新年おめでとうございます。本年もご愛読のほど、よろしくお願い申し上げます。2022年元旦
清里・飯盛山(1643m)から富士山 (撮影:2021/10/28)

例年1月号に前年の山歩きレポートを掲載してきたが、2021年の山歩きは1度だけ(もちろん海外の山歩きはゼロ)。それも清里の平沢峠(標高1440m)から飯盛山(1643m)の往復で、山歩きと言うのも気がひける。コロナ禍のせいではなく、つれあいが3月に両膝関節の置換手術を受けたためで、3週間で退院して日常生活に即復帰できたが、長い坂道の上り下りに不安が消えるまで半年を要し、10月末になってようやく飯盛山で「試運転」に及んだ次第。

麓の駐車場からゆっくり登って1時間、急な段差もなく歩きやすい山道をたどると山頂で、富士山、南アルプス、中央アルプス、八ヶ岳、奥秩父の山々の大展望台だ。試運転は安全運転ながら上々の出来で、手術とリハビリの成果を納得し、坂道の歩行にも安心感を得たようだ。この歳になればどこが壊れても不思議はないが、医療の進歩で Quality of life(生活の質)を維持できることの有難さを実感する山旅でもあった。(手術の顛末は本号巻末の石割山の記事で)

南は曲岳・茅ヶ岳の間から富士山、右奥に南アルプス。 西に八ヶ岳最高峰の赤岳(左端)から硫黄岳の長い裾野が見える。

カミさんがダメでもお前は山に行けただろうに、と言われそうだが、カミさんが行かなければ小生も行かないのが当家の流儀。仲がイイ・ワルイではなく、小生は幼少時から運動が苦手で、大人になってもアウトドアを回避してきた。定年近くなって「婦唱夫随」で(小生が尻を叩かれて)日本百名山を始めた経緯は 遍歴-5 日本百名山スタート に書いた。ヒマラヤとヨーロッパアルプスの山歩きもその延長で、小生だけで山に登るという発想は湧かない。

そんな小生にとって百名山は「業務命令」みたいなもので、与えられた目標をひたすら消化する「会社員」の気分があった。イヤなことをやらされたわけではなく、納得して前向きに取り組めば、見えなかったものが見え、出来なかったことが出来るようになり、それなりの達成感が得られることも、「会社の仕事」に似たところがあった。

百名山踏破と言うとスゴイ登山家と誤解する人がいるが、百名山の大半は登山道が整備され、三食提供の山小屋があり、キツそうな山やアクセスの悪い山は登山ツアーで行けば、初心者でも必ず完登できる。つまり百名山は「新入社員の業務見習い」のようなものだが、二百名山、三百名山になると、超人的な体力と、岩登りの技術や野宿の知識が要り、動物的な勘も働かないとダメで、高度なプロの世界になる。百名山も、著者の深田久弥が登った当時(主に戦前)は、地元の猟師を案内人に雇い、ヤブをこぎ野営を重ね、やっとの思いで登頂した。昭和後期になり、山好きの今上天皇が皇太子時代に深田の「日本百名山」をご愛読とうわさされ、百名山ブームが起き、登山道や山小屋が整備されて誰でも登れるようになった。我々はその恩恵に浴して完登できたわけで、百名山踏破では登山家の列に入れてもらえない。

ヒマラヤのトレッキングも「登山」とは言えない。歩くのは村人の生活道路で険阻な岩場などなく、荷物もポーターが担いでくれるので、日本百名山より更に楽チンなのだ。旅費も今のところ海外の名所旧跡の観光旅行より安上がりで、コロナが明けたらまた出かけたいが、加齢と共に高度順応能力が低下し、行ける所が限られるのは仕方がない。結局小生の山歩きは初心者に毛が生えた程度で終わるが、ノン・アスリートにしては上出来と思っている。

写真もカミさんに尻を押されてホンキになったことは 遍歴-3「プロ用カメラを中古で購入」に書いた。写真は誰でも撮れるが、写真展に出す(発表する)作品を撮るには、「芸の世界」に踏み入って美感覚とワザを磨かねばならない。小生はヒョンな契機で1997年に「友山クラブ」に入って月例会と写真展で勉強したが、写真活動はそれだけで、たいした機材を持っているわけでもなく、熱心な写真家とは言い難い。その友山クラブも2020年に活動を停止し、発表の場がなければ芸を磨くこともなくなり、写真も初心者に毛が生えた程度で終わるが、無芸の小生にしては上出来かもしれない。

写真には作品作りをやめても出番がある。写真は本来「情報・記録」の手軽で便利なツールで、イベントの撮影やパンフレット用の写真など頼まれることがあり、多少勉強したデジタル加工で、見栄えの良い写真を提供して便利がられてきた。これからも頼まれれば出動するつもりでいる。

友山クラブと入れ替わるように、2019年秋からピアノのレッスンを始めた。娘の小学校入学時に買ったピアノが、使い道のない家具になってリビングの一隅を占めていた。たまに来る孫のオモチャになっていたので処分できずにいたが、その役目も終って断捨離に踏みきる寸前、近隣のシニア仲間がピアノを習っていると聞き及び、「その気」が起きた。先生は近隣の喫茶室で年2回開くジャズ・コンサート(ここ2年コロナで中止)のキーボード奏者で、小生はイベントのポスター制作や当日の写真撮影をしていたので面識はあった(遍歴-12 オジサンの近隣デビュー 参照)。

バイエルの代わりに習いたい教材があった。「林 光 ピアノの本」(1976年刊)で、作曲家の林 光が友人で作曲家の武満 徹のお嬢さんのために書いた子供のためのピアノ入門書だ。娘が使わないまま約半世紀が経ち、紙は変色し製本が風化して崩壊寸前だったが、何とか使えるように修繕し、「これを最初からやりたいのですが…」とおそるおそる願い出た。

小生がピアノで弾けたのは「ネコ・フンジャッタ」だけだったが、楽譜を見て音を拾えた。林 光の練習曲は初歩用の簡単で短い曲でも、独特の流れと響きが魅力的で面白そうだった。林 の合唱曲を学生時代にコーラスサークルで歌ったことがあり、OB合唱団で同氏に作曲を委嘱したこともあった。小生の音楽活動は1979年にカナダ駐在に出るまで続いたが、最後まで発声法が身につかず、練習で枯れてしまい本番ステージで「くちパク」したりで、歌うことにはあまり楽しい思い出がない。その後音楽との関わりが薄れてしまったが、若い頃に音楽の仲間と活動を共有したことが、その後の自分の感性や考え方に影響を残していると時々思うことがあり、山歩きや写真も遠くでつながっているような気もしている。

ピアノは思っていた以上に難しい。指が動かないのは予想どおりだが、自分が「ピアノ吃音症」とは知らなかった。出だしで指が吃ってフリーズするのだ。家の練習ではスラスラ弾けてもレッスンで必ずひっかかる。ピアノは構造的に誰が叩いても同じ音が出る筈だが、先生のポンと小生のポンは全く違う音になる。上達しないのは練習が足りないからと分かっているが、近所の奥さんに「ご熱心ですね」と言われると、近所迷惑の時間を増やすのは気がひける(電子ピアノも買ったが、ピアノの練習をしている気分になり難い)。

林 光の本を1番から始めて2年が経った。途中で先生の産休とコロナ休みがあったが、月2回各1時間のレッスンで50番まで来たところで、先生から「人前で弾いてみませんか?」とお誘いがあった。市内のライブスタジオでスタインウェイのグランドピアノを有料で一人10分弾かせる催しがあり、他の生徒さん(3歳の女の子)も出るという。演奏会ではないが参加者と付き添いの人たちの前で弾くことになる。ステージでピアノ吃音症が出るのは必至だが、芸は恥の数だけ上達するというではないか。

そんなわけで、2021年12月29日午後3時が小生の「初舞台」になった。写真は時々「シロウトのマグレ当たり」(Begginer's luck)が起きるが、ピアノ演奏ではマグレ当たりは絶対にない。案の定というべきか、1曲目のいつもスラスラ弾けるところでひっかかり、数回やり直してもダメで、そこを飛ばしてめげずに2曲目、3曲目も弾き終え、激励の拍手をいただいた。

ボケ防止にピアノを習う高齢者が増えているというが、そんな気分でレッスンを受けたのではプロ演奏家の先生に申しわけなく、自分のためにもならない。少しでも音楽に近づけるように練習を続けたいと思う。林 の本も後半は早いテンポの曲が多く、いくらガンバっても指定どおりに弾けそうもないが、スローに弾いてもそれはそれで面白い曲になるのは、林の音楽の優れたところかもしれない。登山の地図にはルートの標準所要時間が書いてあるが、小生はその1.3倍で歩くことにしている(1時間のルートは1時間20分で歩く)。ピアノでも、速度指示が ♩=120 とあれば、その1.3倍遅い ♩=90 で弾けるように練習して、その早さで何とか弾ければ、先生が楽譜に大きな💮をつけてくれるのが嬉しい。


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ミラーレス一眼レフに買い替え

2011年に友山クラブの事務局を引き継がされて、写真展の設営の仕事もまわってきた。適切な広さと希望する時期と限られた予算で借りられる会場の確保が頭の痛い仕事で、あてにしていた会場に断られることもあった。

2013年のピンチを救ってくれたのが富士フィルムのN氏で、手持ちの会場をやりくって空けてくれ、そのご縁で2016年から2020年の友山クラブ最終写真展まで、一等地の銀座ギャラリーを使わせてもらった。作品の制作(プリント、額装)を富士フィルムに頼むのが条件だが、費用が他社に比べて高いわけではなく、いろいろムリも聞いてもらい、おかげで事務局の役目を何とか勤めることができた。

2019年10月に Fujifilm X-T3 を買ったのはN氏に謝意の気分もあったが、フィルムメーカーならではのデジカメに興味がわいたこともある。同社は世界トップ(今やほぼ唯一)のフィルムメーカーで、フィルム全盛時代は数種類のカラーフィルムを出していた。夫々発色に微妙な違いがあり(クセと言っても良い)、撮影シーンでフィルムを使いわけるのが写真マニアの見栄で、風景写真には彩度が高くメリハリが出るVELVIA、人物ポートレートは肌の色が美しく出る ASTIA が好まれた。富士フィルムのデジカメにはその微妙な色調の違いをデジタル処理で再現するモードがあり、自分好みのフィルムの色調を再現できるのだ。

数年前から中級以上のデジタル一眼レフの撮像素子はフルサイズ(35mm×24mm)が一般的になっていたが、XT-3は APS-C サイズ(23.5mm×15.6mm)で、重くてかさばるミラーとプリズムがないミラーレスでもあり、それまで使っていたニコンD750 よりふた回り小さく、重量も4割軽くなり、交換レンズもボデイに比例して小型軽量になった。ホンネを言うとダウンサイズが「決め手」で、喜寿老人にはゴロンと重い D750 を持ち歩くのがしんどくなっていた。

XT-3 はマニア好みの凝った機能が盛り込まれ、説明書を読んでもアタマに入らない。無料でユーザー講習をやっているとN氏に勧められて初級・中級を受講したが、教室で分かった気分になっても、実際に現場で使わないと忘れてしまう。講師が「このカメラはフルオートでカメラ任せが一番良く撮れます」と言ったことがアタマに残り、アドバイスに従ってみた。オートで撮ったデータを見て「ナルホド、こう設定するとこう撮れるのか」と感心する。素人判断でマニュアル設定するより賢いカメラにマル投げした方が上手く撮れると確認したが、それでは「ボケ防止」にもならない。芸の上達には「失敗」が不可欠で、ホンキで撮る時はフルオートを外すことにしている。

一眼レフはメーカー毎にレンズの取付けマウントが違うので、メーカーを変えればレンズも全て新調するしかない。ニコンから Fujifilm への乗り換えで老後資金をとり崩すことになったが、D750とレンズをネットオークションで現金化し、多少穴埋めが出来た。XT-3 の写り具合には満足しているが、ミラーレスは従来型一眼レフの3倍電気を食う。旅の途中で充電できないような辺地トレッキングは「もうやめなさい」と言われているような気もする。


2019年2月 ベトナム ファンシーパン登山

山岳ツアーのパンフレットにベトナムの最高峰ファンシーパン登山があった。中国、ラオスとの国境に近い山で、首都ハノイの観光と景勝地ハロン湾のクルーズも旅程に含まれる。ファンシーパンの標高は3143mで奥穂高岳(3190m)とほぼ同じ。登山口(1995m)からの標高差は1200m足らずで、途中の小屋(2800m)に一泊するラクチン登山だ(と思っていた)。帰りは山頂直下からロープウェイで麓(1600m)まで一気に下るのも、下りが苦手の小生には嬉しい。

登山もさることながら、ベトナムを見たかった。アジアの貧しい小国が宗主国のフランスを追い出し、最強の軍事大国である米国が本気で戦っても勝てなかった。どんな人たちの国なのか、興味が湧くではないか。

ツアー前半のレポートは「ベトナム‐1」

ハノイから寝台列車でラオカイに到着。 中国国境の橋。ベトナム人女性が中国へ行商に。
モン族の村に残る地方王族の館。アヘンで財をなしたという。 登山基地のサパに向かう途中の棚田。

ファンシーパンの登山を甘くみていたが、標高2500mの尾根でバテバテになり、2800mの小屋にやっとたどりつくと猛烈な下痢に襲われた。消化器不善は高度障害の典型的な症状で、脳と心肺を酸欠から守るために胃腸の活動が止まる。前年に登った5605mのカラパタールでは平気だったが、高度障害は経験や年齢とは無関係で、その時の体調次第で起きる。ヒマラヤでベテランのサーダー(シェルパ頭)が行動不能に陥ったこともあった。

幸い翌日は体調が正常に戻って無事登頂できたが、山頂の雑踏にビックリ。麓から山頂直下にロープウェイが架かり、街歩きの服装で来る観光客も少なくない。日本の山に例えれば、上高地から穂高岳山頂にロープウェイを架け、山頂に客寄せの観光寺を建てたようなもので、門前町に土産物屋が立ち並び、「登山」の気分など吹き飛ぶ。節度のない「観光開発」はいかにも中国流で、ベトナムの観光業も中国資本と邪推する。

登山口のチャムトン峠。山の字の右の峰が山頂。 急な尾根を直登、この辺りで疲労困憊。
2日目、山頂は目前だが、一度下って登り返す。ドームは駅舎。 山頂は渋谷スクランブル並みの雑踏(大半がロープウェイ客)。
山頂直下の寺院 出来たての仏様はけばけばしく有難みが薄い。

下山してハノイに入ったのは「米朝首脳会談」の4日前で、トランプ・キムの会談の場に急遽選ばれたハノイに急造の歓迎旗や看板が立っていた。唐突な首脳会談は成果ゼロだったが、中立国としてのベトナムは存在感を世界に示すチャンスになった。

ベトナムは北朝鮮、中国、ラオスと共に「一党独裁」の「社会主義国」だが、カリスマ指導者が存在せず、人権問題も聞かないのは、ホーチミンの融和的な民族主義と柔軟な政治姿勢が受け継がれているからだろう。人口8百万のハノイには開発途上国の首都らしい田舎くささが残っているが、市民の表情は明るく屈託のない暮らしぶりが感じられ、宗教の自由や伝統文化も尊重されているようだ。 ベトナム-2(ハノイの様子、ベトナム戦争についてなど)

 
米朝会談歓迎のパネルが立ったばかり。 二輪車全盛のハノイ。4人乗りは珍しくない。
フランス時代のオペラハウスは今も現役。 大聖堂で日曜のミサが進行中。キリスト教徒も多いようだ。
週末夜の盛り場に賑わい。 ホーチミンが建てた子供劇場を改装した伝統の水上人形劇場

ハノイから南へ2時間のハロン湾は「海の桂林」と呼ばれる景勝地で、船中一泊の「ハロン湾クルーズ」を楽しみにしていたが、出航して2時間の島影に停泊したまま一夜を明かし、翌朝どこにも寄らずに帰港した。海に浮かぶホテルに泊まってメシを食うのを「クルーズ」と称するのはいかがなものか。

正直に言うと、ファンシーパンと同様、過度に観光化したハロン湾にいささか鼻白む思いがした。観光旅行は「非日常体験」が目的で、日頃と違うゴージャスな雰囲気で美味いメシを食うのを楽しみで出かける旅行者が大半と承知してはいるが、せっかく訪れた「世界自然遺産」で、夕刻の絶妙な時間帯に狭いテーブルに2時間半座らされるより、デッキでニギリメシでも食いながら自然との一体感を味わう方が、小生は嬉しい。  ベトナム‐2 ハロン湾のレポート

ハロン湾の停泊ポイントに向かう観光船 湾内の観光船を巡る女性の行商舟


30隻近い観光船がこのスポットで夜を過ごす。


2019年山歩き

ヒマラヤ・トレッキングを始めてから国内の山歩きは高所順応とトレーニングの場になっていたが、2018年にカラパタール(5605m)に登って一段落、齢相応ののんびり山歩き志向になっていたが、チャレンジングな気分が消えたわけではない。 2019年山歩きレポート

4月6日:秩父長瀞の桜の名所、蓑ノ山(美ノ山公園、標高400m))へ。麓の駅から標高差200mは山歩きという程もない。花見に数日早かったが、麓の長瀞の桜並木は満開だった。

桜はまだだが梅は満開。遠くに百名山の両神山がかすんで見えた。 麓の長瀞の桜は満開。

4月22日:3年ぶりに熊野古道へ。九度山から高野山への参詣道(町石道)を途中まで歩き、いったん山を下って電車に乗り、終点から山門まで再び歩くつもりだったが、前半の山道をゆっくり歩きすぎ、電車の待ち時間もあり、後半の歩きを断念してケーブルとバスで高野山に入ったのは遺憾だが、宿坊体験が興味深く、X-T3 の性能を試す撮影も楽しんだ。 熊野古道 町石道

始点からの距離(丁)を示す石塔。 高野山御影堂の桜。
宿坊 ISO3200, 1/10秒、手持ちで撮影 精進料理 ISO3200、1/25、手持ちで撮影

6月18~19日:久しぶりに尾瀬に出かけた。花の端境期だが、残っていた水芭蕉で尾瀬の景色になった。翌日は尾瀬ヶ原からアヤメ平まで長沢新道を標準タイム(2時間25分)で登り、「まだ大丈夫」と思ったりもした。

山の鼻の植物園地域で子供たちの遠足に出会う。 残っていた水芭蕉。
燧ケ岳の水かがみ。 名物の一本白樺と至仏山。

7月12~18日 北海道の山巡りを思い立った。旅のとっつきに日高のアポイ岳に登って高山植物と出会う予定だったが強雨で登山を断念。雌阿寒岳(1499m)に登って52年前の記憶を確かめ、大雪山の赤岳(2078m)でコマクサに出会い、黒岳(1984m)から北海岳(2149m)を縦走して北海道らしい夏山を満喫した。 北海道センチメンタル山歩き

雌阿寒岳山頂の風景 黒岳から北海岳まで、お花畑を歩く。

8月26日 北海道山歩きの余勢で北穂高岳(3106m)に挑んだ。山頂直下に戦後間もない昭和23年に山男が独力で建てた山小屋があり、大キレットの絶景も見たいと思っていたが、機会が無かった。日本の3千m級の登山はヒマラヤ・トレッキングよりもキツい。北穂高の登山も今が体力的に限界と自覚し、晴れ間を狙って決行した。

登山レポートは 北穂高岳喜寿登山 でご覧いただくとして、山頂で軽い高度障害を感じて小屋泊を断念、涸沢(2300m)に下っても食欲不振が続き、ファンシーパンでの経験とも重なって「2300m トラウマ」が生じた。

北穂高岳山頂から槍ヶ岳を望む。 山頂から難所の大キレットをのぞき込む。
山頂の岩崖にへばりつiく北穂高小屋 山頂から西、松濤岩の先に奥穂高岳

10月30日 「2300mトラウマ」を再確認するため「日光奥白根山」(2578m)に登った。標高はアルプス級だが自宅から2時間余りで登山口に着き、標高2000mまでゴンドラが架かっているので日帰り登山が可能。結論を言うと2300mでヘバり、山頂で弁当を半分食い残してトラウマも残った。

山頂から北側の眺め。左前方は菅沼。 山頂の岩塔。遠景は男体山と中禅寺湖。

11月15日 友山クラブ最後の撮影会で軽井沢へ。車の移動で「山歩き」ナシだが、妙義山で展望ポイントまで30分ほど登って紅葉をまとう奇岩を狙った。

晩秋の妙義山 第4石門からの展望

11月20日 年賀状用の富士山を撮るため、旧五百円札裏面の富士山で知られる山梨の雁ヶ腹擦山に出かけた。 大月から北へ30分の峠に車を置き、1時間の登りで山頂に着く。昭和17年11月3日午前7時53分に名取久作氏が五百円札の富士を撮影したと記した看板が立っている。


2020年1月 イースター島・タヒチの旅

WHO(世界保健機関)が新型コロナウィルスを確認したのは2020年1月14日だった。その前日の13日に成田からイースター島に向けて出発、1月20日に帰国して2週間後にダイアモンドプリンセス号が横浜に入港、鎖国状態が2年後の今も続いている。我々はスレスレのタイミングで稀有な海外の旅を実行したことになる。

実は、前年秋に予定していた別のツアーが中止になり、このツアーに乗り換えた経緯がある。ダメになったのは南米ベネズエラのギアナ高地をテント泊で歩く少々ハードなツアーで、体力的に限界と思いながら申し込んだ。中止の理由はベネズエラの政情不安で、左派政権を嫌う米国の画策で大統領が2人という異常事態が生じ、危険地帯に指定された。「実は」がもう1件ある。2020年夏にアルメニアのツアーを申し込んでいたが、隣国アゼルバイジャンとの紛争勃発で中止になった(紛争がなくてもコロナでダメだっただろう)。「旅は行ける時にムリしてでも行っておかないと…」と写真の川口先生が口ぐぜのように言われたが、行けなくなる理由は自分の事情(病気、金欠など)だけではない。

イースター島は周辺2千Kmに人間が住む島がない絶海の孤島で、通常は南米のチリ経由で行くしかなく、片道33時間を要する。たまに日本のツアー会社が合同でタヒチ航空のチャーター便を飛ばすことがあり、このツアーに参加すればタヒチ経由で20時間でイースター島に着く。

イースター島に行くのはモアイ像を見るためで、小豆島ほどの小さい島には他に見るものはない。約900体のモアイは殆どが倒れたままで、近年になって調査隊と島民によって再建立された40体が見学の対象で、1日で全部見ることも可能。我々のイースター島滞在は2泊3日で、タヒチ航空の B787 は空港で待っていた。

モアイが造られたのは10世紀~15世紀頃だが、記録が全く残っておらず、何のために立てたのか、どうやって運搬したのか、何故倒されたのか、全てが謎のまま。文字を持たなかった先住民が絶滅して伝承も残っていないのだ。絶滅の原因はヨーロッパ人がもたらした疫病で、この事情は南太平洋の島々の先住民や南米インカの滅亡にも共通している。 旅のレポートは モアイの島イースター島 


起き抜けにハンバロアの宿舎から歩いて15分のアフ・タハイの海岸でモアイを撮った。

5体のモアイは初期に作られたものらしい。 一人立つアフ・コテリクは島で唯一目玉が残っているモアイ。

参加したツアーが海外山岳ツアー専門の会社だったので、イースター島の最高点マウント・テレヴァカ(507m)の登頂が日程に組まれていた。島は元々は亜熱帯雨林に覆われていたが、先住民の人口増で畑が拓かれ、18世紀にヨーロッパ人が放牧場を拡げ、人家の周辺に植えたユーカリ以外は全島がハゲ山の状態になっている。

ユーカリの森を抜けて緩やかな溶岩台地を登る。 マウンガ・テレヴァカの山頂

モアイ像は部族のリーダー・英雄の墓碑で、部族の守り神として集落毎に立てられたと考えられている。巨大な石像は島の北東部の凝灰岩の岩山ラノ・ララクで制作され、何らかの方法で集落に輸送された。部族は平和的に共存していたが、人口が増加して食料の奪い合いから衝突が起き、敵の集落のモアイを倒して生命力の源とされる目玉を抜いたらしい。戦いが頂点に達した頃にヨーロッパ人が渡来し、先住民は疫病でほぼ全滅して伝統文化も消えた。

ヨーロッパ人が着いた頃は島内の全てのモアイが倒れていたという。近年になって再建立された40体の内、アフ・トンガリキの15体は1960年のチリ津波で倒壊したが、日本のクレーン業者が自費で機材と人員を持ち込んで再々建立したエピソードがある。バブル時代のこととは言え、日本の会社の「おとこ気」(禁止語?)は褒めるべきだろう。モアイは修復せずに再建立されたが、台座部分は元の状態を再現したものではなく、チグハグな違和感は否めない。

アフ・アキビのモアイ像 輸送途中で放棄されたモアイ。


モアイはラノ・ララクの凝灰岩の山から切り出されて集落に運ばれた。これは製造現場に残された未納品のモアイ。


15体のモアイが並ぶアフ・トンガリキをラノ・ララクから望遠で撮影。

トンガリキの個性豊かなモアイ。 1982年に大阪に出張したモアイ・ハポネス(Japan)


日没時に再びアフ・タハイのモアイを撮った。

イースター島からタヒチに戻り、空港のあるパペーテを素通りして隣のモーレア島のリゾートで2日を過ごし、ジャングルウオークと海中散歩を楽しんだ。 レポートはフレンチ・ポリネシアで。

モウアロア山。ガイドブックでは880mだが… マジックマウンテンの展望台からサンゴ礁のリゾート。
亜熱帯雨林をトレッキング。 最終日にタヒチ島の展望ポイントに登ってランチ。

2020年 山歩き   詳細は 2020山歩きレポート で

4月4日 茨城・宝篋山: 新型コロナで世情は騒がしくなっていたが、まだ外出制限はなく、足ならしに近場の宝篋山(ほうきょうざん 461m)に出かけた。1時間少々で登れる低山だが、登山道に山深い雰囲気があり、筑波山の眺めも悪くない。

山深い雰囲気もある。 山頂から筑波山を望む。

4月7日に7都道府県に緊急事態宣言が出て禁足状態になった。今年はどこにも行けないと思っていたら、7月に「Go To トラベル」キャンペーンが始まった。税金で国民を旅行に駆り出して「ウィズコロナ時代における新しい生活様式を定着させる」のが目的と知り、国家権力のやることに何かと反発を感ずる小生、キャンペーンに乗る気分は湧かなかったが、山小屋が営業を始めたと聞いて出かける気が起きた。「Go To 適用外」の旅の行き先を立山にした。手軽に3千m級の山を楽しめ、山小屋に温泉もある。

9月14日:立山の山小屋の予約は取れたが、気がかりがあった。小屋のある室堂は標高2400m。前年の「2300mトラウマ」がアタマをもたげたのだ。高度障害は事前の順応で予防するしかなく、往路に標高2000mの美ヶ原山頂で前泊。その甲斐あって体調は良好で、立山最高点の大汝山(3015m)まで足を伸ばして剣岳の眺望を楽しんだ。

9/14 美ヶ原で前泊、高度順応を計る。 9/15 室堂から浄土山(2831m)へ。
9/16 大汝から剣岳の雄姿 大汝山から立山山頂(3003m、右端)に戻る途中の岩塊。

11月10日~13日 官製の Go To トラベル には乗らぬつもりでいたが、ヒマラヤでお世話になるツアー会社からお呼びがかかった。ベテラン社員がクリーニング屋でアルバイトをしながら、国内ツアーで常連客をつなぐ涙ぐましい努力をしていると知れば、助けてあげたくなるのが人情というもの。Go To は気に染まぬが「壱岐・対馬」3泊4日ツアーに参加した。

11/11 対馬 金田城山から西の海に落ちる夕日を眺める 11/12 対馬中部の白嶽山頂(519m)に登る。

12月3日、年賀状用の富士山を撮りに山中湖畔の石割山(1412m)に出かけた。天気予報は「快晴」だったが富士山は雲の中で、残念ながら写真は空振りになった。

つれあいは膝関節の違和感を訴えていたが、石割山の403段の石段を上り下り出来た。だが正月を境に腫れや痛みがひどくなり、関節の水を抜いても改善せず、医者の薦めに従って2021年3月12日に両膝関節置換の手術を受けた。術後のX線写真を見て異様な人工物の影像にギョッとしたが、本人は術後の痛みもなく順調に回復し、4ヵ月でテニス・レッスンに復帰、7ヵ月で軽登山に復帰した。登山よりテニスの方がキツイと思うのだが、本人はテニスは平地だから大丈夫、山歩きは下りの段差が怖いという。人工関節は壊れると再手術が面倒と聞く。医者は何をしても大丈夫だと言うが、傘寿老人の登山は想定外かもしれず、世間の老人の常識を大きく逸脱する行為は避けた方が良いのかもしれない。

駐車場脇の鳥居をくぐるといきなり403段の石段。 9合目の石割神社奥社。

2020年10月 友山クラブ 最終写真展

友山クラブは山岳写真家の川口邦雄先生が主催する写真の勉強会で、毎年1~2回の写真展を開催していた。小生が入会した1997年当時は出展者が60人を超え作品数も150点以上あったが、会員の高齢化で縮小が続き、新会員の獲得も思うにまかせず、ご高齢の先生に例会に来ていただくことも困難になり、事務局の小生が言い出すかたちで、2020年10月の第33回写真展をもって活動を停止した。最終回の出展者は先生を含めて6名、作品数は17点だった。会のホームページには今も月間4百件ほどのアクセスがあり、山岳写真の情報源に利用されているようだが、サイト管理者としては近々閉鎖するしかない。