前号で書いたように、日本のコロナ感染者が欧米諸国より1桁少ないのに、医療崩壊が叫ばれることが不思議に思えた。検索して目についた資料から作成したのが下の国際比較である。性格の異なる資料から拾い集めたデータで、整合性は吟味してない。小生のアタマの体操の材料とご理解いただきたい(ご参考に出所を記載した)。

  対GDP
医療費比率
一人 あたり
医療費
医療費
公費負担率
人口10万あたり 人口千人あたり 一人あたり
医薬品市場
公立病院数 民間病院数 病床数 医師 看護師
日本 10.2% $3,727 83.6% 1.3 5.4 12.3 2.5人 11.3人 $887
米国 17.1% $9,702 48.3% 0.4 1.4 2.8 2.6人 8.5人 $1,055
ドイツ 11.3% $5,182 76.9% 0.7 1.7 6.0 4.3人 13.7人 $632
英国 9.1% $3,377 83.1% 2.1 0.3 2.9 2.6人 6.7人 $563
ロシア 7.1% $1,836 52.2% 3.5 0.2 8.9 4.3人 7.5人 $169
中国 5.6% $731 55.8% 0.8 0.7 2.8 1.6人 2.2人 $60

Wikipedia 国民医療費準リスト  経済産業省 医療国際展開カントリーレポート(2017/3)
日本医師会総合政策研究機構 医療関連データの国際比較(2019/9)

米国のデータを見て30年以上前の知見が蘇った(今は事情が違うかもしれないが)。米国の医療費はとにかく高額なのだ。中流以上の家庭は「かかりつけ医」を持つが、ちょっと診てもらっただけでン万円の請求書が来る。満額払って領収書を保険会社に送り、入金するまで2ヵ月かかる(医療保険料も高い)。医者は仲間と「ドクターズ・オフィス」を共有するのが一般的で、患者はアポを取ってオフィスで問診を受けるが、検査から先は病院に行かねばならない。医者も病院に出向き、検査の指示を出し、診断して治療を行い、必要に応じて病院勤務の専門医の手を借りる。小手術でも入院すると請求額が年収を超えることがあり、銀行の残高不足で小切手が不渡りになると禁治産者扱いされるので、保険金がおりるまで金策に奔走することになる。

病院は郡(カウンティ)に1つか2つしかなく、殆どが大手医療法人が運営する民間病院である。公立は退役軍人病院や研究的な専門病院はあるが、州立・市立病院は少ない。病院は地域の医師に診療の場所を提供する他に「救急病院」の役目を担う。かかりつけ医がいない低所得者は「救急患者」として病院を訪れ、予約なしで診療を受けられる。治療費は無料かそれに近く、アナは慈善団体の寄付や公費で埋められる。ただし、受付から治療まで数時間放置されるのはザラで、治療はしっかりやってくれるが、あしらいは野戦病院に近い。事故や急病で救急搬送された時は、かかりつけ医に連絡して病院に指示を出してもらうと「患者サマ」扱いになる。

診療代金は医師が夫々の基準で決め、値切ってはいけないことになっている。米国で国民皆保険が成立し難いのは、政府が診療単価を決めて一律に適用するのは「社会主義!」という考え方が根強くあるからだろう。貧乏人は保険がなくても「救急患者」で無料で医療を受けられるが、皆保険になれば何がしかの保険料を納めることになり、零細な保険料を集めるシステムや運用の組織・人員が必要になる。社会的コストが増すだけでイイことは何もないというのが保守派の論理だが、「平等」の国是とは矛盾するような気もする。

米国の医療はGDPの17%(製造業の約2倍)に相当する巨大産業で、医療法人や製薬会社が巨大な利益をあげている。医療もビジネスゆえ、知恵を絞って売上を伸ばして利益を上げ、安価な治療を提供する医師や団体があれば巧妙に手を回わす。今回のコロナ禍で米政府は巨額の緊急支出をしたが、その多くが大手医療法人と製薬業界に転がり込み、「コロナ太り」が生じたという。カネが回れば強者がますます富むのは自由市場経済の当然の帰結だが、国民の生命を預るビジネスが格差社会の歪みを増すことにもなる。

上の表で見ると、日本の医療事情はドイツ、英国に似ているが、民間病院と病床の数が突出している。たしかに日本には診療所に病室を付け足したような小病院があちこちにある。病院が身近にあるのは悪いことではないが、ドラ息子を私立医大に入れるのにムリをしたヤブ病院や、姥捨て山代わりになっている病院もある。病院の定義のズレもある。日本は精神科病棟や寝たきり老人の「長期療養施設」も病院・病床にカウントするが、外国の病院は「病気又はケガを治す施設」と厳密に定義されている。何れにせよ、病院と病床の数が日本の医療の豊かさを意味しているわけでは無さそうだ。

日本の病床の総数を逆算すると約150万床になる。一方コロナ対応で用意されている病床は全国で3万3400床、内使用中が1万7千床とされる(内重症患者用は4,800床、使用中が1,800床)(NHK特設サイト)。単純計算では、現在コロナ患者が使っている病床は全病床の1.1%にすぎない。病床数と医療リソース(医師、看護師の労力)が相関すると仮定し、仮にコロナ患者は10倍手がかかるとすると、日本の医療リソースの約1割がコロナ入院患者に割かれている計算になる。それが一部の公立病院・大学病院に集中しているらしい。逆に見れば、医療リソースの9割はコロナ治療の圏外に居ることになる。現にオリンピック医務に応募する先生や知事リコール運動に入れ込む先生もいる。

コロナの現場で私生活を犠牲にして命がけで働いている医療従事者には本当に頭が下がる。米国政府は手厚い給付金で医療機関と製薬会社をコロナ対応に駆り立てたが、日本政府は旅行業界にカネを回し飲食店に営業制限を課すことには熱心だが、コロナ治療の負担が一部の病院に集中する事態に手を打つ気配が感じられない。拙宅の地域の民間総合病院はどこもコロナお断りだが、彼等がコロナ患者を避けるのは「タイヘンで、しかもソンする」ことが分かっているからで、米国のように「コロナで儲かる」状況を作れば、医療現場の逼迫は緩和される筈だ。

大阪で医療逼迫が起きたのは公立病院の縮小・廃止を強行したツケと言われるが、それは全国共通の問題かもしれない。小生の地域でも市立病院が市長と議会多数派(自公)から執拗なイジメを受けている。市当局にとって市立病院はカネと手間のかかる面倒な存在かもしれないが、日本は公立も民営も病院の収入の殆どが「公費負担」(健康保険と税金)であり、マクロで見れば社会的コストは同じ筈だ。民間病院が「儲からない医療はやらない」(できない)ことはコロナ禍で明らかになった(ある意味当然だが)。損得勘定を超えて困難な医療にあたる公立病院の維持は、市民が負担すべき社会的コストと考えて良いのではないか。

小生の「かかりつけ医」についてふれておく。戸建て団地で35年前から開業している診療所である(病床がないので「病院」には該当しない)。院長先生は「コンビニのオヤジと同じ」という。休診日・夜中でもお呼びがあり、午後休診と長い昼休みは在宅医療の往診時間で、年中無休・24時間営業なのだ。シフト勤務の看護師や事務員など10余名の雇用主でもある。保険請求を入れれば客単価はコンビニよりも高いが、スタッフの給料と医療機器の償却を差引けば、採算は「よくやってるな」のレベルだろう。小さい診療所ながら民間総合病院が尻込みしたPCR検査をやり、開業医によるワクチン接種に医師会を動かしたとも聞く。なかなか侠気の先生なのだ。

小生と同年配の院長先生はリタイアを考える時期だが、開業医になりたい若い医者がいないと嘆く。開業医はキツイ。病院勤務医もキツイ。「失敗しない女医」はTVドラマの作り話と思っていたが、どこにも所属せずカネになる仕事だけつまみ食いする「風来坊医者」が増えているらしい(安楽死医師もその類)。コロナが無くても、日本の医療崩壊は着実に進行しているようだ。医療崩壊はすなわち政治崩壊であることも、この際認識しておこう。



中判フィルムカメラか? デジタルカメラか?( カメラ談義)

1976年に子供の七五三の撮影用に35mmフィルム用カメラを買い、1997年に友山クラブに入って写真展に作品を出すようになってからも、35mmカメラで撮り続けていた。だが風景写真(山岳写真を含めて)の主流はブロニーフィルム(巾6cmのロールフィルム)を使う「中判カメラ」で、クラブ会員も大半が中判カメラで撮っていた。写真展の会場で35mmで撮った作品と中判の作品を並べて比べると、中判の方が迫力がある。中判カメラにはフィルム1コマのサイズに6×4.5cm(通称645)、6×6cm、6×7cm、6×9cmがあるが、大きいほど写真の迫力が増す。

「迫力」の違いはフィルムが画面に捉えた「情報量」の違いで生じる。情報量はフイルムの面積に比例し、同じ景色を同じ構図で撮っても、中判の69判(6×9cm)で撮った写真と35mmフィルム(35mm×24mm)で撮った写真を比べると、69判の情報量は35mmの7倍ある。その違いは「1本桜」を撮った作品に近寄って見るとよく分かる。35mmでは桜の花びらはつぶれてダンゴに写るが、69判で撮ると花びら1枚1枚がシッカリ見える。離れて見れば個々の花びらは識別できないが、作品全体のクッキリ感に歴然とした違いがある。クッキリ感がモノを言う風景・山岳写真は中判カメラが有利で、中には4×5インチ(10.2×12.7cm)の大判カメラで撮る人もいる。

レンズ交換できる中判一眼レフにはスウェーデンのハッセルブラッド(右、ネットから借用)、日本のマミヤ、ペンタックス、ゼンザブロニカ等があるが、本体と最小限の交換レンズを揃えると、とりあえず百万円近い資金が要る。機材のサイズ・重量も35mmカメラの3倍あり、ガッチリした三脚に据えてじっくり撮るのが原則で、気軽に持ち歩いて気ままにパチリと撮る流儀には向かない。

そんなわけで中判一眼レフに手が出なかったが、カメラ屋を覗いていたら富士フィルム製の中判カメラ GA645 (左)の中古が出ていた。固定焦点レンズのレンジファインダー型で、大きさは35mm一眼レフの N90 を一回り大きくした程度で重量も軽い。値段もそこそこだったので、掘り出し物を見つけた気分で衝動的に買った。

暫く GA645 を旅に持ち歩いたが、撮った写真を使う場がなかった、中判フィルムの画像をデジタル化するスキャナーは高価で手が出ず、従ってパソコンに乗らず、ホームページに使えない。中判フィルムのカラープリントは気軽に頼める値段ではない。中判スライド映写機も手が出ない。中判で撮る写真家はコンテストや写真雑誌投稿が目的だが、小生にはその気がない。せっかく撮っても溜めておくだけで、デジタル一眼の性能アップで GA645 はお蔵入りになった。

デジタルカメラが実用段階に入ったのは1995年頃で、先ず登場したのが小型軽量・全自動のコンデジ(コンパクト・デジタル)だった。35mmフィルムのバカチョンよりも更に手軽で、撮った写真をその場で確認でき、パソコンに保存して画面で見たり自家でプリントできることから一気に人気が出た。2002年にデジカメの出荷台数がフィルムカメラを超え、街の「30分写真店」も35mmフィルムの即時現像焼付けからデジカメのプリントにシフトした。

小生のコンデジとの出会いは2002年暮れで、カミさん用に「押せば写る」コンデジを買った。何を買ったか思い出せなかったが、今回検索して特徴的な外観からリコーの G3(320万画素)と確認できた。定価56,000円とあるが、有楽町駅前のカメラ屋で2万円少々で買ったことも思い出した。画質はそこそこだが、撮影日・時・分、焦点距離、露出データ(Exif)をパソコンで見られるので、旅のメモ代わりに使った。

2003年7月22日 常念岳(中央) リコーG3で撮影 常念岳から槍ヶ岳 リコーG3で撮影

レンズ交換できるデジタル一眼レフは1999年頃に実用機が出て、現像時間ナシの即時性が活きる報道写真やデジタル加工技術を持つ商業写真のプロが使い始めたが、60万円を超える価格ではシロウトは手が出ない。2002年夏になって数社が20万円台の製品を発表し、機能的、価格的に35mmフィルム一眼レフを代替できる製品と評価された。

だが、風景・山岳写真の世界ではデジタルは「異端」扱いだった。著名な山岳写真家が写真雑誌で「デジタルは写真ではない」と一刀両断し、友山クラブにも同調する会員が多かったが、川口先生は「フィルムも技術の進歩で写真の表現が拡がった。デジタルも写真の世界を拡げる筈」と期待し、カメラメーカーの試作機を預って試写に協力しておられると知り、小生もデジタルを使ってみようと思い立った。

2003年3月にNikon のデジタル一眼レフ D-100 (左)を買った。ネットで最安値の秋葉原のパソコン屋に電話で注文し、数日後に入荷の知らせを受けて行ったら裏通りの小さい店だった。ワケあり品?と心配になったが、正規の新品だった。D-100 は小生が使っていた35mmカメラの F80 のデジタル化と言われ、使い勝手に違和感がなかった。撮像素子の面積は35mmフィルムの2/3(APS-Cサイズ)で、画素数(解像度)は610万画素だったが、クッキリ感は35mmフィルム以上に出た。

ちなみに、35mmフィルムに塗布された感光剤(銀塩化合物)の微粒子の数は約1500万個で、これがデジタルの画素数に相当する。つまり D-100 で撮った写真の情報量は35mmフィルムの半分以下で、そのままではクッキリ感が出ない筈だが、カメラに搭載した LSI で画像処理(デジタル加工)してコントラストを上げ、境い目を強調してクッキリ感を出す。フィルム派はこの「加工」が「真を写す」写真を逸脱すると非難するが、フィルムも銀塩化合物の化学反応と色素の添加で画像を作る過程は「加工」と言えないことはない。フィルム→デジタルは「真を写す手段の進化」と考えれば、目くじらを立てることもないだろう。

レンズは35mmカメラ用がそのまま使えたが、面食らったのが記憶媒体だった。D100 は CF(コンパクトフラッシュ)を2枚使うが、当時は容量512MB(GBではない)の CF が1枚で2万円近くした。1枚に RAW(画像処理しないナマデータ)、1枚に画像処理→圧縮した JPEG データを平行して記憶するのが標準の使い方で、 RAWは約60枚、JPEGは約200枚で満杯になる。旅先で1日に100枚撮ることもあり、その場でダメなコマをどんどん削除しないとすぐ満杯になる。やむなく携帯HDDを買ったが、それも2GB(TBではない)で満杯になり、長い旅にはパソコンを持ち歩いて DVD に焼いて CF を使い回した。その後の記憶媒体の容量アップと価格ダウンは目覚ましく、今は当時の千倍の容量の SDカードが1万円台で手に入り、記憶媒体を使い回す苦労は昔話になった。


2003年6月 会社員現役を卒業

2003年6月に職責に離れて現役を卒業した。満56歳が定年だった時代に62才までフルタイムで働かせてもらい、更に慣例で1年の「お礼奉公」までさせてもらった。「ご意見番」と言われても意見など言うつもりはなく聞きにくる人もいない。無役で禄を食んでは居心地が悪いが、幸い若手社員が取り組んでいた新事業で小生の英語がお役に立つ場があり、海外の仕入れ先との連絡や取説の翻訳を引き受け、担当者の香港・米国出張にも運転手兼通訳で同行させてもらったりした。新事業は若手の育成が目的で管理者が口出ししない方針と聞き、小生も「英語職人」に徹して御用を務め、給料分くらいは働いた気分になっていた。

定年退職は日本特有の制度だろう。英米には定年がなく、北欧の高福祉国家では手厚い年金の支給開始とリタイアが自然にリンクするが、誕生日でキッパリ「ご苦労さん」は日本の大企業と公務員だけではないか。「後進に道を譲る」はタテマエで、ホンネは年功序列給与の打ち止め策と勘ぐる。この年齢の会社員は「古き良き時代」の成功体験が拠り所で、時代の変化などアタマになく、若い者のやることが気に食わなくなる。本人が思っているほど会社に貢献していないが、年功で給料は下がらない。そんな「困り者」をていよく追い出す策として「定年退職」が定着したのではないか。

日本の大企業も、終身雇用を維持できず年功序列が崩れれば「定年退職」は消滅する。昔の職場の後輩で消息の分かる人を数えたら、定年まで会社に居た人は半分もいなかった。大企業に就職すれば定年まで務めるのがあたりまえだった時代はとっくに終わっていたようだ。小生が務めた会社も厳しいリストラの嵐が吹いたと聞く。小生が1995年に米国勤務からそのまま系列会社に転出したのは絶妙のタイミングで、その会社が伸び盛りで満62才を過ぎても働き場があったのは、会社員として誠にラッキーだったと言うしかない。そんな有難い人事をしてくれた上司・先輩にお歳暮など贈ったこともなかったが(生意気にもそれを小生の流儀にしていたが)、心で感謝しています。


2003年7月 カムチャツカの旅

2001~02年に「海外辺地旅行」ナシだった事情は前回述べたが、卒業旅行の気分で出かけたのがロシアのカムチャツカだった。1996年のヒマラヤ撮影ツアーを催行した旅行会社の企画で、このツアーにも川口先生が同行された。

カムチャツカには30を超える活火山があって温泉も湧く。その活火山の一つ「アパチャ山」(2741m)登頂がメインイベントで、露天風呂や川下りにも興味があったが、「旧ソ連を見たい」という気分もあった。小生が学生だった頃、ソ連は全ての国民が平等に暮らす「理想の国」のように思われていた。民主主義→反権力→反米感情の裏返しだったかもしれないが、ソ連が米国を出し抜いて人工衛星の打ち上げと有人宇宙飛行に成功した事を我が事のように嬉しがり、米国のロケットがぶざまに墜落するニュース映画に溜飲を下げたりもした。この頃ロシア民謡が好んで歌われたのも「ソ連」への憧れの気分があったと思う。

そのソ連が1991年に崩壊し、スターリンの暗黒政治、官僚組織の硬直や貧しい市民生活が「ネタばれ」のように報じられ、「体制の失敗」と声高に評された。だがソ連の歴史には同情すべき点もある。ソ連の近代国家としての出発は米国より100年、西欧より200年以上遅く、1917年にロマノフ王朝を倒した革命軍の建国に始まる。激しい内戦と権力抗争を経て建国が緒についたばかりのソ連は、1941年に不可侵条約を破ったナチスドイツに侵攻されて第二次大戦に巻き込まれた。ドイツが連合軍に敗れてソ連は戦勝国になったものの、主要都市を爆撃で破壊され、人口の15%にあたる2千7百万人が戦死した。男子就労年齢人口の半分近くを失った計算になる。(日本人の太平洋戦争での戦死者は民間人を含めて310万とされ、当時の人口の約4%にあたる。)

旧ドイツ領だった周辺国を連邦に繰り入れたソ連は、米国を中軸とする西側諸国と対峙する勢力になったが、西側に比べれば人口が少なく工業力は遥かに劣っていた。だが米国の反共政策でエスカレートした東西冷戦で、ソ連は国力の全てを軍備の開発と拡大に投入して対抗するしかなかった。そのガンバリが人工衛星と有人宇宙飛行に表われ、西側と拮抗する核戦力を備えたが、ムリな軍備増強が国家体制を硬直させ国民生活を疲弊させることは、現在も北某国が示すとおりである。歴史に「if」はないと言うが、もし第二次大戦と東西冷戦がなければ、ソ連は「体制の失敗」をすることなく「理想の国」に近付いていたかもしれない。

それはともかく、カムチャツカはモスクワから7千Km、時差9時間の「超辺境の地」である。米国と国境を接する国防の最前線で、1990年まで外国人の立入りが禁止されていた。我々が訪れた2003年でも潜水艦基地周辺には近寄れず、空港に最新鋭戦闘機がスクランブル待機していたが、それを除けば緊張感はなく、「ドル稼ぎ」で呼び込んだ観光客を精一杯に「オモテナシ」する姿勢が印象的だった。

メインイベントのアパチャ登頂は成らなかった。ツアーメンバーの大半が5合目で引き返し、山頂を目指したのは小生を含む客3名と添乗員、女性通訳、現地山岳ガイドの6名だったが、薄い酸素と火山灰の登りでペースが落ち、天候悪化と日没の懸念もあって9合目で引き返した。残念と言えば残念だが、山登りにはそういうこともある。

旅のレポートは「カムチャツカ」でご覧ください。

空港内移動は「新宿西口」行き京王バス。 通訳・ガイドはロシア美人。左は現地ツアーの社長。
軍用トラック改造のバスでアパチャ・ベースキャンプに到着 5合目の気象観測所。大半の登山者はここで折り返した。
ナリチェボ露天風呂。 ビストラヤ川を下る。
2003年10月 友山クラブ写真展 「カムチャツカの夏山」

カムチャツカには35mmカメラの F-80、デジタル一眼の D-100 と中判の GA645 を持参し、同じ場所を3台で撮ったが、帰国してすぐの写真展の作品審査には35mmフィルムの作品を提出した。作品制作は専門業者に出すが、この頃はまだデジタル原稿からの制作は一般的でなかった。


「アパチンスキー山 2741m」 Nikon F80 75-300mm、Fuji Provia-100
アパチンスキー登山基地から夕方に撮影


「コリャークスキー山 3456m」 Nikon F80 28-200mm、Fuji Provia-100
アパチンスキー登山基地から撮影 

2005年11月 友山クラブ写真展 「カムチャツカの夏山」 初めてのデジタル作品を出展

2005年はバヌアツに滞在中だったが、夏に1ヵ月の帰国休暇で帰国中に作品審査があった。川口先生にデジタルで出展してよいか相談すると「ぜひやりましょう」と言ってくださり、事務局の責任者にも「デジタルに点火してくれ」と激励された。そんな経緯で友山クラブ写真展で初の「デジタル作品」を出展、プログラムに「撮影媒体:デジタル」と明記してもらった。写真展の会期中はバヌアツに戻っていたので会場の反応を知る機会がなかったが、デジタル嫌い会員のアレルギー解消には効果があったようで、以降の例会にデジタル作品が出るようになった。


「アパチンスキー火山 2741m」 Nikon D-100、 24-135mm 
山肌はフィルムとほぼ同じように出ているが、空の色がイマイチに思われた。


「ヤナギランとスワンチャイ山」 Nikon D-100、 24-135mm
花の色と山の緑は自然だが、空と山の境界線のクッキリ感がわざとらしく見える。


「コリャークスキー 3456m」 Nikon F-80、 28-200mm、 Fuji Provia-100
アパチャから下山しキャンプにへたり込んでいたら、 川口先生に「コリャークが焼けてる」と起こされた。
この作品は35mmフィルムで撮ったもの。D-100 では雲の微妙な調子が出せなかった。


日本百名山 2003年

2003年も勤務が続いたので、登山は相変わらず週末・祝日が基本だったが、前後を休んで遠出できる身分にはなっていた。2003年に登った百名山の内、近場の両神山以外は何れも2泊3日以上の山旅で、アルプスの本格登山を学ぶべく、常念岳、北岳、笠ヶ岳は登山ツアーに参加した。カメラは D100 を持参したが、常念岳は初めての長い縦走だったので、荷物を少しでも軽くしようとコンデジで登った(写真前掲)。

 早池峰(岩手)、常念岳(北アルプス)、北岳(南アルプス)、岩手山(岩手)、笠ヶ岳(北アルプス)、
 焼岳(北アルプス)、火打山・妙高山(新潟)、両神山(埼玉)

登頂できなかった山もある。ゴールデンウィークに D100 の「試し斬り」を兼ねて新潟・長野県境の雨飾山(1963m)に出かけた。思っていた以上に残雪があったが、山頂の岩稜が露出していたので、アイゼンを付けて雪の急斜面を直登した。8合目で冬山フル装備の登山者が下ってくるのに出会った。「雪庇が危いので引き返した」と聞き、我々の登山が無謀だったことに気付いた。彼に出会わなかったら、2003年5月2日が生涯最後の日になっていたかもしれない。

日本百名山の殆どが脊梁山脈の標高2千m以上の山で、冬季に日本海を渡る季節風が山に当たって10mを超える積雪をもたらし、世界で最も雪深いと言われる。冬山の装備も技術もない我々が登れるのは、7月以降なのだ。

日本百名山の目次ページへ

5月2日 雨飾山登山口から。正面の雪の斜面を直登した。 8合目付近。山頂が目の前に見えるが、ここで引き返えした。
7月5日 早池峰 山頂直下にコバイケイソウが咲く。 固有種のハヤチネウスユキソウは6合目辺りに咲く
8月13日 南アルプス北岳の山頂から南側の眺め 北岳 肩の小屋直下のお花畑に咲くオダマキ
10月5日 焼岳山頂直下。登山道のすぐ横に噴煙が漂う 焼岳山頂から穂高連峰
2003年11月2日 天狗の庭から火打山。 火打山から妙高山(左奥)

2004年1月 アフリカ サファリ  (5大陸踏破)

米国50州、日本47都道府県、世界3極を片づけ、次は五大陸(アメリカ、南極、アフリカ、ユーラシア、オーストラリア)踏破が目標になった。残っていたのはアフリカで、ピラミッドとスフィンクスのエジプトより草原でサファリの方が面白そうだった。ケニア、タンザニアの5つの自然公園を効率良く巡ってキリマンジャロの麓に行くツアーがあった。さぞ人気ツアーだろうと予想したが、参加者は我々ともう一組の夫婦の計4名だった。料金がフツーの海外ツアーのほぼ2倍で、しかも正月明けの出発では客が少ないのもむべなるかな。

ツアー料金が高いのはアフリカへの格安フライトがないためだろうが、現地の費用も安くない。サファリは英国貴族や富裕層の娯楽だった「猛獣狩り」を「野生動物観察」にリフォームしたもので、カネに糸目を付けないゼイタクなアソビが基本。公園内に立派なホテルがあり、スタッフが一流ホテル並みのマナーで対応する。

サファリは四駆車(英・レンジローバー、トヨタ・ランクル、三菱・パジェロなど)の屋根を開き、座席の上に立ち上がって動物を観察する。運転手が仲間と無線で連絡をとりあい、動物が現れている場所に走り、30mまで近付く。動物が車の脇まで寄って来るので、車から降りるのはもちろん厳禁である。

この旅に持参した「飛び道具」がある。2年前の還暦祝いに家族に所望した 50~500mm の超望遠レンズで、重量2Kg、長さ25cmは超望遠にしては小型軽量だが、気楽に持ち歩けるサイズではない。超望遠すぎて用途が限られることもあり「宝の持ち腐れ」になっていた。面倒な説明を省くが、500mmの超望遠を撮像素子が APS‐C サイズの D-100 に付けると750mm相当の超々望遠になる。肉眼の視覚に近い感じで写る標準レンズの焦点距離は40mmで、超望遠レンズで撮るとどのくらい近く見えるか、下の比較写真(ネットから借用)で実感いただきたい。


ツアーのレポートは「ケニア・タンザニア」でご覧ください。

ライオンの母子  マサイマラ保護区  (750mmで撮影) 夕立ちに惑うゾウ。 マサイマラ保護区
カバとシラサギ ンゴロンゴロ保護区 (750mmで) チーターの早親  ンゴロンゴロ保護区 (750mmで)
アンボセリ国立公園からキリマンジャロを眺める 180万年前人類発祥の地とされるオルドバイ渓谷
マサイの男たちの跳躍儀式 ンゴロンゴロのマサイ村 マサイ村の保育園  
2005年3月 友山クラブ写真展 「アフリカ風物詩」

2005年はバヌアツに居住していたが、写真展には参加した。アフリカでも35mm、中判、デジタルで同じ景色を撮ったが、カムチャツカと同じ事情で35mmフィルムの作品を出した。


「マサイ族と住居」 Nikon F-80、 28-200mm、 Fuji Provia-100
右奥にンゴロンゴロクレーターの縁にマサイ集落がある。中景に赤マントのマサイの男が見える。


「突然の豪雨」 Nikon F-80、 28-200mm Fuji Provia-100
ンゴロンゴロクレータに襲来した午後の夕立


「バオバブとアリ塚」 Nikon F-80 28-200mm Fuji Provica-100
バオバブの巨木の幹に開いた穴はゾウが水を求めて掘った

2004年4月 イタリア旅行

小生は「体育」だけでなく「歴史」も不得意学科で(他にもあったが)、年代や人名がアタマに入らず、高校で学習放棄した。40年後、通勤の読書で偶々手にした塩野七生の「ローマ人の物語」が面白く、全17巻を読み通した。政治リーダーの性格や意志で国が動き歴史が作られる様子が生々しく感じられ、年代や人名がアタマに入らなくても歴史は面白いと分かった。イタリアでは2000年後の今も古代の遺跡の中で暮らしていると知り、行ってみたいと思った。

イタリア旅行に声をかけてくれたのは、モンゴル・西安・中央アジア・天山南路の旅を企画したNさんで、小生のリタイアを知って声をかけてくれた。この旅も限られた日程でツアーミラノ、ベネツィア、ラヴェンナ、フィレンツエ、アッシジ、シエナ、ローマ、ナポリのエッセンスを巡り、トスカーナでアグリツーリズモ(農家民宿)も体験した(Nさんにはこの後もお世話になった)。

ヨーロッパの建物は一般に窓が少なく暗くて撮りにくい。スライドフィルムの感度は ISO-100 が標準で、感度が高いフィルム(ISO-200~)は、粒子が荒く発色にクセがあって作品にならないという人が多い。感度が低いと露出時間が長くなり、ガッチリした三脚に固定して撮るしかないが、名所旧跡では三脚がご法度。デジカメは電気信号を増幅すれば感度は上がるが、雑音も一緒に増幅するので画質が落ちる。D-100 では ISO-1000 が限度とされたが、それでもフィルムより感度が10倍高く、暗い建物の中でも撮れた。今のデジカメは ISO-10000 でも画質が劣化しない。それでもフィルムにこだわる写真家は居るが、LPレコードを真空管アンプで聞かないとダメという人もいるので、「好み」の問題と言うしかない。

ツアーレポートは「北イタリア」「南イタリア」で。

ミラノ、ナポレオンにささげた「平和の門」 ベネツイア
ラヴェンナ 6世紀のサン・ヴィターレ教会はほぼ真っ暗 夕暮れのフィレンツエ、ミケランジェロ広場から
アッシジ 聖フランチェスコ聖堂 おなじみ「真実の口」はローマ時代の井戸の蓋だったとか
バチカン サン・ピエトロ大聖堂 紀元120年建造のパンテオンは当時の姿。明かりは天井の丸窓だけ

2004年4月 JICAシニア海外ボランテイアに応募

会社勤め延長戦も2004年5月で終了だが、体力的にまだ働けるので、会社勤め以外のことをしようと思った。JICA(旧国際協力事業団)で海外研修生の支援業務に携わっていた友人から「シニア海外ボランテイア」のことを聞いた。青年海外協力隊は知っていたが「老人海外協力隊」は初耳だった(老人云々は冗談)。JICAのホームページを見ると、40歳~69歳の社会人経験者を2年間発展途上国に派遣する制度で、ボランテイアというが滞在・活動費は国庫から支給される。近くの市の集会所で募集説明会があった。参加者は35名ほどで、制度の説明と帰国者の体験談を聞き、募集要項をもらって、発展途上国での活動に興味が湧いた。

青年協力隊の応募者は派遣国や職務を選べないが、シニアボランテイアは各国から派遣要請のあった個々の案件に応募して、選考を経て派遣される。2004年春の募集には約500件の案件があったが、どれも食品加工、獣医、鉱物探査、ネット技術等々、専門技術と経験を要する案件ばかりで、事務系で無資格の元会社員が応募できる案件は2件しかなかった。パラオ政府の行政改革(「リストラ」と明記)の指導と、バヌアツ商工会議所の経営研修プログラム構築の指導である。応募は2件までで、無芸大食の小生に選択の余地は無かった。

パラオは第一次大戦に敗れたドイツから日本が委任統治を譲渡された国で、その頃の日本は紳士的だったようで、対日感情は今も良好と聞いていた。「行政改革」の経験はないが、米国企業では「リストラ」は管理者の日常業務で、小生も組織改革や人員整理を経験した。人口2万の小国の政府機関はせいぜい数百人で、職務分析すれば改革の道は見えると考え、第1希望にした。バヌアツは聞いたこともない国で、応募資格に MBA(経営学修士)とある。 MBA 的思考が米国の製造業を衰退に追い込んだと考えていたので、カチンときた。小生は MBA など持っていないが、日米の経営の現場で様々な場面に出会ったので、途上国の経営指導くらいできるだろうとタカをくくり、第2志望にした。

一次選考は書類審査で、応募票に経歴書、志望理由の「小論文」に健康診断書を添付して提出する。「小論文」は株式上場審査の回答作りで鍛えたばかりだ。近所の医者に書いてもらった診断書に生活習慣病の指摘があるが、NGのレベルではない。経歴書の「資格ナシ」が気になった。パソコンに慣れようとマイクロソフトの「Office Specialist」( MOUS)検定で Word と Excel の入門クラスの通信講座を受講中だったが、認定試験はまだだった(5月に受検して合格)。2次選考にTOEIC (英語検定)がある。数年前に会社で団体で受けたのが最新で、焦って回答欄が1行ズレて屈辱的なスコアだった。低スコアでは学歴・経歴(北米駐在)詐称を疑われかねないので、教則本で予習することにした(6月に受験、生涯最高点が出た)。受検勉強は25年前の課長試験以来だが、何歳になってもイヤなものだ。


2004年7月 バリ島旅行

バリ島旅行は特別な旅だった。前年秋のクラス会で中学2年時の恩師が肺ガンを告白した。クラスメイトにバリ島在住がいて、冗談半分に「冥途の土産にバリ島へ」と言ったのがきっかけでトントンと話が進んだ。参加者は先生と奥様・ご長女と教え子有志で、現地滞在3泊4日(往復夜行便で全旅程は5泊6日)の短い旅だったが、小生は出発直前にJICAから2次試験の通知を受け、一日早く帰国させてもらった。

恩師のガンは末期だったが、この時期一時的に改善し、旅先では全く病気を感じさせないほど元気に行動された。だが帰国後2ヵ月で再入院し、4ヵ月後に他界された。その間にお会いする機会がなく、デンパサール海岸での夕食が恩師との永の別れになった。チョークを投げつけたり時に鉄拳が飛んだりして今の基準では問題教師だったかもしれないが、没後15年を経ても毎年クラス会に教え子が集まるのは(昨年はコロナで中止だったが)、熱血先生が今も教え子の心の中で生き続けているからだろう。

ツアーレポートは「バリ島 インドネシア」でご覧ください。

ウルン・タヌ・ブラタン寺院。逆光をデジタル補正 ケチャのステージ。デジタルで高感度撮影

2004年7月~9月 JICAシニア海外ボランテイア合格、研修、渡航準備

バリ島から帰国した翌日が二次選考だった。面接は小論文の内容確認が10分で終わった。年の功でアガることもなく、MOUS の資格獲得を口頭申告する余裕があった。TOEICは前月の事前テストが奏功して落ち着いて受検でき、指定病院での精密検診も無事通過した(成人病で不合格になる人が少なくないらしい)。

7月末に合格通知が届いた。派遣先は第2志望の「バヌアツ商工会議所」で、10月7日が赴任日と決まっていた。出発まで2ヵ月の忙しい日々が始まった。8月23日から市ヶ谷のJICA研修所で8日間の集中研修があり、更に2週間の語学研修が課せられたが、小生はTOEICが基準点以上で受講を免除され、渡航準備に余裕が出来た。

海外への引っ越しは3度目で、特に慌てることはなかったが、熱帯風土病の予防に8種類のワクチンを打たねばならず(2度打ちもある)、接種場所探しと予約確保にドタバタした。経営講座に役立ちそうな資料集めや、パソコン・周辺機器の購入、自炊用具調達もある。公式訪問用のスーツ一式はともかく、普段は何を着たらよいのか、赤道直下の通勤や日常生活に想像力が働かず、手元にある夏物で間に合わせることにした。日本の食材は手に入らないというが、醤油さえあれば何とかなる。今は世界中どこでも醤油を売っている筈だ。そうこうしている内に10月7日の出発の日になった。バヌアツについては次号に書く予定。


2004年7月 登山用デジカメ購入

2003年は登山に D100 を持ち歩いたが、レンズ付きで重量が2Kgを超え、ゴロゴロ嵩張って岩場の通過に危険を感じた。雨天時に開口部から水が侵入する心配もある。コンデジでは物足りないので、登山用のデジカメを買うことにした。

選んだのはミノルタの DiMAGE A1。一眼レフとコンデジの中間的な機種で、レンズ交換は出来ないが機能的に D100 と遜色なく、RAW モードでも撮れた。ズームが手動で電池の持ちが良く、AC電源のない山歩きに便利。画質は D-100 に比べてイマイチの感はあるが、値段が D-100 の半分以下なので納得するしかない。ミノルタの一眼レフ事業は2005年にソニーに譲渡されたが、昨今のソニーのデジタル一眼カメラ隆盛の基になった筈だ。

RAWモードについて付言しておく。デジカメは撮像素子の個々のセンサーが捉えた光量の電気的情報を、カメラに搭載した電子回路で画像に変換する。その画像データをそのまま出力するのが RAW(=ナマ)モードで、その状態の画像を見るとフラットでメリハリを欠いている。人間の視覚は、網膜の視細胞が捉えた神経信号を、脳が学習して蓄積した情報で処理した映像を脳で認識している(ある意味、自分好みの映像を見ている)。デジカメも同様に、ナマ画像(RAW)を A I(経験則に基いたプログラム)で「最適化」の処理を施し、データ圧縮して「JPEG」で出力する。「最適化」をカメラに丸投げするのがイヤな人は、パソコンのソフトで RAW 画像を最適化して「自分好み」の画像を作る。この過程がフィルムの「暗室」(Dark room)作業を想起させるので、画像処理ソフトメーカーの Adobe は「Light Room」(明室)とシャレた名前を付けている。

白黒フィルムの時代は「自家暗室作業」が可能だったが(小生も鑑識係の暗室借用を「写真事始め」で告白)、カラー時代になると現像処理が複雑になり、アマチュアでは自家暗室がムリになった。デジタル時代の到来で、アマチュアでもパソコンで「明室作業」が可能になり、「自分好み」の写真を作る至福の時を取り戻したのである。


2004年 百名山

2004年5月に会社務めの延長戦を終え、晴れて「365連休」の身分になったが、登山シーズンがJICAの研修・渡航準備と重なった。それでも日程を縫って3千m級の槍ヶ岳、剣岳、白山、空木岳に登り、東北の鳥海山、朝日岳に足を伸ばし、バヌアツに出発する直前まで近場の皇海山、会津駒ケ岳、魚沼駒ケ岳、平ヶ岳を走り回り、百名山の登頂数を73座まで伸ばした。

  皇海山(栃木・群馬)、槍ヶ岳(長野・岐阜)、剣岳(富山)、白山(石川・岐阜)、空木岳(長野)、
  鳥海山(秋田・山形)、会津駒ケ岳(福島)、朝日岳(山形)、魚沼駒ケ岳・平ヶ岳(新潟)

皇海山(2144m)は近場(足尾)で簡単そうだが、登山口までの林道が不通になることが多く、3度目の正直でやっと登った。はっきり言って「つまらない山」だが、それには理由がある。百名山著者の深田久弥が登ったのは南側の奇岩怪石が連なる修験道で、変化があって眺めも良いが、険阻で距離が長く上級者専用なのだ。百名山ガイドブックが示す西側の最短ルートは眺望ゼロ、ただ山頂を往復するだけの「つまらない」登山になる。つまらない百名山は他にもあり、そんな百名山ハンターをベテラン登山家は嘲笑するが、百名山組は「百」に意味を見出しているので、「価値観の相違」と聞き流すことにしている。

2004年のハイライトは剣岳。新田次郎作で映画化された「点の記」の難攻不落の山である。槍ヶ岳の難所は山頂直下の標高差50mの岩壁だけだが、剣岳は一般ルートの「別山尾根」でも、標高2500mの剣山荘から2999mの山頂まで標高差500mの険阻な岩稜が連続する。我々が参加した登山ツアーでは事前にセルフビレイ(自己確保)の受講が条件で、前月に苗場赤湯で1泊の研修を受けてから参加した。

朝4時に剣沢小屋を出発、前剣で朝飯を食べて岩稜にとりかかる。危険な箇所に張られたステンレスの鎖に、腰に装着した保安ロープのカラビナを掛けながら進む(セルフビレイ)。鎖に約5mおきにの固定点があり、滑落しても最長5mの落下で止まって致命傷を免れる。セルフビレイしているのは我々のグループだけで、他の登山者は岩角と鎖を掴むだけでどんどん追い越して行く。事故は「万が一」にしか起きないが、可能な限り安全を確保するのが基本なのだ。足場の悪い箇所には鉄のハーケンが打ってあるので、足元を確認しながら登れば怖くはない。登りの難所「カニの縦バイ」を越えれば山頂はすぐそこ。9時前に無事に山頂に到着した。

岩場は下りの方が怖くて事故も多い。剣岳の最難所が下り専用の「カニの横這い」で、岩にしがみつくと足元が見えない箇所がある。元山岳部員の添乗員がロープにぶら下がり、横から「もうちょっと左」と足場の指示を出してくれるので、高所恐怖症の小生も落ちついて通過できた(ここまでしてくれる登山ツアーは少ないと思う)。4時間で登ったが下りは渋滞で7時間かかった。緊張もあって山小屋に戻った時は疲労困憊だったが、最難関の剣岳を無事に登ってとにかくホッとした。

日本百名山の目次ページへ  以下の写真は何れもミノルタ DiMAGE A1 で撮影。

7月27日 剣岳 登りの難所「カニの縦這い」 剣岳山頂から立山方面。右下の稜線が別山尾根
剣岳山頂で。腰のベルトと金具はセルフビレイの道具 下山時の難所「カニの横這い」は岩壁の裏側
8月2日 白山 神社から山頂を望む 白山山頂 剣が峰
8月10日 木曽駒ケ岳から長い稜線を歩いて空木岳にたどりついた。 8月16日 鳥海山の山頂部と御室小屋(神社の山籠施設)
9月12日 大朝日岳 2004年9月27日 平ヶ岳 バヌアツ出発直前までがんばった。