以下の記事は2022/12/25に掲載した「小鉄ちゃん山歩き 大福山 + 小鉄ちゃんのクラシック鉄道写真集」の後半部分を別出しの特集記事として採録した。
いつ頃からか知らぬが、鉄道を趣味とする人を「鉄ちゃん」と呼ぶようになった。鉄ちゃんは「車両鉄」(型式や性能に詳しい)「撮り鉄」「乗り鉄」「時刻表鉄」などに分類され「吞み鉄」も追加されたが、要するに鉄道がらみの「どうでもイイこと」を知っていたり、こだわった行動をする人を指すようだ。日本の鉄ちゃん人口は約1千万人といわれ、その9割が男性というから、男性は8人に1人が鉄ちゃんの計算になり、それだけいれば鉄ちゃんは「ヘンな人」ではない。
「ちょっとだけ鉄ちゃん」の小生は「小鉄ちゃん」を自称する。小生の小鉄ちゃんは、小4時に親が国鉄職員の同級生に誘われ、飯山駅の機関区(動力車の基地)に潜入したことに始まる。C12 型蒸機とラッセル車の運転台に座って機関士の気分になり、石炭投入の練習場で機関助士の真似をして遊んだが、潜入がバレて同級生が親にひどく叱られたと後で聞いた。それを機に鉄道に興味が湧き、機関車や客車の車両型式や特徴を憶えるようになり、その習性は50歳近くまで続いた。旧国鉄の蒸機、電機、客車、電車、気動車は、現物か写真を見れば型式名を言い当てられたが、1987年(昭62)の国鉄民営化以降、車種が増え型式名のつけかたも不統一になり、加えて本人の集中力と記憶力が衰えて唯一の特技を放棄、今は小鉄ちゃんの気分だけ維持している。
小6時にカメラを買ってもらったことは「ボクの写真事始め」の冒頭に書いた。そのカメラで最初に撮ったのが右の松本駅構内の写真で、何も考えずに撮ったので鉄道写真の態をなしていないが、左の煙を上げている蒸機は面構えと煙突の前の温水器でD51型の標準型と断定でき、右の客車は切妻屋根の特徴からオハ61型と想像がつく。当時の松本駅にいた機関車はD51、D50、9600で、客車もオハ60、オハ61、オハ35に限られていたと思う。西端のホームに大糸線と松本電鉄の電車もいた筈だが、全く記憶がないのは電車に興味が及ばなかったのだろう。
ちなみにオハの「オ」は「大型」の略で重量35トン前後の3等客車を云う。ナハは「並みの重さの三等車」、スロは「すこし重い二等車」、マイテは「まったく重い一等展望車」の略。これを昭和3年にマジメに決めたのだから、当時の日本にはまだユーモアを許す余裕があったのだろう。
大人になるまで鉄道を撮った写真はこの1枚だけだったと思う。成人後も鉄道写真を撮る目的で旅に出たことはなく「撮り鉄」の仲間に入れてもらえないが、行く先々で出会った車両の写真があるので、その中からクラシックな機関車をご紹介しよう(記事の順番は撮影時の順)。鉄道写真としては未熟なものばかりだが、撮った時の気分は今も思い出すことができる。
1969年に2度目の米国出張でロスアンゼルスに2ヵ月半滞在、週末の気晴らしに宿舎から歩いて行ける中央駅に時々足を運んだ。外国の鉄道駅には改札がなく、切符なしでホームに入れるのが嬉しい。大都市ロスの中央駅と言っても、列車の発着は1日に数本だった。この日は米国の鉄道を象徴するクラシックなディーゼル機関車(ゼネラルモーターズ製 F7型、1500馬力×2、1949~1953に約4千台製造)と出会い、興奮を覚えた記憶がある。
米国の長距離鉄道は今もほぼ全て非電化で、強力なデイーゼル機関車が重連で長編成の旅客列車や貨物列車を引く。大型ディーゼルエンジンで発電してモーターを回す「電気式ディーゼル機関車」が主流で、運転手が一人で重連の機関車を一括制御しやすいことや、低速で強力なトルク(回転力)を生じる直流モーターの特性が、重い列車を停止状態から引き出すのに有利とされた。(日本ではレールへの荷重を減らすために軽量化を優先し、液体変速機で駆動する方式が主流だったが、近年は重電機器の軽量化が進んで電気式が増えたようだ。)
1969年のロス出張中、ハリウッドに近いバーバンクのトラベルタウン鉄道公園も訪れた。静態展示の蒸気機関車や客車に自由に入って機器に触れたりできた。荒れてしまった車両もあったが、写真の機関車は塗装を塗り替えたばかりで、足回りがシェイ型ギアードロコ(後述)なので、森林鉄道で使われていたものだろう。この施設は今も健在で、財団がガンバって資金を集め入場無料を維持しているようだ。
1979年春にカナダのトロントに家族帯同で赴任した。半年経って生活が落ち着き子供たちも学校に慣れた頃、秘書が蒸気機関車が引く臨時列車で紅葉を見に行くツアーがあると教えてくれた。雑談で小生の鉄道趣味を知って気を利かせてくれたのだろう(何事にも気が届く優秀な日系三世だった)。
列車はトロント中央駅を出発し、2時間北上して湖水地帯のグレーブンハーストで折り返したと記憶する。途中の広場で停車し、希望する客を降ろして一旦バック、煙を高く噴き上げて走行する姿を見せるサービスもあった(写真は広場で停車中)。
機関車はカナダ国鉄(CN)が1944年に新造した6060型。重油焚きで2D2(動輪4軸)、自重107トン、暗緑色の塗装を施した大型蒸機で、北米で新造された蒸機はたぶんこの車体が最後だろう(日本では1948年に製造されたE10型5両が最後)。6060はツアー翌年の1980年に火を落とし、現在はカナディアンロッキーのジャスパーで静態展示されているようだ。(右はトロント駅で発車前に撮影)
82年秋にトロントから米国バージニアに転勤になり、子供たちも国境を越えて学期中途の転校になったが、幸いすぐ順応してくれた。カナダ・米国の中流家庭は、夏休みに子供をサマーキャンプ(10日~2週間)で過ごさせる習慣がある。かなりの出費だが、子供には田舎で集団生活して「得意技を身につける」得がたい体験で、親は家計をやりくって送り出す。
83年夏、小5の息子をウェストバージニアのキャンプに送り届けた帰り道、観光鉄道の看板を見つけた。見つけたからには車を停めて写真を撮り、列車運行の時間が合えば乗車する。この鉄道はアパラチア山中から木材を運び出す現役の森林鉄道で、本業の傍ら線路の一部で観光列車を運行していた(現在も運行)。
一般の蒸気機関車は、車体前方の巨大なシリンダーとピストンで生じる往復動を連結棒で動輪のピンに伝え、動輪が回転運動に変えて進む(左図)。動輪はある程度の径が必要で、複数の大きな動輪を井桁の台車に固定するので、急カーブが苦手になり、森林鉄道でトロッコを引くような用途には向かない。これを解決したのが「歯車式蒸気機関車」(Geared Locomotive、右図)で、車体側面の複数の垂直ピストンでクランクを回し、そのパワーを回転棒と歯車を介して動輪に伝える。日本では使用例が少ないが、植民地時代の台湾の亜里山森林鉄道で導入され、戦後になって観光登山鉄道として人気を呼んだ。その後デイーゼル化されたが、蒸機の動態復活を進めているとも聞く。
当家の「小鉄ちゃん」は小生だけだが、戸籍筆頭者の権力で家族を巻き込んだ。首都ワシントン郊外の拙宅から2時間で蒸気機関車の観光列車に乗れると知り、晩秋の日曜日に家族で出かけた。ペンシルバニアは日本で言えば奈良のような歴史地域で、独立時の首都フィラデルフィアや南北戦争の古戦場ゲティスバーグもあるが、製鉄や重機械の重工業地帯でもあった。内陸に重工業が発展したのは資源がそこにあるからで、鉄鉱石も石炭も地元で採掘して鉄道で近くの工場に運んだ。
重工業が衰退すれば鉄道もお役御免で廃線になる。そんな中で観光鉄道として命脈を保ったのが East Broad Top 鉄道 だった。この鉄度は今も存続し、写真の15号機(1915年製)も動態を維持しているようだ。ちなみにこの機関車の車輪配置は1D1(4軸の動輪の前後に従輪が各1軸)で、この形式が国際的に「ミカド型」と呼ばれているのは、日本が1897年に米国メーカーに発注した9700型蒸機の車軸配列が1D1だったことに由来する。太平洋戦争中は「ルーズベルト型」と言い換えたというが、敵性語排斥は大日本帝国だけではなかったようだ(戦後はミカド型に戻っている)。
1986年に米国駐在を終えて帰国したが、1990年に再度赴任するまでの4年間も頻繁に米国に出張した。トンボ帰りが多かったが、たまに週末を跨ぐことがあり、そんな時はゴルフ忌避の小生は鉄道に足が向いた。
サンノゼ(サンフランシスコ湾の南端)から30分ほど南下すると、森林のテーマパーク Roaring Camp に動態保存の森林鉄道がある。軌間762mmのトロッコ軌道で、シェイ型ギア―ドロコと小型デイーゼル機関車が交代で観光列車を引く1周1時間のツアーがある。客は子供より大人の方が多く、子供のようにはしゃいで乗るのを見ると小鉄ちゃんに仲間意識が湧く。
米国には「交通博物館」(鉄道、航空機、自動車)が多いような気がする。人口が日本の3.5倍、土地は49倍あるのだから、交通博物館が日本の数倍あっても不思議はないが、とにかく行く先々で偶然に見つけることが多かった。どの展示場も広大なのは土地がタダ同然だからだろう。地元の人たちが財団を作って寄付を集め、ボランテイアが維持運営にあたるのは、日本の「お祭り」に似ているような気がする。
デンバーの交通博物館はロッキーのスキー場からの帰り道で見つけた。飛行機の出発時間まで余裕が無く急いで見学したが、Big Boy のニックネームの巨大な蒸機(1924年製、総重量300トン超)に圧倒された。
Big Boy に比べると小型だが、外形と軸配置(1C)が北海道開拓用に1880年に米国から輸入した「義経号」にそっくりで、たぶん同型式だろう。
この蒸機にも偶然に出会った。米国50州踏破の旅行でアトランタからケンタッキーとサウスカロライナを回った帰り道、飛行機の出発までの時間つぶしに立ち寄ったアトランタ郊外の観光名所ストーンマウンテンに保存鉄道が走っていた。ストーンマウンテンは名のとおり巨大な一枚岩の山で、岩壁の南軍のリー将軍と司令官のレリーフは世界最大と言われる。作者のガストン・ボーグラムは南ダコタラッシュモアの4大統領胸像の制作者でもある。
2B(動輪が2軸)の珍しい軸配置を持つ蒸機は1923年製で、銘板の「TEXAS」が示すようにテキサス南部サンアントニオの鉄道で使われていたもの。
Black Hills Central Railroad も米国50州踏破の旅で訪れたダコタで偶然見つけた保存鉄道だが、マニア向けガイドブック「Steam Passenger Service Directory」の1983年版に載っていない。米国最辺境のダコタは麦畑の他に何もないが、唯一の観光地ラッシュモアの四大統領胸像を訪れる観光客が年間2百万人を超える。その「おこぼれ」を狙って1983年以降に開設されたのだろう。
時間の制約で観光列車に乗れなかったが写真は撮れた。ボイラーの上に水タンクを載せた「鞍水槽型」(Saddle tank engine)は日本では見ないタイプだ。
南米最南端の鉄道が「世界の最果て鉄道」(El Tren del Fin del Mundo)を自称するのは「むべなるかな」。ウスアイアは日本からはもちろんヨーロッパからも北米からも「地の果て」だが、わざわざ地の果てまで乗りに行くマニアもいるらしい。(小生はわざわ乗りに行ったのではなく、パタゴニア観光ツアーの日程に入っていた)。
この鉄道は「囚人が懲役のために引いた鉄道」だった。19世紀末、アルゼンチンはこの地域の領有権を確立する目的で刑務所を建て、囚人(主として政治犯)を送り込んで鉄道を敷設させ、鉄道が出来ると囚人を森林伐採の現場に運んだ。刑務所は1947年に閉鎖されて鉄道も役目を終えたが、半世紀を経て観光資源として復活した。
おもちゃのように小さい機関車の前に連結した水ダンク車にも動輪が付いているのが珍しい。小さい車体で急カーブを走るための構造で、他にない形式ではないか。赤、青、緑など鮮やかな原色で塗装しているのも珍しい。
ダージリンの豆鉄道はズバリ「おもちゃ鉄道」(Toy Train)を自称する。と言ってもれっきとした公共輸送機関で、英国植民地時代にダージリンに避暑客を運び、名産品のお茶の輸送を担っていた鉄道馬車を蒸機の鉄道に転換したもの。今は短距離の観光列車がメインだが、1日1便の定期列車が麓の町とダージリンを往復している(定期便はデイーセル機関車が引く)。
馬車時代を踏襲した610mmの軌間はトロッコより狭く、その上を走る蒸機も超小型。急勾配・急カーブが連続するので、機関士、助士の他にスリップ防止の砂を撒く要員も乗務する。ボイラーの上に水槽を乗せたサドルタンク式で、燃料の石炭も運転席前の貯炭箱に積む。
この列車に乗る前日に東北大震災が発生し、ダージリンのホテルでBBCのニュースで大津波の映像を見て仰天した。幸い家族とご近所に電話連絡がとれて無事を確認、他のツアー参加者も同様だったのでツアーを続けたが、被災者に申しわけない気分が今も残る。
ザルツブルグに近いザルツ・カンマ―グーツの山中は世界有数の岩塩の産地だが、この鉄道は純粋に観光用で、1892年に建設が始まり翌年に開通したというから、よほどの突貫工事だったのだろう。ラックレール式鉄道で、標高542mのヴォルフガング駅から1783mのサーフベルク山頂駅まで延長5.85Km、最大斜度26%の急勾配を35分で登る。
蒸機のボイラーは急勾配を登る時に水平に保つように前のめりに取り付けられている。建設当時は石炭炊きで、当時の車両が1両残っているが、ツアーで使われる蒸機は原型をモデルに新造された石油炊きで、補充にディーゼル機関車も使われている(我々の列車は残念ながら往復ともディーゼル機だった)。
鉄ちゃんの分類に何故か「模型鉄」が抜けている。オモチャは対象外と言われるかもしれないが、男の子なら誰でも鉄道模型に憧れたことがある筈で、「模型鉄」も鉄ちゃんに入れるべきだろう。小生が子供の頃、鉄道模型はフツーの家庭が買えるようなものでなく、模型店のショーウィンドウで眺めただけだった。大人になって多少おカネが出来ても、狭い家に線路を引きまわすスペースなどなく、少年の夢をかなえられる人は少ない筈だ。
中には実現した人もいる。半世紀近く前に「ロッキード事件」があった。全日空の機種選定(L-1011)に関連して当時の田中角栄首相に3憶円の贈賄が疑われ、事件関係者が国会の証人喚問で「記憶にありません」を連発した。その中に某大手商社の幹部がいた。連日会社に泊まり込んで働く超モーレツ社員だったが、深夜に自宅ではないマンションで2時間ほど過ごすのを察知した特ダネ記者がいた。さてはと勘ぐって向かいのマンションに張り込み、カーテン越しに見たのは、初老の男が一人で部屋一杯にひろげた鉄道模型を無心に走らせている姿だった。
「癒し」という用語は好きではないが、極度のストレスから一時的に逃れるには癒し(気晴らし)が有効である。商社幹部は「商売上の立場」と「人としての良心」の狭間で、極度のストレスを抱えていたに違いない。特ダネ記者が想像した「酒色」も癒しになるかもしれないが、副作用と後遺症を伴うことが多い。その点模型鉄は「人畜無害」で、他人を巻き込まず、何事も忘れて無心で没入できる時間と幸福感をもたらす。おカネをかければキリがないが、「酒色」より安くあがる筈だ。
某商社幹部のストレスとは比較にならないが、小生も1990-95年の米国勤務はそれなりにキツかった。単身赴任のストレス、守備範囲膨張のストレスに加え、社交が苦手の小生にはダラス日本人会長の役目もストレスだった。何かの拍子にロッキード事件を思い出し、商社幹部にあやかって模型鉄をやることにした。テキサスサイズのアパートにマイ鉄道を展開するスペースは十分にあった。ホームセンターでベニヤ板を2枚買い、玩具店のトイザラスで子供用の鉄道模型キットと延長レールを買った。全部で100ドルほど使ったと記憶する。
ベニヤ板を2枚つないでレールを敷き、立体交差を何度も作り直し、とりあえず殺風景なマイ鉄道が開通した。駅舎、町、山、トンネルも作ってジオラマにするつもりだったが、そんな時に帰国の内々示があった。マイ鉄道は男の子のいる後輩にあげたと思うが、記憶はさだかでない。