2006年春、バヌアツが「世界一幸福な国」と報道されて話題になったのをご記憶だろうか。当時バヌアツでJICA海外ボランテイアをしていた小生、ビックリしてネットで元ネタのレポートを読み、「なるほど、こういう考え方もアリか!」と一種の感動を覚え、レポートの概要と感想を「バヌアツ通信」に掲載した。
「バヌアツ通信」は当ホームページに移転済、 「幸福度指数」世界一の意味するものバヌアツを反芻する

「幸福度指数」(HPI=Happy Planet Index)は、英国のシンクタンク nef(The new economy foundation)が提唱したもので、右の計算式で算出される。つまり、人の幸せは、地球を壊さずに、人生に満足し、長生きすることで、経済的な豊かさは関係ナシということになる。それはバヌアツ人にズバリ的中していた。

「人生満足度」(Life satisfaction)は、日々の暮らしの中で感じている達成感や不安についての40項目のアンケートを集計したもので、世論調査をあまり信用しない小生だが、自己採点のページで回答を入力すると、何と日本人の値とピタリ同点が出た(つまり小生は平均的日本人?)。日本人の満足度は先進国の中で最も低く、それがHPIの順位を下げている。周囲に気を使い、やりたいことをガマンし、育児や親の介護、老後の不安がつきまとう生き方がデータに出るのだろう。欧米先進国(特に北欧)で満足度が高いのは理解できるが、中南米や南太平洋の発展途上国(貧困国)の高い満足度は「悩まないで明るく暮らす」風土が表れるのだろう。

「平均寿命」(Life expectancy)が正確とは限らない。バヌアツには戸籍がなく、100人程度の集落でも住民が何人いるか分からず、医薬品の配布で毎回混乱すると衛生管理のボランテイアがボヤく。年齢も「あいつが100歳ならオレは105歳!」のレベルで、人口と寿命がアヤシければ平均寿命も当然アヤシイことになる。世界で国勢調査をキチンと実施している国はむしろ少数派で、アヤシイのはバヌアツだけではないだろう。

「地球環境負荷」は Ecological footprint を意訳したが、定義が複雑難解でアタマに入らない。要するに、人が生活するために消費している資源の量と理解する。先進国では快適な生活のために大量の資源を消費するが、そんなことを続ければ人類滅亡の危機が早まるゾ、というのが nef の主張の全てだろう。

久しぶりに nef のサイトを開いたら2016年に再調査したレポートがあったので、右欄にそのデータを示す。

 
2006年版の調査対象は178カ国だったが、2016年版では140カ国に減った。順位の対比を容易にするため、2016年版の対象国数を仮想的に178として順位を補正し、6位以下を仮想の修正順位で示した。(例 日本 58位 → 修正順位 74位)

基本的なコンセプトは2006年版と同じだが、人生満足度に世界的な世論調査会社のギャラップ(Gallup)のデータを採用したことと(ギャラップ自身も「幸福度ランキング」を発表している)、データの上下巾を不平等率(Inequality of outcome)として評価に反映した点だろう(差が大きければ不平等を意味しスコアが下がる)。優良(緑)・まあまあ(黄)・劣悪(赤)の色分けも2006年版と基準が異なる。

2006年→2016年で全般的な傾向として言えるのは、人生満足度が下がり、平均寿命が伸び、環境負荷が重くなり、優良・まあまあ・劣悪の差が縮まったことだろう。順位が大きく動いた国もある。メキシコが38位から2位に栄進したのは人生満足度の向上が主要因で、政情がやっと安定したことが反映しているかもしれない。中国の31位から91位への転落は満足度低下と環境負荷の悪化が原因で、やっぱりそうかと思う。英国の108位から41位への躍進は環境負荷の改善に拠るが、米国も改善している。英米が何を改善したのか知りたくなる。

バヌアツがトップから4位に順位を下げたのは、満足度の低下と環境負荷の劣化による。2006年に nef が最初のレポートを発表した時、自国が「世界一幸せな国」と知ってバヌアツ商工会議所のスタッフが喜ぶと思いきや、「イギリス人がまたバヌアツ人をコケにしやがった!」と悲憤慷慨したのは意外だったが、考えてみれば当然の反応で、「脳天気に原始の生活を続けなさい」と言われたのに等しいからだ。バヌアツ人に「経営管理」を伝授する任務を負う小生も共に悲憤慷慨すべきだったかもしれないが、40余年の日米での会社勤めで自由市場経済の行く末に疑念を感じていた小生、経済発展が人間の幸福に繋がらないという nef の問題提起に共感する気分もあった。

nef がロンドン拠点のシンクタンクと知ってピンと来た。2006年の nef の役員の顔ぶれを調べたら、急進的な自然保護団体として知られ、日本の捕鯨を執拗に攻撃する「グリンピース」(Greenpeace)の役員と同じだった。やはり nef はグリンピースの別動隊だったようだ。nef の意表を突く視点に一面の真理はあっても、警鐘を鳴らすだけでは説得力を欠き有効な活動に発展しない。活動はグリンピースの方でやるというのなら、両者の関連を明示するべきではないか。

2015年の国連サミットで採択された SDGs 「持続可能な開発目標」(Sustainable Development Goals)が合言葉のように使われるようになった。掲げた17の目標の中に地球環境に係わる項目として「 13.気候変動への具体的対策を」、「14.海に豊かさを守ろう」、「15.陸の豊かさも守ろう」があり、「環境に配慮しながら経済発展しよう」が SDGsの趣旨と理解する。参考にSDGs 達成度の現順位を最右欄に示した。HPI より説得力があるような気もするが、119位のバヌアツの商工会議所スタッフはSDGsにどう反応しているだろうか?



以下の稿は2004~06年当時のバヌアツとJICAシニア海外ボランテイアの事情を手元にある資料と記憶で書いた。記憶違いや思い違いがあるかもしれず、当時と今とでは事情が変わっている点もご承知の上お読みいただきたい。

2004年10月 JICAシニア海外ボランテイアでバヌアツ共和国へ

「バヌアツ」という国を知っている人は少ない。高校時代「人文地理」が得意科目で、1960年の入試科目で満点と内心思っていた小生も、JICAの募集要項を見るまで知らなかった。それもその筈、1980年までバヌアツは存在しなかった。それ以前この地域は「ニュー・ヘブリディーズ諸島」(New Hebrides)と呼ばれていた。高校の教室の大世界地図に「エロマンガ」という島を見つけて大騒ぎしたが、それがニュー・ヘブリディーズの島の一つと知らなかった。

ニュー・ヘブリディーズは1980年7月30日に独立して「バヌアツ共和国」になったが、面倒なのでここでは独立前も「バヌアツ」と呼ぶ。実はバヌアツと日本は込み入った因縁がある。その因縁は首都ポートビラの「バウワーフィールド国際空港」(Bauerfield International Airport)を発着する日本人に絡みつくのだが、そのことに気付く人は滅多にいない。国際線ターミナルは日本が1991年にODA(政府開発援助)で無償供与したものだが、そのことはひとまず脇に置く。

問題は「バウワー」(Bauer)である。この人物は太平洋戦争初期に米軍海兵隊の戦闘機パイロットだったバウワー中尉で、この飛行場からソロモンのガダルカナルに出撃し、日本軍機を11機撃墜して戦死した。そのエースパイロットを顕彰して「バウワー飛行場」(Bauerfield)に呼ばれた飛行場が首都の国際空港になった。つまり、ガダルカナルで日本軍に最初の一撃を与え、連合軍を勝利に導いた軍人の名を冠した空港なのだ。待合室に掲げられた彼の肖像(右)を見ると、日本の国民の税金で建てたものに…というような狭い料簡はないつもりだが、太平洋戦争の記憶がある日本人として複雑な感情が湧く。

「連合軍」には豪州や欧州の兵もいたが、大半が米兵で指揮官も米国人だったので、ここでは「米軍」と呼ぶ。話が回りくどくなったが、要するに、バヌアツは太平洋戦争のガダルカナル戦で旧日本軍に大打撃を与えた米軍の基地だったのだ。往年のミュージカルの名作「南太平洋」はバヌアツ駐留米軍がモデルで(映画はハワイで撮ったが)、将校クラブのドンチャン騒ぎもあのとおりだったらしい。テーマソングの「バリハイ」火山(アンバエ島)は今も噴煙を上げ、作者のミッチナーが滞在して原稿を書いた将校クラブもポートビラの高級リゾートになっている。

米軍の10万の大軍がエファテ島のポートビラ近くの海岸に上陸したのは、真珠湾開戦から4ヵ月にもならぬ1942年3月29日だった。バヌアツの防衛と言うより、南下する日本軍をここで食い止め、オーストラリアとニュージーランドを守る作戦だったとされる。米軍は日本軍が既にバヌアツまで進出していると考え、敵前上陸の戦法を採ったと伝えられるが、米軍は日本軍の動きを掌握していた筈で、兵士にそう思い込ませ、実戦訓練を兼ねての上陸だったと小生は推定する。何れにせよバヌアツに日本兵の姿はなく、その後も戦場になることはなかった。

上陸した米軍は直ちにエファテ島の基地化を進め、2ヵ月で軍用道路、飛行場、艦船の停泊施設を完成し、更にソロモンに近いサント島に前進基地を築き、周辺の島々にも偵察部隊を配置した。米軍は各地でバヌアツ人を人夫や雑役に徴用したが、バヌアツ人には驚くことばかりだった。植民地のボスである英国人とフランス人はバヌアツ人を未開人扱いしていたが、米軍は全く違っていた。取引相手として対等に接し、給料や代金をキチンと払い、薬品や物資を惜し気もなく配った。何よりも驚いたのは、自分たちと同じ黒人が高度な軍務に就いていることだった。

米軍がバヌアツ人をどう扱ったか、バヌアツ人が何を感じたかを記録した本がある。1998年にニュージーランド人の教師夫妻が出版した「バヌアツ人の戦争体験」(Ni-Vanuatu Memories of World War Ⅱ)で、高校生に祖父の世代の古老から体験談を聞き取る課題を与え、そのレポートを集約して出版したものである。2009年に小生が全訳して当ホームページに掲載したが、当時の米国人の気質を知る上でも興味ある内容なので、ご一読いただきたい。

1942年7月にガダルカナルに進出した日本軍は、まさに「飛んで火に入る夏の虫」だった。ガダルカナルに投入した3万2千の兵は5千人が戦死、1万5千人が餓死した(その後ガダルカナルは「餓島」と呼ばれた)。一方の米軍は6万を投入、戦死者は1千人に留り、餓死者はもちろんゼロ。米兵はコーラ飲み放題で、今もバヌアツの浜に1941年の刻印のあるコーラのが打ち寄せるのは、餓死した兵士の同胞として誠にやるせない思いがする。(参考:ガダルカナル戦 略史 第二次大戦時とエファテ島

日本軍はガダルカナルの大敗に学ぶことなく、1944年3月のインパール作戦(ビルマ・インド国境)でも兵站(補給)を怠り、場当たり的に出撃命令を繰り返して16万を戦死・餓死させた。今回のコロナとの戦いでも、兵站(ワクチン)を怠り、場当たり的な命令(宣言)を小出ししながら、「オリンピックは安心・安全」の大本営発表で国民の気をそらす。この国の「お上」のやることは80年前とあまり変わっていないように見える。

エファテ島のメレ湾に上陸する米軍兵士 現在のメレ湾 左のゴルフ場が上陸地点とされる
バウワー飛行場は現在も国際空港として使われている。 飲み捨てられたコーラの空き瓶。1941年製の刻印がある。

バヌアツ到着、現地研修

日本からバヌアツに直行便はない。当時はシドニーから週3便、ニューカレドニアのヌメアから2便、フィジーから2便飛んでいた。バヌアツの空港は滑走路が短いので、中継地で中型機に乗り換える。JICAの指定便はシドニー経由で、Air Vanuatu の B737 で首都ポートビラに飛ぶ。人口わずか21万の小国の航空会社が B737 を3機、ATR40 を2機、国内線用に Twin Otter(19人乗り)を5機、Islaner(9人乗り)を2機保有しているのだから、たいしたものだと思う。もっとも国際線の客は99%が外国人である。国内線は離島との交通手段がこれしかないのでバヌアツ人も使う。

10月7日にポートビラ着。最初の3週間は生活のセットアップと研修である。JICA現地事務所の所長と調整員がいろいろ面倒を見てくれるが、ボランテイアは「自分のことは自分で」が原則。住居は職場近くのキッチン付きホテルを長期契約したので電気・水道・ガスの手配は不要だが、別送荷物の引取り、銀行口座開設、ケイタイ電話加入、データ回線手配、プロバイダー契約など、スロモーな窓口にガマン強く並ぶしかない。

研修では毎日2時間の「ビスラマ語」の授業があった。バヌアツの言語事情は複雑だ。21万人が63の島々の集落に分かれ住み、そこでは今でも(2004年当時)110種の異なった伝統言語が日常的に使われているのだ。方言ではなく隣の集落とも通じない独立言語であることは、集落をまとめる強力な統治者が出現したことがなく、小集落が交易もせずに孤立して自給自足で暮らしてきたことを意味する。

19世紀になってイギリス人とフランス人の冒険的入植者が島々に渡り、同行した宣教師が先住民のキリスト教化を進め、その結果、島(集落)が英系(新教)と仏系(カトリック)に色分けされた(人口比で英7:仏3)。英系の農園では先住民とボスの英国人の会話に「かたこと英語」(Pigeon English)が使われ、それが別の集落のバヌアツ人との会話に拡大して共通言語の「ビスラマ語」になった。仏系に「かたこと仏語」がないのは、先住民にキチンとした仏語を使わせたのかもしれない。

更に複雑な要因が加わる。英人と仏人の入植者は19世紀末まで夫々勝手に農園を経営するだけで本国の関与は薄かったが、20世紀に入ってドイツが勢力を伸ばすと、英・仏は国家として既得権益を守るべく、この地域を共同統治する条約を1922年に締結した。コンドミニアム(Condominium=共同主権)と呼ばれる奇妙な連合は1980年の独立まで続く(この間の事情は「英仏共同統治時代」で概説)。

独立時の憲法で「公用語」に英語と仏語が併記され、義務教育(小6まで)では集落毎にどちらかを選ぶことになった。だが英語や仏語に堪能なバヌアツ人の教師が足りるわけがなく、「ビスラマ語」を公用語に加える気運が生じたが、仏系が「かたこと英語」の公用語化に強く抵抗した。その後仏系が折れてビスラマ語も公用語になったが、教育では英語・仏語の原則が残った。ビスラマ語では観念的な概念を表現しきれず、教育に不都合なことは確かだ。

コンドミニアムは背に腹を代えられない状況で成立したが、元々英と仏は水と油で仲良く協調できる筈がない。首都では英仏が夫々の役所を構え、警察・刑務所も二つあり、仏の警察に捕まった方が美味いメシが食えるといった冗談めいた逸話もある。1980年の独立を機に英国はサッサと身を引き、旧宗主国の役目をオーストラリアに押し付けた。フランスを引き継いだのは EU代表部で、劣勢のEUは事ある毎に存在感を主張する。商工会議所が英語のパンフレットを出すとEUから「仏語版はいつ出すのか」と電話が来たり、「EUは英語の事業を支援しない」とわざわざ念押しの手紙が来たりした。

ビスラマ語を教えてくれたのはハナ(Hannah)先生。3人の子供がいる一見ふつうのバヌアツのおばさんだが、英国の名門オックスフォード大学の大学院で比較言語学を研究し、言語学博士の称号を持つ。もちろん完璧な英語を話し、文法も表記もあいまいなビスラマ語を論理的に教えてくれた(バヌアツで最も優れた頭脳の持ち主かもしれない)。ビスラマ語については「ビスラマ語入門」を参考いただきたい。

研修の仕上げに3泊4日のホームステイを課せられた。首都から車で45分のエパウ村で生活体験し、ビスラマ語に磨きをかけるのが目的である。エパウ村は米国も平和部隊の訓練に使うので研修生を受け入れる家庭が数軒あり、小生はアダさん一家のお世話になった(アダが Arther のバヌアツ訛りと後で知った)。

せっかく学んだビスラマ語だが磨きはかからなかった。かたこと英語とはいえ独特の言い回しが多く、早口で聞き取れない。還暦を過ぎて新たな外国語の習得はムリと自覚したが、仕事も生活も英語で用が足りたのでサボったのも事実。

エパウ村滞在記  アダさんの1日  エパウの街道を行く  「バヌアツに暮らす」目次

アダさん一家(左から2人目はJICAの現地職員) アダさんの家はバヌアツ基準では豪邸(左が研修生用の別棟) 
アダ家の婿さんは村のパン屋さん。裏庭のパン焼き窯の前で。 キッチンに水道・ガスなく、焚火で焼いた石で蒸し焼きする。
アダ家の前の「国道1号線」は米軍の軍用道路だった エパウ小学校はオーストラリアが寄贈。教室は3室だけ。
教室に入れない学年は屋外授業。 学齢前の子供たち。大人びて賢そうな表情をしている。

バヌアツ商工会議所での仕事

JICAシニアボランテイア(SV)は派遣要請のあった職場に配属され、先方の担当者(Counterpart)と共同で仕事をする。小生の場合はポートビラ商工会議所(Port Vila Chamber of Commerce)だが、バヌアツには商工会議所が1つしかないので「バヌアツ商工会議所」で通っている。商工会議所は一般にその地域の商工業者で組織された会員制の経済団体(社長の集まり)である。勤務の初日に所長が「会員が5千人」と威張って説明してくれた。だが人口21万の発展途上国に「社長5千人」は理解し難い。会員名簿を見たいと言うと「無い」、会費をどう集めるのか尋ねると「これを読め」と分厚い書類を渡された。

「1995年商工会議所設立法」に目を通して謎が半分解けた。バヌアツ商工会議所は会員制の経済団体ではなく、通産省の交付金(税金)で運営される外郭団体なのだ。バヌアツには所得税がなく、商売をする者は毎年通産省に「事業登録」(Business Registration)して登録税を払う。税額は年商額の自己申告で決まり(約7千円~)、納付した者は自動的に「商工会議所会員」になる。集めた登録税の一部が会議所に交付され、会議所はバヌアツ人(メラネシア系先住民)会員の事業を振興させるための「経営研修」の提供を義務づけられている。10年の猶予期間がなくなり、会議所は研修プログラム構築の支援をJICAに要請し、経営経験者募集の網に小生がかかった、という次第なのだ。

だが「社長5千人」の謎は解けていない。どんな社長が対象か分からなければ研修講座は作れない。小生の追求に窮した所長が通産省に名簿の提供をかけあったが、すぐには出せないという。所内を探したら2年前の2,300人分の名簿が見つかった。その登録内容を1件1件チェックし、業種別のデータベースを作るのが小生の最初の仕事になった。1週間がかりの作業で、おぼろげながらバヌアツの産業構造が見えた。2,300件の事業登録を分類すると下記のようになった(民族区分は登録者の氏名で判断)。

  • 外国資本や白人(オーストラリア、フランス等)が経営する事業所、ホテル、レストラン、商店など 500件
  • 中国系、ベトナム系が経営する小ホテル、レストラン、商店など  800件
  • バヌアツ人の「商業」  600件、零細な露店の類(朝市のおばちゃん)
  • バヌアツ人の「運輸業」 300件、タクシー運転手、渡し舟の船頭 (車や舟は借りる)
  • バヌアツ人の「製造業」 100件、製パン、製カバ(伝統飲料・後述)

バヌアツのGDP(国内総生産)は約1,730億円で、国の経済規模が小生が最後に勤めた会社の年商とあまり違わない。天然資源ナシ、製造業はヤシ油精製が少々、農業・漁業は基本的に自給自足用。主産業はオーストラリア、ニュージーランドからの短期観光客相手の商売で、その殆どが外国資本の会社と白人居住者による。都市生活者相手の小商売は中国系とベトナム系が営業している(植民地時代に英国人が中国人を、フランス人がベトナム人を移住させた)。

人口の95%を占める先住民系バヌアツ人の事業登録で「事業」と呼べるものはグラスファイバーを成型して渡し舟を作る1社だけ、社長らしい社長も1人だけで、残りの2,299人の「事業主」は露店のおばちゃんやタクシー運転手に類する人たちと分かった。その事業主が「経営研修」を受講するとは考え難く、小生のミッションである「会員の経営研修」はそもそも基盤がアヤシイことになる。シニアボランテイアの案件には「話が違う」ケースが少なくないと聞いていたが、自分がその落とし穴に嵌るとは思っていなかった。

話が違うからと帰るわけにもいかない。小生の着任前に2度行われた「経理講習」のアンケートが残っていた。オーストラリア人の会計士が講師を務め、40名の受講者は公務員と外国企業の従業員で、高校を卒業して就活中もいた。6千円の受講料は大金だが、勤め先が負担したようだ。研修を受ける意志のあるバヌアツ人は居るらしい。「事業主」にこだわることはない。意欲のあるバヌアツ人を対象に講座を開き、受講者の中から将来の「バヌアツ人社長」が現れるのを期待すればよいではないか。分析結果を所長に報告して方針に同意を求め、それで行こうと決まった。

通算省が名簿を出さない事情は想像できた。5千人と2,300人の差はタックスヘブンの幽霊法人に違いない。所得税のないバヌアツに設立された幽霊法人の事業登録税がバヌアツ政府の歳入の大きな柱なのだ。経理講習の講師の本業が幽霊法人の管理と察しがついた。ちなみにバヌアツ政府の歳入は約90億円で、その6割が輸入関税と付加価値税(消費税)、2割がタックスヘブンからの収入である。先進国からの政府間援助は歳入の6%で思ったほど多くないが、現物の無償供与はカウント外(例えば日本はODAで空港ターミナル、橋梁、港湾施設を供与、中国は国会議事堂などを供与)。国債を発行できないので(買う人がいない)、財政は90億円の歳入の枠内で回すしかなく、無駄遣いや公費流用の余地はなく、滑稽なほど貧乏だが健全財政でもある(日本は財政赤字がGDPの2倍超、バヌアツは殆ど無借金)。

参考:バヌアツについて バヌアツ政府の台所事情 就業構造 教育事情 ビジネス事情-1 ビジネス事情‐2

コロニアル風の住宅を改装した商工会議所には冷房がない。 仕事場の小生。オフィスに照明がない。
受講生は真剣そのもの。 ビジネス入門講座の終了式。前列右から3人目が講師
小生も Executive Forum で講師を勤める ビール工場でISO9001講座の実地見学、試飲ナシ

自分で言うのも何だが、40余年の社会人生活でバヌアツ商工会議所の2年間ほどマジメに働いたことは無く、あれほど英語を書いたことも無かった。日本から持参した「経営学」の参考書は役に立たなかった。受講者はつい先ごろまで貨幣経済が存在しない環境で暮らしていた人達なのだ。その昔、中学で受けた「職業」の授業を思い出し、あのレベルの教科書を書き下ろすことにした。

先ず「ビジネス入門」を書き、それをベースに「経営管理」「商店経営」「人事管理」「品質管理」の教科書を作った。夫々A4判30~60ページで、半日 × 2~5日間の講座を前提に、バヌアツに即した事例やグループ討議の課題も入れた。講師にバヌアツ人を登用したいが、経営経験のあるバヌアツ人は居ない。募集をかけたら元高校教師の女性が名乗り出た。「ビジネス入門」を見せると「これなら出来る」と自信満々に言う。受講生を募集してぶっつけ本番でやらせ、ダメなら小生が交代するつもりだったが、思っていた以上の名調子で小生の出番はなかった。

中学生レベルの教科書作りだけではつまらない。役所や外資の会社に管理者的な立場のバヌアツ人がいる。その人たちの参考になりそうな講座を作って講師を勤めることにした。テーマは「品質管理・カイゼン活動」に絞った。品質管理は米軍が第二次大戦中に航空機や武器を量産するために開発した手法で、未熟練労働者でも高度な製品を完璧に作れるように、細かい手順を分かりやすく書いてミスを起こさせない仕組みである。戦後になって日本の製造業は品質管理を換骨奪胎し、現場の作業者を品質や効率の改善に積極的に関与させる「カイゼン」として普及させ、それが日本を世界最強の工業国に躍進させる原動力になった。

バヌアツに「モノ作り」はないが、どんな職場でも従業員が自分の仕事を自分なりに考え、自分の仕事の質を高める意欲を持つことは意味がある筈だ。 小生は「カイゼン」の専門家ではないが、会社で名目的ながら責任者を勤めたことがあり、概論的な講座を作る程度の知識はあった。講座のタイトルを少し気取って「Executive Forum - How Japanese industry gained its reputation」(管理職講座 - 日本産業の成功への道)と付け、PowerPoint のアニメーション機能を使った90分のプレゼンを試行したところ予想以上の反響があった(第1回ForumはJICAのホームページに紹介された)。受講者から「うちの職場でもやってくれ」と依頼が来て気をよくし、ISO‐9001紹介など5篇を作った。 Forumが小生の後半の仕事になり、バヌアツを離れる直前にポートビラに移住したばかりのオーストラリア人の元会社員が現れ、Forumを引き継いでくれた。

こう書くと万事が順調に進んだように思われるだろうが、「ナイナイ尽くし」のバヌアツでは想定外の障害に直面する。商工会議所に冷房なく、熱帯の太陽がトタン屋根を焼く。サウナ状態を人間はガマンするがパソコンはダメで、持参した新品のパソコンは10か月で頓死した(帰国休暇の前日で幸いだったが)。TV・新聞・雑誌なく、郵便配達なく(本局私書箱のみ)、個人でパソコンを持つバヌアツ人も皆無で、受講生を募集する手段がない。仕方なく役所や会社にファックスで案内状を送りつけるが、会議所のオンボロファックスでは100通送るのに2日間つきっきり。受講料は現金徴収以外に方法がなく、おカネの回らない会議所は所員の給料も講師料も「ある時払い」になる(小生はタダだが)。

更に困ったことに、バヌアツには「時間厳守」のルールがなく「約束を守る習慣」もない。時計がないので時間を守れない事情は分かっても、約束を破っても平気なのは理解できなかった。「来週火曜日の10時に」と約束しても行くか行かないかはその時の都合次第、「今週中に」の約束もズルズルで、ダメの連絡はなく、無視された方も決して怒らない。集落の暮らしを知って「そういうことか!」と思いあたった。集落では今もチーフ(酋長)の采配が全てで、チーフの命令は必死に守るが、村人同士の個人的な約束は意味を持たず、時として危険行為になりなねない。そんな原始の暮らしでは「来週火曜日」が「またいつか…」になっても誰も何も困らず、その行動様式が都市生活でも生きているらしい。

受講生の無断欠席はともかく、講師の無断欠勤はアタマにきた。集まった受講生は「そうですか」と帰ったが、小生は怒ることにした。バヌアツの経営研修は、講師に「時間を守る、約束を守る」ことの意味を教えることから始まった。


ポートビラでの暮らし

人口4万のポートビラは首都にしては小さくて田舎臭いが、総人口21万の最貧国はミエを張れない。20世紀初めの英仏共同統治時代に白人が「文明都市」を作り、第二次大戦中に米軍が司令部と軍施設を置いて道路や港湾を整備した。米軍の痕跡は今も地名に残る。南の丘陵の「Nambatu」「Nambatri」は夫々「No.2」「No.3」のビスラマ訛りで、「第2レーダー基地」「第3レーダー基地」の跡地、「ビバリーヒルズ」は米軍病院の跡地だ。

現在のポートビラは近隣のオーストラリア人やニュージーランド人の手軽な観光地で、グアム・サイパンのようなところと思えば良い(小生は訪れたことがないが)。クルーズ船もしばしば寄港し、観光客相手の免税店、土産物屋、レストランなどがメインストリートに並ぶ。前述のように白人の経営で(主にオーストラリア人、フランス人)、タックスヘブンがらみもあってポートビラには約2千人の白人が居住している。彼等の仕事や生活を支える都市インフラ(電気、水道、電話・ネット、銀行、輸入食材店など)が、我々のようなボランテイア滞在者のライフラインになる。

ポートビラに住むバヌアツ人は公務員、白人に雇われた従業員と職を求めて集落から流入した人達で、高級役人は都心の西欧風住居に住むが、それ以外のバヌアツ人は周辺の「原始村」で暮らし、電気と共同トイレがあれば上等だ。

ポートビラに配属されたJICAのシニアボランテイアは白人用のアパートかホテル住まいをするしかなく、家賃は結構高い。小生は「銀座1丁目」交差点のホテルの1室を長期契約した。単身赴任歴の長い小生は自炊が苦にならない。地元産の野菜や果物は公設市場で安く買え、一般の食材も白人用スーパーで手に入り、フランスの伝統を受け継ぐパンは絶品で、美味い肉屋もある。魚屋に時々ナマのマグロも並ぶが、首都以外に電気がないので産地で冷凍・冷蔵できず、近くで獲れた時に限られる。

商用電源が24時間使えるのは首都ポートビラとサント島のバヌアツ第2の都市ルーガンビルだけで、ボートビラの電力は銀座四丁目角のフランス系電力会社で轟音をあげるディーゼル発電機でまかなわれる。小島に小集落が点在するバヌアツでは送電線を張り巡らして送電できない。電気がないと電灯が点かないだけでなく、モーターが回らないので加工作業が出来ず冷蔵庫も動かない。電気がなければ近代産業は興きず、人々は原始の暮らしを続けるしかない。

小生が居た頃のネット環境にふれておく。当時は電話回線にモデムを繋いでデータを通すのが唯一の方法で、通信速度は最大28 ㎅ps。メール送受信は何とかなるが画像の送受はタイヘンで、3mbの写真1枚の送受信は理論値で15分だが、必ずエラーが生じて半日かかることもある。それでもインターネットのご利益は絶大で、日本の留守宅と常時メールで連絡がとれ、ネット検索で業務に必要な情報を収集できた。TV放送がないので夜はパソコン遊びをするしかなく、持ち帰った仕事やホームページ「バヌアツ通信」作りで夜長を過ごした。

市内に路線バスはなく、もっぱら乗合タクシー(マイクロバス)を使う。手を上げると止まり、行き先を告げて運転手がOKすれば乗車する。 料金は市内100Vatu(約100円)均一で近郊は交渉次第。先に乗っていた客は5分で着く筈が回り道されて30分かかったりするが、モンクを言う客を見たことがない。市内の道路は植民地時代と米軍時代に作られたが、政府に全くカネがないので、補修や改良は外国の無償供与を待つしかない(地震で壊れた橋は日本がODAで架け替えた)。市街を外れたら旧米軍の軍用道路があるだけで、四駆車でないと走れないところが多い。

酒類は白人向けの店に並んでいるが、バヌアツ人は体質的にアルコール分解酵素がなく、ビールもダメなのだ(ポートビラの地ビールは白人・観光客専用)。その代わり「カバ・バー」に誘われる。カバ(Kava)は胡椒科の植物の根をすり潰した泥状の液体で、飲用すると酩酊に似た状態になる。猛烈に不味いので一気吞みして直ちに果物ジュースで口をすすぐが、それでも歯医者の麻酔のように痺れる。カバの酩酊は「沈静作用」で(ヨーロッパでは鎮静剤として投与)、飲んでも陽気にならず、電気のないカバ・バーの暗闇で沈黙のひとときを過ごす。例外的に美味いのが「噛みカバ」で、神職のオッサンがグチャグチャ噛んで吐き出した液体をいただく。一杯だけ試したことがあり、刺激なくスルリと喉を通って酔い心地も悪くなかったが、特別のイベントでなければ巡り合えない。

ボートビラの風景や暮らしについては「バヌアツに暮らす」目次からご覧ください。

ポートビラのほぼ全景。英総督館のあったイリリキ島はリソート メインストリート。中央奥の青壁が小生住居のホテル
公設市場。村のオバサンたちが床に泊まり込む スーパーマーケット
中国系経営の商店。コンビニ的な店で日用品はほぼ揃う。 パン工場と直販売店。美味いパンやケーキが買える。
魚屋に魚はめったに入荷しない バヌアツの居酒屋「カバ・バー」は暗くなってから営業

タンナ島探訪

バヌアツに来たからには、見るべきものを見、撮るべきものを撮らねばならない。ポートビラから南へ小型機で1時間のタンナ島にはユニークな観光スポットがある。19人乗りのプロペラ機が1日3便しか飛ばず、キレイ好きな日本人が許容できる宿泊施設も限られるが、多少ムリしても行く価値がある。

「ヤスール」は観光客でも噴火口を直接覗き込める火山で、夕方にホテルを出発する四駆トラックの荷台に乗る。7合目で降りて火山灰の急坂を15分ほど登り、火口縁で日没を待つ。数分おきに足元の噴火口から火柱が上がり「タマヤ~!」と叫びたくなるが、噴石を受けて死亡した日本人観光客がいた。

「原始村」は島の中央部の山間で原始的に暮らす集落で、やはり四駆トラックの荷台で行く。村人総出で原始の暮らしぶりと伝統ダンスを披露して得た入村料は集落にとって貴重な現金収入で、村出身の高校生の学費に使われる。村人は日常はTシャツ・短パンで暮らすようになったが、観光客が訪れると伝統衣装(男はペニスケース、女は腰蓑)に着替える。その裸族スタイルにヨーロッパ人が「良俗に反する」とクレームを付け、伝統衣装をやめたのはちょっと残念。

タンナ島について  タンナ島火山と原住民の村  ユニウル・カスタムビレッジ  ヤスール火山  ヤーケル村

ヤスール火山。四駆トラックで7合目まで行ける。 噴火口の縁で日没を待つ。噴火の様子は下の作品紹介で
ヤーケル村は伝統衣装を通している。長老と一家 ヤーケル村の伝統ダンス

2007年11月 友山クラブ写真展 「悠々時計の島より」 

バヌアツから帰った翌年の写真展にタンナ島の作品を出した。山岳写真の中で異質だったが、ヤーケル村のガジュマルと老人の作品は印象が強かったようで、川口先生が時々思い出して「あの写真は忘れられない」と褒めてくださる。


「ヤーケル村にて」 Nikon D-100、 24-135mm 
原始の暮らしを公開している集落の広場。ガジュマルの巨木が村人を見守る。


「ヤスール山」 Nikon D-100、 24-135mm
噴火口の縁に登って夕暮れを待つ。数分おきに噴火が起きる。三日月もかかってくれた。

ペンテコスト島 ナンゴール祭(元祖バンジージャンプ)

ペンテコスト島の伝統行事「ナンゴール」は「バンジージャンプの元祖」としてしばしばTV番組に登場する。「成人男子の通過儀礼」と誤って解説されるが、ヤムイモの収穫を祈る季節行事で、4月下旬にペンテコスト島のあちこちの集落で行われる。その中で当番の集落が行事を観光客に公開し、現金収入を得る機会になっている。

ペンテコスト島には観光客が泊まれる施設がないので、ポートビラからの日帰りツアーに参加する。開催日の朝に臨時便が飛び、草原の飛行場に着くと村人が会場に案内してくれる。詳細は下記のページをご覧いただきたい。

ペンテコスト島裸祭り ペンテコスト・ランドダイブ再訪

草原の滑走路に着陸 タワーの下で村人がジャンパーを激励
カッコよく飛ぶ 成人儀礼でない証拠に子供も下の段から飛ぶ

2005年8月 帰国休暇 日本百名山を2座登頂

シニアボランテイアは2年任期の途中で1ヵ月の帰国休暇がある。日本で健康診断を受け、英気を養って残りの任期に備える趣旨で、注意事項に「危険な行為をしない」とある。公用パスポートで国の任務を負う身だから当然だが、山歩きは「危険ではない」と独断して帰国中に百名山を2座かたづけた。南アルプスの仙丈ケ岳(3033m)はアクセスが面倒なので登山ツアーに参加した。北アルプスの五竜岳(2814m)は途中までロープウェイが使えるので自力登山、シーズンが過ぎて山小屋の客は我々だけだった。この間に長男の結婚式があったりして大忙しの帰国休暇だった。

日本百名山の目次ページへ

8月28日 仙丈ケ岳。 9月1日 五竜岳 

2006年4月 ニュージーランド休暇旅行

バヌアツでの活動も3/4を過ぎて少し疲れを感じた。2年目も1カ月の休暇が許され「危険」でなければ行き先に制限はない。学生時代から憧れていたニュージーランドはバヌアツから3時間、行かない手はない。連れ合いを日本から呼んで南島で落ちあい、ルートバーン・トラックとミルフォード・トラックをガイド付きトレッキングで歩き、アオラキ(マウント・クック)を眺め氷河フライトを楽しみ、北島に渡ってトンガリロ国立公園を歩き、初秋のニュージーランドのの旅をフルに楽しんだ。

ルートバーントラック ミルフォードトラック アオラキ 南島各地 北島

ルートバーン・トラックは出発早々から素晴らしい山岳景観。 ルートバーンの3日目、谷を抜ければ終点。
ミルフォードトラックは温帯雨林の谷を歩く ガイド付きトレッキング専用の山小屋はホテル並み
ミルフォードトラックの最高点マッキノン峠は霧の中 トレッキングを終えてミルフォードサウンドをクルーズ
アオラキの氷河フライトで雪面に着陸 蒼いブカキ湖、正面がアオラキ峰(マウント・クック)
南島カイコウラでホェールウォッチング 北島 トンガリロ・クロッシングを歩く

2006年11月 友山クラブ写真展 「アオラキとその臣族」

2006年11月写真展の作品審査にはバヌアツから候補作品を郵送した。デジタル作品は2L版プリントで審査される(フィルムは原板で審査)。バヌアツで買った事務用のプリンターでは微妙な色調を確認できず不安だったが、10月に帰国して作品のプリント確認に間に合い、予想以上の仕上がりにホッとした。


「旗雲のアオラキ」 Nikon D-100、 24-135mm
アオラキ国立公園のゲートで早朝に撮影。冷気に手がかじかんだ。


「鋭峰アオラキ」 Nikon D-100、 24-135mm
アオラキ村のセアリー・ターンズ展望台から撮影


「マウント・セフトン」 Nikon D-100 24-135mm
アオラキに隣接する山。アオラキ村のロッジから撮影

2008年9月 友山クラブ写真展 「ニュージーランドアルプス」(空撮)

タスマン氷河の遊覧飛行で機上から撮った作品を出した。飛行機の窓は汚れていたり細かいキズがついていることが多くキレイな写真が撮れない。プロ写真家は小型機をチャーターしてドアを外し、空中に身を乗り出して撮るというが、シロウトの高所恐怖症にはムリ。幸いピラタスポーター機の窓は新品同様にクリアーだった。


「マウントクックとタスマン氷河(空撮)」 Nikon D-100、 24-135mm


「南島アルプスの峰と氷河」 Nikon D-100 24-135mm
氷河にスレスレまで接近して飛んでくれた。


2006年8月 バヌアツ国民体育大会

バヌアツにも「国体」がある。4年に1度、8州持ち回りで3日間開催される。2006年はアンバエ州の担当で、同島で衛生管理を支援する青年協力隊員のK君が誘ってくれ、勤務先の診療所の未使用の「結核病室」に泊めてもらった。

メイン会場は熱帯林を切り開いて造成した400mトラックで、草の走路を裸足で疾走する選手もいる。村の運動会のようだが、バヌアツ人は運動能力が高く全ての競技が迫力満点。陸上競技の他にバレーボール、バスケットボール、サッカー、ビーチバレー、卓球やボクシング、空手などもあり、心からスポーツを楽しむ姿に感動を覚える(商業主義でカネまみれのオリンピックより遥かに立派)。選手村は競技場近くのアンバエ高校(全寮制)が使われ、各州の本部や食堂はトラックの周辺にバヌアツ流の仮小屋を建てる。国体が終れば競技場や施設は時をかけて元の熱帯林に還る。

バヌアツの国民体育大会 Ambae島の暮らし

会場に掲げられた州旗 草原のトラックで州対抗リレー
はだしでも11秒台 表彰式は伝統のウッドドラムで讃える
サッカーはレベルが高い。 バレーボールは手作りスコアボードで
のんびりした観戦風景 ボクシングは夜に開催

2006年9月 友人たちのバヌアツ・ツアーが実現

「バヌアツ通信」読者の友人から「バヌアツに行きたい」と声が上がった。日本発のバヌアツ観光ツアーは滅多にないが個人旅行者はいる。ポートビラの銀座7丁目に日本人経営のホテルがあり(小生は6月に引っ越してお世話になっていた)、現地側の手配を引き受けてくれ、日本側の手配は海外ツアーで世話になったNさんが面倒をみてくれた(Nさん夫婦も参加)。メールで参加を呼びかけると、同級生、会社の先輩・同僚、写真仲間、旅友達、亡くなった中学時代の恩師のご家族(前号に書いた)も加わり、13名のツアーが成立した。

タンナ島はやめた方が…とアドバイスされた。19人乗りの国内線があてにならず、ポートビラに戻れずに帰国便を逃すケースがあるからだが、タンナ島ヌキでバヌアツを語れないので強行した。案の定、搭乗の列を「本日はここまで」と切られ、仲間の半分がタンナ島に丸1日足留めされた。そんなハプニングも「バヌアツらしい体験」と楽しんでくれたのは友情の賜物と感謝する。

バヌアツツアー、おかげさまで!(報告)

タンナ島で子供たちと交流。 仏系高校で日本語を学ぶクラスを訪問、交流させてもらった。

2006年9月 ニューカレドニア

バヌアツの隣りのニューカレドニア(ヌメア)には日本からほぼ毎日フライトがある。ヌメアからバヌアツは週2便で接続も良くないが、ヌメア観光と組み合わせると好都合になる。友人たちもヌメア経由で、小生も有名観光地に興味が湧き帰路に同行した。

ニューカレドニアはフランスの海外領土で、ニッケル鉱石を産するので独立を許さない。今は観光が主産業で日本からの観光客も多く、アトラクションや土産物屋で日本語が通じ円が使える。

ヌメアのツアーレポートをご覧ください。

ヌメアのダウンタウンを見下ろす。下は大聖堂。 海上バンガロー(ここに泊まったわけではない)

2006年10月 ボランテイア業務終了、フィジー経由で帰国

9月末で商工会議所の業務を終了、あちこちで送別会をしてもらった。10月4日に後任のシニアボランテイアが到着し、参考資料を渡してざっと説明、1時間足らずで引継ぎが終った(ボランテイア活動はその人がやりたいようにやるのがスジで業務引継ぎは無用)。翌5日に盛大な見送りをいただいてバヌアツを離れた。

帰国はフィジー経由にした。フィジーはバヌアツ人にとって「憧れの国」で、役人は用事を作ってフィジーに出張したがる。人口はバヌアツの4倍、経済力は10倍以上、南太平洋大学の本部もあってメラネシア系の「兄貴分」だが、フィジーの人口の6割はインド系の移民で、彼等にはメラネシア系先住民を見下す気分があるらしい。

バヌアツから1時間でフィジー着。首都のスパは島の反対側でかなり遠く治安も悪いと聞き、空港近くのホテルに泊まって近場のラウトカ市内観光だけにした。ラウトカはサトウキビ製糖の町で、ゴミゴミした市街はメキシコの田舎を思い出させた。特に見るところもなく半日で切り上げてホテルに戻り、のんびり過ごして翌10月7日発の成田行きで帰国した。

フィジー立ち寄り記

ラウトカ市街。魅力的とは言えない。 ホテルの部屋の前をサトウキビを運ぶトロッコが往来。

最後まで頑張ったカメラ

新品のパソコンが帰国休暇の前日に頓死したと前述したが、撮影機材も2年間のバヌアツ滞在を終えて帰国する1ヵ月前から順次壊れ始めた。レンズ3本とサブカメラのミノルタDiMAGE A1が使えなくなり、最後まで頑張っていたデジカメ本体の D-100 もフィジーを出る朝に動作停止した。パソコンもデジカメもギリギリまで頑張って壊れたのは奇跡と言うしかないが、バヌアツの気候風土がそれほど厳しかったのだろう。人間は機械より丈夫に出来ているようで特に壊れることもなく、あれから15年が過ぎて今や八十路を迎えようとしているが、壊れる時はぜひデジカメにあやかりたい。

バヌアツで撮って写真展に出したのはタンナ島の2点だけだが、他に数点をナバンガピキニニの写真展で使っていただいている。作者の思い入れのある写真を「バヌアツ通信」の「写真集」に載せてあるので覗いていただきたい(下は「バヌアツの子供たち」のサンプル)。

アナイチョム島にて ポートビラのパレードで
タンナ島にて 仏系高校「日本デー」にて

日本百名山 2006年

帰国してJICA本部へ帰国報告、健康診断、別送荷物の引取りで数日バタバタし、ひと息ついて壊れたカメラが修理から戻ると百名山に出かける気が起きた。残りの23座は北海道の山や北アルプスの高峰ばかりで、10月中旬になればいつ雪に閉ざされてもおかしくない。まだ大丈夫そうな山が一つあった。2年前に登りそこねた雨飾山(1963m)で麓に温泉もある。バヌアツ慰労を兼ねて錦秋の山に登った。

日本百名山の目次ページへ

10月18日 雨飾山 雨飾山頂

帰国後のバヌアツとのかかわり

バヌアツで買って読んでない本があった。バヌアツ各地の民話を集めた「nabanga」(ガジュマル樹)の英語版で、伝統語→ビスラマ語→仏語→英語と翻訳を重ねてストーリーが変形した怖れはあるが、一読して驚いたのは、竹取物語(かぐや姫)、浦島伝説、羽衣伝説、因幡の白うさぎ等々、日本の昔話にそっくりな話がいくつもあることだった。バヌアツで縄文土器に似た土器が発掘されたことから、有史以前に海洋民族のバヌアツ人とヤマト民族との間に文化的な交流があったとする説も聞いたが、日本の民話が成立したのはもっと後の時代の筈で、似たような伝承が世界のあちこちにあるのかもしれない。

日本の民話に似た話ばかりでなく、詩情豊かな話や英雄伝もあり、自分の文才の乏しさを痛感しながら1年がかりでホームページに連載した(「バヌアツ民話」)。出版をたきつける読者もいたが、日本の出版事情では本屋さんに長く置いてもらえない。バヌアツ民話の紹介はホームぺージの方が有効と思っているが、原本の版権への配慮は今もほっかぶりしたままでになっている。

もう一冊持ち帰った本があった。前述した「バヌアツ人の戦争体験」( Ni-Vanuatu Memories of World War Ⅱ)で、これも全訳して当ホームページに連載した。素朴なバヌアツ人と米軍兵士がどう接したか興味のある内容で、不時着した日本人の少年飛行兵が女性パイロットと間違えられたという、ちょっと悲しい話もある。

千葉県にJICAシニアボランテイアの会がある。100人を超えるOBが組織的に活動を持続している会は全国でも珍しいと言われ、小生も帰国早々に誘われて入会した。会員の親睦だけでなく、海外ボランテイア経験を地域社会に還元する目的で、学校の異文化授業や成人学級で講演活動を活発に行っていて、小生もこれまで30回を超える講演をさせてもらった。

千葉県OB会ではホームページ担当(ウェブマスター)も勤めた。小生がシロウト用ソフトで制作した「バヌアツ通信」が前任の目にとまって後継役を押し付けられたのだが、会のホームページはプロ用ソフト(Adobe DreamWeaver)を使っていたので、仕方なくウェブデザイナー養成学校に通うハメになった。OB会の広報紙の制作にも係わり、出版編集ソフトの「Publisher」も勉強させられたが、どちらもその後の老後の楽しみにつながっている。

小学校の国際教育に講師で 社会人の講座に講師で

バヌアツから帰って10年が過ぎ、千葉OB会の役目を退いて一段落した時期に、別のバヌアツの活動と係わりが出来た。バヌアツでボランテイア仲間だったNさんが、バヌアツ民話の子供版の翻訳・出版を機に「バヌアツ・ナバンガ・ピキニニ友好協会」を立ち上げた。この会にはJICAシニアボランテイア・青年協力隊OBの他に、趣旨に賛同する一般の方や在日バヌアツ人も参加し、各地でバヌアツ写真展と講演会を開いている。小生も発会当初から写真提供と展示用写真パネルの制作で協力させていただいている。

2020年5月にNHKの人気番組「チコちゃんに叱られる」でペンテコストのバンジージャンプが取り上げられた。実は当ホームページの「バヌアツ通信」を見たNHKの番組制作担当者から小生に問い合せがあり、ピキニニ協会のNさんを紹介したところ、話が進んでNさんが番組に解説者として出演した。当ホームページがお役に立てたことは作者としてまことに嬉しい。

東京都中央図書館でバヌアツ写真展・講演会 各地の公民館等で写真展・講演会を開催(千葉・御宿)