持ったアメリカ人が到着した。滑走路が50mほど出来ると、小型機が着陸し始め、しばらくすると大型機も着陸した。村人は1日15バツー相当の賃金をもらった。エルダー・アーサーは調理人に選ばれた。彼が村で一番調理が上手かったからだ。男たちは彼が作った食事を喜んだ。彼等は野生米(ブラウンライス)を食べた。その飛行場が現在のバウワーフィールド空港になったのだ。
戦争中、日本軍の飛行機はエファテに来なかった。アメリカ軍の飛行機はここからサントやソロモン諸島の戦闘に飛び立った。発電機付きの探照灯は強力だった。夜に空中の飛行機を照射すると、まるで昼間に飛んでいるように見えた。
大砲がエファテ島のあちこちに設置され、クォインヒルには測距儀付きの大砲が置かれた。タカラがアメリカ軍の主キャンプだった。もう一つの基地がハヴァナ湾にあった。村人は村で採れた食材を売り、村の女たちは兵士の衣類を洗濯してお金を稼いだ。
エファテを1周する道路が完成するのに1年かかった。
アメリカ人は兵隊の他に医者と牧師も連れてきていた。彼等が村人たちに大変親切だったと記憶されている。エルダー・アーサーのアメリカ人の友人は、エブレ川とウレイ川のポンプの面倒をみてくれた。
エルダー・アーサーの友人は、曇りの日に2機の飛行機がモソ島の上空で空中衝突したと話してくれた。陸に落ちた1機は発見出来ず、葬儀の日、衝突したと同じ高度を他の飛行機が飛んで、十字架を海に投じて死んだパイロットを悼んだ。
モソ、ペレ、ウグナ、エファテの外側の海域は浮遊機雷だらけだった。大きな船からハヴァナ湾に荷物を降ろす時は、掃海艇と呼ばれる機雷を触発しない小型船で、大型船を安全な投錨地まで先導し、湾を離れる時も同様にした。
ある晩のこと、夕食に行こうとすると突然サイレンが鳴り、全員が直ちに電灯を消して避難所に走った。夜間に飛行機を探す巨大な灯火が1基あり、ビラから空を照らす探照灯の光は北エファテからも見えた。
ある日、アメリカのトラックが、シヴィリの坂を加速しながら下り、遂にコントロールが効かなくなって、丘の下の2本の大木にぶつかって、乗員二人が死んだことも、シヴィリの村人たちの記憶に残っている。
ある日曜日、村人が教会に集まっていると、二人の兵士がシヴィリの洞窟を探検に来た。二人は大きな蛇に出くわしたが、その蛇は頭を振って兵士たちに「ノー」と言っていた。二人が更に奥に進むと、洞窟の悪霊のような老人がいて、二人に何故来たのかと尋ねた。二人は、他所の者なので村に帰りたいと言った。
アメリカ軍が撤退した時、戦死者の死体も持ち帰った。大きな冷蔵庫に保管されていたのだ。彼等はトラックや大砲や兵装を持ち帰ったが、衣類の一部は地元の者たちに与られえた。
クレムヒルの上部からメレ集落とメレ島を見下ろす。坂下の道路が正面に見える。
現在のバウワーフィールド空港(クレムヒル上部から)
シヴィリの急坂:
現在もクレムヒルと並ぶ難所。高度差100m程だが、スキーの上級スロープのようなデコボコの急坂で、ポンコツ車では通過不能。
両酋長を囲む高校生たち(原本から転載)
1993年7月6日、オネスア高校10年生のクラスで、エファテ北部パウナンギス村のマキ酋長とマニワ酋長が戦争体験を話し、生徒がそれを記録した。
アメリカ軍がエファテに上陸した時、村人は農場でヤシの実を収穫していた。家に帰ろうとしたら、農場の周辺がアメリカ兵で埋め尽くされていたので、びっくりした。兵隊がヤシの木に登り、電話線や無線アンテナを取り付けていた。逃げようとする村人をアメリカ人が止め、アメリカ軍がサラ村を守るので、逃げてビラに行くよりも安全だと説得した。アメリカ人のボスが長老を訪ねて兵営を作る許可を求め、兵営をタカラに作りたいと言った。
アメリカ人は、クォインヒル、シヴィリとフォラリに駐屯した。夜になると、クォインヒルの兵隊が村の警備に来て、夜が明けると兵営に戻って行った。マキ酋長は、戦時中ずっと料理人としてアメリカ人と共に働いた。兵隊が食事を済ませて作業に出ると、残った食べ物を村に持ち帰って食べた。アメリカ人は仕切りがいくつもある特殊な皿を使っていて、食事を配る時は、料理を種類別に仕切りに入れなければならなかった。
その頃、村人はお金を持っていなかった。サトウキビや熟れたバナナを軍隊に売りに行った。食事の用意や洗濯をすると賃金が支払われた。アメリカ人は村人に衣服や食料を与えた。
マキ酋長は、アメリカ人のゴミ捨て場所を覚えていた。いつも村人が寄っていて、アメリカのトラックがゴミを捨てにくると、衣類や靴、食器など、有用なものを回収した。
夜間に飛行機が飛ぶと、うるさくて眠れなかった。クォインヒルだけでなく、エファテの各地の丘には、巨大な探照灯が設置された。
夕食の時間が過ぎてからサイレンが鳴ると、全ての灯火を消した。タバコも吸ってはいけなかった。ある夜のこと、一人のアメリカ兵が電灯を消し忘れ、他の場所にいた別のアメリカ兵が、銃を撃って消したこともあった。
マニワ酋長は白人のアメリカ人たちと働いたが、協力関係は良好だったと記憶している。指導官は、なすべきこと、してはならないことを明確に指示した。アメリカ人は白人も黒人も共に協力して働いていたが、グループのボスやリーダーは白人から選ばれていた。
酋長の談によれば、アメリカ人はバヌアツ人を非常によく守ってくれた。日本人が攻撃して来なかったのは、アメリカ人を怖れたからだと語った。
マキ酋長は、アメリカ軍が撤収した週に結婚したが、アメリカ人から贈られた皿や鍋、衣料などには、今も使っているものがある。それらはアメリカ人が残してくれた記念品であり、旅行者が欲しがっても、アメリカ人の思い出として手放さないという。
その記念品の一つがアメリカ製のブイで、マキ酋長とマニワ酋長がオネスア高校に持参し、生徒に見せてくれた。
「レレパ島民の戦争体験」へ