中国には「五岳名山」「黄山」「峨眉山」など有名な「山の観光地」もあるが、小生が訪れたのはヒマラヤの山だけ。中国とネパール、パキスタンとの国境に跨るチョモランマ(エベレスト)、マカルー、チョ・オユー、K2なども「中国の山」と言えないことはないが、ここでは完全に中国領内にある山に絞る。
インドプレートが大陸プレートと衝突して盛り上がったヒマラヤの地形は、毛筆で墨痕淋漓に書かれた「」に似ている。西端のパミール高原で「打ち込」まれたヒマラヤは、3千kmのゆるやかな曲線を描き、東端の横断山脈で「止め」られ、両端の筆力が込められた場所に中国の名山がある。この部分の地形的な捻じれは、ムリに押し込まれたプレートの両端が圧迫されて捩れたもので、地形的な捩れだけでなく、周辺の少数民族を強引に繰り込んで形成された巨大国家の、民族的な軋みが表出する場所でもある。
ムスタグ・アタはウィグル語で「氷の山の父」を意味し、新疆ウイグル自治区のカシュガルからパキスタンのフンザに通ずるカラコルムハイウェイを半日走ると、この山に出会う。玄奘三蔵がインドからの帰途、南麓の宿場タシュクルガンで山賊に襲われ、お土産にもらった象を奪われた記録があり、シルクロードの旅人も難儀な旅でこの山を仰いだ筈だ。(旅レポート:新疆ウィグル自治区-2)
この作品を2001年3月の写真展に出した時、「何でこんなのを・・・」と陰口が聞こえた。人工物を避けるのが山岳写真の常道で、舗装道路、車に電柱まで写り込んだ作品が異端視されても仕方がない。だが川口先生は作品講評で「キレイな山をキレイに撮るだけが写真ではない。どんな場所にある山か、人や歴史との繋がりはどうか、見る人の興味を膨らませるのも写真です」と評して下さった。走行中のバスから何気なく撮った初心者の作品だが、今になってその含蓄を噛みしめている。
ニコンF80、28-200㎜ フィルム:Provia-100F、 撮影データなし (友山クラブ写真展出展作品)
小生の写真はもっぱら「旅のついで撮り」で、撮影が目的の旅に出たのは友山クラブの撮影会だけ。ベテラン会員は車を降りるとパッと散り、夫々ポイントを探して勝手に撮り、集合時間に戻って来る。隣に並んで三脚を立てないのが暗黙のルールで、合評会に似た作品が出ることもなく、こんな撮影ポイントもあったのかと、後で知ることになる。
2011年11月の撮影会は他の写真クラブの企画に便乗させてもらい、雲南省の梅里雪山を撮りに出かけた。拠点の飛来寺はミャンマー国境に近い奥地で、日本から飛行機を3本乗り継ぎ、地方都市の麗江からバスでフル2日の旅を要する。
途中の麗江(世界歴史遺産)に1泊して玉龍雪山を撮った。ホテルの屋上からも見えるが、ラクをして名作は撮れない。数年前に先輩が市内の丘から撮ったと聞きつけて行ってみたが、樹木が伸びて視界を遮っていた。近くのゴミの不法投棄場(兼野外便所?)の斜面から山が見えたので三脚を立てた。光の具合はマズマズに撮れたが、異様な悪臭は写っていない。(旅のレポート:梅里雪山-1)
NIKON D300s 80-400mm(250mmで撮影) ISO200 f8、1/80 EVー1.3
麗江を出たバスは山中に分け入り、一日走って香格里拉(シャングリラ)で一泊し、翌日は更に険阻な峠をいくつも越える。最後の峠から見える筈の白茫雪山は雨模様だったが、4日後の復路で、雪を冠した峰と唐松の紅葉が見事な対比を見せてくれた。白茫雪山は左奥の峰だが、山頂の雲がどいてくれなかった。
我々が訪れた当時、こんな奥地まで高速道路の建設が進んでいることに驚かされた。峠の両側からトンネルを掘っていたので、今はこの景色は見られない筈。(旅のレポート:梅里雪山-2)
ニコンD300s 24-120mm(44mmで撮影) ISO400、F9、1/500秒 EV-1
梅里雪山はチベット仏教の霊山として崇められてきた。1991年1月、主峰の太子峰の初登頂を目指す京都大学学士山岳会と中国登山協会の合同登山隊17名が、山頂直下(左肩)で雪崩に巻き込まれた。地元民は当初「天罰があたったのだ」と反発していたが、捜索隊の真摯な態度が共感を得て、親身になって遺体と遺品収容に協力してくれた経緯は、小林尚礼氏の「梅里雪山-17人の友を探して」(山と渓谷社刊)に感動的に綴られている。
「山の写真は雲で決まる」と言われる。どんな雲が出ているかで作品の出来栄えが左右されるが、雲の都合は雲任せで、粘り強くチャンスを待つしかない。3泊した飛来寺から帰途につく朝、バスに乗り込む時にこの雲が現われたのは、僥倖と言うべきだろう。(旅のレポート:梅里雪山-2)
Nikon D300s 24-120mm (86㎜で撮影) ISO200 f7、1/800 EV-1
標高3400mの飛来寺から2100mのメコン川源流の谷底まで下り、対岸を登り返して道路終点の明永村(2400m)でバスを降り、馬に乗って2800mの太子廟まで行く。明永氷河と太子峰は太子廟から見えるが、更に50分登って蓮花廟(3150m)まで行けば氷河のすぐ横に出ると聞き、頑張って登ることにした(蓮花廟は上の写真中央の氷河の左岸)。
行けば撮れるというわけではない。1時間待っても太子峰は雲の中で、帰りの集合時間が迫って三脚をたたんでいると、一瞬雲が切れて山頂が見え、同時に氷河に光が当たった。あわててシャッターを押した3枚の1枚だが、コンテストに出したら賞をもらえたかもしれないと、勝手に思っている。
合同隊の17名の遭難から7年後の1998年、明永村民が遺体と遺品を発見したのは写真中央の氷河の割れ目で、その後も次々と現われ、2004年まで収容が続けられた。
Nikon D300s 18-200mm(120mmで撮影) ISO400 F9、1/640
全土が北京時間で統一されている中国では、梅里雪山の日の出は2時間近く遅い。早朝に5つの峰が連なる梅里雪山を撮る場所は飛来寺のホテルの屋上しかなく、お互いに邪魔にならないように間隔をあけて三脚を立て、日の出前から山全体に光がまわるまで、刻一刻変化する光と影を撮り続ける。5峰の中でも、神女峰のこの世のものと思えない姿にレンズが吸い寄せられる。
Nikon D300s 24-120mm(92mmで撮影) ISO200 F4.5 1/200 EV-1.7
大姑娘山(タークーニャンシャン)は最も容易に登れる5千m峰だろう。成都(四川省都、人口16百万)から西へ350Km走り、麓の日隆鎮(標高3200m)に2泊して高度順応し、3日目に標高3700mのベースキャンプに入る。ここでも連泊して、5日目に標高4300mのアタックキャンプに移動し、6日目の早朝に大姑娘山頂に挑む。危険な個所はなく、荷物は馬が運んでくれるラクチン登山だ。(旅レポート:大姑娘山登山 前篇 後編)。
下はアタックキャンプへの移動の途中で撮った。標高4千mだが、日本の北アルプスの2500m辺りの風景と似ているのは緯度が7度低いからで、温暖な分、体の負担も楽だったような気がする。大姑娘山は中央左のピラミッドで、左(南)のカールに設けたアタックキャンプを早朝に出発し、鞍部から稜線の裏側に回り込んで3時間登り、日の出の時間に山頂に立つ。
Nikon D300s 18-200mm (18mm で撮影) ISO400 f11、
1/160 EVー0.3
日本の観光案内書はこの山を「四姑娘(スークーニャン)山」と呼んでいるが、四姑娘山は4姉妹の山群の総称で、最高峰は幺妹山(ヤオメイシャン、末妹)が正しい。末娘は長身の美少女だが、長女、次女、三女は何れもずんぐりむっくりで、可哀そうだかレンズが向かない(右のピラミッドが次女、その左の頭のつぶれた山が三女、作者が立っている長女はまるぽっちゃ娘)。
Nikon D300s 18-200mm (18mm で撮影) ISO400 f9、
1/320 EVー1
ヒマラヤの名峰の標高が正確に(?)測定されるまで、ミニヤコンカが標高9220mで世界最高峰と思われていた。1932年に英国登山隊が初登頂し、登山の傍ら行った測量で標高7587mと算出され、最高峰の座から外れた。ちなみに海外の山の標高はアバウトで、登頂時の山頂の気圧や水の沸騰温度で決めたものや、それを基準に「あっちより500フィート低そうだ」と「目のこ」で決めた山も多いと聞く。もっともらしい標高の大半は「およそ」と思った方がよさそうだ(ミニヤコンカの9220mは中国流「3万尺」の「メートル換算」だった?)。
そのミニヤコンカが大姑娘山の山頂から望めた。直線距離で100Km以上離れているが、望遠レンズとデジタル補正でこの画像を得た。世界一の山と信じられていたのもむべなるかな。(旅レポート:大姑娘山登山 後編)
Nikon D300s 18-200mm (200mm で撮影) ISO400 f9、
1/500 EVー1