第1回近代オリンピック(1896年)が開かれたアテネの競技場を訪れたことがある(ギリシャ)。紀元前の古代オリンピックの遺跡にローマ時代に大理石の観客席が設けられ、それが整備されて第1回近代オリンピックの会場になった。コンパクトな競技場でトラックは1周400m無さそうだが、地中海の太陽に白く輝いて気品が漂っていた。参加選手は男子のみ241名だったが、提唱者のクーベルタンは「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」と理想を高く掲げた。

第1回近代オリンピックの競技場 競技場に立つ記念碑と競技場復元のスポンサーとなったアベロフ像

当初の大会では選手は個人資格で参加したが、第4回(1908年)ロンドン大会から参加国のオリンピック委員会が選出・派遣することになった。つまり選手が「国家の代表」になり、国家がオリンピックを「国威発揚の場」に利用する道を拓いたことになる。日本の初参加は第5回(1912年)ストックホルム大会で、その経緯は2019年のNHK大河ドラマ「いだてん」がたっぷり描いた。

次の第6回大会(1916年)はベルリンで開催予定だったが、ドイツが第一次大戦(14~18年)の当事国だったため中止された。同時期に猛威をふるったパンデミック「スペイン風邪」の流行は18年~20年で中止とは関係なく、1920年の第7回アントワープ大会は予定どおり開催されたが、ヨーロッパではスペイン風邪は収束していた筈だ。

次にオリンピックが中止されたのは第12回(1940年)の東京大会である。日本は初のアジアでの開催と紀元2600年の記念行事(何のことか知らない日本人が多いだろうが)として誘致に成功したものの、日中戦争に対する欧米諸国の強い非難と軍部の反発に遭って38年に返上、代役のヘルシンキでも開催できず、次の第13回(1944年)ロンドン大会も中止するしかなかった。20世紀のオリンピックは2度の大戦に翻弄され、「平和でよりよき世界の実現」に寄与できなかった。

小生の記憶にあるオリンピックは1952年の第15回ヘルシンキ大会が最初で、小学校の学級で町の映画館に行き、記録映画で「鉄人ザトベック」を見た。56年の冬季オリンピック(コルチナ・ダンペッツォ)も中学の学年で記録映画を見て、猪谷千春選手の銀メダルの滑りが今も目に浮かぶ。その後のオリンピックの記憶は64年の東京大会まで飛ぶが、入社早々の職場で残業漬けになり、寮生活でテレビを見ることもなく、憶えているのはポスター(右)だけ。72年の札幌大会もカナダに出張中で、ホテルでウィスキーを飲みながらジャンプを見た記憶しかない。

98年の冬季大会は小生が中・高を過ごした長野市で開催され、級友から各方面の裏方で活躍した自慢話を聞いたが、小生は大阪に「新幹線通勤」していた時期で(写真遍歴-6)、里谷多英選手がモーグルで予想外の金を獲得したことしか思い出せない。今回の2020東京オリンピックはヒマにまかせて入場券抽選に応募したが全部ハズレ(結果的にどうでもよくなったが)、どうやら小生はオリンピックに縁が薄いようだ。

その2020年東京大会を狙い撃ちするように「新型コロナ」が襲った。1年延期を決め、その1年が経ち、中止を求める声が強い中で催行に踏みきったが、コロナの心配ばかりで観客ナシが空しい。1年延期は日本政府の強い意向だったと聞く。あの時点でコロナが1年で収束するとマジメに考えた人は居なかった筈で、そうと分って1年延期にこだわったのは、政権への不満を五輪にそらす「政治判断」だったと見られても仕方ない。案の定1年後もコロナは治まるどころか「これから」の様相で、ワクチンが頓挫して「安全・安心」どころではない。無観客で強行した「政治判断」は政権浮揚のギャンブルにしか見えないが、日本選手の大活躍で政府の不手際が隠れるとでも思っているのだろうか?

首相が「やめるのは簡単」と言ったそうだが、そうだろうか? 「やる」より「やめる」決断の方がキビシイことは小生も事業収束で経験した。やめて生じる不都合の処理責任がふりかかり、恨まれてもホメられることはない。それでもやめるのは、やめないとダメージが拡がると判断したからで、ハラを決めて取り組むしかない。「やめられないから、やる」のは「思考停止」で、ダメなものは結局ダメになり、破綻すれば被害は社会にふりかかる。その典型例が旧大日本帝国で、今も同じ轍を踏んでいないか心配になる。

オリンピック関係者はクーベルタンの精神が今も生きているというが、そうだろうか? オリンピックはスポーツの祭典と言うより「It's show tIme !」になったのではないか。それは当然の帰結で、本来アマチュア選手しか参加できなかった競技会が、1974年に職業選手の参加を認めて以降「超能力者の競演」が売り物になり、更に開催都市の資金とIOCの会費でまかなっていた大会が、1984年のロスアンゼルス大会から「民間資金」(スポンサー)依存になり、「テレビ中継最優先」のルールが確立した。超人的能力で超人的ギャラをとる有名人登場で高視聴率はとれても、カネまみれではクーベルタンが掲げた気高い精神から遠ざかるばかりではないか。



「365連休」モードに移行

2006年10月にバヌアツでの2年間のJICAシニアボランテイア(SV)を終えて帰国。SVは69歳まで応募できるが、元気な内に百名山を踏破したいし海外旅行もしたい。バヌアツで社会人生活の総括をした気分もあり、65歳を潮に「365連休モード」移行を決めた。昔は「隠居」と言ったが、譲るような家督はなく、余生を気ままに過ごすだけだが…


2007年1月 デジタル一眼レフを買い替え

前号でバヌアツから帰る直前にレンズとカメラ本体が次々に動かなくなったと書いた。帰国してすぐ修理に出したが、レンズメーカーから「フィルムカメラ用のレンズはデジタルで使うと性能が落ちるので、ご承知おきを」と言われた。新レンズの売り込みと聞き流したが、根拠はあった。デジタルの撮像素子は各素子が凹面構造のため、周辺部で光量オチが顕著に現れる。実用上は無視できる程度の劣化だが、「劣化」と言われると気になる。新発売のレンズが「デジタル用」を銘打っているのは、光学的な設計改良を施したのだろう。

カメラ本体(ボデイ)にもデジタル特有の課題がある。フィルム写真はレンズを通った光をフィルムに露光して撮るので、ボデイの機能は「暗箱」で写真の出来栄えには関与しない。露光したフィルムはカメラから取り出して「写真屋さん」で現像して画像になるので、写真の出来栄えはレンズとフィルムの性能だけでなく、写真屋さんのウデも影響する。

デジカメではレンズを通った光の強さを撮像素子が電子量に変換し、カメラに搭載したマイコンでデータ処理して最適な画像を作る。つまり「写真屋さん」がカメラの中に居ることになる。従って写真の出来栄えはレンズと撮像素子の性能に加え、マイコンとソフトの性能にも左右される。

撮像素子は半導体で、日進月歩の技術革新で性能が向上する。ボデイ内の「写真屋さん」もLSIと画像処理ソフトで、これもどんどん進化する。従ってデジカメは新しいほど写真の出来ばえも良くなる。半導体とソフトで動くデジカメはパソコンと同じで「陳腐化」が速いのだ。パソコンは半年で商品が入れ替わるが、デジカメも2~3万円クラスのコンパクト型は1年、20万円クラスの一眼レフ型でも2~3年で「旧モデル」になる。

バヌアツで壊れたニコン D-100 は分解掃除で蘇ったが、買ってから4年経っていた。ニコンが2005年12月に発売した後継機の D200 は既に値崩れが始まっていた。ニコンは同時期にプロ用第二世代の D2x やエントリークラスの D80 なども出していたが、迷いなく D200 に買い替え、ついでに18~200mmの万能ズームレンズ(デジタル仕様)も買った。

D200 になって画素数は 6.3百万から10.2百万に増えた。当時は「画素数戦争」の時代で、コンパクトデジカメには既に2千万画素を超えるモデルもあったが、一眼レフ用の大サイズの撮像素子を作るのが難しく、画素増とデータ処理の負荷増のバランスもあり、ハイアマ用のデジタル一眼レフでは1千万画素が適正値だったのだろう。D100 の 6百万画素でも写真展用に全紙サイズ(55×36cm)に引き伸ばして十分に使え、「画素戦争」は無意味と思うのだが、「技術競争」は始まったら止まらない。

画素が増えれば撮った写真のデータも重くなる。D100 は記憶媒体のコンパクトフラッシュ( CF)の最大容量が1GBだったので(小生は懐具合から512MBのCFを使っていたが)、撮影の1日分にも足りななかった。D200 では最大容量の制限が外れ、媒体の値段が下がったこともあり、撮影枚数を気にしなくて済むようになった。

画質の向上は「空」(Sky)の写り具合で分かった。D-100 ではベタッとした感じの空になったが、D-200では微妙な「空気感」が出るようになり、デジカメの表現力がフィルムと遜色ないレベルに達したと実感し、友山クラブのフィルム派もデジタル作品にケチをつけるのをやめた。

フィルム派が黙ったのには他に決定的な事情があった。出展作品は専門業者に頼んで印画紙に焼いてもらう。業者はおおっぴらに言わないが、フィルム作品も高性能スキャナーでデジタル化してレーザー光で印画紙に露光していた。つまりフィルム作品も最終段階でデジタル作品になり、デジタル補正も施されていたのだ。昔ながらの光学引伸し機でアナログ的にやってくれていると信じていたフィルム派は「裏切られた」気分だったに違いない。


2007年2月 パタゴニアの旅

隠居して先ずやりたかったことは「海外旅行」で、それもできるだけ遠いところに行きたかった。94年の南極半島の旅の発端は南米の先端に行ってみたいという気分だったが、それが南極まで飛躍して南米は通過するだけになった。

南米の先端部は伝説の巨足族パタゴンに由来して「パタゴニア」と呼ばれる。緯度はカナダ北部に相当し、年中冷たい強風吹きすさぶ「地の涯」で、氷河と氷河に削り出された岩峰群が世にも稀な景観を作っている。

パタゴニアに行きたいと思ったのは、数年前の友山クラブ写真展で先輩が出展した「フィッツロイ」の写真を見たからで、どうやって行くのか聞いたら「アンデス山奥にロバで3日かかる」と言われた。

そのフィッツロイの麓まで行くツアーを見つけた。「ロバで3日」の真偽はご本人が他界されていたので確かめようがないが、とにかく行くことにした。旅のレポートは下段のリンクからご覧ください。

「アンデスの名峰とパタゴニア・バス大横断、いざいかん地の果てへ、16日間」と威勢のよいサブタイトルが付いたツアーにはオマケがついた。南米の旅は米国を経由するが、往復とも米国の入出国手続きが長蛇の列になった。往路はデトロイトで乗り継ぎ便に飛び乗れたものの、荷物と生き別れになり、復路はマイアミで乗り遅れて一泊するハメになった。今も記憶に残るのは添乗員の見事な危機管理で、詳細はレポートに記したが、最近になって添乗員氏の消息を知った。地方都市の旅館の若旦那になっていた。コロナ禍で旅館業も大変だろうが、危機管理力を発揮してピンチを切り抜けていることだろう。

パタゴニアを縦断する1500Kmのバスの旅はチリとアルゼンチンの国境を3度越え、その都度検問所を通ってバスを乗り換えた。国が違うのだから当然だが、同じ人種・同じ言語を話す隣国のアルゼンチンとチリの微妙な対立を実感する旅でもあった。

アコンカグア・ブエノスアイレス  フィッツロイ・氷河他   パイネ他  ウスアイア他3

メンドーサからアンデス山中に分け入る。 米大陸最高峰アコンカグア(6962m)、奇跡的に雲が消えた。
展望台に迫るペリト・モレノ氷河の末端 氷河ウオーク
フィッツロイ(右)とエルトーレ(左)の岩峰群 パイネの岩峰群
プエルト・ナタレスで子羊のアサードを楽しむ マゼランペンギン
最南端ウスアイアのビーグル海峡 ブエノスアイレスのレコレータ墓地

2007年8月 友山クラブ写真展 「フィッツロイ2景」 

先輩が「ロバで3日」と言ったのは本当だったかもしれない。我々はフィッツロイの麓の村までバスで行けたが、道路は新しく、麓の村も西部劇のような即製の村だった。観光客を見込んでの急開発には違いないが、隣国チリとの国境紛争に備えての国策を担っているとも聞いた。無住の荒野では領土権主張の根拠にならず、民間人を定住させて実績を作る目的があるらしい。フォークランド諸島の絶海の孤島でも英国民間人がムリに定住していた。「南沙諸島」と「竹島」の領有権が決定的にならないのは、住民の「撤収」を放任した日本政府に責任があるかもしれない。

フィッツロイの定番は朝の光に赤く染まった写真だが、小生は夕暮れに雲をまとった姿と朝焼けが終わった後で雲の影が落ちた姿を撮った。フィルムで撮ると暗部が黒くつぶれるが、デジタルでは暗部に明暗のニュアンスが残る。下の写真では見えないが、実作品では前景の日影の丘の微妙な明暗が効果的で、川口先生が「デジタルでワザあり一本」と評してくれた。


「乱雲の峯」 Nikon D-200、18-200mm 


「山静穏」 Nikon D-200、18-200mm

日本百名山 2007年

百名山踏破が最終段階に入った。現役時代に近場の山を日帰りや週末登山でかたづけたので、残っていたのは2日以上を要する山ばかりだが、3千m級や北海道の山は雪解けを待たねばならず、8月下旬になれば台風の心配があり、行動可能なシーズンは短い。2007年は北海道の山を終わらせることにした。どれもアクセスが面倒で難易度も高い山なので登山ツアーに参加した。

中でも日高山脈盟主の幌尻岳は百名山の最難関とされる。ノーマルルートでも渡渉(沢歩き)があり、水量が多い時はヘソまで急流に浸かる。我々のツアーは事前の渡渉訓練が条件で、苗場の山間で一泊の講習を受けた。我々の時は往復とも水量は膝までだったが、それでも他のグループの年輩の女性が水圧に敗けて流され、ずぶぬれで救助された。我々のツアーは地元山岳会のサポートもあり、とにかく無事に最難関を終えてホッとした。

 6月17日 後方羊蹄山(1898m)北海道 登山ツアー。登山口との標高差1500mがキツイ
 6月24日 トムラウシ(2141m)北海道 トンボ返りの登山ツアーで難関を踏破
 7月21日 飯豊山(2128m)山形/福島/新潟  登山ツアーで。長い急登にバテバテになった
 7月29日 聖岳(3013m) 南アルプス最南の3千m峰。登山ツアーで
 8月3日  悪沢岳(3141m)南アルプス、東岳ともいう。登山ツアーで、台風接近の強風をついて縦走
 8月4日  赤石岳(3120m) 悪沢岳から雨の中を縦走
 8月9日  間ノ岳(3189m) 南アルプス 自力で北岳から縦走して登頂
 8月27日 幌尻岳(2052m) 北海道 沢の渡渉が百名山の最難関とされる。登山ツアーで登頂

日本百名山 北海道篇 東北篇 南アルプス篇

6/17 後方羊蹄山 山頂の火口に雪が残る 6/24 トムラウシ山。
7/21 飯豊山 キツイ登山を慰めるひめさゆりと日光キスゲ 7/29 聖岳 最南の3千m峰は遠くキツイ
8/3 悪沢岳で雨があがり、見事なお花畑を下って荒川小屋へ 8/4 赤石岳には雨中登山、小屋に下ると夕焼けの赤石になった。
8/9 間ノ岳 北岳から3千mの稜線歩きが素晴らしい 8/27 幌尻岳 渡渉は膝までだったが、ヘソ以上になる時もある。

2007年10月 米国西部6千Kmの旅

米国在住の長女がアリゾナ州のページに3ヶ月滞在するので、遊びに来ないかと声をかけてくれた。若い頃にロスに長期出張し、連休に出張仲間と遠出ドライブで西部の有名観光地を走りまわったが、ゆっくり楽しんだことがなかった。娘がつきあってくれるのは週末だけだが、車の運転は慣れている。ロスを起点にレンタカーで周遊する3週間の旅程を組み、予約が難しいグランドキャニオンとヨセミテの宿はロスで旅行会社を営む友人に頼んで確保してもらった。

山歩きに主眼を置いた。サワロ国立公園でサボテントレイルを歩き、ザイオン国立公園のビューポイントを巡り、グランドキャニオンでは旅行者の少ないノースリムを訪れ、サウスリムでは断崖をコロラド川近くまで下った。ブライスキャニオンで奇岩の林を巡り、デスバレーも歩けるところは歩いた。ヨセミテ国立公園で5泊し、ヨセミテ滝の脇を登ったりミュイアトレイルを歩いたりした。3週間の旅の走行距離は4,010マイル(6,416Km)で、稚内~鹿児島の往復より長かった。やっぱりアメリカはデカい!

米国50州雑記帳 南カリフォルニア ネバダ・アリゾナ 中央カリフォルニア 秋の国立公園を巡る(旧サイト)


10/5 ツーソン郊外のサワロ国立公園は「サボテン山」 10/8 ザイオン国立公園の展望台から
10/9 グランドキャニオンのノース・リム。 10/11 サウスリムのブラントエンジェル・トレイルを下る
10/11 プラトー・ポイントに下って谷底のコロラド川を見る  10/12 サウスカイバブ・トレイルを下る
10/14 ブライスキャニオンの全貌 ブライスキャニオンのブードゥー(疫病神)
10/16 デスバレーのザブリスキー・ポイント 10/17 デスバレー、ダンテ展望台から
10/19 ヨセミテ滝の脇を登り、滝の落ち口から展望 10/20 ミュイアトレイルでカテドラル湖へ

2007年11月 スペイン旅行

以前の号にも登場いただいた旅行会社OBの Nさんがスペインの旅に誘ってくれた。1年に3回のヘビーな海外旅行はキツイが、ガンの手術をした知人の「行けるときに行かないと後悔する」の述懐が耳に残り、参加を決めた。

「太陽が沈まない帝国」といわれたスペインだが、その地位を英国に譲り(更に米国へ)、近代以降のスペインは失礼だが「斜陽国」の印象が強い。歴史が不得意学科だった小生は「歴史オンチ」を自認しているが、スペインの歴史には興味が湧いた。スペインはローマ帝国→ゲルマン(ゴート族)→ウマイヤ朝(北アフリカ・イスラム)の支配を経てようやくスペイン王国が成立したが、その王家はハプスブルグ系からブルボン系に代わり、現王家の血筋はフランス系なのだ。島国で「万世一系」を戴く日本人は、「荒々しい歴史」と言われても「戦国→秀吉→家康→明治維新」のイメージしか浮かばない。スペインの歴史を敢えて日本にあてはめれば(乱暴だが)、国の支配者が蒙古→中国→ロシア→米国と転変し、現帝室の血筋が英国系、といった具合になる。

日本が他国に占領されたのは第二次大戦後の7年(沖縄は27年)だけで、その事実も殆ど忘れ去られている。世界史の中で日本の歴史が飛びぬけて「平穏」だったおかげで、日本人は歴史の激しさを実感できず、他国が背負う歴史の苦しみへの想像力を欠き、厳しい国際社会の中で「ボーっと生きている」ような気がする。

マドリード・トレド・セゴビア  セビリア・ミハス・ロンダ  グラナダ・バルセロナ

トレドの全景。16世紀までスペインの中心だった。 セゴビアに残るローマ時代の水道橋は2千年後も現役。
セゴビアのアルカサル(城)は白雪姫の城のモデルとか。 セビリアの中央駅。マドリードから超特急で3時間。
セビリア大聖堂のコロンブスの棺。4人の王に担がれている。 セゴビアのアルカサル。キリスト教の王がイスラム職人に作らせた
地中海に面したミハスは「白い村」。 古代ギリシャの時代から栄えたロンダ。
ロンダの闘牛場はスペイン最古と言われる。 コルドバの大聖堂はイスラムのモスクを改装した。
移動途中のトイレ休憩で結婚式に出会った。 中世の名残りを残す丘上都市
グラナダのアルハンブラ宮殿 グラナダのアルバイシン地区でフラメンコを見る。
バルセロナのガウデイ設計のニュータウンは売れなかった サグラダファミリアの入口の彫刻。どうも好きになれない。

2008年2月~11月 フォトレタッチ研修、ウェブデザイナー研修

前々号に「デジタル時代の到来で、アマチュアでもパソコンで「暗室作業」が可能になり、自分好みの写真を作る至福の時を取り戻した」と書いた。デジタルカメラは内臓した画像処理ソフトで「最適画像」を作り、JPEGのデータで出力する。JPEG画像を再加工すると色情報が崩れて画質が劣化する。これを避けるため、中級以上のデジカメには撮像素子が得た電子情報を最適化せずにナマで出力する「RAW」モードがあり、そのデータをパソコンで「現像」して「自分好みに加工」できる。RAWのデータは元のまま残るので、やり直しても劣化しない。

「RAW」から画像を作る「現像ソフト」は夫々のカメラメーカーが提供しているが、どのメーカーのRAWでも処理・加工できる「業界標準」ソフトがある。Adobe社の「 Photoshop」で、メーカーのソフトでは出来ない細部の加工や高度な画像合成の機能があり「あらゆる画像加工が可能」と言ってよい。「それでも写真か」と批判する人はいるが、商業写真の業界では Photoshop による画像加工が日常作業で、「レタッチャー」(画像加工士?)と呼ばれる職業がある。

デジタルで「作品」を作るには「デジタル暗室」が要る。フィルム時代に自家暗室を作った人は、家の改造や水回り工事などで「ひと財産」使った筈だ。デジタル暗室もタダでは出来ない。Photoshopのライセンス料は当時約10万円だった。色彩を正しく再現するカラーマネジメント・モニター(右)と写真用プリンターも不可欠で、部屋の照明も自然昼光(色温度5000K)で統一する。パソコンも重いRAW画像データの処理に高性能モデルが欲しくなり、一式揃えるとフィルム用の自家暗室を作るのと同程度のおカネが要る。

Photoshop は職人用のツールで、シロウトが参考書を読んでスラスラ使えるようなシロモノではない。調べると「入門」から手ほどきしてくれる講座が見つかった。夜2時間の10回コースで、デジカメの仕組みや色の三原色の原理に始まり、デジタル画像修正の基本技術を学ぶ。12名の生徒は若い人が多かったが、シニアも小生の他に2名いた。学校まで片道2時間の通学も苦にならず、「初級」「中級」も受講した。「上級」は1年間のプロレタッチャー養成コースで、そこまで極めるつもりはなかった。

JICAボランテイアの千葉県OB会でホームページ担当(ウェブマスター)を押し付けられたことは前号に書いた。ホームページ制作の業界標準ソフトは Adobe DreamWeaver で、これも独学で習得はムリ。ウェブデザイナー養成学校に2ヵ月ほど通学したが、若者がスラスラと課題をこなす中、小生は落ちこぼれて後半は講師にスルーされ、「落第」状態のまま現在に至る。将棋に例えれば、駒はなんとか並べられるが、「歩」を敵陣に打つと「金」に成ることも知らない段階と自覚している。


2008年6月 パキスタン フンザの旅

バヌアツのシニアボランテイア仲間からメールをもらった。パキスタンに再派遣中で、在パキスタンのシニア仲間でフンザを旅行するので飛び入りで参加しないかとのお誘いで、ありがたく乗せていただいた。イスラマバード往復は個人旅行で、航空券手配とビザ取得は自力だが、やってできないことはない(その結果事件が起きたが)。

フンザは「平和の里」のように聞こえるが、中国、インド、アフガニスタンに挟まれた「紛争地帯」で国境も定かでなく、昨年(2020年)中村医師が襲撃された現場も近い。そんな地域の旅行にさまざまな配慮をいただいたのだろうが、山間ではテロリストの誘拐に備えて我々のマイクロバスの前後を武装した警察車両が警護してしくれた。我々が訪れた3年後の2011年に米国同時多発テロの首謀者とされたビン・ラデインを米海兵隊の特殊部隊が射殺し、報復を怖れてフンザ地区の旅行は全面禁止になった(現状は確認していない)。「行ける時に行く」は旅行者自身の健康状態だけでなく、国際情勢にも左右される(その後に予定したベネズエラ(2019年)とアルメニア(2020年)の旅行はダメになった)。

旅のレポートは下段のペ―ジでご覧いただくとして、書きそびれた失敗談がある。フンザの旅を終えてイスラマバードに戻り、帰国まで2日あったのでイスラマバードの旅行社に手配してもらい、小生一人にガイドと運転手が付くゼイタクな旅でインド国境のワガ―まで足を延ばした。国境で敵国同士の軍隊が睨みあいながら国旗降納するセレモニーに英国譲りのユーモアを感じ、ラホールの史跡を楽しみ、夕方イスラマバードに戻って深夜0:20発の便を待った。

チェックインが始まってチケットを出すと「これは昨日の便だ」と言う。0:20 が「今日の続き」と思い込んだ小生のチョンボで、「チケットは買い直し、但しこの便は満席」と言われた。片道正規料金はビックリするほど高額だが、買うしかない。出発間際にカウンターに呼ばれて「空席が出来た」とボーディングパスを渡された。クレジットカードを出すと付き返し「早く行け」と目でいう。「昨日」のチケットで乗せてくれた航空会社に遅れ馳せながらお礼を申し上げる。

イスラマバード・ガンダーラ  フンザ・クンジュラブ峠  フンザ・長谷川記念校  ワガ―・ラホール

首都イスラマバードは意外にも緑ゆたか。眼下にモスクが見える よそ行きの官庁街の裏はゴチャゴチャした商店街
イスラマから車で30分のタキシラはガンダーラの仏跡 ギリシャ彫刻の影響を受けた仏像が並ぶ
イスラマからフンザへ600Kmの旅。 途中で土砂崩れで停滞、村の子供たちが集まってきた。
途中で1泊、3大山脈合流点に聳えるナンガパルバット(8125ⅿ) フンザの中心地カリマバードの城の衛兵とラカポシ(7788ḿ)
ホテルの庭から月明の名山を眺める ラカポシの朝焼け
デイラン 7267m(北杜夫 白きたおやかな峰のモデル) カラコルムハイウェイを北に向かう
標高4千mを超える。落石注意と言われても… クンジュラブ峠(4780m)は中国国境だが検問所はない。
フンザの里 フンザの里人
フンザの聖母子 登山家長谷川恒夫を記念して寄贈された学校の生徒たち
インドとの国境ワガ―で国旗収納セレモニー(インド側) パキスタン側の応援団長
ラホールの駅で 案内してくれた運転手が紅茶をごちそうしてくれた。
2009年9月 友山クラブ写真展 「カラコルムの名峰」

フンザ観光の拠点カリマバードは標高2400m。歩かず、低酸素に苦しむこともなく、ホテルの庭に三脚を立ててラカポシ、デイラン、スパンテーク、ウルタルなど7千m級の名山を撮ることが出来る。中でもラカポシは時々刻々姿を変え、いくら撮っても撮り飽きない。その中の1点を写真展に出したところ、会場を訪れた見ず知らずの方から「譲ってくれ」と言われた。


「雄峯ラカポシ」 Nikon D-200、80ー400mm  写真展に来場された方が購入


「夜明けのゴールデンピーク」 Nikon D-200、 80-400mm


2008年 日本百名山

百名山踏破は「他人が設けた目標をひたすら消化する会社員の仕事のようなもの」と書いたが、ここまで来ると「予算達成までもう一息」の気分になる。梅雨が明けるのを待って伊吹山に登った。標高は低いが豪雪のためこの時期に高山植物のお花畑が現れる。山頂近くまで車で行けるが、足ならしのつもりで麓から登り、樹林のない夏のスキー場の急坂登りは地獄と知った。

南アルプスの「最後の詰め」をする。南アルプスは北アルプスに比べて山が深く登山者も少ない。登山口の標高が低く亜熱帯の森を歩くようで、山ヒルに吸いつかれることもあるが、登らないことには百名山が終わらない。今回は登山ツアーではなく、自力で登山口にたどりついて山頂を目指した。登山レポートは「中・南アルプス」のページをご覧ください。

秋も深くなってから上越2山をつぶした。機織り姫の伝説のある巻機山頂から錦織りなす紅葉を楽しみ、苗場山(スキー場のナエバではない)で高層湿原の草紅葉に心を奪われた。登山レポートは「北関東・上信越」をご覧ください。これで残る山は北アルプスの6座だけになった。

  7月15日 伊吹山(1377m)滋賀県 長浜からバスで登山口へ
  7月23日 薬師岳(2926m)初の北アルプスの本格登山。富山市側から登る
  7月31日 甲斐駒ヶ岳(2967m)南アルプス。伊那側から登る
  8月6日 塩見岳(3047m)南アルプス深部の山。これも伊那側から
  8月14日 光岳(2591m) 南アルプス最南の百名山。飯田から長い林道でアプローチ、難関の一つとされる
  9月4日  鳳凰山(2840m) 南アルプス。甲府の夜叉神峠から登り青木鉱泉に下る
  10月2日 赤岳(2899m) 八ヶ岳の最高峰 シーズン終りで山小屋は営業最終日
  10月13日 巻機山(1967m) 新潟/群馬 魚沼の清水集落に前泊して登る
  10月18日 苗場山(2145m) 新潟/長野 秋山郷に前泊して登る

2008/7/15  伊吹山 山頂は高山植物の花盛り 2008/7/23 薬師岳と太郎平小屋
2008/7/31 甲斐駒ヶ岳山頂直下の白砂の急坂 2008/8/6 塩見岳 山頂は雲の中、下りで雷に遭う。
2008/8/14 光(てかり)岳、やっとたどりついた光小屋 2008/9/4 鳳凰山 地蔵のオベリスク
2008/10/2 八ヶ岳赤岳から富士山 八ヶ岳山頂から北アルプスの穂高連峰
2008/10/13 巻機山頂から上越の山 2008/10/18 苗場山頂の湿原(スキー場のナエバとは無関係)

2009年 日本百名山踏破

最後に北アルプスの3千m級の6座が残っていた。年齢と共に高度障害を感じるようになり、5月下旬に雪の立山に2泊して順応に努めた。黒部源流の3座は山中4泊の縦走で天候が気になる。この年は梅雨が明けても天候が不安定で、早目の台風接近も襲来し、シーズン中の踏破が可能か心配だったが、晴れ間を縫って山と家のトンボ返りを繰り返し、8月24日に奥穂高岳で無事百名山を完登した。2011年に不注意でパソコンを壊し、バックアップも一部復旧できず、この時期に撮った写真の大半を失った。幸い一部がウェブ用と友山クラブ例会用に別管理してあったので全滅は免れたが、戻らなかった写真ほど欲しくなる。

 7月28日 白馬岳(2932m) 高校時代に登ったが、つれあいの登頂につきあう
 8月4日 鹿島槍ヶ岳(2889m) 晴れ間を見つけて飛び出し、山小屋に連泊して山頂を往復
 8月18日 黒部五郎岳(1840m) 鹿島槍から帰宅し、天候回復の兆しにとんぼ返りで黒部源流3座を縦走
 8月19日 鷲羽岳(2924m) 黒部五郎岳から縦走、三俣山荘に泊まって翌朝登頂
 8月19日 黒岳(水晶岳)(2986m) 鷲羽岳から一気に黒岳を往復、双六小屋に泊って下山
 8月24日 奥穂高岳(3190m) 黒部源流から帰宅、天候を確認して折り返し、横尾から奥穂高岳登頂で百名山完登

登山レポートは「北アルプス-1」をご覧ください。

7/28 白馬岳 山頂直下の小屋から杓子岳と白馬鑓が岳 8/4 鹿島槍ヶ岳に滝雲がかかる、種池小屋から
8/18 黒部五郎岳山頂 8/19 鷲羽岳 三俣蓮華岳から
8/19 黒岳(水晶岳)  8/24 奥穂高岳で百名山完登
2010年9月 友山クラブ写真展 「黒部五郎岳」

あちこちで言い訳けをしてきたが、百名山登山と山岳写真は両立しない。山岳写真は構図に加えて光と雲の具合が「いのち」だが、百名山は山頂往復が目的で、撮影スポットを探したり「その瞬間」を待つ余裕はなく、荷物を軽くするために撮影機材も最小限しか持たない。

そんなわけで、百名山登山で撮った写真で「作品」になったのは「黒部五郎岳」の2枚だけ。川口先生から「黒部五郎の特徴をよく捉えた」と評していただいた。ちなみに「~五郎」は「石がゴロゴロの山」の意味。ちなみ「野口五郎岳」は麓の野口集落から見える石がゴロゴロの山で、芸能人の持ち山ではない。


「黒部五郎岳 2840m」 Nikon D-200、 18-200mm


「氷河圏谷底」 Nikon D-200、18-200mm


2009年10月 シチリア・南イタリアの旅

この旅もNさんのツアーに参加させてもらった。歴史がぎっしり詰まったシチリア島を起点に、イタリア南部の世界遺産アルベロベッロを訪れ、列車でトスカーナに移動し、農家民宿でオリーブの収穫を体験するという手の込んだ趣向は、Nさんの旅ならではである。

シチリアはマフィアの本拠としか知らなかったが、歴史の複雑さでは前述のスペインを上回る。そもそもシチリアがイタリアの一部になったのは1861年で、そのイタリアも混迷の連続で無政府状態に陥り、それがマフィアの温床になったと言われる。その辺りの経緯はシチリア島の記事に譲るが、小生の「歴史ギライ」の呪縛はこの旅で完全に解けたような気がする。年代や人物の名前を正確に覚えられなくても、因果関係を追えば歴史は面白いと古稀近くになってやっと分かった。

シチリア島  南イタリア(アルベロベッロ) 北イタリア(トスカーナ)

パレルモ ホテルの窓から朝の市場 バイキングが築いた独特のキリスト教世界
アグリジェントのギリシャ神殿 古代ローマの都市後に残るタイル絵
タオルミナの市街とエトナ火山 ハロウイーン姿の幼稚園児(タオルミナ)
アルベロベッロのトゥルッリ街 トゥルッリは石板を積み上げた仮設住宅
トスカーナのアグリツーリズモ(農家民宿) オリーブの収穫に参加。