昔の長寿祝いは数え年の正月にしたというが、数え年が使われなくなり、満年齢の誕生日に祝うのが一般的になった。還暦(60歳)と古稀(70際)には夫々「いわれ」があるが、以降の喜寿(77歳)、傘寿(80歳)、米寿(88歳)、卒寿(90歳)、白寿(99歳)はどれも「文字あそび」(ギャグ)。「傘寿」は傘の略字の「仐」を八と十にバラして八十と読ませたもので、「傘」に意味があるわけではない。白寿に至っては「百から一を取って九十九」のオヤジギャグで、誰が言い出したか知らぬが、ここまでやられるとシラケる。
かく言う小生、本年9月に「傘寿」を迎える。中国の詩人杜甫の「人生七十古来稀」に由来する「古稀」を迎えた時は、「そうか、オレも古来稀な年齢になったか」といささか感慨を覚えたが、それから10年長生きした「傘寿」では特に感慨も湧かず、玄関にたまっていた古い洋傘をバラしてゴミに出す決心をした程度。メリハリのない老人暮らしが身についたのだろう。
杜甫(712-770)の時代、70歳の長寿は本当に古来稀れだった筈で、織田信長(1534-1582)が本能寺で舞ったという「人間五十年」も、まさにその通りだったに違いない。そもそも哺乳類の寿命は生殖能力喪失と共に尽きるのが自然界のルールで、人類も例外ではなかった。人類が生物の寿命を過ぎて生きるようになったのは、食料事情が安定し衛生観念が定着した近世以降で、日本に「隠居」世代が生まれたのは江戸後期だろう。
寿命には「平均寿命」「健康寿命」「平均余命」がある。下の表はあちこちからデータを拾い集めたので整合性を欠く。目安として参考いただきたい。
縄文時代 | 江戸時代 | 1955年 | 2000年 | 2010年 | 2017年 | 2019年 | |||
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平均寿命 | 男 | 31 | 40 | 63.8 | 78.1 | 79.6 | 80.1 | 81.4 | |
女 | 31 | 42 | 67.5 | 84.9 | 86.0 | 87.3 | 87.5 | ||
健康寿命 | 男 | 69.4 | 70.4 | 72.1 | 72.7 | ||||
女 | 72.7 | 73.6 | 74.8 | 75.4 | |||||
平均余命 (75才時) |
男 | 6.9 | 10.8 | 11.6 | 12.1 | 平均余命 (80才時) |
9.2 | ||
女 | 8.3 | 14.4 | 15.4 | 15.8 | 12.0 |
「平均寿命」は死亡年齢の単純平均ではなく、対象となる年の各年齢の死亡率が今後も続くと仮定して予測された寿命の平均値をいう。数学オンチにはピンとこない定義だが、医療高度化のおかげで高齢者の「命拾い」が増えて(死亡率が下がり)グングン伸びている。コロナによる死者増は平均寿命にそれ程影響しないだろうが、戦争に巻き込まれたら「天寿」など吹き飛んでしまう。(世界で最も短命な国=アフガニスタン:53.3才)。
米国の「傘」が日本を戦争から守ってくれると思っている人がいるが、戦争では先ず近くの敵陣をたたくのが定石で、仮に米中紛争が起きたら、真っ先に標的になるのは在日米軍の5万5千の実戦部隊で(在韓米軍は2万6千、台湾・フィリピンはゼロ)、同盟国の日本も自動的に巻き込まれる。日米安保で日本は米国の傘になっていると考えた方が実態に合っているのではないか。日本は「積極的平和主義」だから核兵器禁止条約に参加しないと言うが、何が「積極的」なのかさっぱり分からない。積極的に平和に貢献すると言いたいのなら、今の内に米・中の仲裁役をかって出てはどうか。
「健康寿命」は、健康診断のデータから算定された「自立して日常生活に制約なく生活できる期間」(介護不要)で、生活習慣の改善(食生活や日頃の運動)で向上している。男女差はそれほどなく、夫が妻に介護してもらえるとは限らない。我々は二人とも健康寿命を過ぎて注意信号や小修理が出始めたが、幸い今のところ要介護の兆候はなく、どこまで延ばせるかは日頃の努力次第と自覚はしているつもり。
「平均余命」は、現在生きている人が、その年の年齢別死亡率がこれからも続くと仮定し、これから生きると予想される期間を計算した値で、高齢者としては最も気になる。最新データに拠れば、傘寿を迎えた男性の生存率は63.8%で、同年の約1/3が既に死亡し(同級生の物故者を数えるとそれに近い)、残っている者の半数が89歳まで生き延びることになる。自分がいつアウトになるか知るよしもないが、仮に平均の9年を生きるとして、せめてそれまでは世の中が平穏無事であって欲しい。
心配は戦争だけではない。公的年金と公的保険は財政(税金)の負担分が大きく、寿命が延びれば年金の支払いが増え、病人と介護増で保険金の支払いも増える。この国の財政赤字は既にGDPの2倍に達して世界最悪だが、税収を大幅に増やすガッツはない。経済規模が拡大しないのに通貨を過剰に発行すればインフレが起きるのは自明の理だが、日銀は赤字国債を際限なく引き受けて円を膨張させ続けている。ハイパーインフレを誘発して借金をチャラにするつもりかもしれないが、そうなったらどうなるか、考えただけで身の毛がよだつ。
日本は豊かだから破綻しないと言う人もいるが、GDPが豊かさの指標とするならば、日本の一人当たりGDPは2019年に韓国に抜かれ(韓国:$42,765。日本:$41,429)、今や世界で45番目とご存じか? GDP成長率(2019年)も韓国の2.04%に対して日本は0.7%で、日本の凋落は止まりそうもない。GDPが伸びないのは半分を占める個人消費が伸びないからで、労働者の4割を非正規雇用に押し込めてろくな給料を払っていないのだから、当然そうなる。若者が結婚できなければ少子化が止まる筈がなく、現役世代が税金・年金掛け金・保険料を納めなければ、老人の公的年金と保険制度が行き詰まるのも自明の理。この国は既に修理不能なまで壊れていると思うしかない。
政権与党がこれからも政権を担うというのなら、壊れてしまったこの国をどう修復するのか、改革の痛みを含めてグランドデザインを示す責任がある。それが「老後に備えて2千万円貯めておきなさい」ではあまりにも無責任と言うしかなく、無責任な政府の下で残り9年が安寧に過ぎるとは考え難い。政治家にマジメに政治をやってもらうには、選挙で「ふざけている場合じゃない」と思い知ってもらうしかないのだが…
ボクの写真遍歴シリーズ: 目次ページ
写真事始め(1953~57) 写真遍歴‐2(66~86) 写真遍歴-3(86~94) 写真遍歴-4(94~95)
写真遍歴-5(96~97) 写真遍歴-6(97~99) 写真遍歴‐7(2000~02) 写真遍歴-8(2003~04)
写真遍歴-9(2004~06 バヌアツ) 写真遍歴-10(2007~09)
小生、スポーツは何をやらせても「天才的にダメ」で、 小1以来徒競走は常にビリ、逆上がり・跳び箱出来ず、成人後もスポーツ忌避を通してきた(念のため付記するが、山歩きはスポーツではない)。スキーだけは例外で、中級スロープをやっと滑る程度だが、歳をとってからも気が向けば出かけた。
蔵王はスロープが長く樹氷もあって楽しいスキー場だが、難点は最上部の小型ロープウェイが樹氷見物の観光客で混雑して2時間待ちが常態だったこと。その難所が循環式ゴンドラに架け替えられて輸送力がアップしたと聞き、出かけることにした。蔵王では麓の温泉宿も楽しみの一部だ。
雪景色の絵を描くのが難しいように、雪景色の写真を撮るのにも若干の工夫が要る。人間の視覚は網膜が得た情報を脳が処理して認識する。雪が白く見えるのは脳が「雪は白い」と学習した成果で、実際の雪の色は「光源の色温度」に左右され、朝夕は赤っぽく昼間は青っぽい。デジカメは人間の視覚に近付けるために、明るい部分を白く、暗い部分を黒く見せるクセがあり、白いものを暗く撮るクセもあるので、雪景色をオートで撮ると無彩色でどんよりした写真になりがちなのだ。雰囲気のある雪景色を撮るには、乱反射を除去する偏光フィルターを付け、オートの設定を外し、色温度(K)を少し下げ、露出(EV)をプラス補正する。調整のあんばいは失敗を重ねて身につけるしかない。
蔵王の雪景色は 日本の冬景色 でご覧いただけます。
2010/2/15 地蔵山頂駅の直下から樹氷林を滑降、左右は樹氷帯 | 樹氷林に入って撮影、色温度 5100K,露出補正+1.2 |
日本百名山は2009年8月24日の奥穂高岳登頂で夫婦そろって完登としたが、実は山頂に立っていない山、登った記憶がない山、登った気分になれなかった山があった。
シロウトのゴルフに「OK」がある。ボールがカップに十分近づけば「入ったことにする」仲間うちのルールだ。阿蘇山は2001年4月に荒天をついて登り、軽量のつれあいが強風に飛ばされ、山頂(1592m)手前の岩陰で引き返したが、簡易高度計の表示が山頂と同じ標高だったのでOKにした。翌日も激しい雨と霧の中を久住山に登り、中岳山頂(1791m)に立った。主峰の九住山(1787m)をパスしたが、中岳の方が標高が高いのでOKにした。とは言え「みなし登頂」では気分が落ち着かない。9年後の2010年5月に九州までロングドライブし、両山を登り直したついでに天孫降臨伝説の高千穂峰(1574m)にも登った。リベンジ登山も天候はイマイチだったが、気分は落ち着いた。
尾瀬の至仏山(2228m)は新婚早々の1967年に友人と一緒に登ったが、つれあいは登頂した記憶がないと言い張る。それではと尾瀬ヶ原散策を兼ねて出かけ、ダメ押し登頂をした。帰宅して念のため押し入れを探すと43年前に山頂で撮ったカビだらけの写真が出てきた。
槍ヶ岳(3180m)は日本で5番目に高いだけでなく、姿も美しく、険しい岩場の登頂に達成感があり、登山者憧れの山である。2004年7月に荒天をついて登頂したが、残ったのは惨めな体験だけで登頂の喜びが無かった(北アルプス-2)。あまり歳をとらない内にとリベンジを思い立ち、前回は最短距離の上高地側から登ったが、今回は岐阜側から双六小屋を経由して西鎌尾根を登ることにした。往路は余裕だったが、槍ヶ岳から南岳を経て新穂高温泉まで標高差2千mを一気に下るのがキツかった。
2010/5/25 久住山にリベンジ登山 | 2010/5/26 阿蘇高岳にリベンジ登山 |
2010/5/27 高千穂峰に登山。山頂に刺さる剣 | 2010/7/28 至仏山にダメ押し登山 |
2010/8/4 西鎌尾根から槍を目指す。 | 槍ヶ岳山荘から夕日の槍を仰ぐ |
2010/8/5 槍から南岳への稜線で黒部五郎岳の滝雲を見る | 南岳から大キレット越しに北穂高岳。これから大下りにかかる。 |
米国在住の長女がドイツ人と結婚してドイツに親戚が出来た。婿さんの実家で「両家顔合わせ」をすることになり、当方の一族が(と言っても家内と長男夫婦と孫2人の計6名だが)デュッセルドルフを訪れた。両家の食事会と新婚夫婦の友人たちがケルンのビアホールに集まってのパーテイは、型どおりの結婚式より思い出深い催しになった。ドイツとはそれまで仕事でも遊びでも縁がなかったが、味わい深い街並みや中流家庭の落ち着いた暮らしぶりに好感が持て、良い親戚が出来たと思った(簡単に会いに行けないが)。
行事を終えてドロミテの山歩きに出かけた。娘の新婚旅行に親がついて行くのはいささか無粋だが、新婚夫婦(少々歳をくっていたが)も山歩きが趣味なので、2世代合同の山旅をガマンしてもらった。旅のアレンジ・運転・ガイドは婿さんに任せた。 若い頃にヨーロッパアルプスやヒマラヤを歩いた本格的トレッカーらしい。娘の山歩きは聞いたことがなかったが、つきあっている内に感化されたのだろう。これも何かのご縁というものか。
世界遺産の古都ローテンブルグに途中泊してドロミテに入った。ドロマイトと呼ばれるピンク色のマグネシウム質石灰岩の山塊で、国際的な山岳観光地である。この地域は今はイタリア領だが、第一次大戦前はドイツ領で今もドイツ語が通じ、街や建物にドイツの雰囲気が感じられる。有名な高級ホテルもあるが、我々は村のB&B(朝食付き民宿)に連泊した。貧乏性の娘は「高い!」と言うが、日本の民宿程度の料金で、朝食は肉、玉子、野菜、パンが山盛りの豪華版。残りで昼食用のサンドウィッチを作った。
日本の山は中高年ばかりだが、ドロミテのトレッカーは20代~40代の現役世代で、我々のようなシニア世代は見なかった(この後もヨーロッパアルプスを数回訪れたが、どこも同じだった)。ライフスタイルの違いと言ってしまえばそれまでだが、欧米の現役世代が良く働き良く遊ぶことは確かである。日本の会社員は忙しそうにしているが、労働生産性は欧米の会社員の半分以下と言われ、それは小生も日米両国に勤務して実感した。日本の会社は何も決めない会議のための資料作りと根まわしに神経と時間を使い、イビルのが仕事と思っている人のハンコをもらい歩き、営業は商談そっちのけで社交的なおつきあい(飲み食い・遊び)を積み重ね、時間ばかりが過ぎて行く。ドイツ人の婿さんが日本の提携先に2ヵ月出張したことがあったが、アイマイな意思決定と無意味な残業にあきれ果て、以降日本相手の業務を断ったという。コロナ禍での在宅勤務が「働き方改革」につながり、災い転じて福となれば良いのだが…
閑話休題。ドロミテ核心部のドライチンネ(三本槍)でヨーロッパの山小屋に初めて泊まった。日本の山小屋はせま苦しく美味いメシには滅多に出会わない。小屋の経営事情を知れば同情するしかないが、山小屋泊りが「楽しい」とは言いかねるのだ。ヨーロッパの山小屋はこの後も数回泊まったが、しっかりした設備で手入れが行き届き、メシはどこも文句ナシに美味かった。手の込んだ料理が出るわけではないが、家庭料理風でボリュームのある食事に満足感がある。日本の山小屋は「安い民宿の食事を更に粗末にした」ところが多い。いっそのこと「日本食」をやめてヨーロッパの山小屋のメニューを真似てはどうだろうか。
9/6 ローテンブルグのマルクト広場 | ローテンブルグ ジーバース塔の夕暮れ |
9/7 サンタ・クリスチナのたそがれ時 | 9/9 サッソルンゴの岩塔 |
9/9 ミズリーナ湖は1956年冬季オリンピックのスケート競技場 | 9/10 トレッキングの出発点。山はクロータ・ロッサ |
9/10 ロカテッリ小屋の脇の小教会 | 9/11 パーテル・コッテル峰の下にロカテッリ小屋 |
9/12 インスブルックの川沿いの町並み | 9/13 ミュンヘン市庁舎のからくり時計 |
写真展に「デジタル合成」と明記してパノラマ写真を出展した。超広角レンズでパノラマを撮ればいいじゃないかと言われそうだが、超広角(短焦点)レンズは遠近感が肉眼と異なる。肉眼に近い遠近感を出すには「標準レンズ」で撮った写真を横につなげるしかないのだ。風景写真の写真展に「合成」は異端だが、川口先生が面白がってくれ、例会でパノラマ合成のテクニカルな説明の機会まで与えてくれた(下はそのプレゼンの一部)。
画像処理ソフトの Photoshop に自動的にパノラマを合成する機能があるが、気に入った構図にならなかったので、手作業で3枚の写真を強引につなげた。露出の違いで生じる微妙な色調の違いを調整し、接続部分をスムーズに連続させる作業は根気を要したが、現場で見た印象に近い作品になったと思う。
フィルムの時代にも見せたいものをより効果的に見せるテクニックや「合成」の技術はあった。デジタル写真は色も形も巧妙に変えられるが、風景写真の「加工」には一定の抑制が必要と思う。例えば「邪魔物を隠す」(例:電線を消す)はOKでも、「無い物を入れる」(例:出ていない月をはめ込む)はダメ、と小生は考えている。
「トレチーメ・デ・ラバレード全容」 Nikon D-200、18-200mm 3コマデジタル合成 |
「そびえる城壁」 Nikon D-200、18-200mm |
「大岩壁」 Nikon D-200、18-200mm |
前号で書いたように、デジカメの性能は日進月歩で進化し、作品の出来栄えに影響するが、その違いは小サイズのプリントでは分からない。パソコンの画面でも、プロ用の大型高精度ディスプレイに2枚並べて慣れた目で見れば微妙な違いに気付く程度。写真展で作品の迫力に圧倒され、使ったカメラとレンズを聞いて「なるほど、やっぱり良い機材で撮ると違うな」と思うこともあるが、名演奏家が安いバイオリンを弾いても上手く聞こえるのと同じで、高級カメラで撮ったからではなく「上手く撮ったから」なのだ。
それでもやはり新しいデジカメが欲しくなる。使っていた D200 は2005年12月の発売で、ニコンは後継機の D300 を2007年11月に出し、更に2009年6月に D300s に更新していた。そろそろ次のモデルが出る時期だが、待たずに D300sを買った。画素数は10.2百万から13.1百万に増えた程度で画質には影響しない。性能向上は「実用感度」で、簡単に言えば「暗いところでもキレイに撮れる」ようになった。
電子部品に電気を通すと電子の動きで「熱雑音」が生じる。「信号」を増幅すると「雑音」も一緒に増幅されるので、デジカメの感度を上げると(増幅すると)、雑音が画面に白い斑点や色ムラになって現れ、大きく引き伸ばすと目立ってしまう。この現象を抑えるには、雑音の少ない部品を使い、発生した色ムラをソフトで修正して消す。D200 の実用感度はスライドフィルムと同等の ISO400 程度だったが、D300sでは ISO3000 でも画面の荒れが目立たず、肉眼でやっと見えるような暗闇で撮ってもキレイに写るようになった。明るい場所の撮影でも超高速シャッターと深い絞りが使えるようになり、デジカメの高感度化は写真に新たな表現領域を拓いたと言える。(最近のデジカメの実用感度は ISO13000 程度までアップしている。)
冬の美ヶ原山頂ホテルはアマチュア写真家の合宿場の様相を呈する。お目当ては標高2千mからの白銀の大展望と霧氷の撮影で、友山クラブも何度か撮影会を催していた(1998年1月の撮影会の様子は「写真遍歴-6」でレポート)。小生は2度目の参加で、買ったばかりの D300s の「試し斬り」の場でもあった。
言うまでもないが、風景写真は気象に左右される。厳冬期の美ヶ原は空気の透明度が高く、晴れれば北アルプスは勿論、信越5山、浅間、八ヶ岳、富士山をくっきり撮ることが出来る。夜明けに気温が下がり、松本平から上がってきた水蒸気が針葉樹の枝に霧氷を飾る。その冬の美ヶ原が「地球温暖化」の影響をまともに受け、厳冬期でも薄くカスミがかかり、気温上昇で霧氷がつかなくなった。2011年の撮影会の収穫が乏しかったのはそのせいである(この時の写真は日本の冬景色で)。
平均気温が1℃ 違うだけで自然の生態がまったく違った様相を示すことは、北アルプスと南アルプスの植生の違いを見れば理解できる(百名山 中央・南アルプス)。地球がそれ程微妙なバランスの上に成り立っていることを、人間はもっと真剣に考えなければいけない。
16:30 王ヶ鼻からのアルプスの展望は霞んで得られず、 お地蔵さんを撮って夕方の撮影修了 |
07:30、早朝撮影も霞みでダメ。諦めたところでサンピーラーが現れた。思わぬ贈り物だが、空気中の水蒸気が生んだ「ケガの巧妙」 |
インドのダージリン、シッキム地方とブータンを周遊し、ブータンの宗教行事を見学するツアーに参加した。現地初日の3月11日にコルカタ(旧カルカッタ)からインド北部に飛び、バスでダージリンに入った。夕方ホテルにチェックインしてTVを点けると、やにわに漁船が防波堤を乗り越える映像が映った。映画かと思ったらBBCの国際ニュースで、日本で大地震が起きて大津波に襲われたと知り、呆然となった。息子に電話したが通じない。幸いご近所に電話がつながり様子を尋ねると、ひどく揺れて棚から物が落ちたが家は大丈夫で、拙宅も外から見た限りでは異常ナシとのこと。夜になって息子とも連絡がとれ、家族の安全を確認できた。
ツアー会社も東京の事務所から参加者の留守宅に電話をかけて安否を確認し、全員がツアー続行を希望したので、予定どおり旅を続けた。旅の先々で町の人たちが我々が日本からの旅行者と知り、お見舞いの言葉をかけてくれたのは嬉しかったが、自国の災難をさしおいて気楽な旅を続けることに罪悪感がなかったわけではない。
3/11 ダージリンに入ると斜面に茶畑が切れ目なく続く | ダージリン・ヒマラヤ鉄道 |
チベット仏教の僧院 | シッキム・ペリンから世界3位のカンチェンジュンガ(8611m) |
国の豊かさをGDP(国内総生産)で表すことが多いが、アンチテーゼとして英国のシンクタンクが2006年に「幸福度指数」(HPI)を提唱し、バヌアツが「世界一幸福な国」に選ばれたことは前々号に書いた。バヌアツが高い評価を得たのは、意地悪く言えば「脳天気で原始的な暮らし」のおかげで、バヌアツ商工会議所の同僚は「バカにするな!」と悲憤慷慨した。案の定、バヌアツに「おカネ」と「情報」が回り始めると「幸福度指数」は低下している。
ブータンも「世界一幸福な国」とされている。ブータンの国王が自身で提起し推進している「国民総幸福度」(GNH= Gross National Happiness)を国民が理解して受け入れ、高い幸福感を持っているとの評価である。GNH の基本は、仏教の教えに基く伝統的な価値観の上に近代的な考え方やルールを構築するもので、単一民族で人口70万の小国ブータンだから出来ることかもしれない(GNHの概略は「ブータン-2」に記した)。
ブータンはチベット仏教を「国教」とし、僧侶は公務員で僧院が役所でもある。その公務員が年に1度、町や村の役所の前の広場で10日間の伝統祭事「チェチュ」を催す。農閑期の村人を集めて仏教の教理を教える「集中講義」で、歌(お経)と踊りで構成されている。最終日の明け方に大仏画(トンドル)を開帳し、村人が参詣の列を作る。国家が宗教を使って国民を戦争に駆り立てた例は多いが、ブータンの国家宗教にはその危険はなさそうだ。
旅の途中で休憩したツィマボチ村でチェチュが開かれていた。 | 僧侶の踊りの間に村の青年が道化の踊りを披露する。 |
村の娘たちの踊りもある。日本の盆踊りに似ている。 | ブータン人は日本人に似ている。 |
バロのチェチュで踊る僧侶。輪廻転生を教える場面という。 | 鹿の舞いは秋田の鹿踊りを思い出させる。 |
明け方になって仏画(トンドル)のご開帳。 | 仏画の前で行われる法要。 |
チベットから仏教を伝えた高僧が瞑想したタクッアン僧院 | 首都ティンプーの大本山は中央官庁でもある。 |
マジメな写真家はマジメに三脚を立てて撮る。僅かなブレでも大きく伸ばすと目立ち、作品として使えないからだが、小生は「手持ち」に妙な自信があり(面倒くさがり屋だけかもしれないが)、滅多なことでは三脚を立てない。そんな手抜き写真家の自信を、デジカメの感度アップとレンズの手振れ防止機能が増長させてくれた。バロのチェチュの作品2点は三脚が必須の撮影条件で、手持ちで撮ったと言っても写真仲間は信じてくれない。
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登山の頻度がめっきり減ったのは天候不順だったせいもあるが、百名山集中登山の反動だったような気もする。
☆ 7月25日 尾瀬燧ケ岳: 燧ケ岳は双耳峰である。若い頃に2度登ったが、よく思い出してみると、登ったのは低い方の俎嵓(2346m)だったらしい。ダメ押しで最高点の柴安嵓(2356m)に登り、これで「OK登頂」は解消した、厳密に言えば、我々の百名山完登は2011年7月25日だったことになる。
☆ 9月15~16日 北アルプス常念岳・蝶ヶ岳縦走: 自分が登っている山の写真は撮れない。日本を代表する槍・穂高に気に入った写真がない。蝶ヶ岳からの槍・穂高の眺望が素晴らしいと知り、常念岳から蝶ヶ岳へ山中2泊3日で縦走した。アップダウンの連続に体力の衰えを実感し、せっかく撮った写真も前号に書いたパソコン事故で大半を失った。
7/24 尾瀬沼の午後 ニッコウキスゲが満開 | 7/25 燧ケ岳から尾瀬沼を見下ろす |
9/16 常念小屋から日の出を眺める | 蝶が岳から槍ヶ岳を望む |
2011年4月に友山クラブの事務局担当を押し付けられた。会長は川口先生で、事務局は会員代表の立場である。乗り気ではなかったが逃げられず、結局2020年10月に活動を停止するまで務めた(会をつぶした責任者でもある)。小生の写真活動は友山クラブだけだったが、別の写真の会にも参加している会員が多く、中には会を主宰するベテランもいた。そんな会員から合同撮影ツアーの提案があった(企画に乗せてもらっただけで「合同」はおこがましいが)。
行き先は中国雲南省の「梅里雪山」。ヒマラヤ山脈の東端でミャンマー国境に近く、麗江からバスで丸2日を要する辺境である。主峰の太子峰(6740m)は1991年に京都大学山岳会と中国登山協会合同隊が大量遭難したことで知られる。最も写真になりやすい山は太子峰の妻とされる神女峰(6054m)で、写真展でよく見る作品はカミさんの方である。
ゲートウェイの麗江は世界文化遺産に登録された古都。 | 麗江市内から玉龍雪山(5596m)を望む。 |
飛来寺に建てられた遭難慰霊の仏塔 | 夜明けの神女峰(メツモ) |
飛来寺から見た梅里雪山の全景 | |
太子廟(標高3150m)の香炉 | 太子廟から見た明永氷河の末端(この変で遭難者の遺体が出た) |
11年秋に撮影した作品を4年後に出展したのは、旅で一緒だった他の会員の出展とダブらないため。梅里雪山の撮影対象は太子峰・神女峰・明永氷河に絞られ、同じ時間に同じ風景を撮れば同じような作品になり、狭い会場に似た作品が並ぶのは避けねばならない。事務局にその程度の「先憂後楽」はやむを得ない。
高山では日の出直前と日没直後の数分間、不思議な赤い光に包まれる。地平線下の太陽から光の回析で肉眼で見えないほど僅かな赤光が届くのだ。三脚嫌いの小生もこの時だけは三脚を立て、偏光フィルターで乱反射光を抑え、露出をマイナス補正で撮る。 |
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太子峰の氷河末端の太子廟で1時間待って雲が切れなかったが、帰る直前に一瞬太子峰が姿を現した。コンテストに出せば入賞できるのでは、と内心思っている。 |
Tour de Mont Blanc はヨーロッパアルプスの最高峰モンブラン(4810m)の山裾を1周する山歩きを言う。全コースを歩き通すと170Km の長丁場だが、 交通機関を使えるところは使い、約80Kmを1週間で歩くのが一般的。危険な箇所は無いが、行動時間(歩行距離)が結構長く、それなりの体力が要る。小生は撮影機材の重量も効き、クールマユールへの長い下りでアゴが出た。海外の長い山旅の経験が次のヒマラヤトレッキングの踏み台になった。
2日目、コンタミンヌ村の教会。ここを出発点にするツアーが多い。 | 2泊目のボンノム小屋。前日の雨がウソのように晴れた。 |
ボンノム小屋から谷を下る。 | セーニュ峠はフランス→イタリア国境。モンブラン西面が見える。 |
3泊目のエリザベッタ小屋 | エリザベッタ小屋裏の絶壁にシャモアの群れが現れた。 |
クールマユールの谷へ下る。 | 5日目、フェレ峠への登りでシャモアに出会う。 |
イタリア→スイス国境のフェレ峠からグルベッタ北壁を見る | 7日目、終点のバルム峠に到着 |
ツールドモンブランを終えてツアーを離れ、当時ドイツ在住だった娘夫婦と合流してモンブラン周辺の観光と山歩き・撮影を存分に楽しんだ。ヨーロッパアルプスの景勝地は登山鉄道やローブウェイで歩かずに絶景ポイントまで行ける。その殆どが「自然保護」の思想が広まる以前の19世紀末~20世紀初頭に建設されたもので、ヨーロッパアルプスの観光ビジネスは百年以上前の遺産で食っていることになるが、設備の更新は盛んで、輸送力と快適性アップに怠りはない。日本の「観光立国」はコロナでお休み中だが、大半を占めていた中国、韓国からのインバウンドはもう期待できないのではないか。
クールマユールのリゾートから見た朝焼けのモンブラン | トリノ・ヴェッキオ展望台へのロープウェイからモンブランの東面 |
ラルプ・ヴィエイユ尾根からモンブラン南面の岩峰群 | ミデイ展望台から氷河を横断するゴンドラ |
ミデイの展望台からグランドジョラス北壁を望む | 氷河歩きは出来なかった。 |
プレジュールのトレッキングコースからグランドジョラス北壁 | シャモアに出会う |
モンブランの作品を写真展に出したのは旅の7年後の2019年で、その間はもっぱらヒマラヤの作品を出していた。モンブランにも出したい写真はあったが、やはりヒマラヤの方が写真になる。端的に言えば標高4千mと8千mの差だろう。「山は高きが故に尊からず」と言うが、高い山は神様に近い分だけ尊く見えるような気がする。
モンブランは山頂がのっぺりしてカッコイイ山ではない(海坊主と悪口を言う人もいる)。アルプスの盟主をカッコよく見せるには、取り巻きの針峰群と氷河を引き立て役に使うしかない。
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☆ 2月20日 冬の後立山: 氷雪の高山は魅力的だが、冬山の本格的な登山技術と装備がないとダメで、我々はせいぜいスキー場の上部で撮影ポイントを探すしかない。白馬五竜スキー場は五竜岳の遠見尾根にあり、リフト終点の地蔵ケルン(標高1650m)から五竜岳東面がキレイに見える。一眼レフを背負って転ばないように滑るとスキーの醍醐味は薄れるが、撮影と滑降を両立させるしかない。翌日は宿のチラシでスノーシュー・ツアーを見つけ、当日はダメというのをムリにガイドをお願いして、鹿島槍ヶ岳の展望ポイントまで連れていってもらった。
☆ 5月27日 浅間山: 百名山には活火山があり、火山活動の状況によって登頂禁止になることがある。浅間山は1997年当時は外輪山の黒斑山までしか許されず、百名山でも黒斑山登頂でOKと公認されていた。その後警戒レベルが下がり、山頂火口の500mまで近付けることになった。行ってみると殆どの登山者が禁止ロープを乗り越えていた。我々も年甲斐なく「皆で渡れば怖くない」とロープを跨ぎ、火口縁から噴火口を覗き込んだ(スミマセン…)。
☆ 8月19日~22日 裏銀座→雲の平縦走: 北アルプス3大急登の一つ「ブナ立尾根」を登り「裏銀座」ルートで黒部源流の秘境「雲の平」を訪れた。古稀トレッカーには少々キツいコースだったが、ツールドモンブランの余勢をかって無事に歩きとおした。
2012/2/20 白馬五竜スキー場から五竜岳 | 2012/2/21 鹿島槍スキー場上部から鹿島槍ヶ岳 |
2008/5/27 浅間山火口縁を行く登山者(違法行為) | 火口を覗き込む(違法行為です!) |
2012/8/20 裏銀座縦走路の野口五郎小屋 | 2012/8/21 雲の平に立つ山荘 |
2008/8/21 雲の平から薬師岳 | 雲の平から槍ヶ岳 手前に三俣山荘 |
日頃の行いが良いと天候に恵まれると言われる。友山クラブの撮影会は、多少天気が悪くても、肝心の時に絶好の撮影条件に恵まれるのは、よほど日頃の行いが良い人たちの集まりということだろう。2012年秋の撮影会は前泊の湯檜曽温泉で夜中に土砂降りになったが、朝5半に宿を出る時に星が見えた。一ノ倉沢はシーズンが過ぎると展望ポイントまで車が入る。谷に霧が立ち込めてダメかと思っていたら、徐々に霧が上がって最奥部に赤い光が届いた。それからの10分が勝負で、刻々と変化する魔の岩壁に息を詰めてシャッターを押し続けた。この時に撮った作品を外部のコンテストに出して入賞した会員がいた。
2012年山歩きレポートに実況中継の記事があります。
06:31 屏風岩が赤く染まった | 07:12 一ノ倉沢に陽が回り、初雪も降って三段紅葉の景になった。 |
2012年年末から正月を跨いで初めてのヒマラヤ・トレッキングに出かけた。記事は次号をお楽しみに。