ノーベル賞の由来を改めて述べるまでもないが、スウェーデン人でダイナマイト発明者のアルフレッド・ノーベルの遺産を基金に得られた利子を「人類のために最大の貢献をした人々」(for the greatest benefit to humankind)に分配するもので、スウェーデンの財団が秘密裡に受賞者を選考し、ノーベル命日の12月10日に授賞式が行われる。ノーベルがその考えに至ったのは、ダイナマイトを武器用に製造するため各国が支払った特許料で巨額の富を得たが、実兄が死んだ時にノーベル本人と取り違えられて「死の商人、死す」と誤報されたためで、それを気に病んだノーベルは、自分が死後に「死の商人」と呼ばれないように、遺産を世界平和のために献ずると遺言した。当初の遺言は「平和運動を推進する者、政府や国家の偏見に著作と行動で果敢に戦う者に授与」とあり、思い詰めた心境が伺われるが、何度か書き直されて「人類のために最大の貢献をした人々」になり、死の翌年の1896年にノーベル財団が設立され、1901年から今日までスウェーデンの国を挙げての事業として確立している。なお経済学賞は1968年にスウェーデン国立銀行が300周年祝賀で始めたものでノーベル財団の事業ではない。

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ノーベル賞の祝賀晩餐会が行われる市庁舎の大広間 市庁舎には受賞式の舞踏会場となる黄金の間もある

以下はこれまでの日本人受賞者の一覧である。

受賞年 受賞者 生年 国籍 受賞対象 研究時期 研究時の立場
1949 湯川 秀樹 1907   物理 中間子理論 1934年 京都帝大講師
1965 朝永 振一郎 1906   物理 量子電磁力学 1947年 東京文理科大教授
1968 川端 康成 1899   文学 日本人の心の真髄を表現   作家
1973 江崎 玲於奈 1925   物理 トンネルダイオード発明 1957年 ソニー研究員
1974 佐藤 栄作 1901   平和 非核三原則提唱 1967年 内閣総理大臣
1981 福井 謙一 1918   化学 フロンテイア軌道理論 1952年 京都大学教授
1987 利根川 進 1939   生理医学 遺伝子原理の解明 1969年? 米ソーク研究所研究員
1994 大江 健三郎 1925   文学 現代人の苦境を浮き彫りに   作家
2000 白川 英樹 1936   化学 高分子化学 1976年 米ペンシルバニア大研究員
2001 野依 良治 1938   化学 金属錯体触媒の開発 1970年 米ハーバード大研究員
2002 小柴 昌俊 1926   物理 ニュートリノの観測 1987年 東大理学部施設長
2002 田中 耕一 1959   化学 質量分析技術の開発 1985年 島津製作所研究員
2008 下村 修 1928   化学 緑色蛍光タンパク質の発見 1956年 米プリンストン大研究員
2008 小林 誠 1944   物理 素粒子理論 1973年 京都大学助手
益川 敏英 1940   京都大学助手
2008 南部 陽一郎 1921 物理 自発的対称性の破れ発見 1956年 米シカゴ大教授
2010 根岸 英一 1935   化学 有機合成 1968年? 米パディユー大研究員
鈴木 章 1930   米パディユー大研究員
2012 山中 伸弥 1962   生理医学 IPS細胞の発見 1993年 米カリフォルニア大研究員
2014 赤崎 勇 1929   物理 青色発光LEDの発明 1989年 名古屋大教授
天野 浩 1960   名古屋大助手
中村 修二 1954 日東化学工業社員
2015 梶田 隆章 1959   物理 ニュートリノ振動の観測 1996年 東大宇宙研助教授
2015 大村 智 1935   生理医学 線虫による感染症治療法 1970年? 北里研究所助教授?
2016 大隅 良典 1945   生理医学 オートファージの仕組み解明 1974年? 米ロックフェラー大研究員
2018 本庶 佑 1942   生理医学 免疫阻害要因の発見 1992年? 米国立衛生研 研究員
2019 吉野 彰 1948   化学 リチウムイオン電池の開発 1983年 旭化成研究室
2021 眞鍋 淑郎 1931 物理 気象変動の定量化 1989年 米プリンストン大客員教授

「研究時期」は授賞対象の発見・発明を発表した年、右欄にその時期の所属・職位を示す。?印は資料不足のためおよその時期を推定した。

自然科学系3賞(物理、科学、生理医学)の歴代受賞者624名の内、米国が271名(43%)を占め、英国(84名)、ドイツ(71名)、フランス(34名)に次いで日本は5位の25名だが、その中に今回受賞の眞鍋先生を含めて米国籍が3名いる。日本国籍でも研究拠点が米国だったり、米国での研究歴がある受賞者が殆どで、米国が科学研究・開発で圧倒的なパワーを保ってきたことを如実に示している。

米国籍の研究者の成果まで「日本人受賞」にカウントすることは、日本の学術の貧しい現実を隠すことになりかねない。今回眞鍋先生が率直に語ったように、日本には基礎科学の研究が困難な環境があり、その状況はますます悪化しているらしい。研究におカネが回らないだけでなく、政府スジが研究活動に介入し、山中教授のIPS細胞実用研究の支援まで打ち切ろうとしたと聞く。国家予算を使うのだから透明性の担保は当然だが、目先の効用ばかり重視したら科学の土台は築けない。為政者の科学に対する「哲学」や「洞察力」が問われるのだが、深い教養を欠く権力者の「気にくう・くわない」で学術研究が左右されたのでは、この国の底力はますます低下することになる。

そもそも日本は教育にカネをかけない国で、公的教育支出のGDP比は3.1%で、世界で113位(先進国では断トツ最下位)。特に「意に沿わぬ国立大学」が目の敵で予算カットされているが、そんな中で東大のニュートリノ観測がノーベル賞を2度受賞した。ニュートリノの存在を実証したスーパーカミオカンデは巨大な観測装置で、建設に約100億円を要したという。「学者の道楽に税金を使って…」と苦言する人がいたが、自衛隊のF35戦闘機が1機116億円、輸送機オスプレイが1機210億円と知れば、壮大な観測装置が「そんなに安く出来たの!」と思えてくる。

眞鍋先生は個人的な興味で気象の数値予測の研究を始め、1958年に米国に渡って米国気象局に入り、当時最高性能のスパコンを思う存分使ってデータを積み重ね、1988年に発表した「数値モデルによる地球温暖化」の論文が今回の受賞対象になった。昨今の科学研究にスパコンは必需品だが、日本の大学にあるスパコンはスパコンと名乗るのもおこがましい年代モノが多く、研究者は理科学研の最新スパコンを順番待ちするという(使用料も払う)。超高速スパコン「京」は1式約50億円と聞くが、新幹線1編成(16両)の値段とほぼ同じで、もったいぶるほどの金額ではない。眞鍋先生が学術にカネをかけない日本に早々と見切りをつけたのは、先見の明をお持ちだったと言うしかない。

ちなみに新幹線車両を130編成保有するJR東海は、利益剰余金(内部留保)を3兆5千億円貯め込んでいると聞くが、仮にスパコン「京」を100台買って大学に寄贈してもまだ3兆円残る。米国では企業や資産家が大学に巨額の寄付をしていることも、米国の底力になっていることを忘れてはならない。日本の政府におカネがないのなら、大企業のタンス預金を強制的に召し上げてでも、学術を振興させるべきではないか。


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2015年1月 デジタル一眼レフをフルサイズに更新

メインカメラのデジタル一眼レフを4年毎に買い替えることにしていた。性能アップのモデルチェンジはほぼ3年周期だが、最新モデルの発売に跳び付く気はない。複雑なソフトを搭載するデジカメは初期バグつぶしに半年かかる筈で、市場の評価を確かめてから買っても不都合はない。

この頃のデジタル一眼レフに起きた大きな変化は撮像素子のフルサイズ化だった。デジタル一眼は35mmフィルム用一眼のフィルムを撮像素子に置き換えたものだが、撮像素子のサイズは35mmフィルム(35㎜×24mm)より小さいAPS-Cサイズ(23.4mm×16.7mm、メーカーにより多少違う)が一般的だった。理由は撮像素子が高価だったこともあるが、フィルム用のレンズをデジタルで使う場合に顕著になる周辺光量減の現象を避ける目的もあった。デジタル一眼の普及から10年を経て撮像素子のコストが下がり、デジタル用レンズも普及したことで、撮像素子を35mmフィルムと同じ「フルサイズ」に戻すのが流行になっていた。

フルサイズ化で撮像素子の面積は約2倍になったが、画素数をあまり増やさず、各画素を大きくして感度を上げた(雑音を下げた)。撮像素子の対角線が1.5倍になり、その分焦点距離の長いレンズを使うので(面倒な説明を省くが)「ボケ味」を出しやすくなった。「ボケ味」は、焦点が長く口径の大きいレンズで見せたいテーマだけをスポットでクリアーに写し、テーマ以外はキレイにボカす術で、ポートレートや花をクローズアップで撮った時に効果が顕著に現れる。

購入した D750 はニコンのデジタル一眼のラインナップでは「中」の位置付けで、値段も APC-S の D300s と同レベルだった。だが撮像素子が大きくなったことで、持っていた APS-C 用レンズでは不都合が生じ(画面の周辺部が欠ける)、フルサイズ用のレンズを揃えなければならない。APC-Sはフルサイズ用レンズも使えたので、望遠系はフルサイズ用を持っていたが、万能ズーム(28-300mm)とワイドズーム(16-35mm)は新調するしかなく、老後資金を取り崩すことになった。

少々マニアっぽい話になるが、一眼レフのボデイにレンズを取り付ける「マウント」に、ボデイとレンズが電気信号をやりとりする接点が設けてある。殆どの一眼レフメーカーはデジタル化に際してマウントを変更したので、フィルム時代のレンズが使えなくなったが、ニコンはマウントを変更せずにガンバり続け、それをセールスポイントにしていた。だが時代はミラーレス一眼に向かっていた。ニコンも早晩ミラーレスに重点を移すに違いなく、そうなればマウントを変えるしかなく、フルサイズ用レンズは使えなくなる。だがミラーレスは電池を食うので(約3倍)、途中で充電できないヒマラヤの山歩きには向いていない。ヒマラヤトレッカーは、ハラをくくってフルサイズのレンズを揃えるしかないのだ。


2015年2月 アイスランド・オーロラ旅行

写真仲間がカナダのユーコンで撮ったオーロラの写真を見て、自分も撮りたくなった。カナダ駐在員をしていたので冬の厳しさは承知している。オーロラが見える北緯70度の気温はマイナス40℃以に下がり、野外でのオーロラ撮影は命がけになる。信州育ちの小生は寒さをガマンできる方だが、南国生まれのつれあいはダメで、カナダ最南のトロントでマイナス20℃に懲りていた。北極圏の冬の旅など論外なのだ。

ツアー会社のパンフレットに「寒くないアイスランドでオーロラを見よう」とあった。アイスランドは国名からして寒そうだが、海流の影響で寒さは真冬でも「冬の山形程度」と分かり、つれあいの恐怖心はひとまず去った。アイスランドは地学的にも特異で、地球の割れ目から湧きあがったマグマが大陸プレートになる「海嶺」が海面上に出た島で、ここで東西に分れた北米プレートとユーラシアプレートが日本列島の東の海溝でぶつかる。つまり「東北大震災」の元をたどるとアイスランドに行き着く(プレートの動きは1年に5cm、2億年で1万Kmという気の長い話だが)。蛇足ながら小生は高校時代に「地学」が得意科目で、文系の入試に地学が満点で合格できた(と思っている)。タモリのマネではないが、地形には今も関心がある。

アイスランドがヘンなのは地形だけではない。この国の始まりは10世紀にバイキングのはみ出し者が祖国を逃れて作った「民主制共和国」だった。ヨーロッパ人は馬肉と鯨肉が禁忌だが、アイスランド人は今も馬肉を食い商業捕鯨を堂々と続けている。アイスランドは軍隊を持たない国だが、1958年と1972年の2度にわたって英国と漁業権を争い、小型警備艇で砲撃を交わして勝った(敗けてやった英国もオトナの国だが)。いかにも男っぽい国だが、世界最初の女性大統領を輩出し、国会議員の半数以上が女性の国でもある。馬肉と鯨は日本と似ているが、それ以外は真逆と言ってよい。

オーロラは毎晩出るとは限らず、出ても曇っていたら見えない。長期予報では連日曇りだったが、アイスランド滞在6夜の内2日目と最終日にオーロラを見ることが出来た。2日目の宿舎はゴルフ場付属のホテルで、夜11時半にオーロラが現れ、雪の原っぱに三脚を立てた。1時間後に薄くなったので撤収して寝てしまったが、明け方にオーロラ爆発(頭上に大規模なオーロラが出現)があったらしい。最終日に首都のレイキャビックで遊覧船で海上からオーロラ見物をしたが、船が揺れて写真は全部ブレていた。

オーロラ撮影について書いておく。オーロラは空一杯に拡がるのでワイドレンズが要る(下の写真は16mmを使ったが、10mmが欲しかった)。オーロラは暗闇に目を慣らせば肉眼で見えるが、光が弱くカメラの焦点と露出はオート測定できない。マニュアルモードで焦点を手動で合わせ(∞マークに頼らずモニターで確認)、レンズの焦点リングが回転しないように粘着テープなどで固定する。オーロラは激しく動くので、感度を目一杯上げてシャッター速度を出来るだけ早く設定する。下の写真は ISO6400、f4(開放)、2秒で撮り、RAW現像で1.8倍増感したが、オーロラが止まっていない(もう一工夫するべきだった)。低温で電池が働かなくなるので、予備電池をホッカイロで温めておく。

旅のレポート:アイスランド 前編 後編

地球の割れ目「ギャオ」 ギャオに近いストロックル間欠泉、ほぼ5分おきに噴く。
23:46  カーテン状のオーロラの色が強くなった。 23:55 全天を覆うオーロラ


23:48 輝いて空一杯に拡がった。白い点は星。

溶岩原の中を走る。遠くにヴァトナ氷河。 川から流れ出た氷塊が荒波で浜辺に打ち寄せられた。
首都レイキャビック 広場に立つ独立の指導者ヨウン・シグルズソンの像

2015年6月 オーストリア、南ドイツ旅行

ヨーロッパの歴史の旅はもっぱらNさんにお世話になった。現役時代に旅行会社でツアー企画を仕切り、リタイア後に奥様を名所旧跡に連れ出す旅に我々も便乗する趣向で、ゆったりした日程で選りすぐりの名所を訪れる。イタリア(2度)とスペインの旅に続いて、オーストリアの旅にも声をかけていただいた。

オーストリアは8カ国と国境を接し、東半分を旧ソ連圏、西半分を旧枢軸国に囲まれている。国に勢いがあった時代は周囲の国々を睥睨するのに好都合な立地だったが、勢いを失えば袋だたきに遭う。第一次大戦と第二次大戦でドイツと組んで連敗の辛酸をなめ、不戦の誓いを立てて1955年に永世中立国になったのは、賢い選択だったと言うべきだろう。歴史遺産で観光立国しているだけでなく、国連機関やOPECなどの本部を招致して華麗だった時代を再現している。一人当たりGDPはドイツを上回る $56,188 で世界23位。(何度も書くが日本は年々凋落し、韓国にも抜かれて45位。××ノミクスの成果など自慢している場合ではない)。

オーストリア 前篇 後篇

  
ウィーンの共同墓地。左からベートーベン、モーツアルト、シューベルトの墓が並ぶが、モーツアルトの遺体は共同墓地に捨てられたので墓ではなく記念碑。  1873年万博会場に残る大観覧車。映画「第三の男」に出た。
ウィーンのクラシックな市内電車。モダンな連接車も走っている。 ウィーン郊外のシェーンブルン宮殿。ハプスブルグ家の栄華を偲ぶ
景勝地ハルシュタット シャフベルクの登山鉄道で山頂へ
ザルツブルグ城と旧市街 音楽の都だけあって街頭の演奏も一流の調べ

ダッハウ強制収容所跡

ツアー一行とミュンヘンで別れて我々は1週間延泊し、当時南ドイツのウルム在住だった長女夫妻の案内で近くの名所巡りとオーストリアの山歩きをさせてもらった。先ず訪れたのは、名所と呼ぶのは不適切だが、ナチス時代のダッハウ強制収容所跡。ドイツにとって「負の遺産」の象徴的存在だが、保守政権時代に撤去した施設を敢えて再建し、過去の過ちと責任を忘れない姿勢を世界に示した。ドイツは国際社会でリーダーシップを取り戻したが、同盟国だった日本の存在感が薄いのは、敗戦の総括をあいまいにし続けてきたことと無関係ではないだろう。

ダッハウは政治犯を強制労働させる施設として開設されたが、第二次大戦でドイツが劣勢になった1943年頃からユダヤ人を強制収容してアウシュビッツの原型になった。ホロコーストが独裁政権が危機逃れの常套手段に使う民族意識高揚の道具だったことに改めて気付かされる。ダッハウ収容所は連合軍によって1945年4月に開放されたが、その掃討部隊が欧州戦線で最も危険な任務を担当した日系アメリカ人部隊の第442連隊だったことも、特筆に値する。

詳細は南ドイツの記事でご覧ください

再建された居住棟。広場に30棟がびっしり建っていた。 居住棟の内部
トイレ ガス室に隣接する死体焼却場。

ノイシュヴァンシュタイン城

娘にどこに行きたいか聞かれ「あのお城」と言ってバカにされたが、日本を訪れる外国人が日光を見たいのと同じで恥じることはない。「城」は戦闘に備えての「砦」が本来の役割だが、中世以降は城主の威勢を内外に示す「国威高揚」の役目を帯び、壮大な芸術作品になった。この城主だったバイエルン国王ルートヴィヒ二世(1845~1886)は、文字通り「国を傾けて」この作品造りに打ち込んだが、完成を見ずに怪死した。国の行く末を案じた家臣に暗殺されたとの説が強い。遠くから眺めれば確かに美の精緻だが、近くで見ると虚ろな狂気が漂っている。

詳細は南ドイツのページ

里の宿舎から夕暮れの城を撮る 山の中腹の城まではちょっとした山登りになる
裏山の展望ポイントから 場内は未完成の部分が多く家具も少ないと聞き、見学をパスした

南ドイツ ウルム

ウルムは観光案内書に出ない町だが、世界で一番高い尖塔を持つ大聖堂があり、ライン川のほとりの中世の落ち着いた街並みにも趣がある(第二次大戦で連合軍の空襲で破壊され再建されたものだが)。郊外に在独米軍の大きな基地があったが、撤退した跡地が工業団地や商業施設として再開発され、町に活気を加えている。

娘と街を歩いているとさまざまな人種の友達に出会った。市が提供するドイツ語研修の仲間だという。移民や難民は公的なドイツ語試験に合格しないと職業に就けない。その間の生活費と学費は公費で支給されるが、試験はかなりキビシイらしい。娘は米国の専門職の資格を持っているが、ドイツ語試験に合格しないと就業できず、学生時代並みに猛勉強したという。移民難民の支援に反発するドイツ人も少なくないらしいが、彼等を積極的にドイツ社会に取り込む政策は、ドイツ経済にプラスに働いていることは確かだろう。

ウルムの詳細は南ドイツドイツ都市巡りのページで

世界で一番高い尖塔を持つウルム大聖堂 大聖堂展望台から旧市街を見下ろす
ライン川の対岸からウルムの中心部を望む ウルムは物理学者アインシュタインの生誕地でもある。

リヒテンシュタイン公国

週末にオーストリア西部のモンタフォン地方の山歩きに連れて行ってもらった。ウルムからの距離感は千葉から奥日光の山に行くのと同じで、国境の検問もなく国内の近場の旅行と変わらない。

途中でリヒテンシュタイン公国に寄ってもらった。目的は訪問国を一つ増やすことだったが、想像以上に面白い国と知った。オーストリアとスイスに挟まれた人口11万の小国は国連に議席がある。記念切手の発行が有名で、それで国家財政が成り立っていると早合点していたが、違っていた。精密機械や建設機器の世界的企業の本社や工場を呼び込み、国民一人あたりGDPは138,100ドル(日本の3倍)で、世界一裕福な国なのだ。領主は「ヨーロッパ最後の絶対君主」と陰口をたたかれるが、居城はそれほど壮麗でもなく、実は賢王なのかもしれない。

詳細はリヒテンシュタイン公国

領主の居城は公開されていない。 居城前の道路から首都(しかない)ファドゥーツを見下ろす。

モンダフォン地方 山歩き

オーストリア西端のモンタフォン地方は知る人ぞ知るスキーの名所で、ワールドクラスの選手が練習場にしているという。そのゲレンデが無雪期間に山歩きのゲレンデになる。

ヨーロッパの山歩きはツール・ド・モンブランで経験したが、モンタフォンはもっとカジュアルで、週末や短期休暇で気軽に出かける「里山歩き」の場だ。日本の山はジイサン・バアサンばかりだが、ヨーロッパの山は30~40代の働き盛りの人たちがメインで、子供連れも多い。

日本の登山はひたすら山頂を目指すが、ヨーロッパ人は山頂にこだわらない。小生の勝手な理解だが、シロウトが山頂を目指す登山は日本独特の文化だろう。日本の山は富士山でもアルプスでもシロウトが山頂にたどり着ける。宗教登山も山頂を目指したので、登山=登頂の伝統が出来た。ヨーロッパの高山は険しい雪山で、高度な登山技術と装備がなければ山頂に立てず、プロのガイド同行が原則。シロウトは山頂を目指さずに「山歩き」を楽しむことになる。

ヨーロッパ人の山歩きはとにかく早い。道標に目的地までの所要時間が記してあるが、我々は精一杯ガンバっても1.5倍かかる。彼等の標準は日本の健脚者以上と思った方がよい。早いのは脚の長さの違いではなくピッチの早さで、中年のコロコロオバサンにもぐんぐん追い抜かれる。我々とはエネルギー代謝の構造が違うのかもしれない。

詳細はオーストリア-2

谷の入り口の町まで鉄道で入れる。ここから先はバスが頻繁に出る。 公道は家畜優先
気もちの良い山歩きのルート。 水力発電のダム。電力は基本的に水力でまかなわれている。
山小屋でランチ 日本の「肉ソバ」級簡易食だが、これはこれで美味い。

2015年 山歩き

☆2月2日~4日 友山クラブの冬季撮影会で裏磐梯の写真家ご用達ペンションのお世話になり、歩いたのはチョッピリだが山歩きにカウントした。

裏磐梯小野川湖を望む「お立ち台」に三脚を立てる 小野川湖の日の出

☆ 5月6日 高柄山(山梨県 733m):足ならしのつもりで駅に近い山に登ったが、アップダウンが激しく消耗した。
☆9月23日 高川山(山梨県 976m):秋の日帰り山旅も駅から歩けるルートを選んだ。富士山の眺めが有名だが、残念ながら秋のモヤの中。

5/6 鷹柄山 富士山頂が近くに見えた 9/23 残念ながら富士山は見えず、里道で栗拾いを楽しんだ

夏のシーズンはどこにも行かずじまいだったが、10月に郷里で中学2校(中3で転校)と高校のクラス会が重なり、日程の合間と帰路に山歩きを楽しんだ。

☆10月24日:長野市から白馬へ。八方のリフト終点から丸山ケルン(2060m)を目指したが、思いのほか気温が低く、防寒具を持たずに行ったので八方池で折り返した。秋の山はスッキリ見えると思い込んでいたがモヤがかかり、それが日本の秋の特徴らしい。

☆10月28日~29日:クラス会3連チャンを終えて諏訪でつれあいと合流、北八ヶ岳の東天狗岳(2646m)と白駒池を周遊した。

☆10月30日 帰路の途中で櫛形山へ。数年前に撮影会で中腹から見た富士山が素晴らしかったが、山頂は樹木が邪魔して写真にならないと知った。

2015年山歩きレポート

八方尾根上部から白馬三山 岩岳から白馬三山
東天狗岳の山頂部。遠くに蓼科山 櫛形山山頂から富士山

2016年5月 硫黄島・父島ツアー

つれあいは父親が出征してから生まれたので父親の記憶がない。父親は硫黄島で戦死して箱の中の石コロで故郷に帰った。終戦から70年目の2015年に硫黄島沖に行く航海ツアーで慰霊する予定だったが、台風接近でドタキャンになり1年遅れで実現した。

硫黄島は民間人の上陸が原則禁止で、厚労省が年2回募集する遺族ツアーも、自衛隊の飛行機で硫黄島に飛んで慰霊祭に列席してトンボ帰りする。それはそれで意義があるにしても、面倒な手続きを要し、遺族でない小生は同行できない。

民間人が硫黄島に近付くチャンスも、年に一度催行される特別クルーズに乗るしかない。竹芝桟橋と小笠原諸島の父島を往復する貨客船おがさわら丸が、年に1度だけ南硫黄島まで足を延ばす。硫黄島をぐるりと回って船上から献花するだけだが、慰霊の目的は達せられる。

詳細は小笠原父島・硫黄島のページで

竹芝桟橋から25時間で父島到着、夜に特別航海で硫黄島へ 南硫黄島は無人の絶海の孤島。野鳥の宝庫でもある。
硫黄島の摺鉢山。米軍の艦砲射撃で山の形が変わったと言われる 最後の激戦があった地帯
海上から献花して慰霊の意を評する。 北硫黄島には戦前に定住者の集落があったが、今は無人。

硫黄島クルーズを終えて父島に上陸し、2泊して島内の戦跡を巡った。第一次大戦後に陸軍と海軍が基地を建設し、太平洋戦争開戦前の1940に島民を強制退去させて全島を要塞化した。つれあいの父親も父島から硫黄島に出撃して戦死した。米軍は硫黄島上陸後に沖縄戦に集中したため父島は地上戦を免れたが、日本軍の基地は空襲で破壊されつくした。

父島を訪れる観光客の殆どはマリンスポーツが目的の若者で、戦跡を訪れる人は少ない。日本が米国と戦争して敗けたことも知らない若者が多いのは、学校で歴史をキチンと教えないからだろう。負の歴史を自覚することと卑屈になることとは違う。過去を総括しなければ国際社会で信用を得ないことは、ドイツ・オーストリアを見れば納得できる。

日本軍の野戦病院跡の近くに設けられた慰霊碑 米軍機の残骸。ブッシュ(父)元大統領もここで撃墜された
野戦病院に残る塹壕 日本軍の対空砲。簡裁用の無反動砲を取り外して設置した

2016年 山歩き

☆ 3月23日 熊野古道「果無峠」:山歩きのバリエーションで「熊野古道」を思いついた。熊野古道は伊勢路、紀伊路、小辺路、中辺路、大辺路など多くのルートが復活しているが、十津川温泉から熊野本宮大社までの果無峠越えを選んだのは標高差800mの手ごろな「山歩き」だから。熊野古道は外国人観光客にも人気があるらしく、大きな荷物を抱えて路線バスに乗り込むヨーロッパ人のグループに出会った。コロナ収束後も来てくれるだろうか?

熊野古道小辺路 果無峠越え

果無の集落 路傍で西国三十三観音が迎えてくれる。
3時間で果無峠(1100m)に到着 湯の峯温泉で路線バスを待つ外国人ツアー客

7月のヒマラヤトレッキングに向けて高度順応で、中央アルプスの千畳敷(2661m)に2泊、ついでに宝剣岳(2931m)に登頂した。出発直前に開山前の富士山にも登った。

6/16 宝剣岳山頂 7/8 富士山8合目の日の出

2016年は友山クラブの撮影会で春と秋の2度乗鞍高原を訪れた。マジメな会員が重い機材を持ち歩くので、歩かずに車で移動することになる。

春の乗鞍岳 秋の乗鞍高原

2016年7月 雨季のヒマラヤ、レンジョパス・トレッキング

高度恐怖症のつれあいを2013年11月にアンナプルナ内院(4130m)と14年7月に大姑娘山(5025m、実は4995m?)に連れ出し、ようやく本格トレッキングに挑戦する気分が湧いた。行く先は小生が2012年暮れに訪れたゴーキョピーク(5360m)で、天候悪化で中止したレンジョパス越え(5345m)もある。モノズキにも雨季を選んだのは、乾季より気温が高いことに加え、「雲の晴れ間から見える白いピークはまた格別」のツアーの売り文句に乗って、人が撮らないものを撮りたいという写真家の気分になったこともある。

結論を言えば徹底的に雨に降られた。ネパールに2年住んだ添乗員氏があきれるほど連日降り、雲の合間から見える筈の白いピーク撮影もカラ振りになったが、雨季を承知で行ったのだから仕方がない。収穫が無かったわけではない。標高4500mにこの季節に2週間しか咲かないブルーポピーに出会った。5千mの峠で奇怪な高山植物や青い鳥にも出会った。この季節は登山者が他になく、村人は我々のためにロッジを開けてくれた。下りのヘリが飛べず、憧れのエベレストビューホテルに連泊し(エベレストは見えなかったが)、通常は2日かかるルクラまで1日で駆け下ったのも思い出になった。前年の地震の影響が残るカトマンズや近郊の集落を訪れ、ネパール人の日頃の暮らしにたっぷり触れたのも良かった。

雨季のヒマラヤ‐1 -2 カトマンズとその近郊

山は2日目の朝にキャンズマのロッジからローツエが見えただけ。 4日目、ラバルマ(4330m)のカルカ(放牧場)
5日目 マッチェルモ(4410m)で高度順応 6日目ゴーキョ手前でがけ崩れに遭い、巻き道を登る
標高4600mでブルーポピーに出会う。 微妙な色の違いがある。
9日目、レンジョパスの登り 奇妙な植物
レンジョパス(5345m)は雨と霧の中。 10日目 ルンレ(4290m)のロッジを開けてくれた母子
10日目、ターモ(3490m)に到着 11,12日目はホテル・エヴェレストビューに停滞
カトマンズ近郊で地震で倒壊した寺院を訪れる。 カトマンズ郊外のパタンでお祭りに出会った。

2016年9月 スイス山歩き

ヒマラヤで雨に祟られたと聞いて娘夫婦が気の毒がり、スイスのベルニナ山群の山歩きに誘ってくれた。彼等は本格登山に足をつっこみ、夏の休暇にガイドを雇ってベルニナアルプスの主峰(4049m)登頂に挑戦する計画で、その前に周辺の山を歩いてトレーニングするつもりだったが、ついでの親孝行を思い立ったらしい。ヨーロッパ人のペースで歩く彼等にスローな老人は足手まといになるが、せっかくの気遣いをムにする手はない。

ドイツ往復と鉄道の手配は自力でやらねばならない。何でもネットで出来る時代になり、フランクフルト往復は最も安い北京経由の便をネットで購入、ドイツの鉄道も外国人割引の切符を手配した。空路はメシもサービスも最低で、到着が遅れて予定の列車に乗れずオタオタしたが、何とか無事にウルムにたどり着いた。彼等が休暇に入るまでの2日間はウルムと近くの歴史の町アウグスブルグを自力観光、それから先の山歩きは娘夫婦のお世話になった。

ドイツ都市巡り

ウルム旧市街の「傾いた家」。名物ホテルになっている。 アウグスブルグの市街

ベルニナアルプスはスイス東部のサンモリッツ周辺の3千m級の山群で、ツェルマットやグリンデルワルトのような賑やかな山岳観光地ではないが、電車、バス、ロープウェイの便がよく手軽に楽しめる。

1日目:ウルムを朝に出発、オーストリア経由でスイスに入り、登山口のロゼグレッチャー(1950m)に着いたのは午後3時。目的地のコーツ小屋(2610m)までコースタイムは2時間半だが、ペースが上がらず、着いたのは午後7時で夕食時間を過ぎていたが、親切に遇してくれた。山小屋の料金は2食付き9千円で日本とほぼ同じだが、山岳会員は(日本のでも)大幅割引がある。小さい子供連れの客も数組いたが、走り回ったりせず行儀よく静かなことに感心する。

2日目:里に下りて古代ローマ時代の宿場町マローヤに宿泊。ちょっと変わった宿で、食事作りや後片付け、掃除などの作業を宿泊者が分担する。長期滞在者が多いので成り立つシステムで、1泊だけの我々は食後の皿洗いを担当。トイレ・シャワーに男女別がなく、うっかりするとヌーディストキャンプに紛れ込んだ状態になるが、回避可能なルートも設けられていて、多様性が尊重されるヨーロッパを身をもって体験した。

スイス ベルニナアルプス-1

トレッキング開始。右奥の雪線にあるコーツ小屋が目的地 最高峰ピッツベルニナ(4051m)が娘夫婦の最終目的地
岩の斜面(中央下)に貼り付いたコーツ小屋 コーツ小屋からピーク方向の眺め
翌日はフォルクラ小屋(2755m)で昼ごはん。 フォルクラ小屋からロープウェイで下山
郵便バスでマローヤに移動 マローヤの宿は宿泊者が手分けして食事作りや後片づけをする。

3日目:出発以来体調がスキッとせず、雨の予報を口実に山越えの計画を中止してもらい、近場のルートを歩き始めたところで下痢に襲われた。そこから先はトイレを探しながらの旅になり、路傍の観光案内所で薦められたソーリオで休養することにした。後で知ったが、ソーリオは新田次郎も絶賛した雰囲気のある古い村で、日本から毎年画家のグループも訪れるという。我々が泊まったのは築500年の民宿で、女将手作りの朝食も感動モノだった。

4日目:体調に不安が残るが、近くまでロープウェイで行けるアルビーナ小屋を往復。娘夫婦はトレーニングでロープウェイを使わずに登り下りしたが、我々が待つ間もないほど早く着いたのは立派。

5~6日目:ソーリオから谷を下って向かい側の岩山中腹のシオラ小屋(2120m)を目指す。谷底(800m)の駐車場から歩いて登ると言い張る娘を説得し、標高1320mの林道終点まで車で上がってもらう。娘も30年後には後期高齢者の体力を理解することだろう。

ソーリオの村 ソーリオからの眺め。左奥の岩山の8合目にシオラ小屋がある。
シオラ小屋 日本の山小屋と同じ雑魚寝スタイルだが、窮屈さは感じない。
小屋の夕食。この他にスープとパンが付く。 デザートもある。
小屋から夕方の眺め 日の出

7日目:山歩きを終えてサンモリッツ郊外の滞在型ホテルに移動、ベルニナ急行の電車で周辺の観光をする。

8日目朝に娘夫婦と別れ、彼等は初日のポントレジーナに戻って本格登山に入り、我々は列車でドイツのマインツに移動し、ライン下りと町歩きを楽しんで帰国した。

スイスベルにナアルプス-2 ドイツ都市巡り

ベルニナ急行はサンモリッツとイタリアのテイラノを結ぶ 最高点のアルプ・グリュム駅から急坂のループを下ってイタリアへ
デキアボレッツア氷河の展望台から マインツ郊外で秋の収穫祭の行進に出会った。