男の子は大人になったら電車の運転手になりたいと思うものだが、大人になっても鉄道が好きな人(将棋の藤井八冠もその一人らしい)には「悪い人」がいないような気がする。齢80を過ぎて「小鉄チャン」(やや鉄道マニア)を名乗るのはいささか面はゆいが、今回は旅の記事にしばしば登場させた路面電車を特集する。

路面電車の前身は馬車鉄道で、1840年頃から欧米の都市で使われていたが、1~4馬力ではパワー不足で「落とし物」も迷惑だった。工場の動力用電動機(モーター)が実用化し、1882年にエジソンが始めた電力供給事業が各地に広まると、待っていたように馬車が電車化された。日本でも1890年(明23)に上野で開かれた勧業博覧会場に500mの線路を敷いて有料で試乗させたという。ちなみに路面電車の軌間(線路の巾)1372mmは馬車鉄道の名残りだ。

日本で最初の路面電車の営業運転は京都の七条停車場~伏見町京橋下油通間で、琵琶湖疎水の水力発電を使って1895年(明28)に開通した。当初は私鉄だったが京都市が買収して京都市営電気鉄道になった。当時の電車が犬山市の明治村に保存されているが(右の写真はネットから拝借)、小生は高校3年の修学旅行(1959年5月)で京都を訪れた時に、この電車を国際会議場の近くで見た記憶がある。京都に続いて1898年に名古屋電気鉄道が開業し、1900年(明33)に東京馬車鉄道が電化して東京鉄道になった。

路面電車は道路にレールを敷いて路傍の電柱にトロリー(架線)を吊れば準備完了。用地買収も土木工事も不要で、その気になれば短期間で市民の足が出来る。当時の内燃機関(ガソリン・ジーゼルエンジン)は故障が多く整備が大変で、バスより電車の方が扱い易かったこともあり、大都市だけでなく地方都市も路面電車を導入した。大都市では殆どが高度経済成長期に撤去されてしまったが、地方都市の路面電車の多くは今も元気に(?)走り続けている。


松本電気鉄道 浅間線                         1955年頃

小生が少年期を過ごした信州松本にも市街電車が走っていた。下の写真は同志社大鉄道同好会OB会のサイトから拝借したが、右奥のバスの横に小生が中1の時に住んでいた家があった。これはまさに小生が70年前に親しんだ風景なのだ。

松本電鉄浅間線は1924年(大正13年)に筑摩電気鉄道として開通した全長5.4kmの路線で、松本駅から写真の「学校前」(突き当りの森が旧制松本高等学校だった)までの約1kmが「路面電車」で、ここで左にカーブしてその先から浅間温泉まで専用軌道を走った。小生が中2の時に遠距離通学した経緯は「ボクの写真事始め」に書いたが、父親の転勤で下諏訪から松本まで中央東線のSL列車に乗り、松本駅から校舎近くの「清水」までこの電車に乗った。鉄道少年だった小生は、6台あった車両の微妙な構造の違いを探したり、「吊り架け音」(モーターと歯車がうなる音)を聞き分けたりした。中3で長野市に転校して電車通学が終わり、浅間線はその8年後の1964年に廃線になった。成人して松本を訪れることがなかったが、1995年に米国駐在から帰って国内事業担当になり、松本にもしばしば出張して路面電車の痕跡を探したが、何も見出すことが出来なかった。


東京都電                                   1985年   

小生が東京に出た1960年頃、どこに行っても都電が走っていた(総延長で213kmあった)。小生は王子の下宿から都電で学校に通い、都心に出る時も都電を使った。乗り換えを工夫すれば国電より安く、目的の場所の近くまで行ってくれる便利な乗り物だったが、高度経済成長期に姿を消した。最大の理由は「車の通行のジャマ」だった。

小生が60余年前に日々利用した「都電荒川線」(三ノ輪橋~王子~早稲田の12.2km)は唯一今も残っている路線である。写真はWikipediaの「都電荒川線」から借用したが(1985年撮影)、飛鳥山公園で右折して専用軌道に入る光景は当時も今も変わっていない(6500系車両はリタイアしたが)。

実は都電荒川線が「路面電車」なのは王子駅前~飛鳥山公園前間の約300mだけで、三ノ輪橋~王子駅間と飛鳥山公園~早稲田間は専用軌道を走る。つまり荒川線はあまり車の通行のジャマにならず、それ故に廃線を免れたのだが、都電廃止が正しい選択だったのか、路面電車ファンとして疑問を呈したい。

60余年前の東京はトロリーバスも走っていた。外見はバスでも、トロリー(架線)から集電して走るれっきとした「電車」だ。小生が利用したのは王子~池袋間で、池袋近くの国鉄貨物線の踏切でポールを下ろし、補助エンジンでノロノロと渡ったのを憶えている。排気ガスを出さないエコな都市交通手段だが、東京では都電より前に姿を消した。トロリーバスは立山黒部アルペンルートのトンネル区間で生き残っていたが、それも電池で動く電気バスに置き換えられて日本から姿を消した。

昨年(2023年)秋に訪れた米国シアトルで、トロリーバスの新車が走っているのを見てビックリした。あの米国でさえエコを気にしているのだ。


カナダ・トロント市電                           1980年   

小生が駐在した1980年当時、トロントの人口は約2百万だった。名古屋と同サイズの巨大都市だが、喧噪もなく静かで暮らしやすかった。鉄道、地下鉄、市電、バスを複合した公共交通サービスが充実し、車無しで暮らす人が少なくなかった。郊外から都心に通勤する人は、駅前の広大な公共駐車場に車を置いて公共交通機関を利用していた。ラッシュアワーでも新聞が読め、治安の心配もなかった。

駐在員の仕事と暮らしは車が無くては成り立ち難く、飲酒運転も事故を起こさなければOKだったので、公共交通機関をあまり使わなかったが、車を整備に出したり週末に都心に出る時に乗ることがあった。市電は東西と南北の2系統だけだったと記憶する。路面電車にしては大きな車体で、運転台が片側にしかなく、終点でループ線を半周して方向転換するのが珍しかったが、欧米の路面電車の大半がこの様式と後で知った。

参考:カナダ駐在員回顧録-3 オンタリオ+マニトバ


サンフランシスコ 市電                            2000年12月    

鉄のレールの上を鉄の車輪が転がって走る鉄道は、鉄同士の僅かな摩擦が牽引力とブレーキ力を生む。シスコの坂道では必要な摩擦力が得られず、鉄索で車体を引っ張り上げるケーブルカーの出番だが、シスコのケーブルカーの仕掛けは特殊で、道路の下を走るケーブルを運転手が手動のクラッチで掴んだり放したりして運転する。

シスコにも海岸沿いの平坦な地域を走る路面電車がある。下は終点のフィッシャマンズワーフのループ線で方向転換して発車を待つ電車を撮った。トロント市電に似た片運転台のクラシックな車体で、1台づつ塗装が違うのが面白いが、視認性の点で「?」の塗装もあるようだ。

参考:米国50州 中央カリフォルニア


米国 シアトル市電                          2023年10月

シアトルでも路面電車が走っていると最近の旅で知った。山の手とダウンタウンを結ぶ2路線で、ダウンタウンで2路線を結ぶ延長工事も計画されている。乗車料金は2ドル25セント、シニアは1ドル、19歳以下無料で、乗降時に検札がなく無賃乗車可能だが、不意に検札係が乗り込んでチェックすることがあり、無賃が見つかると罰金が高いという。3連接の車両は静かで揺れも少なく、乗り心地は上々だった。

米国では他の30都市でも路面電車(LRTを含む)の新設が進んでいるという。さて、日本は…(これも政治の貧困がもたらした停滞の一つのような気がする)。

参考:2023山歩きレポート+シアトル


スウェーデン ストックホルム 市電                         2000年6月   

スウェーデンは人口9百万の小国だが、存在感は小さくない。ノーベル賞の主催だけでなく、「不戦中立」を国是に掲げて戦禍を逃れる一方で、敵対する両陣営に兵器を売ってガッチリ儲けるしたたかさを持つ。航空機(SAAB)、自動車(VOLVO)、通信機(ERICCSON)の分野でも世界トップクラスの企業があり、カメラ(HASSELBLAD)も一世を風靡した時代があった(アポロで最初に月に行ったカメラがハッセルだった)。そんな国の首都を走る市電に、我が道を行くスウェーデンの自信と風格が漂う。

参考: 北欧-1 スウェーデン、フィンランド


フィンランド ヘルシンキ市電                          2000年6月  

歴史に流さなかったスウェーデンと対照的に、隣国のフィンランドは翻弄され続けた。そのムーミンしか思い浮かばない国から突然世界トップの企業が現われた。小生が米国でケイタイ電話拡販に苦闘していた1993年、聞いたこともないメーカーに注文をさらわれてビックリした。フィンランドのノキアだった。実用一点ばりのムダのない設計で、値段が安く、それなりの信頼性もあり、あっという間に世界各国でトップシェアの座に躍り出た(1位になれなかったのは日本だけだろう)。そのノキアを視察に訪れた時に出会った路面電車に、同じコンセプトが感じられた。

参考: 北欧-1 スウェーデン、フィンランド

 


イタリア ミラノ市電                                2004年7月

ミラノは第二次大戦で連合軍に破壊されたが、都心部は戦災前の姿で再建された。その旧市街を博物館から出てきたようなクラシックな路面電車が走っていた。同じ敗戦国の日本が古いものをかなぐり捨てて「近代化」に突進したやり方と、考え方やアプローチが基本的に違うようだ。

参考: 北イタリア


スイス ジュネーブ市電                              1993年7月  

空港行きの列車の待ち時間にみやげ物にする安物の時計を求めて駅前通りを走り回った。スイス工業の象徴だった時計産業は日本メーカーに駆逐されたが、一部の高級ブランドは不滅で、製薬、食品、金融など付加価値の高いビジネスでしっかり儲けて、スイスフランの価値も盤石だ。駅前通りを走る路面電車にも堅実なスイスが現れている。

参考:スイス後編


オーストリア ウィーン市電                        2015年6月

ウイーンの落ち着いた街並みを走る路面電車はいつもほぼ満員。クラシックな車両だけでなく、新型の連接車(右写真)も街並みに違和感なく溶け込み、交差点の急カーブを巧みに身をよじって走る姿が魅力的だ。

ウィーンの路面電車も乗降時に切符チェックがなく、客は乗車時に自分でタイムスタンプを押し、定期券と回数券の客は全くノーチェックだ(バスや地下鉄も同じ)。切符に関する限り日本のシステムは徹底した「性悪説」に立っているが、欧米の性善説に成熟したオトナ社会を見る。

参考:オーストリア-1


オーストリア インスブルック市電                          2010年9月

インスブルックはハプスブルグ家の帝都だった時代があり、18世紀にマリア・テレジアが改装した王宮が観光の目玉になっている。その市街をシックなカラーの路面電車が走っていた。パープルは高貴な色としてカトリックや仏教では最高位の高僧にしか許されない。そんな法衣を纏う路面電車はこの町にしか似合わないかもしれない(写真では微妙な色彩を再現できていないが)。

参考:ドロミテ+インスブルック