「スペイン‐2」で「パンデミック」について書いてから1年が経ったが、新型コロナは治まる気配がない。NHKの特設サイト「新型コロナウィルス」で世界の感染状況を見ると、一部の国でワクチン接種が進んではいるが (日本は遅れに遅れているが)、感染者が再び増加に転じた国が多い。20世紀初頭の「スペイン風邪」は収束まで3年かかったというが、コロナもまだまだと覚悟した方が良さそうだ。(当記事は4月24日時点の情報をベースに書いています。)

NHKのデータから(4月24日現在)人口10万人あたり(身近に感じられる標本サイズ)の感染者数・死者数と感染者の死亡率を計算してみた。国によるバラつきは、人種によって免疫力が違うのか、国の防疫対策で生じた差か、算定基準の違いか、あるいはデータに人為的(政治的)操作があるのか、判断できない(全部ありそうな気もする)。

人口10万人あたり 感染者
死亡率
ワクチン
1度接種者
  人口10万人あたり 感染者
死亡率
ワクチン
1度接種者
感染者数 人 死者数 人 感染者数 人 死者数 人
イスラエル 9,829 74.5 0.76% 62.1% インド 1,216 13.9 1.14% 8.4%
米国 9,722 173.6 1.79% 41.3% フィリピン 906 15.3 1.69% データ無
スウェーデン 9,350 138.7 1.48% 接種せず 日本 444 7.8 1.76% 1.3%
フランス 8,290 156.3 1.89% 19.9% 韓国 231 3.5 1.53% 4.3%
ブラジル 6,746 183.1 2.71% 12.4% ジンバブエ 257 10.6 4.11% データ無
英国 6,517 188.6 2.89% 49.2% タイ 72 0.2 0.24% データ無
ドイツ 3,924 97.6 2.49% 22.6% 中国 6 0.3 5.12% データ無
ロシア 3,216 72.5 2.25% 7.5% 台湾 5 0.05 1.01% データ無

歴史上のパンデミック(ペスト、スペイン風邪など)は「罹ったら死ぬ病」と怖れられ、感染者が広まって社会的免疫が出来てやっと収束した(スペイン風邪は日本人の約半分が感染)。コロナ感染者の死亡率は概ね3%以下で、怖れるほどのことはないという人もいるが、救える命は一人でも多く救うのが「文明」で、罹患せずにワクチンで免疫を獲得できるようになったのも「文明」である。

イスラエルは「過密国家」の宿命を背負い、ワクチン実証現場の役目も担っている。米国の惨状(10人に1人感染)はトランプ信者の「ウィルスなんてヘッチャラ」気分が禍いしたのだろうが、ワクチン接種のスピード感はさすが(日本も見習うべき)。ブラジルはトランプ亜流のヘッチャラ大統領だが、ワクチン接種は日本より進んでいる。スウェーデンは社会的抗体論を採って敢えて無手勝流を通したが、変異株の感染拡大で方針転換を迫られている由。

アジア・アフリカ途上国の感染者がまだ少ないのは、地域間の人の移動が少ないためで、ジンバブエ(アフリカ)の高い死亡率が、早くクチンを回さないと大変なことになると警鐘を鳴らす。中国のデータは「大本営発表」にも見えるが、中国は母数の人口が巨大で(14億)、感染者が地域的に偏在していると全国平均値が低く出る。コロナ震源地の武漢(人口11百万、台湾の約半分)を2020年1月23日に都市封鎖したが、それが有効だったとすれば、ありうる数字だろう。

日本は欧米に比べると感染者も死亡者もケタ違いに少ない(人口10万当たり感染者は米国の 1/20、死亡者は 1/25 )。無神経な放言が特技の副総理は「日本は民度が高い」と自慢するが(データでは韓国の方が更に高いことになるが)、たしかに日本人はマスクと消毒をマジメに励行しているし、ルール無視の輩も他の国に比べれば少ないかもしれない。(島国で防疫が容易、難民流入がない、という要因もあるだろう)。死亡者が少ないのは医療従事者の滅私尽力の賜物だが、死亡率が下がらないのは「高齢者は治療しても助からない」ことを意味するのかもしれない。

命にかかわることをシロウトが軽々しく論ずるべきでないが、データを見る限り、日本は欧米諸国に比べれば対応に余裕があってしかるべきと思うが、それにしてはドタバタ(右往左往)がひどすぎないか? 感染者が他国より一桁少ないのに「医療崩壊」が起き、10兆円の予備費を準備しておきながら、コロナ患者受け入れ病院が経営危機に陥り、医療従事者のボーナスがゼロになるのは何故か? ワクチンの遅れはどういう事情なのか?(発注をミスったのか? やることが悠長なのか? 日本の大手製薬会社は知らん顔でいいのか?…) 本当に理解に苦しむことばかりだ。

副総理は「民度が高い」とおっしゃるが、民度が「緊急時の行動の的確さ」に表れるのなら、閣下が率いる政府は民度が高いとは申しかねる。民間企業は経営者に危機管理能力がなければ破産する。ピンチの時こそハラを据え、再建プランを素早く且つ確実に実行するのが経営者の役目で、心もとない経営者は株主が許さない。今の政府にメンツにこだわっているヒマなどない筈で、必死で国民を守る意気と姿勢が伝わらなければ、何をやっても支持率は上がらない。

老人はコロナで年金が減るわけでもなく、お役に立っているわけでもない。そんな立場の老人が貴重なワクチンを優先的に打ってもらうのは心苦しい。医療従事者の次に打つべきは、自衛官、警察官、消防署員、学校の先生、運転手さん、店員さん、農家の人、漁師さんなど、現役世代で社会を支える人たちではないのか。次代を担う学生にも早く打ってほしい。老人のワクチンは最後の最後でよい。カラオケで感染した老人など人里離れた廃校舎にでも捨ておけば、医療資源はもっと有効に使われるのではないか…



2000年6月 北欧研修旅行

議員さんの「海外視察」の中には「何を見てきたの?」と聞きたくなるケースがあると聞く。税金で観光旅行は論外だが、出張目的が納得できれば「ついでにちょっと観光」に目クジラを立てることもなかろう。会社員の業務出張も行き先が観光地であることは少なくない。米国では業界の展示会がラスベガスやニューオルリンズで開かれることが多く、会場も宿舎も盛り場のど真ん中にある。サンフランシスコに用事があれば晩メシはケーブルカーでフィッシャマンズワーフに足が向き、ニューヨークに行けば評判の芝居の切符を探すのが人情というもの。駐在員は出張者を観光スポットに案内するのも仕事の内で(心理的な貸しを作る)、トロントの駐在員仲間には「滝見百回」(ナイアガラに百回行くまで帰れない)のジンクスがあった(小生は約半分で卒業したが)。

2000年のケイタイ販売同業者の「北欧研修」には大儀名分があった。北欧はケイタイ先進国で、スウェーデンのエリクソンは基地局の最強メーカー、フィンランドのノキアもケイタイ端末の世界最強メーカーだった。そのノキア訪問を含む北欧のケイタイ事情を視察するツアーで、工場見学アリと聞いて期待していた。だが訪問メンバーの中にケイタイメーカー系が数名いた(小生を含む)のを察知してか、訪問が土曜日になり、本社の会議室で型どおりの会社紹介プレゼンでお茶を濁され、研修のメダマが薄れて「ついでに観光」が記憶に残る旅になった。

ノキアは本業の林業・製紙業が斜陽になり、事業戦略を練ってケイタイ端末に参入し、アッという間に世界のケイタイ市場を席捲した。その成功事例は優れた事業戦略に基く経営のモデルケースとして経営セミナーのネタになった。小生がダラス時代(90~95年)に携わった事業は主にケイタイ販売だったが、突然それまで聞いたこともなかったメーカーに注文を横取りされて大慌てした。それがノキアで、製品・価格もさることながら、電光石火の販売網構築に目を見張った。経営セミナーの解説によれば、徹底的な業界分析で合理的な戦略を構築、意志決定は即断即決、状況変化に柔軟、修正に躊躇ナシ云々で、言われるまでもないアタリマエなことばかりだが、手枷足枷(しがらみ)で右往左往するのが世の常。どんな場合も雑音に耳を貸さず、道理をひたすら貫くのがノキアの快進撃の秘訣だったのだろう。

「…だった」と書いたのは、ノキアがケイタイからスマホへの転換を放棄して世界市場から消えたからで、小生リタイア後は業界フォローをやめたので委細は存ぜぬが、スマホはケイタイと事情が違うと「即断即決」したのだろう。

話を少し戻すが、最盛期のノキアでも思うようにならなかったのが日本市場だった。他の市場では、端末機器の供給・販売のルートは事業者(通信サービス提供者)から独立しているので、端末メーカーは夫々の戦略と商品で市場参入して覇を競ったが、日本では事業者が端末の流通を強くコントロールしていたので、さすがのノキアも右往左往を余儀なくされた。昨今の日本のスマホ市場は海外勢(アップル、サムスン、ファーウェイ)が半分以上を占めているらしい。日本市場の「国際化」を喜ぶべきか、それとも憂慮すべきなのか、元業界人としては迷うところである。

ツアーレポートは北欧-1(スウェーデン、フィンランド)北欧‐2(ノルウェイ、デンマーク)でご覧ください。

スウェーデン 早朝のストックホルム クラシックな市電が走る
フィンランド 首都ヘルシンキのルター派協会 ノキアの本社ビル。
ノルウェイ  バレストランドからソグネフィヨルド
対岸の峠から撮った写真が下の作品に
ベルゲン ハンザ同盟時代のドイツ人地区を再現したブリッゲン地区で。候補作に出したが採用されず。
デンマーク ハムレットの舞台と言われるクロンボー城内 フレデンスボー宮殿。王家の夏の離宮として使われている。

2000年10月 友山クラブ写真展 「フィヨルドランド」

北欧研修から帰って写真展の候補作品提出まで間がなく、焦った記憶がある。北欧の旅で36枚撮り35mmフィルムを30本撮った。スライドフィルムの現像は、ラボに持ち込んで仕上がりまで3泊4日を要した。手元に戻ったフィルム(35mm×24mm)約1,000枚を拡大ルーペで覗き、その中から候補作品7点を選ぶ作業に丸1日を要する。

この写真展は小さい会場だったので出展は一人2点。作品審査で川口先生はフィヨルド空撮を迷いなく選んだが、もう1点はしばし逡巡し、「ま、いいか…」とフィヨルド入り江の作品を選び、「人の生活がある風景だから人工物を入れるのは構わないが、この村はあまりキレイじゃないね…」とつぶやいた。遺憾ながらこれよりマシな作品がなかったのだ。


「フィヨルド凍景色」 Nikon N90  75-300mm、Fuji Provia-100
オスロからベルゲンに向かう旅客機から撮影。真夏でも雪が残る。


「ソグネフィヨルドの夏」 Nikon N-90、 28-105mm Fuji Velvia
ベルゲンからクドヴァンゲンに向かう峠で撮った。言われてみればたしかに魅力的な村ではない…


2000年6月 最後の35mmフィルムカメラを購入

94年にダラスで購入した35㎜一眼レフのニコン N90 は機能的には健在だったが、あちこち旅のお供させてぶつけたり擦れたりして外装は満身創痍。還暦に近いオーナーもクタビレが出たのか、乾電池4本入りでズッシリ重い N90 を首に下げて歩くのがシンドくなっていた。92年に中古で買ったニコン F3もシャッターの動作が不安定になり、寿命が近いと察した。

アマチュア写真家には、新機種が出る度に買い替えたり最高機種にこだわる人が多いが、小生はウデ相応の機材で十分、ニコンの「中の下」クラスの F80 を買うことにした。N90 よりふた回り小さく重量も300g軽いが、機能はプロ用と遜色ない。一眼レフの中級以下の欠点はファインダーの視野が100%より狭いことで、F80 は92%。つまりファインダーに見えていない周辺の余計なものがフィルムに写り込む。周辺の邪魔物は作品をプリントする時にトリミングでカットすれば実害はないが、撮影時に意図した構図と違った画面が写っているのは、気分的にスッキリしない。

2003年にデジタルに移行したので、F80 が最後の35mmフィルムカメラになった。1976年のペンタックス K1000 以来、24年間で5台買ったことになる。


2000年8月  シルクロード天山南路列車の旅(中国新疆ウィグル自治区)

モンゴル、西安、中央アジアの旅でお世話になった旅行社から、また抗い難い案内が届いた。旅の表題は「シルクロード天山南路列車の旅 10日間」で、前年に訪れた中央アジアの南側のタクラマカン砂漠のオアシスを結ぶシルクロードを辿り、カシュガルから更にカラコルムハイウェイを走って巨峰ムスタグ・アタ(7546m)の麓まで足を伸ばす、盛りだくさんの企画である。「トルファン~カシュガル間約1500Kmを軟臥車で巡る」のサブタイトルも「小鉄チャン」(軽度の鉄道マニア)の尻をダメ押しした。

この鉄道は「南彊鉄道」と呼ばれ、コルラまで軍が建設して1979年に開通、コルラ→アクスは1998年12月に開通、1年後の1999年12月(我々が乗る半年前)に一気にカシュガルまで伸びた。中国の鉄道工事は早いと言われるが、この突貫工事のウラには、油田開発に加えてウイグル族の治安対策があったのではないか。ちなみに列車は25両の長編成で、冷房付き2段ベッドの軟臥車が2両、冷房ナシ3段ベッドの硬臥車が4両、残りは横2列+3列の対面座席車で、食堂車も連結されていた。(地図の緑線が鉄道で移動したルート)

新彊ウィグル地区で少数民族の弾圧が報じられている。ツアーレポートにも書いたが、中国政府がこの地域でやっていることは、19世紀の米国の「西部開拓」と重なって見える。白人の西部開拓者は「神の命により未開の地を文明化する」気分だったが、その土地で先祖代々暮らしてきた先住民(インディアン)にとっては「異民族の侵略」以外の何ものでもなかった(日本の「北海道開拓」「満州開拓」も同じだったのだろう)。武器で制圧された先住民は、土地を奪われ、不毛の居留地に移住させれられ、伝統文化を禁じられ、ただその日を生きるだけの境遇に追い込まれた。一方の開拓者は、鉄道を引き、資源を漁り、農地を開墾し、都市を作り産業を興した。「西部開拓」抜きでは米国の世界最強国家への発展は考え難い。

ウルムチはさしずめ「西部の入口」のセントルイスで、オアシスの交易所が漢民族の大量移住で人口百万の巨大都市に大変身を遂げた。高層ビルが林立し、住民の殆どが漢民族で、ウイグル語の看板はお飾り程度。ウルムチの急発展の背景にタクラマカン砂漠の油田開発がある。ウルムチが石油産業の拠点になり、沙漠に伸びる南彊鉄道の起点になった。

ウルムチから車で南へ3時間のトルファンはシルクロードの分岐点で、我々が訪れた頃はオアシスの雰囲気を残していた。我々はトルファンから夜行列車に乗ったが、駅で列車を待つ旅客の大半が漢民族で、列車の行先板の「民族団結号」は「漢民族に従え!」と読めた。

旅の前半のレポートは「中国・新彊ウィグル自治区-その1」で。

ウルムチ、砂漠に突如現れた近代都市 高層ビルの谷間で朝の太極拳
トルファン近郊、前漢時代の交河古城 高昌古城の観光馬車
トルファン駅で列車を待つ人たち カシュガル~ウルムチ間の列車は「民族団結号」
トルファンを出ると荒涼たる大地 猛烈な砂嵐。日本に届けば黄砂になる

翌朝クチャに到着、2泊して近郊の遺跡を訪れた。当時のクチャは漢民族が少数派で、市場にウィグル族の雰囲気が充満していた。10年後の2010年にクチャを訪れた友人によれば、クチャも急速に「ウルムチ化」していたという。

クチャの公設市場の「駐車場」 市場に向かう母と子
キジル千仏洞。クマラジーバは玄奘三蔵以前に仏典を持ち帰った クズルガハ烽火台は漢代の通信中継所
25両の重量列車をけん引するデイーゼル機関車 途中駅での乗降。日本の終戦後を思わせる。(露出を間違えた)

朝7時にクチャを出発、夜8時にカシュガルに着いた。朝7時が薄暗く夜8時に陽がまだ高いのは「北京時間」に統一されているからで、北京とは時差が2時間あってしかるべき距離にある。

この地域には2500年前から様々な民族のオアシス国家が点在していたが、18世紀に清朝の支配下となり、中華民国、中華人民共和国へと引き継がれた。この間1933年~34年と44年~49年の2度「東トルキスタン・イスラム共和国」の建国が宣言されたが、国共内戦時に有力者が中国共産党に帰順し、1955年に自治区になって今日に至る。だが分離独立の気運が消えたわけではなく、カシュガルがその中心地とされてきた。

我々はカシュガルに2泊したが、朝と午後、武装兵士満載の軍用トラックが10台ほど連なり、市街地を轟轟と走り抜けるのを目撃した。ウィグル人住民の威嚇が目的だろう。カメラを持って道端に立っていたらトラックの上から大声が飛び、あわててカメラを地上に置いて撮影の意志がないことを示した。2009年にカシュガルで騒乱が起きた際はこの部隊が初動し、その後大量に増強されたに違いない。

昨今新彊ウィグル地区での強制収容や「大量虐殺」(Genocde)が報じられている。中国政府は「虚報」と否定して内政干渉と反発しているが、世界は香港で衆人環視の中で起きたことを見たばかりだ。報道管制下の新彊ウィグルやチベットで更に酷いことが行われていると疑うのは当然だろう。最新のGoogle空中写真を見ると、カシュガル周辺に数ヵ所バラックが写っている。兵舎か収容所のように見えるが、確認の方法はない。

米国は「西部開拓」100年後の20世紀末になって非を認め、先住民に謝罪して賠償を払った。十分だったかどうかはともかく、文明先進国として最低限の礼節を示したと言ってよいだろう。中国も礼節を重んじる国であるならば、今の内に「他山の石」とするべきではないか。

旅の後半のレポートは「新彊ウィグル自治区-その2」で。

カシュガルの裏道は住宅街。 散歩で出会ったウィグル人姉妹
中年以上の女性にチャドル姿が多い。 昔の英雄もこんな顔をしていたのだろう。
落石注意のサインはあるが、逃げようがない。 標高3千mの高原
左のコングール峰(7719m)はこの辺りの最高峰。 ムスタグ・アタ(7546m)とカラクリ湖
この近くで鉄砲水による道路不通に遭遇 運転手が協力して土砂を片づけ、2時間で通行可能になった。

2001年3月 友山クラブ写真展 「カラコルム・ハイウェイ往来」

1977年に開通したカラコルム・ハイウェイは「中国パキスタン友好道路」が正式な呼称で。標高4780mのクンジュラブ峠を越えてパキスタンのフンザ地方に通じる。この旅では途中のカラクリ湖で引き返したが、8年後の2008年にフンザ側から峠まで行った。

運転手横の席は安全上の理由で客が座っていけないことになっているが、小生は往復とも座りっぱなしでシャッターを押し続けた。その中から、里道で羊を追う農夫、里と山の境界、ムスタグ・アタ峰の3点を出展した。


「里にて」 Nikon F-80  28-200mm、Fujichrome 100/1000
カシュガル近郊で市場へ羊の群れを追うシーンをバスの最後部席から撮った。
広域感度フィルムの露出設定を誤って露出不足になったが、ケガの巧妙で面白い効果が出た。


「山、はるかに」 Nikon F-80、28-200mm、 Fuji Provia-100
カシュガルから西へ100Km、7千mの雪山が唐突に現れた。


「ムスタグ・アタ山(’7509m)」 Nikon F-80、 28-200m、 Fuji Provia-100
カラコルムハイウェイ標高3500m、カラクリ湖手前で現れたムスタグ・アタ峰。 バスの前席から撮影

2000年12月 米国西部 モニュメントバレーの旅

米国在住時に行きそびれた観光名所があった。モニュメントバレーである。2000年に長女が米国で長い学生生活を終えて修了式があるというので、久しぶりに米国を訪れて参列し、帰途に周遊することにした。西部劇の聖地と言われる景勝地だが国立公園ではない。そもそもモニュメントバレーは地図に載っていない。理由はここが先住民(ナバホ族)の居留地(Indian Reservation)内で、連邦政府や州政府の管轄外だから。特にこの当時は先住民の権利に敏感だった時期で、あたかも「独立国」のような扱いになり、周辺の宿泊施設もナバホ族経営のモーテル1軒しかなかった。

夜明けの写真を撮ろうと朝4時に出かけると、門前で徹夜番のナバホ青年にストップされた。撮影の意志を告げると入場料・撮影料を言われ、OKすると彼の四駆トラックで撮影スポットを丁寧に案内してくれた。寒くて手がかじかみ、ホッカイロが欲しかった。  ツアーレポートは「アメリカ50州 ネバダ・アリゾナ」で。

「右の手袋・左の手袋」言われる岩塔の夜明け 岩群に朝の光がまわり始める。
「神の目玉」と呼ばれる風穴。 左上と同じ岩塔が明るくなるとこう見える。

2001年10月 友山クラブ写真展 「アメリカの西部自然」

「名所」の写真はどうしても「絵葉書」になってしまう。「オレの写真」を撮るには「作戦」と「運」が要り、何度も通って他の人が気付かないスポットを見つけて撮るのが作戦の王道だが、土地勘のあるガイドを頼むのも「作戦」の内で、モニュメントバレーで写真のセンスのあるナバホ青年に出会ったのは「運」もあった。早朝2時間の案内に払った150ドル+チップは「作戦コスト」の価値があったと思う。


「岩峯と月」 Nikon F80  28-200mm、Fuji Velvia
ナバホ族の青年の案内でこのスポットを見つけた。寒くて手がかじかんだ。


「モニュメントバレーとラサールマウンテンズ」 Nikon F-80、 28-1200mm、 Fuji Velvia
ジョン・フォード監督のお好みだったスポット。遠景の白い峰はユタ州の山脈。


2001年9月 ホームページ「写真で世界を巡る」創刊

写真を「作品」として撮れば、発表の場が欲しくなる。見せる場所としては写真展、コンテスト、写真雑誌の読者投稿があるが、小生は友山クラブの写真展以外に出したことがない。クラブの写真展は「賞」を付けないのが川口先生の方針だったが、一般の公募写真展・コンテストや写真雑誌は選考が厳しく、作品の出来具合によって「賞」のランクが付く。小生は幼少時に運動会の徒競走で常にビリだったトラウマがあり、「賞」を争うことが生理的にキライなのだ。

個人がホームページ(HP)を自作してネットで公開するのが流行り始めたのは、20世紀が終わる頃だったと思う。小生がHPに関心を持ったのは、会社が HP を立ち上げることになり、HP の理解を迫られたことに始まる。ネットの仕組みやカタカナ用語はチンプンカンプンだったが、「おカネはかかりません。OKが出ればスグ出来ます」の説明がアタマに残った。同じ頃、昔の同僚から連絡があり、昔の職場仲間の HP を作ったので記事を書いてくれと依頼があった。原稿をメールで送ると折り返し「アップしたから確認して」と言われ、「ナルホド簡単に出来るらしい」と納得した。

その頃、自宅にケーブルテレビを引き、サービスの中に「HPが無料で作れます」とあるのを見つけてその気になった。パソコンショップに「誰でも簡単にHPを作れます」のアプリがいろいろあったが、商品説明を見てもピンとこない。「ホームページ・ビルダー」が IBM の製品と知り、何となく信用できそうな気がして買った。

フィルムの写真をホームページで使うには、スキャンしてデジタル化する必要がある。A4文書用のフラットベッドスキャナーにフィルムスキャン機能付きもあったが、フィルム専用スキャナー(ミノルタ DiMAGE Scan Dual Ⅱ)を大枚をはたいて買ったのは「その気」の勢いだったのだろう。

小生のパソコンスキルは、ごく初歩的な Word、Excel、PowerPoint が精一杯で、ホームページ作りは「誰でも簡単」ではなく、1ヵ月七転八倒してやっと第1号が出来た。

HPのメインタイトルは、ジュール・ヴェルヌの「Around the World in eighty Days」(八十日間世界一周)をもじって「Around the World with Camera」にした。「写真で世界を巡る」の通称をいつ頃から使い始めたかは記憶がない。

初期の HP はデータが残っていないが、プリントが出てきた。いかにも「シロウトが作りました」という感じで、我ながら微笑ましい。

こんな調子で月1回の更新を続け、2004年9月にJICAボランテイアでバヌアツに派遣されるまで37号を重ねた。バヌアツに着任早々に「バヌアツ通信」を立ち上げ、2006年10月に帰国してすぐ「Around the World~」を再開したので、小生のホームページ作りは、ほぼ切れ目なく20年続いてきたことになる。さてこれから先、何年続けられるか…


2001~02年 海外旅行空白の2年、何をしていた?

97年のモンゴル旅行以降、毎年の「夫婦で辺境ツアー」が恒例になっていたが、2001年~02年に空白が生じた。勤務先の「株式上場」準備が大詰めになり、「常時連絡がとれる状態」を命じられ、海外辺地旅行ができなかったのだ。余談になるが、小生はこの時の「職務上の株」以外に「株」をやったことがない。株だけでなく「財テク」全般にあまり関心がない。おカネはあれば何かにつけ便利なので、働いていただけるおカネは遠慮なくいただいてセッセと使ってきたが、増やそうと思うとおカネに囚われ、そのことばかり気になって、世の中が歪んで見えると思ったからだ。

株式は言うまでもなく企業の資金調達の手段で、17世紀に東インド会社で始まり、日本でも明治初期の渋沢栄一の時代から株式が産業振興の基盤になった。起業の趣旨に賛同して資金を提供し、事業を拡大するための増資に応じると、その事業で得た利益が出資額に応じて配当される仕組みは合理的で、出資先の経営状態に関心を持ち意見を言う権利も当然である。投資額に応じて株式証券が発行され(昔は「一株五拾園也」の表示があった)、その証券を第三者に譲渡して現金化できる仕組みも、譲渡価格(株価)がその企業の収益力で決まることも、それなりに理にかなっている。

投資家が企業に投資して配当を得るのは経済活動だが、証券の売買で生じる差益の獲得が目的になると「投機」の世界に入る。昨今は株取引の殆どが「投機」で、その大半が海外の投機的ファンドによるものらしい。彼等が動かす資金量は膨大で、国の経済全般にインパクトを与える。彼等の売り越しで株価が下落せぬように、日銀がおカネを発行して買い支えていると聞く。そうなるとこの国は資本主義でも自由経済でもなく「株価本位主義」とでも呼ぶしかなく、そんな本末転倒を続けられるとは思えない。

「株ギライ」の小生だが、何の因果か「株式上場」が会社員としての最後の仕事になった。上場準備は親会社の指示で始まったが、「親離れ」のチャンスととらえて全社を挙げて取り組むことにした。上場には東京証券取引所の厳しい審査を通らねばならない。コンサルタントの予備審査は「会社の体を成していない」との厳しい判定で、様々な改革を迫られ、「大丈夫でしょう」と言われるまで丸4年かかった。

株式上場をたとえ話にすれば、手作りの饅頭をご近所に褒められて、店で売り出すのに似ている。美味くて見た目の良い饅頭を作るまでは同じだが、客の買い気を誘う商品名を付け、上品な包装を施し、食中毒が起きないように万全の対策を講じ、店舗の造作や宣伝も要る。評判が良ければ饅頭も良い値で売れるが、ヘンな評判が立てば誰も買いに来なくなる。我々の上場準備は、企業理念の策定に始まり、社員の意識調査を行い、社名を変更し、経理・管理システムを更新し、それが業務の流れを変え、組織を変え、膨大な業務マニュアルを書き、事故や緊急事態時の手順を定め、新事業を起こして勢いを示し、業績が伸びるようにガンバリ、その広報に努め、やっと上場申請にこぎつけ、何とか審査合格になった。

それでメデタシではない。株式市場で株の取引が始まる前に、先ず増資の株式を引き受けてくれる投資家を掴まねばならない。株式市場の先を読み、公開価格を決め、証券会社、保険会社、海外機関投資家の事務所など数十社を訪問して会社の魅力をアピールし、社員にも株を買ってもらい、全部売り捌いてやっと上場の日の朝を迎え、証券取引所のテラスで記念の鐘をカンと叩かせてもらう。(02年2月に二部上場、03年3月に一部上場で2度叩いたが、もちろん叩いたのは小生ではない)。

株式の上場で大儲けした話を聞くが、それは上場後に株価が公開価格を大きく上回った場合で、我々には逆のことが起きた(つまり損をした)。この辺りの経緯は話としてオモシロイと思うのだが、忘れたことにしておく。

「株ギライ」の小生だが、2003年6月にリタイアした後も会社の株価が気になった。業績と無関係に株価が乱高下してハラハラしたこともあったが、2013年に親会社が替わって上場廃止になり、余計な心配が不要になった(廃止直前に株価が跳ね上がったが、小生の「職務上の株」は家のリフォームと海外辺地旅費に化けた後だった)。上場廃止でせっかくの苦労が…と嘆く元同僚もいたが、「会社の体を成していない」と評された会社が一人前になり、今も存続して昔の社員がガンバっていると聞けば、20年前の「饅頭売り出し」も多少お役に立ったかな、と勝手に思っている。


日本百名山 2000年~02年

96年に夫婦で始めた日本百名山の99年迄の進捗は、若い頃に登った5座を入れても25座で、週末・連休登山ではなかなか消化が進まない。2000年は難関の宮之浦岳と羅臼岳・斜里岳を登山ツアーで登り、01年に長距離ドライブで九州の山と東北北部の山を片づけてひとまずホッとした(百名山には「消化する・片づける」といった気分が伴う)。

この時期は禁足状態だったが、国内の山歩きは「常に連絡がつく」ので、週末や連休は山に出かけた。02年の夏休みに北海道の山を片づけるべくフェリーで長征し、準遭難の目に遭った。早朝に小樽で下船して十勝岳に向かい、午後登山して麓に一泊、翌日旭岳に登頂したところまでは順調だった。天気も体調も良かったので、遠回りの周遊コースを下って花を愛でることにした。山頂から1時間半で右膝に痛みを感じた。更に1時間歩くと杖にすがり、その先は坂を下れなくなってカニの横這いになり、日没を気にしながら必死で前進し、ロープウェイ駅で最終便にへたり込んだ。翌朝杖にすがって診療所に行くと、医師に「ボクの専門は胃腸で…」と旭川の病院を紹介され、そこで「痛風」と診断され、ビールとカニを禁じられた。予定していたトムラウシ岳登山の断念は仕方ないとして、北海道でビール・カニ禁止はガックリだった。ちなみに百名山で「ヤバい…」状態に陥ったのはこの一度だけだった。

 00年: 宮之浦岳(鹿児島 屋久島)、荒島山(福井)、蓼科山(長野)、羅臼岳・斜里岳(北海道)、
     蔵王山(福島/山形)、月山(山形)、男体山(栃木)、四阿山(長野)

 01年: 阿蘇山・久住山・祖母山・開聞岳・霧島山(九州)、木曽駒ケ岳(長野)、乗鞍岳(長野)、
     金峰山(山梨)、吾妻山(福島)、武尊山(群馬)、岩木山・八甲田山・八幡平(東北)、瑞牆山(山梨)

 02年: 大台ヶ原(三重)、恵那山(岐阜/長野)、十勝岳・大雪山旭岳(北海道)、御嶽(長野)

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2000年4月30日 宮之浦岳(屋久島)8合目 2000年5月5日 荒島岳
2000年7月23日 羅臼岳山頂から知床半島先端方面 2000年10月8日 月山。鳥海山の山頂部は雲の中
2000年10月14日 男体山から戦場ヶ原と奥白根山(右奥) 2000年11月4日 四阿山から北アルプスの槍・穂高連峰
2001年5月3日 開聞岳山頂。 2001年8月18日 乗鞍岳山頂直下から車道の混雑を見下ろす。
2001年9月1日 金峰山から瑞牆山 2001年10月8日 八甲田山 毛無岱の紅葉
2002年8月3日 十勝岳 山頂直下から昭和火口 2002年8月4日 大雪山の御鉢平 ここで膝痛が発症

2002年10月 友山クラブ写真展 「火の名山」

前にも言いわけしたことがあるが、「百名山」と「山岳写真」は両立し難い。定年近くから百名山を始めた非力な登山者は、最も容易に登れるルートを選んで山頂を往復し、荷物は極力軽量、カメラも最小限で、登山道で目につくものがあれば立ち止まってシャッターを押すが、登山道を逸れて撮影スポットを探したり、雲の流れを待ったりする余裕はない。山頂からの展望は記念に撮るが、空ばかりの景色は「作品」にはならない。「山岳写真家」は重い機材を取り揃えてを背負い、撮影ポイントを求めて危険な場所に踏み入り、三脚を立てて絶好の光の状態と雲の流れをじっくり待つ人たちで、山頂など念頭にない。

そんなわけで、百名山登山で撮った写真で「作品」になったのは2010年写真展の「黒部五郎岳」だけだったが、登らずに撮った日本の山の作品がある。2002年の写真展に出した下の2点で、ホンネは2001~02年の禁足でネタ切れになり苦し紛れに出した作品だが、夫々の「山の風格」が出ていると「自画自賛」しておく。


「浅間山(渋峠より)」 Nikon F3  28-200mm、 Fuji Provia -100F
2001年2月、志賀高原横手山からスキーのついでに撮影


「木曽御嶽(美ヶ原より)」 Nikon F-80、 28-1200mm、 Fuji Velvia
2002年5月、美ヶ原に車で行った。物見石山からの御嶽はキリマンジャロを思わせる